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ユナイテッドワンダー

 あたしが生まれてくる前に、あたしの母はこの世にいなかった


      ディアナ=トレイシー手記『デストレイル』



 ディアナは義手で我が子の頭を撫でた。銀製で魔法で動くそれは金属の冷たさと彼女の心のしかし光沢のある優しさを同時に表現するのに適切だった。無機質な感触から双方向に暖かみが伝わる。

「お兄ちゃん、元気にしてるかな」

 レイが言った。

「きっとそうだよ」

 テイルが答える。

「ルクスも来れればよかったのに」

「そういうわけでもないから。お母さん達はお母さん達」

「……」

 そう言ってから三人は死産した最初の息子、サクリファイスに祈りを捧げた。


 足を踏み出すと地面と金属が触れ合う音がする。義手と同様に銀で出来た右足は魔法で自由に動かすことが出来た。しかしそれはディアナの魔力ではなく、ユナイテッドの力で動いているのだった。郊外の丘にある墓地から、冬の真昼の太陽を受けながら帰宅する。結局ジェネとルージュの所には全然行ってない事に気づいた。

 ディアナはゆっくりと自分で歩けるペースで進んだ。レイとテイルは既に街路に入っていて、彼女だけが道のない坂を進んでいる。やはり義足ではバランスを取るのが大変だ。ふとした拍子に転びそうになり、それから慌てて左手を前に突き出す。かつて自分で壊した手。今はもう、冷たさしかない。そのまま体勢を崩し、地面にぶつかる。思わず息が漏れる。二人は心配そうに彼女を見つめていたが、すぐに立ち上がるのを確認するとまたさっさと歩き始めた。その心遣いがディアナには嬉しかった。


 家まで帰り着くとしばらく団欒し、それから月でも見てきなさいと言ってレイを遊びに出した。

「テイル、しばらく立つわ」

「何がだい?」

「ルクスをユナイテッドの所に出してから。彼女大丈夫かしら」

「どっちがだい。ただ、どっちも大丈夫だと思うけど」

「寂しくないかしら。ルクスはああ見えて」

「自分から行きたいと言って出て行ったんだ。ルクスは……ああ、でも」

 思い当たるのはルクスが持って出ていった、ディアナが右足と左手と引き替えに再び見いだした、全くさび付いていない彼の剣。グレートブランクを経て尚失われなかった永久の輝き。今のディアナの右手にあるのとは対を成す、最も清い力。

「さあ、いない間にテイルズワンダーを書かないと」

 気持ちを切り替えるためにそう声に出すと彼女は階段を上り書斎に向かった。段差の高さは以前の半分に減っていた。


 しばらく自伝を書き続け、日が落ちて手元の明かりじゃ心許なくなるとそれをやめてまた階下に戻る。テイルは赤い表紙の本を読んでいた。ディアナは片手で薪をくべると今晩の料理を作り始めた。とはいえ燻製にした肉とあらかじめ生地を分けて貰ったトルティーヤを焼くだけだからそこまで難しいものではない。月を見ておいでと言われたレイは結局夕食が完全に冷めるまで帰ってこなかった。



 雪解け水で小川がやや増水していた。春のきらびやかな太陽が二人を照らす。あるのは少ない草花のある広場。手前には噴水があり、そこに右手の小川が流れ込んでいる。ここはルーン=フィン=エルファース記念公園。彼女の母が炎を燃やした場所。ルクスは空色の瞳で辺りをじっと見渡した。静かな場所だった。どんな騒音も、空気の音も、風も、鳥のさえずりも、周囲を覆う林の葉ずれも何も響き渡ってこない。ここにある静寂はルクスの心をかえって動かした。

「ユナイテッドさん」彼女は横を振り向いた。ユナイテッド=コーデリアはクリームの杖を両手で横向きに握って前を見ていた。大樹のあったところを。

「ここで母さんが……」

「そうだね。ディアナはここに火を付けた。どう思う?」

 ルクスは息を止めた。じっとユナイテッドと見つめ合う。瞬間、伸びてくる銀の手。まるで百年も生きたかのような気配を感じる、そんな手。

「いいことをしたと思う。こんなに静かなんだから。わたしはルーンさんのことなんて何も知らないけど」

「きっと、彼女も望んでる、そう思うの?」

 ルクスは頷いた。

「そうかも知れない」

 風が二人の間を流れていった。

「でも、わたしを待っているのはもっと別なものなの」

 ルクスはユナイテッドの顔を見上げながら、しかしはっきりと言った。

「何か、もっと……」

「早く見つけてあげてね」

 彼女はそう言うと一歩前に足を踏み出した。また風が、今度は強く流れた。


 ルーテクス大学の記念公園からすこし北に向かうと湿地が広がっていた。いつから出来たのかは分からないがしかしこんな土地に記念公園を作るはずが無く、またあったという資料も残っていないのでグレートブランクの間に出来たものだと云われている。歩きにくいぬかるみ、しかし様々な野生動物や植物が生息するその場所を散策し、さらに北に抜けると小さな小屋に出た。レーラ山の入り口だ。もう既に日は落ちかけている。二人はここで一晩過ごすことにした。

