ティンダロスの猟犬
けたたましいアラーム音が鳴り響き、警告を示すレッドランプは闇一色だった空を血濡れにする。厚い雲が空を覆い、星はおろか月すらも姿を隠し、一切の光源を失った暗がり峠病棟では、今や人間の生存本能に警鐘を鳴らすレッドランプだけが灯りだった。
次々と、シャッターが下りていく。それは病棟の出入り口に限らず、窓にまで施されていた。乱暴な目覚ましにたたき起こされ、眠そうな目を擦りながら窓の外を見ていた患者たちは、視界を一瞬にして塞がれる。ガシャン、ガシャン、ガシャン…………と、シャッターの下りる音が響き渡る。まるで、戦闘態勢に入った要塞のような光景は、見る者が見ればほれぼれするような景色だったに違いない。
時刻は午後の十二時を過ぎ、病棟内に残る患者は全員、自室に戻されている。医者や看護師にしても宿直の当番以外は既に帰宅の途についていることだろう。だから、病棟の窓や扉にシャッターが下りていく光景をつぶさに見、軽いようで重い音を聞いてプレッシャーを感じる人物など、この病棟にはいなかった。
病棟の中庭に佇む、二人の人物を除いては。
その中庭は、入院患者の運動不足を解消すべく解放されたものだ。許可を得た一定数の入院患者は、この中庭でスポーツをしたしりして、時間を潰す。子供の入院患者も多いこの暗がり峠病棟では、中庭に公園にありそうな遊具まで備え付けられている。
健全な目的で造られたはずの中庭。そうにも関わらず、この中庭には不自然な点がひとつある。
いや、この不自然な点というのは、なにも中庭に限った話ではない。
四方を、塀に囲まれているのだ。中庭も、この暗がり峠病棟も。
不意に、中庭の四隅に設置されていたライトが輝く。強烈な光は、中庭を存分に照らし出す。そして中庭に佇む、ふたりの人物をも映し出した。
ひとりは黒い詰襟の学生服を着た、長身の男だ。刃のような鋭い目と、逆立った髪の毛が妙に印象的だが、まあ、平均して見ればどこにでもいそうな高校生のようだ。
野球部らしい特徴など微塵も無い癖に金属バットを持っているが、うん、普通の高校生だ。
もうひとりも男だった。とはいえ、さきほどの男に比べて小さく華奢で、パッと見では男女の区別などつかないくらい中性的な顔立ちをしている。整った容姿は美しい部類に入り、きっと学校に通っていればクラスの人気者なのだろうなと推測できる。ただ、彼のどこか覇気に欠ける目が、完璧な容姿を若干崩してしまっている。
着ている服が寝間着のようなので、こちらは入院患者と見ていい。年齢は高校生か、どう低く見積もっても中学生だ。つまり、中庭に佇むふたりはだいたい、同い年ということになる。
寝間着の少年はちらりと、自分の後ろを見遣った。そこにはひとりの少女が、ジャングルジムにもたれかかっている。中庭を照らす四つのライトの死角になっていて、彼からは表情が窺いにくかったものの、その眼に好奇心と期待が込められているのは確実だった。
その少女は、とにかく綺麗だった。年頃はふたりの少年と同じくらいだが、可愛いというより綺麗と表現した方がしっくりくるような容姿をしている。黒い髪は風に揺れて彼女の肩をくすぐり、甘い香りを寝間着の少年まで届けている。ジャングルジムに絡めている腕は細く、しなやかで、蔓のようだと少年は見るたびに思った。真っ赤な舌がちらりと顔を出して唇を濡らす様は必殺の槍と同義で、純粋な少年の胸に突き刺さった。これ以上見ていると何だか危うい考えに支配されそうで、寝間着の少年はため息を漏らすと正面に向き直った。
「どう? どう? どっちが勝つかな?」
年端もない少年のような声が、少女の耳元に届く。彼女の肩に載っていた小さいぬいぐるみが、不意に声を上げたのだ。それは傍目から見れば怪奇現象以外の何物でもないが、少女は特に気にする様子もなく、ぬいぐるみの言葉に答えた。
「さあ? わたしはどっちでもいいけど。ま、できれば暗がりくんに勝ってほしいかな」
そう言って少女は、寝間着の少年――暗がり峠絶後の背中を見る。ぬいぐるみの手前、どうでもいいと言ったものの、この少女の立場上、絶後が勝ってくれる方が良いに決まっていた。できれば密かに加勢したいくらいの気持ちだったけど、彼女の『能力』は使い勝手が良くても隠密性に欠けるため、諦めて全ての期待を『暗がりくん』に預けたのだった。
なぜ中性的な容姿を持つ、若干覇気の欠けた美少年、暗がり峠絶後が真夜中の中庭にいるのか。これは非常に難しい問題だった。何故なら、今中庭に立つ絶後自身が、ほとんど状況を理解できていないためである。
「で、結局なんで僕はここにいるんだ…………?」
この話を理解するためには、物語の時間軸を、ざっと十八時間ほど戻して、朝の六時にする必要があった。
さらに加えて、暗がり峠病棟という現在位置の説明も不可欠だ。
ただし賢明な読者諸君なら、たぶん暗がり峠絶後に関する次の一文を読んだだけで、全ての事情を見抜いてくれるはずだ。
曰く、暗がり峠絶後は超能力者である。
妄想たくましい読者諸君なら、これだけで暗がり峠病棟が超能力者と呼ばれる者共を収容する隔離施設だということは理解してくれるだろうし、真夜中の中庭で絶後と長身の高校生が佇んでいた理由も察しがつくはずだ。
が、そうはいっても、真夜中の中庭で行われていることは関係者一同の想像から外れた事態である。やはり逐一説明すべきだ。
暗がり峠絶後は超能力者である。しかも、かなり危険度が高く、発動すれば対象者は間違いなく死亡するくらいの『災厄』である。関係部署は綿密な調査と監視の結果、彼を暗がり峠病棟へと送ったのだ。
暗がり峠病棟とは、もともと彼の両親が経営していた病棟で、超能力者の管理が主な仕事となる。暴走しがちな能力者のカウンセリングや、能力をコントロールするためのリハビリ技術は、国内でもトップクラスと目されている。おまけに病棟は四方八方を山に囲まれていて、万が一能力が暴走しても、最悪病棟が消滅するだけの被害で収めることができる。絶後の両親に尻拭いをさせつつ、万が一の場合でも被害を最小限に抑えるには、うってつけの場所だ。
絶後が入院したのは、彼が当時六歳の頃で、今から十年ほど前だ。彼の身に超能力が発現し、それが暴走した。そして能力の暴走によりさくっと千人近くが死んだ。それほどまでに凶悪な能力なのだ、彼のものは。
昔はともかく、今のご時世、日本でも法整備が進んでいる。超能力による違法行為の処罰は、その能力が能力者本人にとって操作可能なのかどうかを慎重に吟味した上で行われる。絶後の能力は操作不可能と判断され、彼は大量殺人犯でありながら、病棟に収容される以外の処罰を受けていない。
そのことを不満に思う被害者遺族や超能力差別団体などが抗議などをしていたらしいが、絶後の能力により全滅した。無論操作不可能であり、プラス五百人弱の殺害も彼は責めを負っていない。そして彼のことを表だって非難できる輩はいなくなった。
彼自身、既に病棟に引きこもり世間から隔絶された生活を送っているので、世間で自分がどう言われているのか興味がない。むしろ自身の能力を発動させないために、聞かないように細心の注意を払っていたほどだ。
そう、ここまで言えば分かるかもしれない。彼の能力が。
彼の超能力は、名を『ティンダロスの猟犬』と言う。自身に対して敵意を抱いた人物、また絶後本人が敵だと認識した人物を、殺害する。しかもこの能力は全ての概念を超越し、対象に死を与える。つまり、物理的な防御も精神的な障壁も通用せず、絶後本人を殺害しようとも、能力が発動してしまったら止められない。防御不能の一撃必殺。そして絶後はこの能力を、自在に操作などできない。精々彼が入院生活の十年間で得たのは、心を無にし、誰も敵と思わない温和な心を保つ術くらいだった。結局、相手が敵愾心を抱いてしまえば、彼の努力など関係なく能力が発動してしまうのだ。無駄とは言わないものの、彼の努力は徒労に等しかった。
そんないつ爆発するか分からない能力だから、当然のごとく絶後に友人などほとんどいなかった。彼がいかなる努力を重ね研鑽を積もうとも、相手の心づもりひとつで胡散霧消する。そして『ティンダロスの猟犬』により誰かが屠られれば「やっぱりあいつは危険だ」となる。自身に責任などない負のスパイラルに絶後は苛立つが、その気持ちすら自分の能力を発動させかねない。彼は煮え湯を飲み、黙って悪感情を押し殺す毎日を送っていた。
この日までは。
さて、話はついに絶後少年の身に何かが起こり、中庭にて謎の長身男との対峙に発展する契機までたどり着いた。彼はその日、自室でいつも通りの時間に目を覚ましたのだ。朝七時を告げる軽やかな、それでいて聞くものを睡眠から強制的に引きずり戻す大音量より早く、絶後は起きていた。
この病棟にはランク付けがあり、危険度順にEから特Aまでつけられている。言うまでもなく絶後は特Aであり、本来はみんな一緒に食堂で食べる朝食も、彼は自室で食べていた。暗がり峠病棟には特Aランクの患者が五人おり、その患者は診察やリハビリを除き、部屋から出ることを基本的に禁止されている。最も、元来インドアである絶後にしてみれば外に出る気はない。外出禁止という事情から他の部屋よりも特Aランクの部屋は快適で、ユニットバスもあれば簡単なキッチンすらあるくらいだ。わざわざ外に出る必要もなかった。
