ある男の手記
これは山賊に襲われて崩壊したとされる村跡から発見された手記である。
私が彼女と初めて会ったのはどんよりとした灰色の雲の日のことだった。その時私は自分の家の裏口から森に入り、小高い山を歩いていた。突然山菜が食べたくなったのだ。私の祖父がよく私に食べさせてくれたあのほろ苦い奇妙な植物の味をふと思い出したのである。
私は幾度か唾を飲み込みながら山を登ったが、困ったことに私には植物に対する知識が微塵もなかった。私にとって野菜とは屋台に並ぶ彼らのことでしかなかった。私はいつにどの山菜がとれるのか、どこに生えてくるのかも知らなかったのである。聞けば教えてくれたであろう祖父は私が物心つく前に死んでしまった。以来私はこの村で一人で暮らしている。
何もわからず飛び出した自分の無計画さに呆れかえり、もう帰ってしまおうとさえ思ったが、私の胃袋はすでに奇妙な植物たちのための用意ができてしまっていた。このまますごすごと帰っては私の胃袋に申し訳が立たないと思い直し、散策を再開。とりあえず目線を地面に固定しながら、歩き続けた。
すると、突然私の頬に冷たい空気がふれた。何事かと地面に向けられていた視線を正面に向けると、驚くべき光景が目の前に広がった。
それは綺麗な湖だった。そこが見えるほど透き通った水の青色が私の視野を塗りつぶした。山菜も空腹も忘れて、私はその場に立ちすくんだ。無意識の内にこの景色を目に焼き付けようとしていたのかもしれない。
私が何も言えずに立ちすくんでいると、視界に妙なものがかすめた。最初に見えたのは馬の蹄だった。だが馬ではない。その全体を見てみると、その妙なものの正体がわかった。
人の上半身に馬の下半身を持つ異形の魔物。私の視界に現れたのはケンタウロスだったのだ。それも女性のケンタウロスだ。彼女は片手に弓を持ち、矢筒を肩からかけてじっと水面を見つめていた。私は魔物を見るのは初めてだった。魔物は人を襲い、人を食い、人に害なす怖いものだと教えられていたし、私自身もそうだと信じて村の人間たちの中で魔物の噂が上がるたびに震え上がっていたものだが、いざ本物に出会った時の私の反応は随分と淡泊なものだった。異形とはいえかろうじて人の姿を残しているからかもしれない。
何を思ったのか私は彼女に声をかけた。こんにちは、といつも村人に振る舞うような笑顔だった。私の声で初めて私の存在に気づいたのか、彼女はびくりと体を震わせ、とても驚いたような顔で私を見た。知らない人間からいきなり声をかけられれば多くの人は驚くだろう。魔物も同じだとすれば、私はどうやら彼女を驚かせてしまったようだ。それは失礼なことをしてしまいました。なに、私はそう怪しい者ではありません。たまたまここに迷い込んでしまったただの人間です。そう彼女に言い聞かせようとしたら、それより先に彼女が動いた。
今度は私が驚く番だった。なんと彼女は弓を構えたのだ。もちろん、私に向かってだった。矢筒から一本の矢を取り出し、弓を引き絞る。矢の先端は鋭く尖った石だった。彼女が弓を射ると同時に私は身を屈める。弓は私の頭上を飛んで行ったようだった。がっと何かに刺さる音が後ろの方で聞こえた。避けられると思っていなかった私は急に体中から汗を拭きだすのを感じた。もう一度射られたらと思うと、途端に心臓の鼓動が早くなった。しかし彼女はもう一度射ることはなく、くるりと踵を返してもと来たように山の木々の奥へと消えていった。
その場には私だけが取り残された
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次の日、私はまた山を登っていた。結局昨日は山菜を食べ損ねたからだと、当時の私は考えていたが、本当のところ私はあの魔物の女を探していたのかもしれない。事実、気が付くと私はまたあの透き通った水色を見ていた。
すると、昨日と同じところから彼女がまた現れた。今度は声をかける前に私に気づき、また驚いた顔をして昨日よりも早く弓を射った。私は右に飛び上がってかわした。私が避けたことを確認すると、彼女はまた木々の奥へと消えていった。
それからしばらく、私は彼女と顔を合わせる度に弓を射られる生活を送った。当初の目的であった山菜は一向に見つからない。次第に私の興味は山菜から彼女へと移りつつあった。初めて彼女と出会ってから一ヶ月が経っただろうか。よくもまあ、飽きずに毎日湖に足を運ぶものだった。私も、彼女もだ。一ヶ月、私は彼女から弓を射られ続けていたが、運よく一発も彼女の矢は私の体をかすめてはいなかった。しかしそれは私の回避能力の高さを意味しているのではない。単に運が良かっただけだ。同時に私は疑問に思っていた。そう何度も幸運がこの身を助けることがありうるのだろうかと。
私は私の疑問を払拭するために、ある実験を行うことにした。いつものように私は湖に訪れる。彼女が現れる。私たちはお互いに目を合わせると、彼女は私に矢を放った。しかし私はそれを避けようとはしなかった。動かずに、ただじっとしていた、すると矢は私を避けるようにしてまるで見当違いの方向へ飛んで行った。