「誰もいないみたいね」

「備えがないけど大丈夫なの?」

 ルクスは椅子に座って、窓の外に顔を向けて話した。

「本当は駄目。でも」

 ユナイテッドはその先を言えなかった。母が死に塗れているから大したことではないとなど言えるわけがない。

「一応ここにいるとは言ってあるから。コースからは外れないようにね。それからもう夜だけど、私に黙ってこんな時間に散歩に出かけないように」

 ルクスは向き直って頷いた。別の頂上まで行くわけではない、少しだけ登ってみるだけだと自分に言い聞かせた。

「さてと、晩ご飯はどうしよう」

「そう言えば何も持ってきてないね。この季節なら……適当に見つけてくるから少し待って」


 本当に適当な夕食で強引に腹を満たすと二人はすぐに明かりを消して寝入った。どうやら雨が降っているようだった。明日の登山は中止にした方がいいかもしれない。ユナイテッドはテーブルに突っ伏しながらそんなことを考えた。ルクスはすぐに寝息を立てて、どうやら熟睡しているようだった。

「もうちょっと準備してくるべきだったな。失敗だ」

 半分眠りながら混濁した意識でそんなことを呟き、彼女も眠った。


 ああ、ディアナがいる。彼女は思った。今の彼女とは違い、左手と右足がちゃんと生えている。ディアナは月に向かっていた。その後ろ姿をユナイテッドは見つめる。風がそよいだ。ふと、ユナイテッドはそんなディアナを見守ることしかできない自分に気づいた。そして、月に立ち向かうディアナより、そんな彼女を見守る自分の方が遙かな重みを背負っているという事実に。何か、違和感を覚えた。彼女は目を覚ました。

「まさか先客がいるとはな。雨宿りかい?」

 三人の男性のうちの一人がユナイテッドに話しかけた。

「俺たちはケインと、向かって右がジー、左がピーター。昨夜の雨の所為で登るかどうか考えてるところだ」

「俺は登る方に賛成だけどな。登山道を外れなければ危険はないだろ」ジーが言った。

「君たちはなんでこんな所にいるんだい?」ピーターが訊ねた。

「あの子がハイキングに行きたがったから。中腹までなら安全だと思った」

「気づいてるだろうけど昨夜の雨は結構土砂降りだった。場合によっては山崩れが起きてるかも知れない。女子どもはやめた方がいい」

 ユナイテッドは数回瞬きをした。

「でも、どうするかは私じゃなくてルクスが決める。どんな危険でも立ち向かわないといけないかも知れないから」

 しばらく、沈黙が流れた。

「なんなら一緒に行こうか?」ピーターが言った。

「あ、俺も賛成」とケイン。

 ユナイテッドはまだ眠っているルクスを起こし、三人に自己紹介をした。三人は偶然であったのがユナイテッド=コーデリアだと知って驚きを隠せない様子だった。


 三人から食事を分けて貰い、全員は出発した。雨でぬかるんだ道を歩くのは大変だった。ルクスは途中までしか行かないつもりだったし、それに大人三人のペースに合わせて歩くのもまた大変だった。それに彼女は大きな剣を持って歩いていた。ルクスはバランスを崩して転びそうになった。

「大丈夫か?」

 ケインがすぐに反応し彼女の身体を抱き留めた。「うん」と答えると彼女はまた歩き始めた。「でも、もう少しゆっくり歩いて欲しいな。歩きにくい」ケインとジーは笑い、それからみんなは歩く速度を遅くした。


 日が少し斜めになる頃に中腹の山小屋に着いた。以前ここは沢山の木の生えた豊かな森だったがかのグレートブランクの際に疫病が持ち込まれ、木は枯れ、さらに地震で出来た窪地に水が貯まり、そのすぐ傍には大きな湖があった。五人は山小屋で一息ついた。ルクスはすぐに湖に出かけていった。というのもそれが山登りの目的だったからだ。斜陽が湖を映し、光が彼女を照らす。ルクスは持っている大剣をかざした。太陽の光がそれを反射する。それから彼女は座り込むと、湖に向けて石を投げ込んだ。

 ルクスは湖の周りをしばらく歩き回った。やがて月は昇り、今度は湖に白い輝きが映る。彼女は山小屋に戻った。たくさんの春の果実を携えて。みんなで夕食を取り、眠りについた。


 さらに上に登るという三人に別れを告げ、彼女たちは山を下った。それから湿地は通らず、西に向けて進路を取った。そこには海が広がっていた。正確に言えば滅んだ運河が。カトルラに作られた運河は洪水で氾濫、街そのものを飲み込んでしまったのだった。ルクスは剣を向けた。

「母さんはここでこの剣を見つけた。そう、あの剣。レヴァーディアを。自らの身体と引き替えに」

 ユナイテッドは何も言わなかった。

「でもよかったのかも知れない。何故ならこの剣は……」

 ユナイテッドは指輪を示した。

「本当の意味でグレートブランクを終わらせるのは指輪じゃなくて剣」

 それにしても見事なまでに滅んでいるな、とルクスは思った。



 ディアナはじっと滅んだ運河を見ていた。遠くに船が見える。そして、天気は少しずつ悪くなっていった。やがて小雨が降り始め、彼女の身体は徐々に濡れていく。それからふと気づく。自分がまだ見つけていないものがあると。そう、あの伝説の剣。レヴァーディア。それがここにはあるはず。見つけたい。ガラスの指輪。その呪縛から逃れるための、希望。彼女は自分が思うよりも早く飛び込んでいた。冷たい水が彼女を襲う。不具の左手が言うことを聞かない。目を開くと水の中に様々な家がある。不思議と、息をする必要は感じられなかった。苦しさも感じられない。彼女は不意に光に気づいた。そこには何かがあった。剣だった。彼女はそれを手にした。そこで彼女は意識を失った。