朝食を食べ終えた絶後は、適当に身だしなみを整えていた。面会のためである。病棟では定期的に外来の人間との面会を許されており、これは特Aランクとて例外ではない。
ただし、特Aランクは面会用の談話室まで行くことを禁止されている。そのため面会者が特Aランク用の病棟まで出向かなければならず、どうしたって面会の足は鈍る。実際、絶後は自分以外に面会を受けている患者を知らない。
特Aランク用の病棟は医者ですら二の足を踏む。特Aランク患者の主治医になったら遺書の準備を怠るなと言われ、Aランク以下の病棟で入院している子供たちは、肝試しのポイントにすらしない。命を賭けるというより命を捨てに行くようなものだと、特Aランク患者へ面会に来た人は必ず説得されるらしい。
要するに特Aランク患者に会うという行為は、命知らずか自殺志願者の行いだという認識が一般的だ。
絶後を訪問する人間は、いったいどちらに属しているのか。そんなこと、絶後にすら分からない。
ひとつだけ分かるのは、その人物が数少ない、暗がり峠絶後の友人であるということだけだ。
「おはよう。絶後くん」
間もなく、絶後の居室の扉を開けたのは、絶後よりもさらに女々しくてよわっちそうな、小柄な少年だった。キョロキョロと、何かを警戒するように辺りを見回している。彼は右手に大きな袋を提げていて、左手はコートを引っかけていた。
「いつも悪いな。大吾郎」
岡島大吾郎。それが、このナヨナヨした少年の名前だった。これほどまでに体を表さない名はないと、絶後は思っている。しかしこの大吾郎こそ彼にとって親友である。絶後の大吾郎をいたわる言葉には、微塵の建前も含まれていない。
「いいって。絶後くんも大変だもんね」
はいこれ、と大吾郎は絶後に提げていた大きな袋を渡した。それを受け取った絶後の顔は、一瞬だけ綻んだ。何せこの袋の中身は、彼の大好物であるキャラメルなのだから。
病棟内には売店もあるが、特Aクラス患者である絶後が売店に行けるはずもない。キャラメルを食せないことに起因する禁断症状に苦しんでいた絶後を助けたのが、大吾郎だった。彼は特Aランク病棟に危険を承知で突入し、絶後にキャラメルを渡したのだった。
それが二人の初めての出会いだった。それ以前は絶後と大吾郎の間に関係など一切なかった。そもそも、少なくとも入院以前の絶後を知る人間などいないのだ。彼が六歳の頃に起こした事件によりほとんどが死亡した。僅かに生き残った者も、思い出したように発動する『ティンダロスの猟犬』によって次々と屠られ、亡くなった。
大吾郎の両親は暗がり峠病棟に勤務しており、絶後の噂は両親から知ったのだ。元より虫も殺せない優しい性格の彼のことで、絶後のことが放っておけなかったのだ。
絶後自身、大吾郎が近くにいる危険性を認識している。しかしいかんせん『ティンダロスの猟犬』である。絶後は優しさから偽りの敵愾心で大吾郎を遠ざけたかったが、偽りの敵愾心すら能力を発動させる引き金になりかねない。大吾郎よりも絶後の方が、戦々恐々で接していた。
何年も交友を続けているが、絶後の頭には片時も不安が離れない。一瞬でも敵意を見せれば、大吾郎は死ぬ。生殺与奪の権限を期せずして持ってしまうのは、実にストレスフルだった。
もっとも、ストレスが溜まるのは大吾郎自身を前にしている時よりも、大吾郎がそばにいない時の方が多い。こうして直に会ってしまうと心配などどこ吹く風で、彼らは普通に楽しく会話をしていた。
「ところでさ」
大吾郎が、改まったように話題を切り替えた。何だろうと思って、絶後も一応、居住まいを正していた。
「絶後くんは、学校、通わないの?」
「ん? ううん…………」
大吾郎の意外な言葉に、絶後はしばし悩んだ。
それと言うのも、実は院長が絶後に進学の話を持ってきたのが、つい昨日の話だった。偶然にしてはあまりに気味が悪い。きっと、大吾郎が両親から、そのことを聞いたのかもしれない。
今更ながら、彼は今年十六歳になる。つまり高校進学を控えていた。確かに彼はインドアの人間であり、基本的に勉強と読書しかしない。学力的に進学は問題ないが、やはり問題となるのは彼の能力だ。他の超能力者ならいざ知らず、彼のような無差別殺傷能力を受け入れる高校など、あるはずがないと思われた。
ただ唯一、これが意外なことにあるのだ。本来の学校とは真逆で、絶後のような人間こそを重用しようとする所が。
「夢咲学院か。正直、僕は乗り気じゃないんだよな…………」
夢咲学院。日本、それどころか世界初となる、超能力者による超能力者のための高校。生徒どころか、教師から理事会、果ては用務員までもが全員超能力者という奇天烈な高校だ。確かにそこならば、絶後のような能力を持つ人間でもあるいは…………、と、院長は考えたのかもしれない。
だが、絶後からすれば甘い計算としか言えない。どんなに優れた超能力者であっても、彼の持つ『ティンダロスの猟犬』は確実に死をもたらす。現に彼は、能力を暴走させてしまった例の事件の際、駆け付けた超能力刑事を三十人ほど殺している。そのため膠着状態が半日続き、警視庁が絶後を殺す気で登用した日本最強と呼ばれた超能力刑事すら、任務を受けた瞬間死亡した。『ティンダロスの猟犬』は距離も時間も関係なく、『暗がり峠絶後』を敵視した人間を殺害する。すなわち、絶後を『殺す気』だった警視庁のお偉方も全滅である。
暗がり峠絶後は、たったひとりでちょっとした恐慌を日本にもたらしたことがあるのだ。
「だから結局、僕が夢咲学院に行く理由はないんじゃないか?」
「いや、そうじゃないんだよ絶後くん」
どうしたって『ティンダロスの猟犬』は防げない。防げる超能力者がいたら教えてほしいものだと思っていた絶後には、あるひとつの考えが欠けていた。それはあまりにも単純ゆえに、彼のような強大すぎる能力を持つ者には中々至らない部類の物だった。
「夢咲学院には、いろんな超能力者がいるんだよ? もしかしたら絶後くんの能力を半永久的に弱体化、ないしは無効化できる能力者がいるかもしれないんだ!」
「ああ!」
超能力を封印する。その手は何故か、暗がり峠絶後の思考から外れていた。いや、何故かと言うが、決して彼の思考が足りなかったからではない。
『ティンダロスの猟犬』は何度も封印を試みている。だが、失敗しているのだ。
『ティンダロスの猟犬』はあまりにも危険な能力であり、本来ならば絶後自身を殺害、ないしは能力封印を行うべき類のものだ。これは国が新たに定めた『超能力緊急措置法』により定められている。曰く『操作不能であり、なおかつ大量殺人という甚大な被害をもたらした能力は、本人の許可を得ずとも封印が可能である。封印が不可能だった場合、能力者本人の殺害も認める』と。
大量殺人、という定義が曖昧であるという批判もあるこの法律であるが、いくら定義が曖昧だとしても、千人以上を殺害した絶後に適用されないはずがない。
彼の能力の特性上、殺害は不能にしても、封印はできるはず。そう考えた関係部署は能力封印系の超能力者を五人も送ったが………………。
全滅した。
その理由は簡単で、能力者が自身の『封印』を『攻撃』の類と認識していたからだ。その結果、暗がり峠絶後に対して無意識の『害意』が働き、『ティンダロスの猟犬』が発動する。
「あの時の失敗は、『封印』が攻撃手段だったからだ。だから、もし『相手の合意を得られないと封印できない』能力とかだったら…………」
「うん。敵意とか害意は働かないから、『ティンダロスの猟犬』が発動することもないよね!」
そして教師から生徒まで、全員が超能力者である夢咲学院なら、そんな能力者もいるかもしれない…………。
暗がり峠絶後が岡島大吾郎の説得により、徐々に進学を現実のものとしている最中のことだ。その夢咲学院でひとつの事件が起こったことを、彼らは知らなかった。
「…………あれ?」
今から十八時間後、真夜中の中庭でジャングルジムに体を預けることになる少女、色葉二歩は夢咲学院の正門にいた。セーラー服の上からコートを羽織り、マフラーをしっかり巻いて登校してきた彼女は、正門に着いた途端、異常に気付く。
騒がしかったのだ。
彼女の耳元に、冷たい風と共に届く声。「助けてくれ!!」とか「なんで俺が」という、上ずった大人の声。
それらの叫び声は途切れ、後から肉を切り裂くような音が校舎を埋め尽くす。
超能力者しかいない夢咲学院では、基本的に何が起きても不思議はない。それでも、今日何かが起きるのはさすがの色葉とて想定外だった。
何せ今日は土曜日であり、校舎にほとんど人がいない。いるのは精々生徒会と、下部組織である委員会の面々くらい。あとは………………。
「そうかっ!」
何かに気付いたらしい色葉は、正門を抜けて真っ直ぐ昇降口へ向かおうとする。そうだ、今日はあの問題児『少年K』についての検討会だったのだ。だから校舎には、一部の教員と理事会のお偉いさんがいる。さっきの叫び声は、それらの内の誰かだ。校舎内で何が起きているか分からないが、もし超能力者の暴走だというのなら、風紀委員である彼女には止める義務があった。