やはり思った通りだった。一介の商人でしかない私に矢を避ける技能はないし、信仰もない私には幸運の女神だって微笑まないだろう。彼女は最初から私に矢を当てるつもりはなかったのである。
私と彼女はしばらく見つめ合うと、互いに笑ってしまった。この一ヶ月、私たちは一体何をしていたのかと思うと、笑わずにはいられなかった。
「おかしな人間だ。私を見ても逃げ出さないとは」
彼女に言われて、そういえば初めて会った時も最初に姿を消したのは彼女の方だったことを私は思い出した。
「あなたはどうして毎日ここにくる」
彼女の質問に私は山菜が食べたいと答えた。探しているのだが見つからないと。彼女はますますおかしそうに笑った。
「ついてこい。今朝採れた新鮮なものがある」
私は彼女の家に招かれた。
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彼女の家は森の奥のじめじめした場所にあった。木造の小屋のような家。扉が大きいのはケンタウロスの身長に合わせているのだろう。彼女の目線は私よりももっと高かった。
「座っていてくれ、山菜とお茶を出そう」
そう言われても、彼女の家には椅子がなかった。床に座ろうと思ったが、彼女が山菜を並べ始めているテーブルに届かなくなってしまう。うろたえる私の様子に気づいた彼女が急いで木樽を持ってきた。これを椅子に使えと言う。
「不慣れですまない。人をもてなすのは初めての経験なんだ」
私も魔物にもてなされるのは初めてだと言ったら彼女はふっと微笑んだ。お互い初めてなら恥ずかしがることもないな、と彼女は言った。テーブルの上に茶と山菜が並んだ。
「さあ、食べてくれ」
茹でただけの山菜に塩を付けてかじる。ぶわっと、独特の苦味が口に広がる。思ったよりも美味しくないなと私は落胆する。どうやら記憶の中では味覚まで美化されるようだ。山菜の不味さに比例するように彼女が淹れてくれたお茶は美味しかった。
それから私たちは話をした。主に彼女の、ケンタウロスの話だ。尊敬する祖父の話、自分を育ててくれた父の話。父が死んだ時のことを話している彼女はとても寂しそうで、大昔騎馬兵として人と共に戦ったケンタウロスの英雄の話をしている時の彼女はとても楽しそうだった。随分長いこと彼女の話を聞いていたが、私が覚えているのはそのことだけだった。あとは彼女の笑顔に塗りつぶされてしまった。彼女は笑うととても可愛かった。そして改めてよく見てみると彼女はとても美人であることがわかる。その精悍な顔つきや艶やかな金色の髪色が私の心をわしづかみにした。私はこの時初めて、自分の中にある彼女への気持ちを自覚した。
私が帰ろうという頃、彼女はまた明日も来てくれないかと私に頼んだ。誰かと話すのは久しぶりなのだという。私は他に仲間はいないのかと尋ねた。
「仲間はみんな東へ旅立った。父だけが私と共にここに残った。幼い私は体が弱かったのだ。とても長い旅には耐えられなかった」
だから彼女は一人ぼっちなのだという。人も獣も、みな彼女を見れば怖がって逃げてしまう。あなただけだと彼女は言った。
「あなただけが私の話を聞いてくれる」
また明日も来ると約束をして、私は彼女の家をあとにした。
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それからというもの、私は度々彼女の家を訪れた。私が来ると、彼女はとても嬉しそうにしてくれた。彼女の家でやることといえば、もっぱら他愛もないお喋りだった。彼女は話すのが好きだった。それと童話や作り話も好きだった。私が幼い頃に酒場で聞いた恋人のために悪と戦う英雄の話をしてやると彼女はその綺麗な顔をキリリとさせて真剣な様子で耳を傾けた。あまりに続きを話してくれとねだるので子供のようだと笑ってやったら頬を膨らませてしばらく機嫌を直してくれなかった。彼女と共に弓の稽古もしたが、私にはその手の才能はないようで、動かない的にさえ当てるのは困難をきわめた。複雑に飛び回る兎を一撃で仕留める彼女の腕はほれぼれするものがあった。
ある日、帰ろうとする私を彼女が引き止めた。普段から彼女は私が帰ろうとするたびに寂しがり、もう少しここにいたらどうだと言うのだが、今日はいつにもまして強情だった。暗くなると狼が出る。そうなったら危険だと説明するが彼女は首を横に振った。
「ならあなたが私の背中に乗ればいい。私が走れば、狼たちも追いつけない」
彼女の本気の眼差しに、私はたじろぐばかりだった。
ケンタウロスは決して人を背中に乗せはしないものなのだと、背中に跨った私に彼女は教えてくれた。
「あなたは幸福な人間だ」
そう言って、彼女は走り出した。お世辞にも乗り心地はよいとは言えなかったが、とにかく速かった。まるで風のようだ。乗馬の経験のない私はその速さにすっかり怖気づいてしまい、彼女の体にすがるように精一杯抱き着いた。彼女はくすぐったそうにしていたが、振り払ったりはしなかった。彼女にしがみつく私の手に彼女の手が重なった。