 ディアナが打ち上げられたのは遥か遠くのルーテクスの港だった。重体だった彼女を助けることが出来たのは禁忌の生命を操る術に力を染めたユナイテッドがいたからだった。



 ルクスとユナイテッドは、新しく再建したコーデリア本家に戻った。完全に崩壊していた家を元に戻すのは一苦労だったが、様々な人の協力を得て再建したのだ。ここには沢山の人が住んでいた。この家の門はあらゆる人に開かれていた。

「ただいま」

 最初に出会った執事に挨拶する。

「その子は誰?」

「ルクス=トレイシー。ディアナの長女」

「へぇ。じゃあ部屋に案内しますね」

 ルクスは頷き、黒衣の男について行った。


 ユナイテッドは自分の部屋に戻ると、左手にある指輪を見つめた。ディアナは身体と引き替えにレヴァーディアを手に入れた。もしも運命というものがあるのなら私も何かと引き替えに何かを得るような気がする。でもそれは一体何なのか。手に入れるとして、それは……。鏡の指輪に映ったユナイテッドの顔が笑った。

「ああそうか。私はこれでいいんだ」

 彼女は思った。ドアがノックされた。どうぞ、というとメイドが入ってきて料理の時間だと告げた。


 晩餐を終え、談話室で話始める。

「どう、ルクス。ここは楽しい?」

「色んな人がいて楽しい。リリーと友達になったの」

 十歳くらいの少女であるリリーは人形を片手に頷いた。

「リリーの持ってる人形もリリーって言うんだって」

「ねえリリー、何が食べたいの?」

 リリーはリリーに話しかけた。

「スープだって」ルクスが言った。

 しばらく子ども達にお人形遊びをさせた後、メイド三人と執事一人がルクスにコーデリア本家の中を案内させた。ルクスは新しく再建されたそこにある様々な美術品や本に興味を持った。

「この絵は何ですか」

 ルクスが止まったところには黒い空に藍色が塗られ、一人の女性の後ろ姿が描かれた絵があった。タイトルは書かれていなかった。

「この絵は……」メイドの一人は答えに窮した。

「見て分かりませんか」灰色の服をまとった執事が言った。ルクスはしばらくじっと絵を見つめ、そしてそれが全体で円を成すかのように奥行きと空とが象られてることに気づいた。

「わたし、わたしの事だ。わたしと、母さんとユナイテッドさんみんな」

 きっとわたしはこうやって黒い世界を照らして行くんだ、とルクスは思った。


「あ、ルクスちゃん!」

 リリーが話しかけてきた。

「リリーがね、もっとルクスちゃんのことを知りたいんだって」

「そう」素っ気なく返事をするとルクスはリリーの手を引いて絵の前から去った。近くにある小部屋に入り、話始める。

「リリーはね、拾われたんだ」

 最初、ルクスは捨てられていた人形を拾ったんだと思い、笑顔で見つめた。しかし真剣なリリーの表情を見ているうちに真意に気づいた。

「わたしの母さんもそうらしいよ。母さんには左手と右足がないの」

「リリーにはお父さんとお母さんがいないの。二つ無いなんて一緒だね」

「そうだね。それでわたしは母さんからユナイテッドさんの事を聞いて、もっと知りたいと思ったの。そうしたらユナイテッドさんの方がわたしのところに来てくれたの。湖を前にして二人で話し合った。そうして結局ユナイテッドさんと少しの間一緒に暮らしてみることにしたの」

「へえ。リリーはリリーの所に選ばれてやってきたの。リリーはどこで暮らすかなんて選べなかったのにね。でも、リリーは楽しいよ。一人じゃないから」

 わたしも、父さん母さんやユナイテッドさんといると楽しいなと思った。それから何かが思いとしてこみ上げる。ずっと遠くにいるけど、一緒にいる感じがする両親。それからすぐ傍にいるユナイテッドさん。そう言えばレイは元気かな。そうだ、手紙を書こう。彼女は思った。

 それからリリーとリリーとルクスは色んな遊びをして遊んだ。言葉を使った遊びに人形になりきる遊び、それにおままごと。そしてルクスはリリーにそろそろ眠くなってきたと伝えて自分の部屋に戻った。

「また遊ぼうね」


 ろうそくの明かりを頼りにレイに便りを書く。リリーと友達になったこと、ユナイテッドさんのこと、ここでの生活が楽しいと言うこと。それから疲れが出て文章も書けなくなったので彼女は眠りについた。


 次の日の朝食の時間には既にリリーが食堂にいた。彼女は人形を片手にパンをかじっていた。おはよう、と挨拶してから席に着き、自分の分のフレンチトーストを手に取る。食べている最中にどんどん人が入ってきて二十人近くの大所帯になった。最後に料理していたメイドも席に着き、大テーブルの周りには二十五人もの人が座った。一番最初に食べ終わったリリーは今度はリリーに食べさせ始めた。ルクスもおかわりを食べ終えると立ち上がり向かって反対側であるリリーの場所へ向かった。

「リリーは今日は何が食べたいの?」

「リリーはね、スパゲッティが食べたい」

「はい。スパゲッティだよ」

「ありがと、さ、リリー、どうぞ」

 しばらくそうやって遊んでから、やがて周りから人がいなくなりユナイテッドも「さ、別のところで遊んできなさい」と言って出て行った。二人は言われたとおりにしようと思い、また屋敷の中を見て回った。


 それには何かがあった。見ているだけで何かを感じさせる、そんな女性の像。何かが、そう、彼女には何かがある。ただ前を見ているだけ。ただここにいるだけ。それなのにもっと全然違う感じがする。彼女はプレートが下についていることに気づいた。ルーン=フィン=エルファース。そうなんだ、これは彼女なんだ。ふと隣を見るとリリーは泣いていた。

