そのゼロ、始まり
忘れもしない。その日は全てに雨が降っていた。
「はあ、なんでこんな時に限って大雨かね……台風も空気読んでくれればいいのに」
高校の下駄箱。辛うじてある屋根の下、大雨にさらされるギリギリまで近づいて、私、空凪紗枝は海より深いため息をついていた。
息苦しい受験を終え、新しい環境に身を置いて早一年ほど過ぎた。めまぐるしく回って行くいわゆる青春の日々は、私にとってはただの苦痛に過ぎないものだった。
自分が女オタクだということを周囲にバレないよう過ごし、数少ない友人と当たり障りのない会話を、同じ時間を何度も巡るかのように繰り返してきた。
こんな長い一年が、まだ二回もあるのだと思うと気が滅入る。
普段は馬鹿なことしか考えない私がこんなことを考えているのには理由があった。
灰を擦り付けたかのような空に目線をあげる。それに返事するかのように、生暖かいその雨粒たちは勢いと数を増やした。最早、五メートル先も霞んで、薄らぼんやりとしか見えない。
「傘やっぱなかったなあ」
今朝、寝坊して遅刻しそうになり、ろくに天気予報を見ていなかったことを後悔する。愛しいキャラクターたちの潜む学校指定のカバンは、いくら漁っても傘の姿を見せてくれることはなかった。
すっかり沈んだ気持ちに合わせてもう一度ため息をつく。
我ながら、本当に情緒不安定なやつだと思う。雨が降って空気が重いだけでこんなに気分が落ち込むのだ。
せめて家を出る際、お母さんに一言言ってもらいたかったわ。
なんて何の罪もない母を責めたって、傘が地面からニョキニョキ生えてきてくれるものじゃない。
と、言い聞かせても、やはり気分は晴れてくれないもので。
ああ、今日大好きな漫画の新巻の発売日なんだよな。
目線を落とし、飛沫をあげる校庭を眺めた。
今までに全三巻出ている、ファンタジーものの漫画。人気月刊誌の運営するサイトでの連載もので、私が今までで一番好きと言っても過言ではない漫画だった。
強いけど不器用で、でも仲間想いの主人公と、ひねくれ者で普通の漫画じゃ考えられないヒロイン。その二人が少しずつ気を許しあっていって、世界の不満にぶち当たって行くストーリーになっている。
さほど有名でもないし、マイナーに部類されると思う。しかし逆手にとれば、本屋に入庫する数が少ないということになり、ここらに潜んでいるかもしれない同志に先を越されてしまうかもしれないということだ。
つまり早く行かないと手に入らなくなる。それだけはダメ、絶対。
どうにかしなくては、と解決策を頭の中で練り上げる。
友人の傘に入れてもらうのはどうだろう。ダメだ、数少ない友人は皆、部活に行ったか帰ってしまった。私が図書室に寄る前に雨にさえ気づいていれば……。昼はあんなに晴れてたのに。台風、恐ろしい。
じゃあ先生に申し出て、貸出用の傘を貸してもらうのは。それもダメだ。職員室に一人でだなんてとてもじゃないけど乗り込めない。
後ろを振り返る。時間も時間なので、生徒はみんな帰ったか部活に行ったかでとても静かな下駄箱だ。雨音と、遠くからかすかに聞こえる、体育館で練習に励んでいる部活の声しか音が存在しなかった。
少し変な気分になる。ワクワクするような、それでいて言い得ぬ不安をあおられるような。
多分、漫画が買えない現状のせいだ。ああ、もうどうなってもいいから買いに行きたい。
よし、とつぶやき、校庭を見据える。
人もいないから、校門まで走り抜ければ目撃されることはないだろう。
大事なカバンを、赤ちゃんを抱くように慎重に、それでいて濡れないようしっかりと胸に抱え込み、決心のついた瞳で深呼吸をした。目を閉じる。
そして一気にまぶたを開くと、足元のコンクリートを運動靴で思いっきり蹴りつける。灰色の幕に体を突っ込むようにして、私は大雨の中に突入した。
水の中にいるような、しかし上からのまばらな圧力を感じる灰色の世界を、校門があるであろう方向へ走る。
校庭の土が溶けかけたチョコレートのようで、大変走りづらい。それでも漫画のために足は止めなかった。
うっすらと見える校門をくぐり抜け、住宅街の道路に飛び出した。歩道だと思われる場所を走る。足元のアスファルトは、まだ浸水していないようだ。
でも、こんな姿じゃ本屋には入れないな。
そう思い、まず家に帰ることにした。濡れた体で本屋に入るなど、本好きが白目剥いて泡を吹きながら倒れそうだ。
通い慣れた通学路を、走る。
見事家から徒歩で通える高校に受かった私を褒めてあげたい。
漫画が楽しみで仕方なく、緩む頬を引き締めながら、私はいつも通りの道をいつも通り走っていた。
雨は、容赦無く、私の体や街に打ち付けている。