彼女が昇降口までたどり着くと、ふらふらと一人の男性教諭が出てきた。教頭の井上先生だ。まん丸の体と禿げ頭。おおらかな性格で、生徒からの評判もいい。特に、彼の超能力『夢ランド』は、大人気である。
その井上先生は、着ていたスーツを真っ青に染めている。青くて生臭い液体がべったりと、ついているのだ。井上先生は顔から血の気が失せていて、口をパクパクと動かしている。色葉が見た限り、怪我はないようだが…………。
「先生、大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄った彼女は、井上先生の体に触れようとして躊躇する。青い液体の正体が分からなかった。もし毒で、皮膚から入り込むようなものだったら、迂闊には触れない。
「い、色葉くんか…………」
焦点が合っていなかった目が、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。井上先生は色葉の姿を確認すると、叫んだ。
「早く逃げるんだ! 校舎に残っている他の生徒にも連絡を。あいつが…………暗がり峠が……! くそっ、こんなことになるなら、あいつの肩なんて持つんじゃなかった!」
その瞬間だった。色葉は、おぞましい物を見た。
床から、何かが這いずり出てきた。真っ青な液体をダラダラ垂らした、蛇のような生き物だ。足は四本あるようだが、その足を使う気はないらしい。床から体を出したそれは、ズルズル這い回って、色葉と井上先生を取り囲んだ。
「……………………!」
これは幸運なことだが、色葉にはこの奇怪な生物に対抗する手段がなかった。彼女の能力は戦闘向きではないし、人間以外の動物には効果が薄いのだ。そのため、彼女はただ言葉を失ってその生物を見ることしかできなかった。この、『ティンダロスの猟犬』を。
そう、これこそが暗がり峠絶後の超能力『ティンダロスの猟犬』。井上先生の言葉、敵意に反応し、能力が発動したのだ。もし彼女が戦闘向きの能力を有しており、この『ティンダロスの猟犬』および絶後に対し敵意を抱いてしまっていたら、色葉も既に命が無かった。
「くそっ…………!」
十年前に世間を騒がせたこの能力は、当然井上先生も知っている。というか、まさに今、暗がり峠絶後に関する案件を彼らは検討していたのだ。しかしこのような生物が現れた混乱から、彼はただ『危険な生物に襲われている』という短絡的な認識しかできない。
『ティンダロスの猟犬』という超能力に対抗するような戦い方ではなく、おぞましい生物から逃れようとするような、無意味な戦い方しかできなかった。
井上先生は即座に能力を発動し、自身と色葉を防御する。色葉に対する防御など無用なのだが、井上先生はそのことに気付かない。混乱で、そのことを思い出せない。
『ティンダロスの猟犬』に防御が無効だということも。
井上先生の能力『夢ランド』は、有体に言えば、わたあめを自在に召喚する能力である。これで人の体を包むと、意外と良いクッションになったりする。わたあめによって包まれた色葉は、足を縺れさせて転んだ。
わたあめによって自分をガードした井上先生へ、蛇が襲いかかる。細い舌を、鋭くわたあめへと突き刺す。
「ぐは…………!」
わたあめによって耳も口も包まれ、色葉の耳にはくぐもった断末魔だけが聞こえた。井上先生は自身が出した赤い血と、謎の生物が滴らせる青い液体にまみれて、わたあめをどす黒く染め上げた。そして井上先生を襲った生物は、役目を終えたと言わんばかりに、霧のように消え失せた。
色葉は何とか、無事にやり過ごしたのだ。
ただしここからが、彼女にとってはすこし大変だったが。
わたあめで全身を包まれてしまった彼女は、けっこう本気で窒息の危機に陥っていた。わたあめが想像以上に厚く、手足にまで纏わりついて身動きがとれない。食べればいいかと思ったが、首も回らないため、口元にあるわたあめしか舐めれない。鞄は落としてしまい、携帯電話で助けを呼ぶこともできなかった。
「むー! むー!」
「あ、色葉か! 大丈夫か!」
全力で叫んだ結果かどうかは定かではないが、彼女は同じ風紀委員会に属する男子生徒数人によって助けられた。
色葉二歩が風紀委員に助けられ、わたあめを剥がされている頃には、学院全体が落ち着きを取り戻していた。そして彼女の耳に、事件の概要が届いていた。
どうやら今日の朝六時から、理事会は『少年K』についての検討会を行っていた。すなわち、暗がり峠絶後についてである。
この夢咲学院では、優秀な超能力者を学費免除、試験免除で入学させる制度がある。今年は絶後を含め、十人がそれにピックアップされたのだ。そして九人が滞りなく制度を受け、入学することが決まったのだ。
しかし絶後を入学させるかどうかについて、理事会と教員の間で意見が分かれてしまった。今日の話し合いの目的は、絶後を入学させるか否かの最終決定をすることだったのだ。
理事会は絶後の持つ『ティンダロスの猟犬』が極めて優秀であり、このような生徒にこそ夢咲学院に来てほしいと思った。一方の教員は、ごく一部を除いて、そんな危険な能力を持つ生徒は受け入れられないという意見だった。
喧々諤々の議論が一時間続いたころ、事件が起こった。
校長が声高に、絶後が起こした十年前の大量殺人を挙げて危険だと言った瞬間、あの奇怪な生物が皆の前に姿を現したのだという。
そこから先は地獄絵図。暗がり峠絶後の入学を反対していた教員の内、八割が『ティンダロスの猟犬』の餌食となった。検討会に使われていた会議室は、その生物が滴らせる青い液体で、べったり汚れているという。教員のみならず、その生物を見て、絶後に一瞬でも害意を覚えた理事会のメンツも、多くは犠牲になったという。
「なーんで、こんなことになっちゃったんだろうね」
風紀委員会の詰所にて、一通りの概略を色葉が聞き終えると、幼い少年のような声が響いた。色葉がキョロキョロ辺りを見ると、詰所内のソファにぐったりともたれかかっていた、巨大なウサギのぬいぐるみが突如として動いたのだ。
「『ティンダロスの猟犬』の能力くらい、理事会も教員も知ってたのにねえ」
ウサギは立ち上がると、やれやれと言わんばかりに両手を広げた。ぬいぐるみが動くという驚くべき怪奇現象のはずだが、詰所にいる生徒たちは誰一人、驚く様子を見せない。
「ていうか色葉ちゃん、君からすごい甘い匂いがするんだけど…………」
詰所にいた男子生徒数人が、クスリと笑う。色葉はムッとしながらも、それ以上の追及を避けるために話題を元に戻した。
「……きっと、『少年K』という偽名で防げると思ったんでしょ」
だからこそ、臆することなく絶後の入学に反対できたのだ。彼の『ティンダロスの猟犬』は、彼が敵と感じた者、彼を敵だと感じた者に発動する。つまり『暗がり峠絶後』という少年を認識することが絶対条件だ。『少年K』という言葉で誤魔化せば認識するという条件は満たされず、従って能力も発動しないと思ったのだろうか。
「でもその方法は、十年前既に試されていて、しかも失敗してるらしいわ」
十年前と言えば色葉も幼く、すべてを覚えているわけではない。ただ、暗がり峠絶後という同年代の少年が、一挙に千人強を殺害したということはリアルタイムで知っていた。その頃、絶後は『少年K』とメディアでは呼ばれ、彼の能力の性質上、顔写真も一般には公開されなかった。
それでも、『少年K』に対し敵意や害意を抱いた者は、死んだのだ。そのことを、彼女は知っている。
色葉二歩の両親も、死んだのだから。
「『少年K』はイコールで『暗がり峠絶後』のことでしょ。ニックネームみたいなもので、呼び方が変わっても彼を認識するのに不自由は無いわ。だからわたしは、最初からこの方法じゃ防げないって進言したんだけどね…………」
黙殺された結果がこの様だ。
「その暗がり峠くんは、自分の能力が発動してることを知ってるのかな?」
「知らないらしいわよ」
ウサギの質問に、色葉は簡潔に答えた。そうなのだ。この朝に起きた事件を絶後は全く知らない。今彼は身だしなみを整えて、大吾郎に会おうとしているところだ。『ティンダロスの猟犬』の弱点を二つ挙げるなら、ひとつは操作性の無さ、もうひとつはこの、発動時の自覚の無さだろう。
「とにかく――――」
そんな色葉とウサギの話をさえぎって、詰所の扉が開かれ、ひとりの少年が顔を出した。この詰所内でも、一番の最年長と思われる。黒縁の眼鏡に詰襟の学生服。黒い髪は男子にしては長めだ。
「委員長のおなーりー」
ウサギがからかうように言った。委員長と言われた少年はそれを無視して詰所内に入ると、ソファに腰を下ろした。
「被害状況が判明した」
委員長のその言葉に、詰所内にいた生徒たちは委員長の元に集まる。
「今回の事件で死亡した教員は三十六名、理事会は五名だ。校内には我々風紀委員会のほか、生徒会と下部組織の各委員会が詰めていたが、どうやら生徒に被害はないらしいな。そしてこの事件を起こしたのはやはり、暗がり峠絶後の能力『ティンダロスの猟犬』だ」