「ねえ、知ってる?」涙声でリリーは言った。

「ルーンにはお父さんもお母さんもいないんだって」

 ルクスは答えに窮した。

「リリーにいないのは別にいいの。だけど、ルーンにいないのにはどうしても我慢できないの」

 ルクスはゆっくりと彼女の方を見た。

「リリーにはいるの?」

「リリー? リリーにはお父さんもお母さんもいるよ。リリーは人形だけど」

 それでもやっぱりリリーの涙は止まらなかった。


「二人ともここにいたのね」ユナイテッドの声だ。

「リリー、どうしたの?」

 喋れないリリーに代わってルクスが事情を説明した。

「大丈夫だよ。ルーンは一人でも生きていけるだけの強い人だったから。リリーみたいにね」

「違うよ、リリーは! リリーは!」

 彼女は人形を壁に投げつけた。

 ルクスはリリーを拾ってから、走ってどこかに行ってしまった彼女を追った。


 何回角を曲がっただろう。何回自分の影を踏んだだろう。ともかく、小部屋に隠れているリリーに彼女はようやく追いついた。そっと隣に座り込む。それから泣きじゃくるリリーに人形を渡し、ゆっくりと話始める。

「わたしの母さんには左手と右足がないの」

「剣と引き替えに失っちゃったの」

「わたしの母さんはそれで後悔してないと思う」

「リリーの父さんと母さんはきっと、リリーがいらないから捨てちゃったんだよ。そんな人、リリーの父さんでも母さんでもない。ここにリリーがいる。リリーがリリーの本当の父さんと母さんなんだよ」

「慰めなんていらない」

「リリーは自分を捨てた人と一緒にいたいの?」そっと肩を抱き寄せた。

「それでも、本当の親だから」

「友達じゃ、足りないのかな。本当の友達」

「わからない」ゆっくりと息を吐くような答えだった。二人はしばらくそこでそうしていた。



 これ以上の犠牲は出さないと誓った。そう、もう沢山だ。何かを生け贄にして生きながらえることなど。声が聞こえる。聞こえなかった声。あなたの名前はサクリファイス。あたしが生きるために捧げられた最後の贄。殺すことでしか自分の生を確かめられないこの世界で最も愚かな母親が生んでしまった悲劇。

「出来るなら、自分の手で殺めたかった」

 彼女の右手には大きな剣があった。そう、洪水で水没したカトルラ運河で見つけた伝説の英雄の剣。自分で振るい下ろしたかった。そうすればあたしは満足できた。

「でも……」

 あたしが死に塗れてるからそれまでもが引き継がれてしまったのかも知れない。

「そんなことない」レイの声だ。

 何でだろう。普段なら不愉快になるだけなのに。彼女はゆっくりと手を広げレイとルクスを抱きしめた。


 天と地が逆転していた。どうやらベッドから落ちたらしい。ディアナは右手に力を籠めて何とか立ち上がると着替えをして、机に向かった。自分の物語を完成させなくてはいけない。まだ何か足りない要素があるがそれが何なのか見つけるためにも。


もう、自分を傷つけたり出来ないんだな。銀の手を見つめながらふと思う。所詮自分を傷つけることが出来ないなら生などただの狂気だ。この身体が動かなくなるのは何時の日なのか。そして。ただあたしは物語を書き続ける。死に至る物語を。


 日が暮れてきた。わざわざ明かりを点けることもないと思い立ち上がり下階に向かう。料理は既にテイルが用意してくれていた。レイを先に座らせ、食事が始まる。熱いスープを口で吹いて冷ましながらゆっくりとすする。パンを浸したスープだ。一通り平らげると彼女は大きく伸びをした。

「お母さん、久しぶりにルクスから手紙が来てる」

 へぇ、と言ってレイが差し出した手紙を左手で受け取る。開くと確かにルクスの文字が散らばっていた。

「え、ユナイテッドが?」

「こっちに来るのかい?」

「そうらしい。そう言えばルクスを向こうにやってからしばらくあってないな」

 それから手紙を最後まで読み、ある記述を発見する。セーン99日。グレートブランクにより陥った大混乱。暦の消失。しかしそこに書かれているのは紛れもない帰真歴。まさかユナイテッドはグレートブランクを埋めるつもりなのか。仮に帰真歴だとして、来るまでにはまだ時間があるのは明らかだった。彼女は右手の指輪を見つめた。やはりまた立ち上がるべきなのか。サクリファイスを産んでから15年。どこかで普通の生活を求めていたけどいよいよか。

「春が近くなったら来るってさ。まだ寒いけど準備して待ってましょう」


 久しぶりに表に出た。左手でロープを握り、そのひもの先には木製のそりが繋がっている。レイを乗せて買い出しに向かうのだ。晴れていることもあって、冬の弱い日差しの中を沢山の人が行き交っていた。食料品店の扉の前にそりを立てかけて中に入る。レイに食べたいものを聞きながら店内を巡りりんごや何かからミークス大陸で取れた麦や何かまでを一通り買いそろえて店を出る。それからその他の雑貨を買い、インテリアを作りたいというレイのために木材も手に入れると、降り始めた雪をその身に受けながら家に戻った。


 早速工作を始めたレイの指導をテイルに任せ、彼女は台所に向かった。買ってきた食材を整理して倉庫にしまう。それから一服しようと雪で冷やしてあったジュースを取り出してきてコップに三杯注いだ。飲むかと声をかけると二人ともうんと答えた。