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私と彼女が話す時間がどんどん増え続けていた頃、村ではある噂が蔓延していた。どうも私が魔物と内通していると彼らは騒いでいるようだ。当事者であることと、彼女と出会ってからは疎遠になりつつあった村人たちの噂なので私の耳にその話が入ってきた頃にはもう随分と噂は尾ひれを付けて成長していた。彼らは武器を集めて、近々森の魔物を退治するのだという。まずいことになった。彼女が危ない。私は急いでこのことを彼女に伝えにいった。
彼女は家の中で兎をさばいていた。今夜も私が来るだろうと思いシチューを作るつもりだったのだという。私は彼女の手から包丁をふんだくり、話があると、そう言った。私の尋常じゃない雰囲気を察したのか、彼女は真剣な面持ちで私の話を聞いてくれた。
村人が君と私の関係に気づいている。彼らは武器を集めている、君を殺すつもりだ。今はまだここの場所はバレていない。だから今の内に逃げるんだ。東へ、東に行くんだ、仲間を追って東へ。現状の危うさを説明し、逃げるよう言ったが、彼女はそれをよしとしなかった。嫌だと言って聞かない。どうしようもないほど強情だった。何が嫌なのかと私は聞いた。仲間を見つければ一人じゃない、だから大丈夫だと言うが彼女は嫌だと涙ぐむ。
「仲間はいても、あなたがいない。東にはあなたがいない」
あなたがいないところには行きたくないと彼女は私の胸にしがみついて泣いた。今はそんなことを言っている場合じゃないと私は彼女を怒鳴りつけた。すると彼女は裏切られたかのように絶望した顔をして言った。
「私が邪魔なのか。あなたにとって私は重荷ですか」
そんなことは決してなかった。むしろ重荷は私の方だった。私のせいで彼女は死ぬのだ。私の愚かさが彼女を殺す。私と出会わなければ、彼女は今でもあの森の奥で生きていられた。一人で生きていられた。たった、一人で。
走れるか。
私は彼女に問うた。ある決意を胸に彼女に詰め寄る。
走れるか、私という重荷を乗せて、君は走れるか。どこまでも、どこまでもどこまでも、私と共に走ってくれるのか。
彼女は迷うことなく頷いた。私は彼女と共に逃げる覚悟を決めた。
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一度家に戻った私は急いで荷物をまとめた。衣類とありったけの食糧を持って、もう一度山を登り、森を抜けて彼女の家に向かった。しかし、家には誰もいなかった。何者かが争ったあとと、ひっくり返ったままの鍋が不吉を示しているようだった。私は彼女の家を飛び出した。よくよく観察してみると、点々と血の跡が地面に付着していた。それはまっすぐにどこかへむかっているようだった。頭をよぎった嫌な予感を振り払うように私は走った。血を辿りひたすらに走る。そうして出たのはあの湖だった。しかしあの一面に広がる美しい水色はもうどこにもなかった。湖の縁からどす黒い赤が広がって行く。その縁にあったのは頭を失くした彼女の体だった。失くした頭を探すように首からは赤い血が噴き出している。ぐったりと倒れた彼女の体を取り囲むのは武器を手にした村人たち。彼らの一人が彼女の頭を手にして叫んだ。
「魔物は死んだ!」
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目が覚めると、私は牢屋の中にいた。あのあと私は村人たちに襲われ、ここに入れられたようだ。記憶ははっきりしないが、湧き上がる怨嗟が彼女の最期を示していた。私は魔物に肩入れした罪で死刑になるようだ。火刑だと、親切な看守が鼻歌交じりに教えてくれた。ポケットに忍ばせたこの手記とペンが没収されなかったのは幸運だった。怒りと絶望に食いつぶされそうだが、私はまだ正気を保っている。しかしそれもいつまで続くかわからない。案外わざわざ死刑などにしなくとも放っておけば私はこのまま死ぬのかもしれない。そんな気がする。
今考えるのは彼女のこと。彼女の笑顔、最後に見た泣き顔。その仕種、それだけが私の瞼の裏に現れては消えていった。
どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうして彼女は死んだんだ。何故、彼女が死ななければならなかったのか。彼女が何か人に害を成したのか。私たちにとって不利益なことをしたのか。そんなことはない。彼女はただお喋りが好きな、普通の少女だったはずだ。一人は寂しいと嘆いていた、ただの少女だったはずだ。それがあんな風に殺されていいわけがない。ちぎれた頭を振り回し、叩きつぶしていいわけがないのだ。この所業、彼らの悪行を神は許すのか。許すのだろう。神はこんなことに一々干渉しない。ただ誰よりも高い所で誰よりも怠惰にいるのが神なのだ。こんなことで煩う心を奴は持ち合わせてはいない。私はもう彼女の幸せを願うことすらできないというのに―――――――――(ここから先は言葉かどうかもわからない文字の羅列になっている。ほとんどがインクが掠れてまともに読めないが、真ん中に一際大きく書きなぐられたものだけが言葉の形をしていた)
神よ、人よ、私は彼女を愛していた。
『ある男の手記』