にわかに、詰所内がざわつく。実は、色葉とウサギ、そして風紀委員長と副委員長以外の風紀委員は、今日の検討会の内容を知らされていなかった。突然飛び出した、十年前のシリアルキラーに、詰所内の空気が淀むのも無理からぬ話なのだ。
「茨委員長、質問ですが…………」
「なんだ、色葉」
実際に絶後の能力を目の当たりにし、そしておそらく風紀委員会の中では最も『ティンダロスの猟犬』を知る色葉には、いくつか疑問があった。
「教員が死にすぎだと思います。検討会に出席していた教員は十名だったはずです。本当に、『ティンダロスの猟犬』だけの影響ですか?」
「ああ。それはだな、どうも二次被害的なものらしい。つまり、まず検討会が行われた会議室で惨劇が起きる。次に、騒ぎを聞きつけた教員がその惨劇を見て、反射的に暗がり峠に対し敵意を抱いてしまう。そこを追加発動した『ティンダロスの猟犬』に殺されたらしい」
納得して、色葉は引き下がった。彼女としては、火事場的な犯行が一番怪しかったのだ。教員と理事会の衝突は昔から激しく、理事会にしろ教員にしろ、お互いを殺したいくらい憎んでいるというのだから。
「で、とどのつまり、会議はどうなったんですか?」
「どうやら、暗がり峠絶後の入学が決まったらしい」
委員長のその言葉に、詰所内がざわつく。このような事件を起こした生徒の入学が決定するなど、彼らとて考えてもみなかった事態に違いない。
学院の風紀を守る風紀委員すら、己の身の安全を第一に考えずにはいられなかった。そんな中、ウサギがぴょこぴょこと歩いて、委員長の前に来た。
「委員長、どうするんですか? 風紀委員会としては放っておけませんよね」
なぜ本来関係ないはずの検討会のために、生徒会や下部組織が詰めていたのか。その理由はここにあった。
暗がり峠絶後をどうするか。それを早急に話し合うためだ。
実は生徒会も下部組織も、絶後が入学することになるだろうと予想していた。『ティンダロスの猟犬』を考えれば、反対したくても反対できないだろうと考えていた。事態は思わぬ方向へ転び大災害を引き起こしたが、紆余曲折を経て、大方は彼らの予想通りに収まっている。
委員長は頷き、言葉を紡いだ。
「そうだな。生徒会は暗がり峠を殺害しようと目論んでいる。あの生徒会長が何の勝算も無しに戦いを挑むとも思えんが、たぶん無理だ。そもそも俺たち風紀委員会は、暗がり峠の殺害など断固として認めない!」
下部組織であり、風紀委員会は通常なら生徒会の意向に従うべきだ。しかし長年、風紀委員会と生徒会は犬猿の仲なのだ。生徒会は風紀委員会への予算をまったく下ろさなくないし、風紀委員会は生徒会に一切従わない。
それはひとえに、思想の違いなのだ。絶後の例が顕著だが、風紀委員会は生徒を守るためでも殺人など絶対にしないが、生徒会は治安を守るため、人ひとりの命を簡単に奪う。
ここで、疑問を持つ者は多いかもしれない。思想が違うのは分かった。だがしかし、生徒会が治安のために人を殺す? これは一体どういうことなのか。
それというのも、夢咲学院では、超能力者同士の抗争が認められている。殺害も、放火も、強盗も、強姦も。これは実は、夢咲学院に入学するまで、誰一人知らない事実なのだ。今この場にいる風紀委員会の面々だって、入学するまで知らなかった。入学式の場で聞かされて、呆然とするしかなかったのだ。
現在の夢咲学院は、理事長の思惑により永続的なコロシアムと化している。そこを何とか秩序化しようと、風紀委員会は動いていた。生徒会はむしろ、このコロシアム状態を受け入れているようだが…………。
色葉には、理事長がどんな思惑で夢咲学院をコロシアム化しているのか、生徒会が何を思ってそれを是としているのか分からない。ただ唯一彼女が理解しているのは、生徒会に治安維持を任せるのは得策ではないということだけ。
生徒会は様々な行事を企画し、コロシアム化を推進すらしている。
そんな学院の現状は、一切外部に漏れない。絶後は言うまでもなく、大吾郎も知らないのだ。理事長の能力『蓋』によって、忌まわしい現実は綺麗な理想となって世に送り出されている。
入学者の八割が、卒業を前に死亡するという事実も当然、外には漏れていない。
風紀委員会全体の総意としては、暗がり峠絶後を夢咲学院に迎え入れるつもりだ。もし彼の『ティンダロスの猟犬』が理事長に対して発動すれば………………。そう願わずにはいられないのだ。
「生徒会は早速、暗がり峠殺害のために動くらしい。副会長が既に暗がり峠病棟に向かった」
詰所内が静まり返った。生徒会副会長・空木静止。死なない能力『エンドデッド』を持つ、学院でも指折りの超能力者だ。
「さ、さすがに無理なんじゃないですか?」
「空木副会長が出動したら、あの大量殺人犯、暗がり峠でも…………」
ふたりの男子委員が、おそるおそるという口調で言った。色葉はこのふたりが、過去に空木と対戦し、命からがら逃げだしたのを知っている。ふたりの持つ能力は、眠った相手を殺す『寝落ち』と一度死んだ相手を殺す『ダメ押し』。委員長、茨午睡の持つ強力な催眠能力『緩やかなまどろみ』とのコンボで空木に挑んだことがあった。
委員長の能力で空木を眠らせ、『寝落ち』で殺害。そして生き返るようなら『ダメ押し』。『ダメ押し』は死を経験した相手には何度でも使える、まさにダメ押しにピッタリな能力だったのだが…………。
空木はまず、『寝落ち』が効かなかったのだ。
「確かに、『ティンダロスの猟犬』と言えども、死なない相手はどう足掻いても殺せないか……」
「いえ、殺せます」
憂慮する委員長に、色葉はやけに自信たっぷりに答えた。委員長も、色葉がここまで断言するのが珍しいのか、首をかしげた。
「どういうことだ?」
「かつて、暗がりくん――暗がり峠絶後は、日本最強の刑事を殺しました。『藁人形』の石原刑事を…………」
委員長の目が大きく開かれた。それだけ、彼にとっては意外な事実だったのだ。『藁人形』の石原刑事の名前が上がることは……。
周囲も激しく動揺する。十年前に故人となり、その頃まだ年齢が一桁だった彼らですら、その名前を聞いて驚かない者はいなかったのだ。
『藁人形』の石原。かつて日本に跋扈した超能力犯罪の検挙に奮闘し、国民栄誉賞すら与えられた刑事。今でも彼をリスペクトした映画やドラマが作られるほど、日本では人気の高い超能力刑事なのだ。彼に影響を受けて、警察官になった超能力者も多い。超能力差別主義者ですら、密かに彼を慕うものは多いのだ。
日本の英雄、そう呼んでも過言ではない。
「石原刑事の能力『藁人形』は自身が負ったダメージを、そのまま相手に跳ね返すというもの。例え『死』というダメージでも、跳ね返すことが可能だという強力なものだ…………。それすらも破るとなると、『ティンダロスの猟犬』は俺たちの想像を遥かに超えた能力だというのか?」
しかしそうなると…………と、委員長、茨午睡は考えた。つまり、空木は敗北する可能性があるということだ! これを利用すれば、案外自分が思っていた以上に、暗がり峠を引き込むのは簡単なのではないか?
「色葉、今すぐ暗がり峠病棟に向かってくれ! 君の能力なら、暗がり峠と直接会っても生存率は高い。綿貫は万が一に備え、色葉と共に向かえ」
「えーっ!」
綿貫と呼ばれたのは、ウサギのぬいぐるみだった。ウサギは委員長に必死の抗議をしていたが、色葉に頭を掴まれ諦める。
「どうせ歩くのはわたしなんだからいいでしょ」
「よくない! これから帰ってアニメ見る!」
「委員長。空木はどうしますか?」
色葉はウサギの言葉を黙殺した。
「できれば戦わずに暗がり峠を保護してほしいが、無理は言わない。君の自信がどこから来るのか知らないが、暗がり峠は空木を打倒しうるのだろう?」
「はい」
色葉は頷き、詰所の窓から外を見た。十年前に見た、あの少年の顔が、雲に映る気がして。
色葉が窓から雲を見上げたのと同時に、絶後は不意に何かを思い出した。キャラメルを食べる手を止めた彼を心配したのか、大吾郎が声をかけた。
「どうしたの?」
「あ、ああ。大したことじゃないだけどな…………」
彼は少しだけ思い出していた。
「そういえば、八年前だったかな? お前が訪ねてくる前に、ひとりだけ、僕を訪ねてきた物好きがいたんだ」
彼はつぶさに、その時のことを覚えていた。入院生活に慣れ、飽きすらも感じ始めていた冬のことだった。ひとりの少女が、絶後の元を訪ねてきたのだ。
「なんで来たのかな?」
「僕も詳しくは知らない。ただ、その子は僕に向かって『ありがとう』って言ったんだよ」
『お父さんとお母さんを、殺してくれてありがとう』。その少女は、絶後に向かって言った。彼には未だに、その言葉の意味が分からない。ただぼんやりと、自分が行った大量殺人で、得をした人もいるのかと思ったくらいで。
「そうそう、その時にキャラメル置いてったんだよ、その子」
「だから好きなんだね、キャラメル」
「あ、いや、別にそれ以前から好きだったけどな」
ちょうどこんな時期だったかなと、絶後は思い出していた。
「ところで夢咲学院だけど、大吾郎も行く気か?」