「ユナイテッドは来れそうなのか?」

「街で聞いた分には今のところは海路は大丈夫。それにまだ春の匂いはしないし」

「そう。ところで……」

 テイルはコップをテーブルに置き、一息ついて彼女の方を向いた。

「また、どこかに行くのか」

 何かが彼女の中に芽生えかけた。

「分からない。今は決められない」

 テイルズワンダー。何か足りないとしたらまさにそれだ。生から死へと至る、物語の展開。そう、文字通りの大転換。死を求めるあたしが生へと至るテイル。彷徨うのではなく、生を照らす驚異となること。テイルズワンダー。そこまで見えてあたしは自分が死に塗れていることが恐ろしくなった。あたしは生を持たざるが故に死が怖くない。ただそれだけ。ただ、人と違うだけ。

「ユナイテッドが来たら決める。彼女ならあたしを導いてくれるから」

 そう、何度でも。彼女は心の中でそう付け加えた。


 そう言えばルクスは帰ってくるのだろうか。雪解けが始まった頃、思った。ルクスには自分のようにはなって欲しくない。そんな思いがどこかにあった。ディアナは筆を置き、下階に戻った。歩き慣れたとはいえやはり不自由な足では厳しい。それからレイが作り上げた棚から紅茶を取り出し淹れる。テイルとレイは出かけてしまって今は一人だ。湯気の立つカップを見つめながら色々と思いふける。あたしが指輪を見いだした。クリームの杖も再び見つかった。今度は何が待っているんだろう。エコー=クラウディアの書いた本。それと同等と評価されるに至ったエリス=コーデリアの自伝小説。あたしも自伝を残そうとしている。果たしてそれは意味のあることなんだろうか。

 ゆっくりと息を吐き、また立ち上がる。それと同時にドアが開き、人が帰ってきた。一人、二人、三人、四人、五人。

「ルクス! それにユナイテッドも!」一人知らない顔があった。

「ただいま、母さん。それとこっちはリリーちゃんとリリー」

 ディアナは一瞬何を言ってるのか理解できなかった。

「少し早いけど着いちゃったからお邪魔するわ。そうそう、晩ご飯はこっちで用意するから」

「よろしく。ディアナさん」リリーはすっと前を見据えたまま言った。


 やはりその剣は美しかった。英雄の娘が持っていたとされる剣。グレートブランクを持ってしても失われなかった輝き。レヴァーディア。永遠に続く思い。ディアナはユナイテッドに料理を任せながら、娘が持ち帰った剣と、子ども達との面倒を見ていた。

「わたしは母さんみたいになれるんだろうか」

 剣を持ったまま、ルクスが言った。

「お母さんみたいに?」

「ルクスはきっと指輪に選定されたこの世で最も強い人になりたいんだと思う」

「リリーちゃんだっけ。そうは言うけど……」

 そう言えば指輪についていくつか疑問があったことをディアナは思い出した。

「わたしはこの剣を振るうに値する人間になりたいの」

 ああ、そうか。ディアナは突然何かと何かが繋がったような感覚に襲われた。

「読んだのね。最初にあった物語を」

「うん。ユナイテッドさんとルーテクスに行ったときに。それから多分だけど……」ルクスはそれ以上言おうとしなかった。


 楽しく食事を終えた後、子ども達はレイを先頭にまだ残ってる雪で遊びに出かけてしまった。二足のスキーと一台のそりを持って。

「さてと、静かになったことだし」

 ユナイテッドは宝石で出来た杖を示した。

「ずっと考えたんだけど……この杖、もしかしたら」

 彼女が何を言おうとしているのかディアナはゆっくりと読み取ろうとした。テイルはじっとしていた。

「最初にあった物語に出てくる三つの宝珠と同じものかも知れない。彼女たちを遙か彼方へ導いたあの宝珠と」

「まさか!」

 先に反応したのはテイルだった。

「そうだとしたら、君たちは……」

「そう。私たちもまた果ての地に帰還しないといけないのかも知れない。考えても見て。リズリア-レヴィーク-ライアが未解読魔法だって事を。クリーム=コーデリアが最初にそれを唱えたとき既に彼女の手にはこの杖があった。だけどそれをどこで手に入れたのか何て誰も知らない」

「グレートブランクで失われたんじゃないのか」

「それは違うと思う」ディアナが言った。「ユナイテッドがこの杖を見つけた場所を思い出して。これは明らかに歴史の鎖から外れて封印されていた」テイルは何も言えなかった。

「もう宝珠はどこにもないんだろうけど……」マリン=クラウディアが全てを喪失させしめた。「そうだとしてもまだこの杖が……」今ではもう自由に行き来できる循環海流の中の森で。「私たちを待ってるのよ。まだ何かが」

 ユナイテッドは指輪をはめている方の手、左手で杖を持ってそれをテイルとディアナに順番に向けた。光が起きた。何かが辺りを覆い尽くす。

「これは……?」

「何、何が見えるの? 眩しくて何も見えない」光の洪水の中、ディアナが言った。分かるのはガラスの指輪と鏡の指輪が両方光を覚えていることだけ。

「ディアナ、大丈夫?」自分が大丈夫じゃないことも無視してユナイテッドが言った。

「そっちこそ……あたしは指輪を外せないから……」

「これは指輪だ!」テイルの声が響いた。

「何言ってるの」光ってるのは指輪に決まってる。

「そうだ、光が指輪の形になっている!」

 テイルがそう言った瞬間、辺りを埋め尽くしていた光は急速に収り、彼の左手に収った。白い光が指輪の形をして彼の手にはまっていた。質感を確かめようと手で触れるが自分の中指の感触がするばかりだった。


 いつまでこうしているんだろう。言いしれぬ感覚。やっと、手に入った。そんな感じがした。自分の中にあった喪失感を埋め合わせてくれるもの。もう一度立ち上がろう。どこかで普通であることを追い求め、そしてワンダーを放棄しつつあったあたし。でも「そんなことは出来ない」うつむき加減で言った。「やっぱり、あたしには立ち止まっていること何て出来ない。行こう、ユナイテッド。テイル。南の果て。混沌でも四精霊でもないものが待っている彼の地へ。未だ忘却すらされない発見以前の地へ」

「行くならルクスも連れて行くことね。これからの旅を一番望んでるのはルクスだと思う」

 月が沈んだ頃に子ども達は帰ってきた。それからルクスはすぐについて行くと言い、レイは家に残ると言った。リリーはレイと一緒にいるとも。


 彼女たちは潮風を浴びていた。月のなくなった夜、星がよく見えた。港には大きな船が遠方の灯台の灯りに象られていた。

「この船、羽根がついてる」見送りについてきたレイが言った。

「そう。羽根がついてるの。空を飛ぶより早いの」

「へえ、リリーは何でも知ってるんだね」

 ディアナは聞きながらすっかり仲良しさんだねと思った。それから、誰もいなくて、波も打ち寄せない港でしばらく語り合い、身体が冷えてきたと言うことで別れを告げ、ディアナとユナイテッドとルクスとテイルは船に乗り込んだ。サーニフから、エルを経由して南下するコースを彼女たちは選んだ。指輪は今は輝いていなかった。

「こんなあっさりした出発でいいのかな」

 ユナイテッドの意志で動く木造の大型船の船室でディアナは誰に言うとではなく口にした。船を動かしている彼女以外の全員がそこにいた。

「僕もまだ実感が沸かないな。この指輪、港でみたこの船の姿、そして今。全部現実なんだろうか。何か悪い夢でも見てるんじゃないだろうか」

「わたし、夜なのに全然眠くない」

 ルクスの言葉にその場の全員がはっとした。

「明日がある。もう寝ないと。さあ、談話室から移動しましょう」

「わたしが案内する」

 ルクスを先頭にあまり揺れない船内を歩き、ユナイテッドにおやすみを言ってからベッドの置かれたアルコーブに入りディアナとルクスは同じベッドで、テイルはその上の段で眠りについた。ディアナが目覚めたのは日が天頂に達してからで、既に他の二人は目覚めた後だった。


 静かな海だった。丸窓から覗くと空と海とが一体化した光景が広がり、遠くに陸地がかすかに見え隠れする。彼女はしばらくその光景を楽しんだのち、部屋を出てホールに向かった。揺れのない船内は足の不自由な彼女にとっても歩きやすかった。ホールにはユナイテッドとテイルがいた。

「ルクスは?」

「お勉強中。元々お母さんと話したらすぐにまたこの船で帰るつもりだったの。何の本を読んでるのかって? グレートブランク以前の本よ。ルクスはあの大空位時代を埋めようとしている。その混沌とした時代に行われていた人々の営みを明らかにしようとしている。過去と現在を結びつける接点を見つけようとしている」

 ディアナはしばらく沈黙した。ようやく突き出した手は銀の手だった。

「でも混沌なのはあたし」

「過去と現在。二人は最初から一人だった」

 ディアナとユナイテッドの言葉が重なった。瞬間、三人の身に着けている指輪が光り輝き、壁に光の地図を生み出した。窓から射しこむ太陽の光は鏡の指輪で反射され、ガラスの指輪はその光を受け取り、幻影の指輪はそれ自身が光を、そして二つの光が合わさることで一つの大きな像を生み出していた。

「これは海ね」ユナイテッドが言った。

「何もない海。でも……」テイルが壁の下の方を指差した。

「これは……」ディアナは言葉に窮した。喉から出かかっている言葉がどうしても実体をなさない。

「確かな事はこの方向、進路を南にとれば何かがあるってこと。ともかく行ってみましょう」

 ユナイテッドは鏡の指輪を身につけているのとは逆の手で、宝石で出来た杖を振るった。それを受けて、指輪たちの作る映像が変化した。

「え……」

 全員が息をのんだ。かつてあったと言われる、そう、失われることのない、彼女たちのイメージ。翼を持った女性たち。最初にあった物語で語られ、そして今でもなおクラウディア記念公園やライクヴァ諸島で見ることのできる、マリン=クラウディアの姿。大空を舞い、月光を背に受けて、風と共に歩むことの出来る、そんな彼女たち。

「まさか!?」

 ユナイテッドはやっと言葉を口にした。その場にあった静寂はようやく収まった。三人は自分たちが息を喘いでいることに気づいた。

「そうだ……間違いない……」

 ユナイテッドはうわ言のように何かを言いだした。

「最初、クリーム=コーデリアはこの杖を自分で作ったんだと思っていた」

「レヴァーディアのように」テイルが付け加えた。ディアナは黙ったままだった。

「そう。でもそれは違ったんだと思う。彼女もこれを見出したのよ」

 ディアナはやっと言葉を覚えた。

「ユナイテッド。それって……そういうこと?」

「過去を知る由もないと結論するのは簡単だけど、げんに過去が私たちの手にある以上知らない訳にもいかないでしょう。私たちはとんでもない旅の渦中にいるのかもしれない」


 ルクスは開いた本をゆっくりと読み進めていた。というのも歴史的な整合性を確かめるために複数の書物を同時にやっているからだ。グレートブランク以前は半年間のホームステイで大体を補うことが出来た。おおよそにおいてちゃんとした記録があるので宗教戦争等の部分はともかく全体を構成するのは簡単だった。しかしグレートブランクに踏み込むと問題は一気に複雑化した。年代が全くと言っていいほど存在しないのだ。だからある出来事があったとして、それに付随する出来事を追って行っても、それが果して前にあったのか後にあったのかは結局その他の書物との整合性から埋めていくしかない。そうやって、そうただでさえ少ないその時代のものから、その時代の全体像を見出すのは困難を極めた。