「うん。超能力者なら、普通の学校よりは過ごしやすいしね」
大吾郎も超能力者なのだ。しかし彼は絶後と違い、激しい差別や非難にさらされることなく、ごく穏やかに生活をしている。とはいえ、超能力差別主義が未だに跋扈する現代日本では、彼のような温厚篤実な超能力者ですら過ごしにくい。
岡島大吾郎の能力は、攻撃性にも汎用性にも欠ける。大吾郎はそのことを少し気に病んでいたが、絶後からすれば羨ましい。その感情すら自身の能力を発動させかねないから、絶後は努めてそのことを考えないようにしている。
そろそろ昼になろうかという時分に差し掛かり、扉を誰かがノックした。今日は問診もなければ診察もないはずなので、絶後は不思議に思いながらもそのノックに返事をした。昼食にもまだ早く、彼には心当たりがなかった。
「面会のお客様が来てますが…………」
扉の向こうにいるのは、どうも看護師らしい。ふたりは、看護師の言葉に顔を見合わせる。大吾郎はともかく、絶後に面会の心当たりなどなかった。
「誰だろうな?」
「あ、そうだ。夢咲学院の関係者じゃないかな?」
大吾郎が思いついたように、そんなことを言う。絶後もその言葉に、多少の疑問を覚えつつも納得した。
「教師か誰かが様子でも見に来たのか? まだ僕は進学するなんて言ってないけどな…………」
考えていても埒が明かないと踏んで、絶後は「通しちゃってください」と、扉の向こうに控える看護師に向かって言った。彼の対応は慇懃なものだが、むしろこの方が、向こう側にいる看護師にとってはありがたいだろう。
しかし次の瞬間、ふたりの耳を捉えた音は、想像を遥かに超えていた。
ガスッ…………という、硬い物が割れる音がしたのだ。
「…………?」
扉が開かれた。目の前に立っていたのは、金属バットを持った少年だ。目は鋭く絶後を睨みつけ、黒い髪は逆立っている。詰襟の学生服を着て、左手には学生鞄を、右手には金属バットを持っている。
金属バットは血まみれになっていて、彼の足元には頭を割られた看護師がいた。
敵だろう、これは。明らかに。
彼こそが生徒会副会長、空木静止なのだが、絶後と大吾郎にそれを知る術はなかった。
大吾郎が、反射的に絶後の目の前に立っていた。彼を守るため、というのも理由だが、本当の理由は空木を守るためだった。もし絶後が反射的に、空木に敵愾心を抱いてしまえば、『ティンダロスの猟犬』が発動する。明らかに敵のようだが、まだ敵と確定したわけではない。この段階で絶後の能力が発動しないように、大吾郎は空木を庇っていたのだ。
一方の絶後は、この程度で誰かを敵視するような軟弱な心を持っていない。もしかしたらその看護師が自分を暗殺しようとしていて、目の前に現れた少年が助けてくれたのかもしれないと思うことで、自分の能力をセーブしていた。
ちなみに、空木の目の前に立ちはだかった大吾郎に、勝算は無い。彼の能力は『眠れる森の美女』というもので、女性限定の催眠能力である。男性の空木に対して効果がない。しかも対象が狭い割に、効果はただ眠らせるだけという貧相なものだった。
空木は目の前にいる大吾郎を見て、鼻で笑った。
「俺は弱い奴に興味がない。俺の目的はシリアルキラー・暗がり峠絶後だけだ。下がれ」
「大吾郎。取りあえず下がっとけ。僕が強いの知ってるだろ」
前後にいる二人から説得され、しぶしぶと言った様子で大吾郎は引き下がる。確かに、自分が出張っても意味のない場面だと思い直したのかもしれない。
「貴様が暗がり峠か。なるほど、確かに人殺しの雰囲気はする。俺の名は空木静止。夢咲学院の生徒会に所属している」
「夢咲学院…………? 僕とは無関係……じゃないにしても、関係は薄いな。どんな用件なんですか?」
空木の対応を見て、絶後は取りあえず危険性が無いと判断した。とにかく、相手の用件を確認するのが先決だ。夢咲学院の生徒会だというのだから、もしかしたら単純に顔を見に来ただけの可能性もある。
顔を見に来ただけで看護師を殺すなどあまりにも度が過ぎるため、その可能性はごく薄いと絶後も理解しているが。
「なに、用件は単純だが、その前に確認が必要だ。貴様は今朝、自分の能力が発動したことに気付いたか?」
「いや………………?」
絶後は大吾郎を見た。大吾郎も絶後を見て、ため息をつく。その様子から察して、絶後は肩を落とす。だいたいこれで、目の前の空木という男の用件は理解できたのだ。
「はあ、僕の『ティンダロスの猟犬』が自動発動したんですね。でも、どうして夢咲学院でそんなことが?」
「貴様は夢咲学院に入学するのではないのか? 特別免除制度を使って。お前自身が知らないだと?」
空木が怪しむように絶後を見るので、慌てて大吾郎が絶後に対し耳打ちをする。
「昨日、院長から進学の話があったんだよね?」
「そうだけど……」
「夢咲学院には特別免除制度があって、毎年十人くらいが選ばれるんだよ。選ばれた生徒は試験はおろか、学費の一切を免除されるんだ。きっと院長、内緒で絶後くんを応募してたんだよ」
「何勝手なことしてんだあの院長。……ってことは、今朝僕の能力が発動したとして、原因は」
「絶後くんを入学させるかどうかで議論でも起きて、うっかり絶後くんに害意を覚えちゃったんだね」
「それは仕方がない」
絶後の長所は、この割り切りの早さだった。自身が敵愾心を抱いて能力を発動させてしまったというのなら後悔しただろうが、相手が勝手に発動させてしまったのでは仕方がない。特に彼は顔も知らない人たちである。顔見知りが自分の能力で死んだというのならまだしも、赤の他人では絶後は悲しめなかった。
彼が悲しむのは唯一、自分の不注意で知り合いを殺してしまった時だけだ。そんな性格だからこそ彼は、『ティンダロスの猟犬』という能力を持ちながらも比較的穏やかな人格を形成していた。
「だいたい事情は理解できました。でも、僕は責任の取りようがないですよ?」
「それは分かっている。俺は何も、責任を取れと言いに来たわけではない」
空木は持っていた金属バットを転がすと、学生鞄から紙を取り出した。ファイルに厳重に収められていた紙は厚めで、大吾郎は表彰状を思い浮かべた。そんなものに縁のない絶後は簡単に「紙だ」と認識した。
「お前たちの予想通り、検討会は凄惨なものになったが、結果、夢咲学院はお前の入学を認めた」
彼の取り出した紙は、入学許可書だったのだ。それを受け取って、絶後はまじまじと見つめる。空木はその様子を見て「感情が薄いなりに喜んでいるのだろう」と想像していたが、実際の絶後の心中は「こんなもの貰っても、まだ僕は進学するなんて決めてないんだけどな…………」というものだった。
むしろ喜んでいるのは大吾郎の方であった。絶後と顔を並べ、入学許可書を覗き込んだ。
「す、凄いよ絶後くん! 夢咲学院に特別免除制度で進学できるのは本当にエリートなんだよ! 夢咲学院が絶後くんを認めてくれたんだ」
「あのなあ大吾郎。僕はまだ進学するとは決めてないんだけど…………」
ただ、こうして着実に進学という理想が現実のものになるにつれて、絶後の頭は少しずつそれに向かって動き出していたのも確かなのだ。十年間病棟に隔離されていた絶後少年にとって、やはり外の世界というのは興味があった。同じ場所に居続けても飽きるだけだし、こうなったらいっそのこと出てみるかと彼が思ってしまうのを、誰が止められようか。
彼がこのまま病棟に残り続ける方が、絶後にとっても、他の人類にとっても有益であると分かっていても。
外には出てみたいのだ。
大吾郎が入学許可書にくぎ付けになり、絶後もまた入学許可書を丹念に読んでいる時、空木は動いていた。
先ほど転がした金属バットを右手に取って、ゆっくりと、バッターボックスに立ったのだ。
彼が狙うのは、ホームラン級のフルスイング。ボールは、岡島大吾郎!
空木の作戦は、要するに大吾郎をフルスイングで殺害し、その余波で絶後を殺害するというものだ。当然、空木は絶後と真剣勝負をしたって、『ティンダロスの猟犬』を発動されたって勝つ自信はある。ただし、彼は三年生。入学者の内八割が卒業前に死亡するという極限のコロシアム、夢咲学院で三年間生き延びてきた猛者なのだ。勝負に絶対がないことくらい、わきまえている。
万が一に備えて、できることなら『ティンダロスの猟犬』は発動させない方がいい。偶然にも大吾郎というベストなターゲットがいるのだ。大吾郎に対して極大の敵愾心を、殺意を向けることで、空木は絶後に殺意を向けないようにしていた。
それでも、本来なら『ティンダロスの猟犬』は空木の殺意をちゃんと察知することができたはずなのだ。十年前、千人以上をなんの労力もなく殺害してみせた全盛期の暗がり峠絶後なら…………。
幸か不幸か、暗がり峠病棟のリハビリ、カウンセリング能力は本物だったのだ。十年前に比べ、『ティンダロスの猟犬』はその敵意サーチ能力が三割ほど弱体化していた。
それが命の分かれ目、戦いの分水嶺!
空木は今年二年生であり、春には三年生になる生徒会長のことを思い浮かべた。あいつに刃向う危険因子を露払いする、先輩として最後の大仕事。
(根性見せたらあ!)
彼の渾身のフルスイングは、しかし彼の身に起きたある異常によってストップされてしまったのだ。
「…………ぐっ、これは!」
空木はバットを捨ててその場にうずくまった。金属バットが床を滑る音で、ようやく絶後と大吾郎は空木の方を見た。未だに殺される間際だったことに気付いていないのか、大吾郎はうずくまる空木の様子を見て、心配そうに声をかける始末だ。
「大丈夫ですか?」
「い、いや…………」
空木の鼓動は、何故か運動もしていないし緊張もしていないのに早くなっていた。頭に血が上って、まともに思考が働かない。そしてとにかく、体が熱い。心臓の動きが、全身に伝わる。
「大丈夫ですかって、随分ノンキじゃない。キミ、殺されかけてたのよ?」
少女の声がした。それだけで空木は全てを理解したが、大吾郎たちは余計に困惑した。絶後が扉の方を見ると、そこにはひとりの少女が立っている。
絶後はその少女を見た瞬間、どこかで会ったことがあると感じた。黒い髪は肩を撫で、細い手足はしなやかで蔓を思わせる。コートを左手に持ち、息が切れいるところを見るに、走ってここまで来たらしい。セーラー服の赤いリボンが、彼女の呼吸に合わせて上下した。胸ポケットには小さなクマのぬいぐるみが顔を出しているが、これが一体なんなのかは分からない。
空木に殺されそうになったことなどまったく知らない絶後からすれば、この少女こそ目の前の空木に危害を加えた危険人物なのだが、とりあえず様子を見ようと思った。それくらいには、急いでここまで来たのが分かる息の切れ方をしていた。
こうしてなんとか、色葉二歩と綿貫ボタンは、絶後が殺される前に邂逅を果たすに至ったのである。色葉は何となく、嫌な予感がして走って来ただけなのだが、いやはや、女の勘は鋭い物である。
「色葉、てめえの仕業か!」
目をひん剥いて、空木は色葉を睨みつける。しかしまだ立てないらしくそのままうずくまっている上に、セリフに覇気がない。まるで本気で言っていないみたいだ。この覇気では、冗談半分にもならない。空木の言葉は、弱々しかった。
色葉は空木の言葉に、にっこりとほほ笑んだ。ただ、空木に向かってほほ笑んだのではない。絶後に向かってほほ笑んだのだ。瞬間、絶後は魔術に掛かっていたのだ。
「……………………え?」
絶後の心が高揚した。暗く沈んだ、十年の入院生活で鉛のごとく重く冷たくなった彼の心にすら、彼女の笑みは春を呼んだのだ。
「ま、まさか絶後くん…………!」
親友の様子を見て、大吾郎も察する。慌てて絶後の肩を揺すって、大声で叫んだ。
「今会ったばかりの人に惚れた? 一目惚れ? あの絶後くんが!」
「ち、違うって…………」
心は軽く、表情は僅かにとろけながらも、さすがに絶後はそこまで甘くなかった。すぐにこれが、目の前にいる少女の能力だと気付いたのだ。空木の様子と合わせて考えれば、自分だけに起きた心の変化でないことは理解できるはずだ。
こっそりと、大吾郎に耳打ちした。
「きっとあいつの能力だ。恋心を起こさせるとか、たぶんそんな感じの。よく見てみろ」
絶後は空木の学生服を指さし、次に色葉のセーラー服を示した。
「あいつらの制服に刺繍されているマークは同じだ。あれ、校章っていうんだよな? 空木とかいうやつもあの子のこと知ってるみたいだし、二人とも夢咲学院の生徒で間違いない。どうしてか対立してるみたいだけどな」
彼の推測は当たっていた。空木と色葉の所属は言わずもがな、彼女の超能力についてもだ。
超能力ばかり説明してもどうしようもないが、こればかりは説明が必要だろう。色葉二歩の超能力は『フルカラー』。簡単に言えば、性欲を操作する能力である。彼女はこの能力を使い空木の性欲を急激に上昇させ、異常を引き起こしたのだ。それは空木にとってあまりに不意打ちのため、彼は動きを一時的に封じられたのだ。
色葉はこの能力を、基本的に色仕掛けやハニートラップに応用する。自身の言動に合わせて相手の性欲を自在に操作することによって、彼女の色仕掛けは男女問わず成功率が九割強という驚異の精度を誇っている。
絶後保護に彼女が派遣された理由も、このところによる。先手を打って絶無を色葉に惚れさせてしまえば、取りあえず絶後が色葉を敵視するという危険はなくなるのだから。
その思惑は、ほぼ成功である。絶後は彼女の能力を見抜きながらも、一目惚れに近い状態に陥ってしまっている。
「とりあえず仕切り直しでいい? 空木副会長も気が済んだでしょ?」
色葉の言葉に、抵抗は不可能だと悟った空木は、病室の隅にどっかりと腰を下ろしてしまった。空木の能力『エンドデッド』は攻撃性が皆無のため、どうしたって色葉の『フルカラー』に打ち勝てない。空木はただ、死なないだけが取り柄の男なのだ。
「あ、あの…………これは」
混乱を隠せない大吾郎に、色葉は優しく声をかけた。まるで姉のように、それは慈愛に満ちた声だった。
「大丈夫。怖がらせてごめんね。わたしは色葉二歩。夢咲学院の風紀委員よ。ちょっと、暗がりくんの話があるの」
「僕に…………?」
まさか殺されかけていたとは微塵も思わない絶後は、来客の多い日だと思うに留まっていた。一方の色葉は余裕の様子だが、これでも内心震えている。一歩間違えれば自分の命が吹き飛ぶ、そんな能力者と正面から話さなければならないのだから。
それに彼女は、『ティンダロスの猟犬』のおぞましい姿を、空木と違って目撃しているのだから。あの汚らしい生物の舌が、自分を貫かない保証などどこにもない。そう思うと、声が震えそうになった。
「まず隠してても仕方ないから、空木副会長には悪いけど、さっそく言わせてもらうわ。空木副会長はね、暗がりくんを殺しに来たの」
「ええっ!」
驚いたのは大吾郎である。空木は気まずそうに、そっぽを向くだけだった。言い訳のしようもないと悟ったのかもしれない。
「なんで、僕を殺す気で?」
絶後も動揺こそしたが、未だに空木に対する敵意を抱かない。不断の努力が実って彼の心は無の境地に…………と言えれば良かったのだが、どうも先ほどから、色葉のことが頭から離れないらしい。色葉のことをちらりと見ては視線を落とし、ため息をついていた。彼としては『ティンダロスの猟犬』の発動が阻止されているのだから、結果オーライなのだけども、やはりこう、釈然としないのだ。
絶後の質問に、空木は答えない。代わって答えたのは色葉だ。
「学院の平和を守るため、だよね。空木副会長も悪気があったわけじゃないの」
実際は、それだけで人を殺せるはずもない。説明を確実にするのならばコロシアムと化した夢咲学院についても説明するべきだが、夢咲学院の現状は理事長の能力『蓋』によって外部に漏れることがない。
だから結局…………。
「まあ、もっと複雑でドロドロした問題もあるけど、そういう細かいことはキミが入学したら話してあげる」
と、色葉はそう言うしかなかった。
「事情は分かりましたが……僕は死にたくないですよ」
取りあえずの事情を聞いた絶後は、色葉に困った顔を向けた。
「でも空木先輩は、僕を殺さないといけないんですか?」
「そうだ。それが仕事だからな」
「じゃあ、僕が入学しなければいいでしょう」
絶後の言葉を聞いて、その場にいた三人は驚いた。大吾郎は単純な驚きのみを示したが、後の二人は違う。空木は「あれ?」と言いたげな、色葉は「しまった」という表情をしていた。
「駄目だよ暗がりくん。あなたの才能は、絶対に夢咲学院で必要なんだから!」
慌ててフォローに入る色葉だが、色仕掛けを多くこなしてきた彼女はさすがに頭の回転が速く、ここでひとつ思いついた。それは絶後の入学はさて置くとしても、空木と絶後をぶつけるための作戦だった。
このままでは絶後と空木が戦わずに終わってしまう。入学を諦めてくれるのは結果的に色葉たちの安全にも繋がるから嬉しいくらいだが、空木と戦わないのは駄目なのだ。
空木は殺してしまいたい。それが色葉の心中だ。空木は三月現在で三年生のため、放っておいても良い存在だと普通は思うかもしれない。ただ、生徒会には超能力を奪って自分の物にするという驚異の超能力者がいて、それこそ現生徒会長なのだ。現生徒会長の男は今までにない過激派で、一向に従わない風紀委員会を潰そうと企んでいる。そのため、その生徒会長は今年で卒業してしまう生徒会役員の能力を奪おうと考えているのだ!