「だけど、エコー=クラウディアだって」

 わたしと同じくらいなのに最初にあった物語を完成させたんだ。出来ないことなんてないんだ。

「この船の中にある本棚がわたしの全てなんだ」

 歴史図書館では結局グレートブランク時代の書物は何一つ見いだせなかった。船で世界中をめぐって各地の伝承や記録を懸命に見出したものをここにまとめてある。話が伝播していく過程や、あるいは時代ごとの星図の変化、いろいろとあって面白い。

「さあ、もっと」

 ルクスは深呼吸した。そして吐き出すように言った。

「失われた真実を蘇らせるの」


 ルクスのいる船内の小部屋の、机向かって右側の壁、ベッドの反対側にはペンで大きな年表が書かれていた。彼女が書いたグレートブランク時代のものだ。ユナイテッドが名前を変えた時点を零年として、そこから引いていく形で描かれた表。彼女の母が生まれ、そして養子に引き取られたのがその三十五年前。その前年にディアナの養母は亡くなっていた。さらにディアナが最初の旅に使った船を作るための技術はそれほど新しいものではないと明らかになったり、いつかは不明だが数百年前に新しい神話が突然発生しただでさえ混沌とした時代をさらなる混乱に誘ったりしていた。

「わたしはこれを解き明かしてるんだ」

 その前に立ち、今読んだ物語と似通った物語が採集された場所に手をかざしながら言った。

「これは今から三百年前。それじゃあ他との辻褄を合わせるならどこ? シーファ災厄が基になってる崩壊の物語。それはどうやって派生していく? 似通った物語は同時的に生まれている。特徴から考えるの。こんな話を必要としたのはどの時代のどの地域?」

 ルクスはそう言いながら、百五十年前のカールソラーナにその伝承の発生を記した。


 レヴァーディアの光が目に入った。その剣の刀身はどれだけ長い年月を経ても輝きを失うことなく、既に夜になってしまった海がいたずらにはね返す月光を受けて彼女に語りかけていた。

「そういえばお腹がすいたな」ルクスはやっと今日目覚めてから何も食べていないことに気づいた。彼女は小走り気味に部屋を出るとホールに向かった。

「そう言えばプラナはあんな大きな剣を振るい回してたらしいね」

 ホールへのドアを開け、そう言った。全員が既に集まっていて食事の用意も終わっていたようだった。

「ルクス、ちょうどよかった。呼びに行こうと思っていたのよ」

「ユナイテッド、そこまで面倒見なくていいよ」ディアナが言った。

 ルクスは笑顔を見せ、それから手前の椅子に座り込んだ。

「これは母さんが作ったのね」

「そう。まあこの辺の海域で釣ったのは父さんだけど」

「食べられる魚を釣ったつもりだよ。多分だけど」

 彼女たちは白身魚のスープと、浮き草を材料に作ったパンとを食べた。ルクスはパンにチョコレートを塗り、何とも言えない風味をごまかした。

「天気は大丈夫?」

「荒れる兆候はなかったよ。今晩はゆっくり眠って大丈夫だと思う」

 テイルの言葉を聞いてわたしは今日は眠らないんだなとルクスは思った。

「さ、星でも見に行きましょう」

 ユナイテッドはそう言い、全員を甲板に向かわせた。


 沢山の光が散らばった満点の夜空。身体の都合でそう簡単には横になれないディアナを除いた全員が寝転がってのんびりと夜空を眺めてた。まだ陸地から離れて日が浅いが、既に見える星空の風景は様変わりしていた。

「ディストもライラも見えない」ルクスが言った。「こんな空を見て人はどんな物語を想像するの。わたしは……」

 ルクスの中に何かが生まれかけた。そう、わたしは……。何でだろう。待っていられない。彼女は立ち上がると階段を駆け下りて船内に戻っていった。夢中になっていて誰の声も聞こえない。部屋に入るとレヴァーディアを手に取る。確かにこれは重たい剣だ。だけど今なら。彼女は片手でそれを持ち上げた。確かにそれは持つことが出来た。振り下ろす。風を切る刃。わたしはレヴァーディアを使えるんだ。プラナが言っているようなこつがあるというそれ。彼女は剣を振るった。何かが見えるような気がした。物語。神話。それを糧に生きる人々。人間が生きる意味。人間が生きた歴史。全てがこの輝きに集約されている。ああ、そうだ。グレートブランクが意味するのは。

「クラウディアの喪失!」

 ルクスは叫んだ。

「違う、いなくなったのはコーデリア家じゃない。彼女は既に帰ってきてる! だけどまだ、もう一人いない!」

 そうだとするとさらにルーンの不在も問題になる、当然のようにその考えが思い浮かんだ。どれだけの長い年月を経ても誰も超えられなかったという伝説の天才。

「そうだ……わたしは……」

「ならないと……もっと強く……」

 剣を持ったまま、うつろな瞳を携えてふらふらと窓辺に向かった。夜の窓からはもう月明かりも射し込んでこない。暗い部屋と闇の世界が一つに繋がり、彼女は海の向こうを見ることが出来た。