空木は当然知る由もない。ただ、その可能性に気付いた風紀委員会は、特に脅威である空木の『エンドデッド』だけでも生徒会長が手に入れる前に消し去りたいのだ。しかし風紀委員会は空木打倒に失敗。茨委員長をはじめとするあのコンボは、空木に通用する可能性のあった最後の技であり、もう風紀委員会に空木を殺せる超能力者などいない。風紀委員会は危険を承知で、絶後に頼るほか道が無かった。
本来なら彼が入学したところで、色葉を使い風紀委員会に懐柔、『ティンダロスの猟犬』で『エンドデッド』を得た会長を殺害するつもりだった。それが運よく、こうして空木と絶後が対決しそうになっている。これを逃す手は無いと、瞬時に色葉は作戦を組み立てた次第だった。
今さっき思いついたなどと思わせないように、上手く先ほどの台詞に被せて色葉は続けた。
「それに空木副会長がこのままだと、気持ちよく卒業できないの。もしこのまま何事もなく、キミと空木副会長が戦うことなく学院に帰って、生徒会長にありのままを報告したら…………。会長は空木副会長の言葉を信じてくれるのかな? きっと空木副会長を、死ぬのが怖くて暗がりくんから逃げ出した臆病者だとおもうんじゃないかな。それはあんまりだよ!」
あんまりなのは色葉の言い草だが、そう言われてしまっては戦わざるを得ないのが空木だ。第一、彼は最初から戦うつもりなのだから。それに、もしここで絶後に「入学しません」と言わせても意味がない。所詮口約束。既に絶後の手には、入学許可書が握られている。
仕事は確実にする。それが俺だ。まんまと色葉の言葉に載せられているとも知らない空木は、再び絶後に対する戦意を燃やした。
「それもそうだな。暗がり峠絶後。さっきは不意打ちをして悪かった。次は正々堂々と戦おう」
「ええ………………は?」
ついうっかり頷いてしまった絶後だが、すぐに我に返って空木の言葉を反芻する。
「不意打ち? それってなんのことですか! それに戦うって…………」
対する空木は既にやる気満々で、絶後の話など聞く様子もない。
「俺はお前の能力『ティンダロスの猟犬』のことを既に知っている。一方でお前は俺の能力など知らないだろうな。突然戦いを申し込んでおきながら、こんな一方的な状況はフェアじゃない。俺の能力を教えておこう。俺の超能力は『エンドデッド』。どんな手段を用いても死ぬことがない、不死身の能力だ」
「あーあー、聞こえない」
聞こえないふりをしてこの場を逃れようとする絶後だが、効果は無い。
「よし、巻き添えが出るのは避けたいし、決戦は真夜中の十二時としよう! お互い、一対一の勝負を楽しもうじゃないか」
それだけ言い残し、快活な笑い声と共に空木は消えた。まるでスポーツマンだが、彼は人殺しである。既に無関係の看護師をひとり殺している時点で正々堂々もフェアも巻き添えを避けるもあったものではないが、空木自身にそんな自覚は無い。この自己中心的な性格は、何があっても死なないという彼の能力に起因するもので、どうしようもない。
人の立場に立てないのだ、彼は。死からもっとも切り離された存在である彼は、周囲を顧みるということをしない。
「…………想像以上に単純ね」
あまりの短絡さに、色葉も呆れてしまっていた。
病室に取り残されたのは、絶後と大吾郎、そして色葉の三人だけ。あとは、空木が殺害した看護師の死体が廊下に転がっているだけだ。
死体の血はあらかた出尽くしたのか、廊下を真っ赤にしている。空木が血溜まりを踏んだようで、足跡が点々と残っている。
夜中の十二時まで暇となった暗がり峠絶後は、色葉の指示に従い荷造りを始めていた。どうやら戦闘が終了したらすぐにでも学院に向かうらしく、色葉はやたら絶後を急がせる。
夢咲学院は全寮制の高校で、太平洋に浮かんでいる小島に建設されている。移動は主に、船。瞬間移動を使える超能力者も常駐しており、緊急時はこれで生徒や教員を移動させる。夢咲学院は暗がり峠病棟から直線距離でも三百キロ離れているが、空木や色葉が病棟にすぐ到着したのも、この緊急手段を使用したためだ。
「綿貫、委員長に連絡を。真夜中十二時になったら、泳を病棟に送るように言って」
ぼそりと、色葉は胸ポケットに収められたぬいぐるみに言う。これこそ、現在の綿貫の姿なのだ。綿貫はあらかじめ設定したぬいぐるみに精神を送り込む『スイッチ』の使い手であり、色葉が万が一死んだ場合も状況を把握できるよう、こっそりと付き従っている。絶後に綿貫を紹介しないのも、綿貫に敵意を抱いて殺されないためだ。
「りょうかい」
クマのぬいぐるみは敬礼したのち、力が抜けて動かなくなった。風紀委員会の詰所にある、ウサギのぬいぐるみに精神を転送したのだ。
彼女が指名した泳という人物は、説明不要だろう。単純に、大人数を一気に移動させる能力を持つ生徒だと理解してくれればいい。
今、病室にいるのは絶後と色葉の二人だけだった。色葉はベッドに腰掛け、ずっと絶後の様子を見ている。絶後は黙々と持ち物を整理している。大吾郎は絶後の指示によって、段ボールを取りに別の病棟に向かっている。
色葉は暇を持て余して、開け放たれた扉から廊下を見た。既に、死んだ看護師の死体は処理されている。血も全て拭き取られ、何事もなかったかのように廊下の白い床は澄ましている。
色葉二歩は絶後のことを、孤独この上ない少年だと思っていた。それは偏見でも何でもなく、彼女自身が、八年前に出会った彼からそう感じたのだ。
自分と同じだと、感じたのだ。
彼女の両親は超能力差別主義者だった。別に、今のご時世でも珍しくない。徳の高い人格者だと目されている人物でさえ、「超能力者は差別、撤廃すべき存在だ」と涼しい顔をして言うのだ。昔は特に、超能力者に人権などなくて当たり前だった。
十年前、日本で初めて、超能力者を保護する法律ができた。超能力犯罪特別措置法。その第一条曰く、『超能力に起因する違法行為は、その超能力が能力者本人にとって操作可能か否かを判断した上で、操作可能だと判断された場合のみ処罰を適応する』。
あまり難しいことは色葉の記憶に残っていないが、大混乱だったらしいのは覚えている。国会は大荒れとなり、与党と野党は取っ組み合いの乱闘を演じた。連日デモ隊が道路に出て、この法律に反対した。
当時七歳で、既に超能力者だった彼女は怖かった。一歩も外を歩けなかった。超能力者に対する反発は最高潮に達し、超能力者と見れば見境なく攻撃するような状態だった。学校にも通えず、ひたすら彼女は家の中に引きこもっていた。
超能力差別主義者である色葉の両親は、当然のごとくデモに参加していた。のみならず、この十年前の騒動に始まったことではないが、彼女は両親から暴行を受けていた。
「超能力者は人じゃない。娘じゃない」などと言われて。
そんな中起きたのが、少年Kによる無差別大量殺人。暗がり峠絶後による、『ティンダロスの猟犬』だったのだ。
果たして彼は知っているのだろうか。彼の無差別殺人が、色葉二歩に、虐げられていた多くの超能力者に、勇気を与えたという隠された事実を。超能力者の怒りそのものを、絶後は体現していた。
陰では彼は、英雄だったのだ。
そして色葉にとっては英雄というばかりでなく、命の恩人だということを。
八年前、彼女は超能力差別団体によって捕えられ、殺されそうになっていた。なんと、彼女を差し出したのは他でもない両親だった。彼女は両親に殺されそうになるたび、自分の能力で何とかしてきたが、それが逆に災いした。ふたりでは殺せないと悟った彼女の両親が、団体ぐるみで色葉の殺害に及んだ。
両手両足を縛られ、身動きがとれない。『フルカラー』では一時的な足止めが精いっぱいで、なす術はなかった。自分はここで死ぬのだと、諦めて目を閉じていた。
せめてあの『少年K』が助けてくれたらと、一抹の、どうしようもない願いだけを心の片隅に置いて。
結果は推して知るべし。今こうして、色葉は生きている。暗がり峠絶後の能力『ティンダロスの猟犬』が発動したのは言うまでもない。
彼の能力は、発動してもそれと知る手段がない。絶後は一生、色葉が言わない限りは自身の行った三一名の殺害を知ることは無い。
両親から虐げられ、挙句殺されかけた少女は、八年前に絶後少年と邂逅を果たしていた。お礼を言うために、勇気を出して地獄の底と目された特Aランク患者用の病棟に、ひとりで入った。
その時、色葉の目に映った少年は、確かに孤独だったはずだ。
今は少しだけ違う、ようなのだけれども。
絶後が孤独を無視しているだけなのか、大吾郎の存在が大きいのか、それは分からない。
「キミは……自分のことをどう思ってる?」
不意に色葉の口をついて出たのは、こんな質問だった。
「どうって、どういうことですか?」
もともと荷物の少ないらしい絶後は、既に荷造りを終えて段ボール箱を待つだけとなっていた。色葉に向き直って彼女の言葉の真意を探ろうとする。
「そのままの意味。孤独だと思うとか、罪な奴だと思うとか、あるでしょ?」
「まあ、そうですね、確かに孤独な奴だとは思いますけど…………」
意外に彼は、軽い口調でそう言ってみせた。超能力者の多くが抱える悩みを、彼は軽く受け止めていたようだ。
「じゃあ、自分が英雄だと思ったことはある?」
冗談めかして色葉は言ったが、実はこれが本命の質問だった。怪訝そうな様子を見せる絶後だったが、一呼吸を終えるとはっきりと答えた。
「そんなまさか。僕は殺人鬼でこそあれ、英雄じゃないですよ」
能力の発動に無自覚であるという彼の弱点は、同時に、彼の鈍感さを表していると言っても良かった。
シャッターは次々と下りていく。中庭の四隅にあったライトが煌めく。空木は金属バットを手に、絶後は手ぶらで互いに構えている。
「どう? どう? どっちが勝つかな?」
役目を半ば放棄したような形で、綿貫が色葉の肩に這い出していた。喜色満面といった面持ちで、ふたりの少年を見ている。
「さあ? わたしはどっちでもいいけど。ま、できれば暗がりくんに勝ってほしいかな」
彼女はそう言ったが、立場上、いや、個人的にも絶後に勝ってほしいに決まっていた。そして彼女は、絶後が勝つことを絶対的に信頼しながらも、首筋に伝うさらりとした汗を看過することができなかった。
暗がり峠絶後に対するは空木静止。死なない能力『エンドデッド』の持ち主。『ティンダロスの猟犬』が問答無用の能力だと言っても、そもそも死なない相手に効くのか。ここが今回の戦いの鍵となる。
茨委員長には自信満々に「殺せる」と答えた彼女だが、いざこうして戦いが始まろうとすると緊張する。超能力者の戦いに絶対はない。絶後が敗北し死亡する可能性が、十分にあった。
よたよたと、段ボール箱を抱えながら大吾郎が色葉の元まで歩いてくる。彼も絶後の様子を心配そうに見つめながら、必要な報告を色葉に済ませる。
「色葉先輩、シャッター、下ろしてもらいました。あと、絶後くんの荷物もここに」
「ありがとう」
そう、シャッターはこの戦いのための準備だ。この病棟では万が一に備えて被害が拡大しないよう、シャッターで病棟自体を隔離する仕組みがある。今回はそれを逆に利用し、中庭の被害を病棟内に持ち込まないようにしたのだ。
「さあ、準備は整った! 始めようか」
空木の声が、空っぽの空に響く。ついに始まるのかと中庭にいる全員が身を固めた。冷静で余裕な態度を演じている色葉とて、それは例外ではなった。
死ぬか生きるか、暗がり峠絶後、入学前の大勝負。
開始!
「生徒会副委員長、空木静止! 推して参る!」
「御託はいいから早く来てください」
カッコよく名乗りを上げた空木は、動かなかった。代わりに暗闇から飛び出したのは、二人の、見知らぬ男女だった。
「はあ?」
これには絶後も素っ頓狂な声を上げる。中庭の四隅に設置されたライトは、中庭のすべてを照らせるわけではない。現に、今色葉と大吾郎がいる場所も、大分暗い。だから暗闇に乗じていきなり人が現れたという現象自体には納得がいった。
納得がいかないのは、二人が現れたことだ。
「一対一じゃなかったんですか?」
絶後が空木に尋ねる。飛び出してきた男女の内、男は絶後と空木の間に、女は絶後の背後に回る。男は優に二メートルはあろうかという巨体で、横にも縦にも広い。女は逆に、大吾郎よりも小柄で、風が吹けば飛んでいきそうだった。男の学生服は空木と、女のセーラー服は色葉と同デザインであり、夢咲学院の生徒なのは間違いない。
「俺の仕事はお前を殺すことだ。確実にな。必要に応じて戦術を変えるのがプロの仕事だろ?」
「とことん自分勝手だな! じゃあ、飛び入り参加の二人もグルですね?」
「その通り」
「それを聞いて安心しました!」
色葉が見る限り、状況は危険だった。一対一ならばまだしも、三対一で囲まれてはマズイ。色葉が加勢しようとジャングルジムに預けていた体を起こすと、大吾郎が軽く手を挙げて色葉を止めた。
「大丈夫です。このくらいなら絶後くんにとっては誤差ですから」
やけに自信満々だ。色葉はそして、この大吾郎の態度こそ、自分が茨委員長に対してとった態度と同種だと気付いた。
無条件の信頼。英雄に対して、少年Kに対して、『ティンダロスの猟犬』に対して。
何より、暗がり峠絶後に対して。
「さっさと死ね!」
ついに絶後は、三人に対して明確な敵意を持った。瞬間、地面から三匹のおぞましい生物が飛び出してきた。『ティンダロスの猟犬』がついにその姿を露わにし、攻撃に移る。
「まずはあたしかな!」
背後にいた女が声を上げる。彼女の手には、いつの間にか辞書らしい分厚い本が握られている。彼女のセーラー服にそんなものを隠す場所などないのだから、ちょっと絶後は驚いた。
「あたしの能力は『ナポレオン』。もうそこの色ボケ女は知ってると思うけど、あたしは今、あんたの知識すべてを凝縮してこの辞書を作ったの。本来は他人の記憶や知識を覗く調査能力だけど、こういう使い方もあるのよね」
彼女は辞書の一ページを、破ったのだ。頭に起きた変化に、絶後は狼狽えた。
「これはあんたの知識そのものだから、こうして破ればあんたの知識を奪えるの。どう? 今破ったのは『死』についてのあんたの知識よ。あたしは色ボケ女と違って立派に生徒会のブレインだから、調査能力だって戦闘に使うわ」
どうやら色ボケ女こと色葉に対しライバル心を抱いているらしい彼女だが、当然色葉は『ナポレオン』のそう言った使い方くらい予測している。それに、色葉の『フルカラー』だって空木を止めたような使い方で、戦闘に役立てることができるのだ。正直、どう贔屓目に見ても色葉の方が超能力者としては上だった。それはどうやら絶後も感じたようで、冷たい目を後ろの女に向けていた。
「『死』の知識を失ったあなたに、のうりょ――」
彼女の言葉は、魔獣の突進によって粉砕された。粉々に砕け散ったのは言葉ばかりではなく、彼女の小さな肢体もだ。青く生臭い液体に全身を染めながら、バラバラに崩れ去った。
「あ、思い出した。確かに厄介な能力だな。まあ、永続性がないだけマシか。それに、『死』の知識がなくたって、別に不自由もしない。『生かさない』とか、いくらでも言い換えができるもんな…………」
絶後は余裕で、『ナポレオン』に対する評価を淡々と述べていた。ちなみに彼は当然、今の『ナポレオン』で『ティンダロスの猟犬』を防ぐ手段を思いついたが、それを言ったところでどうしようもなかった。
「次はわしのようだな」
巨漢がどっしりと構えて、絶後を睨みつける。既に仕事を終えた魔獣は、絶後の影の中へと戻ってしまっている。残るは二匹。確実に、死を届ける。
「わしの能力は『ぬり壁』! わしが足を止めている限り、いかなる攻撃も受け付けず、わしは立ち続ける!」
その言葉が終わると、巨漢は絶命していた。一瞬で下半身を失い、しばらく宙を浮いていた上半身は、傷口を地面につけてバランスよく着地した。どくどくと溢れる血液は、青い液体と混ざり合って紫になっている。
「だから、僕の能力にはいかなる防御も無効なんだって。なんで分からないかな。実験的に下半身に攻撃してみたけど、ふうん、立ち続けるって部分も含めて『ぬり壁』だったんだな」
残念ながら、『ぬり壁』で絶後の能力を防御する術は無い。巨漢はどうも、『立ち続ける』という『ぬり壁』の効果を見込んで、『ティンダロスの猟犬』を防ごうとしたらしい。
「弁慶の立往生みたいに、立ちながらに死ぬことだってできるんだ。『立ち続ける』イコール『殺されない』とは、酷い拡大解釈だ」
完全に、相性が悪かった。
そして残るは、とどのつまり空木静止ただひとり!
「フッ。想像通り強いなお前は。ただし、俺の想像を超えるほどではなかったか」
余裕綽々の様子で、空木は金属バットを構えている。どうも彼は、あのふたりを最初から殺す気で戦いに挑んでいたらしい。
「冥土の土産にひとつ、おもしろい話をしてやろう。色葉に、そこの小僧もよく聞いておけ。既に我ら生徒会の最終兵器、『子煩悩』がこの病棟にいる。暗がり峠を殺し次第、『子煩悩』がお前たちを殺すのだ。焦らず俺の話を聞くがいいさ」
「…………『子煩悩』!」
絶後の戦闘を見て余裕を取り戻していた色葉だったが、再び焦りを表出させた。それは色葉に限らず、肩に乗っかっていた綿貫も同じだ。
「ど、どうしよう! まずいよー」
大吾郎は二人の態度から、『子煩悩』がよっぽどの敵だと判断した。絶後はしかし、気にする素振りも見せず、空木に話の続きを要求していた。
「御託はいいって言いませんでしたか? 気の済むまで喋ったら、さっさと来てくださいよ。僕の能力はそこまでお人好しじゃないですからね」
「焦るなよ。これはお前の生死に関わる問題なんだからな。たとえ話をしようじゃないか。『火を発生させる能力』と『火を鎮める能力』のふたつがあるとしよう。このふたつがぶつかったら、すなわち、『火を発生させる能力』で火を起こそうとし、それを『火を鎮める能力』で抑えた場合、どうなると思う?」
「…………矛盾の問題ですか? 相反するふたつの超能力がぶつかった時、どうなるかという話でしょう?」
絶後は思い出す。最近では超能力の研究が進み、そのような場合における結果も統計的に出ていたはずだ。
彼が思いだすより先に、空木は答えを言った。
「そうだな。お前は察しが良い。その答えは学術的に出ていてな、この場合、何も起きないのが正解らしい。つまり、今の思考実験の場合は、火が起きないということだ」
これには複雑な問題が絡んでいるし、まずもって能力は詳細を突き詰めていけば矛盾するものなどないと言えるかもしれないのだ。だが、あえて説明するなら、何かを起こすよりも、何も起こさない方が大変、と言うべきか。
「この実験は、今の俺たちにも当てはまる。俺の『エンドデッド』は死なない能力。対するお前の『ティンダロスの猟犬』は相手を殺す能力。さあ、どちらが優勢か分かったか」
「最初から知ってるよそんなもん」
絶後が、たとえまだ入学していないにしても高校の先輩である空木に暴言を吐いた瞬間、空木静止の人生は終わっていた。魔獣の鋭い舌が空木の心臓を刺し貫き、即死だった。
「ラスト、と!」
絶後の影からもう一体、魔獣が飛び出す。色葉はそれを見て、安堵のため息を漏らした。おそらくあの魔獣は、『子煩悩』を殺しに行ったのだ。
なぜ、『ティンダロスの猟犬』は『エンドデッド』に打ち勝ったのか。これは単に、空木の勘違いだ。
『エンドデッド』と『ティンダロスの猟犬』は矛盾しない超能力だった、それだけだ。
『ティンダロスの猟犬』の能力は、あらゆる概念を超越し、暗がり峠絶後に敵意を抱いた者、暗がり峠絶後が敵意を抱いたものを殺害する。物理的防御も精神的障壁も無効。死という概念が失われようとも貪欲に死を押し付け、『死なない』という子供じみた言い訳は通用しない。
そう。最初からこの能力には、『死なない』という能力すら無効化する性能があった。
「さてと、終わりましたよ色葉先輩」
呑気に地べたに寝転がりながら、自覚無き英雄は、静かに言った。
「何か成り行きで入学することになりそうですが、まあよろしくお願いしますよ。なんだかんだ言って、結構楽しみなんですから」
毒々しいまでの青が、夜空を駆け抜ける。