「これは卵よ」

 指輪が生み出す映像を見たルクスは言った。

「そう、南の果てに待っているのは……」

 何でだろう。言いながら本で読んだだけのルーンが喋っているような感じがした。そう、彼女のように強くなろうと誓ってから見えたもの。

「ルクス?」ディアナが言った。「一体どれだけのものが……」

「最果てへの旅路、か」成長するに決まってるよねとユナイテッドは言えなかった。

「虚無。そう、グレートブランク全てを意味する文字通りの虚無の卵」

 ルクスの言葉を聞いて、ディアナは急速に視界がクリアになっていった。そうだ、北の果てには神話に語られる混沌が。東の果てには四精霊の住まう地が。南の果てには虚無の卵があたしを待っていた。そして西の果てには。

「死があたしを待っている」呟くように言った。だけど、ようやく自分が何をしようとしているのかが分かった気がした。デストレイル。死に至る生と言う名の小道。あたしはそこをずっと進んでいるんだ。



 レイは最初は人形と遊んでばかりいるリリーに戸惑った。しかし、人形のリリーに話しかけると上手くいくことに気づいてそれからは二人で楽しく遊ぶことが出来た。食事は一日二回と決めた。それからお金はあまりないので改題に行く回数は控え、春先に取れる越冬果をいくらか丘で見つけてきては料理して食べることにした。

「それでリリーは?」

 リリーはしばらく黙ってから口を開いた。

「レイ。やっと」彼女はすうとため息を吐いた。「リリーは人と話せるようになった」

 レイは最初意味が分からなかった。

「何でだろう。こんな気持ちになるのは初めてなんだ。きっとリリーは怖かったんだ。人と直接触れ合うことが」

「まだ一緒に暮らして少ししか経たないのにそんなに……」レイは言った。

「違う。ルクスから色々聞いてた」

「これが嬉しいって気持ちなんだ」

 まだ春先の寒さがあり、暖炉がぱちぱちと音を立てていた。

「ゆっくり歩めばいい。ユナイテッドさんはそうリリーに言ってたけど」リリーはまた息をついた。「本当にゆっくりでいいんだってやっと思えるようになった。何を焦っていたんだろう」

「僕は……」レイは何か引っかかるものを感じた。そう、自分にも何かあるのではないか。でも何が。自分が成り立っているそれ自体。自分がいる所以。サクリファイス。

「お兄ちゃん……」レイはやっとそれに気づいた。ずっと、どれだけ長い間それに対して盲目だっただろう。サクリファイス=トレイシー。生まれてくることが出来ないというのはどんなものなんだろう。

「ずっと考えないようにしてたのは僕もだ。リリーにお父さんとお母さんがいないように僕にもお兄ちゃんがいないんだ」

「死んでしまうのは寂しいよ」

「そうだね……リリーも、うん」



 もう何日進んだのか分からない。最低限に抑えられた食事。指輪の光を頼りに進み、もうどこにいるのかもよく分からない。ただルクスだけはどんどん新しい物語が思いつくと張り切っていた。既に彼女の部屋にある年表は大部分が埋まっていた。そう、終点である帰真歴4397年までたどり着いたのだ。シーファ災厄とライア=コーデリア殺害。そう、それから始まるコーデリア家の権力闘争。元々男性嫌いが災いして敵が多かったライアがいなくなったと言うことで、半ば威圧的な統治を行っていたその時代の体制はあっという間に崩れ、さらに悪いことにエーノが翼を持った女性が現れたと発表。ケイス大学では反コーデリア派が力を持ち、挙げ句コーデリア本家を占拠。

「しかもそれ自体が脈絡のない行動に支配されいる」

 ルクスはレヴァーディアを握っていた。

「そう、それは……クラウディアの喪失。失われたのはまさしくそれ」

「ねえ、エルファース。あなたもそう思うんでしょう」


 ディアナとユナイテッドとテイルは月も星も照らさない夜の暗がりの中にいた。ただそこにあるのは三つの指輪の光だけだった。しかし、その光すらその先にあるものに吸われ、消えていた。

「さあ、ここまで来たわ」

 ディアナが言った。

「ねえ、あなたは何なの」

 ユナイテッドが言った。

「さあ、その姿を見せてくれ」

 テイルが言った。

 しかしそれは沈黙したままだった。

 ユナイテッドはしばらく黙った後、やっと一歩前に進むと宝石で出来た杖をそれに向けた。

「私はまさかと思った」彼女は杖を向けたまま言った。「これは人間の作った杖じゃない。クリーム=コーデリアもそうだった。最初にあった物語に語られるあの三人。彼女は自分がそうだと知っていた。この杖が人間のそれじゃないと、この杖がもたらす歴史上の因果が人間がそれ自身で見いだすそれじゃないと知っていたから。だからクリームはその後この杖を封印した。そう、これは……」

 ユナイテッドはもう一歩前に進み、杖を振るいあげた。彼女の身に着けている鏡の指輪がいっそう眩しく輝いた。しかしディアナはむしろ虚無の卵の方が激しく輝いているような感覚に襲われた。

「これは……全てを等しく評価する……」

 ディアナは虚無の卵に向けて銀の手を伸ばした。

「調停する杖イフィトラスディア」

 ユナイテッドは杖を振るい下ろした。卵は音も立てずに割れた。

「あ……」眩い光の中で彼女は言った。

「あ……」

「手が……銀の手が……」

「消えた……」

 存在しない左手と右手とで彼女は自分の胸を抱いた。ユナイテッドが向き直ると、テイルが後ろからそっとディアナを抱きしめていた。

お読みいただきありがとうございます。

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