月を喰む
「お月さまがいる」
それが、彼を初めて見たときの私の印象。
真っ白な肌、まっすぐ切り揃えられた髪は一本一本が月の光のような銀色。とても色の薄い水色の瞳。
動かなければ、精巧な人形だと勘違いする人もいたかもしれない。
月の光が地上に降りたような、そんな神秘的な空気すらまとっていて。
私の目には、彼が同じ人間には見えなかった。
それは大公家で開かれた、誕生パーティーの場。
主役である公子ルスト様が彼だった。
他の貴族たちにならい、彼にお祝いの言葉を述べる父の隣に立って間近に彼を見た。
美しすぎて作り物めいた彼の瞳が私を見たとき、それは母が持つどんな宝石より綺麗だと思った。
今なら、世界中の宝石を集めても、彼の瞳より美しいものなどないと言うだろう。
お月さまが欲しいなんて、人の身には余る欲望。
たった5歳で、私はその欲望に取り憑かれてしまった。
誕生パーティーは、公子の婚約者候補との顔合わせでもあることを、大人たちは知っていた。
そうして、婚約者に選ばれたのは私だった。
特に気に入られたわけではない。
たた、ちょうどよかった。それだけだ。
ルスト様は私より一つ上の6歳だったが、既に神童と教師たちから褒めそやされていた。
彼の父は王弟、ルスト様にも王位継承権がある。
あまりにも優秀すぎるのは、かえって具合の悪い、微妙なお立場だった。
我が家は伯爵家だが、特段財力があるわけでも人脈があるわけでもない、はっきり言えば地味な家だ。
優秀すぎる公子様にはちょうど良い家だったのだ。
そんな政略のみで成立した婚約ではあったが、ルスト様は最初から、誠実に婚約者としての務めを果たしてくださった。
私が恋に落ちたのは当然のことだった。
学園に通うようになると、一年先に入学していたルスト様は、学園の中で確固たる地位を築いていた。
第一王子、第二王子は既に卒業されており、現在の学生で最も地位が高いのがルスト様だったからだ。
当然、婚約者である私へのやっかみや風当たりは強く、聞こえよがしに似合わないだのなんだのと、ヒソヒソされるのは日常茶飯時だった。
人気者のルスト様の周囲には、常に人がいた。
しかし周りにのせられて私を蔑ろにするような、愚かな真似は、ルスト様は絶対になさらない。
それでも、あの方のそばに女性がいると、心がざわめくのは抑えられなかった。
あの方は月。皆を平等に照らす月。
誰か一人が独占して良いものではないのだ。
それが変わったのが、後期が始まってまもなくの頃。
ルスト様の周りに、同じ女生徒の姿をよく見るようになった。
珍しい聖属性の魔法を教会に見出され、特待生として入学してきた少女フローレ様。
愛らしい顔立ちに、ふわふわのピンク色の髪。
公爵家や伯爵家の子息たちに常に囲まれている人気者。なるほど、くるくる変わる表情は見ていて飽きないだろう。
同時に、彼らとの距離の近さに、一部女生徒からはよく思われていないのも聞いていた。
そんなフローレ様が、ルスト様に近づいている。
ルスト様の方は節度を持った距離で対応しているが、フローレ様はそんなことは構わず、話しかけたり軽く触れたりしている。
やめて、あなたが気軽に触れてよいような存在ではないのよ。
心が軋む。
「フローレ様、そのように気軽に異性に触れるのは感心できませんわ」
さりげなくと思ったのに、思ったより冷たい声が出てしまった。
「ヘデラ、君から声をかけてくるなんて珍しいね」
フローレ様が答えるより先に、ルスト様が立ち上がった。
ああ、あなたにこんな顔を見られたくなかったのに。
「時間があるなら、向こうでお茶でもどうだい?」
私をエスコートしてその場を去ろうとしたルスト様に、不満の声を上げたのはフローレ様だった。
「ええ〜せっかくここでお話してたのに、行っちゃうんですか?ルスト様」
「婚約者を優先するのは当然だろう?」
ごく当たり前に、ルスト様は私を優先してくれる。
その場を離れる私たちを、フローレ様がどんな目で見ていたかなんて、私は気づくよしもなかった。
それからしばらくして、私がフローレ様にキツく当たっているという噂が流れようになった。
ルスト様はフローレ様を特別扱いはしていない。
なのに、ルスト様に相応しいのは聖女のほうではないか、などとまことしやかに囁くものまで現れだした。
フローレ様は貴重な聖魔法を使えるが、まだ聖女として認定されたわけではない。
なのに彼女を取り囲む空気は、もう聖女様と決まったかのように扱っていた。
2人で観劇に出かけていた時のこと。
行きの馬車の中で、ルスト様が私の顔をのぞきこむ。
「ヘデラ、顔色がすぐれないようだが大丈夫かい?」
優しいルスト様は、常に私の様子を気にかけてくださる。
「何も問題ありませんわ。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「それならいいんだけど。最近、学園の空気が良くないね」
ひんやりとした声に顔を上げると、しかしいつもと同じ微笑みを浮かべていた。
「節度を持った距離を心がけるように彼女にも言っているんだけどね」
彼女。たったそれだけの呼び方に、胸が苦しくなる。
「フローレ様は、かわいらしくて皆さまからの人気もおありですから」
だから、あなたまで惹かれないで。
劇場前に馬車が到着し、私たちが馬車から降りたところで、甘ったるい声が割り込んできた。
「ルスト様ぁ!こんなところでお会いできるなんて!」
駆け寄ってくる彼女を、私たちの護衛が立ちはだかり止めた。
「彼女は聖女様だぞ!失礼なことをするな!」
フローレ様をいつも取り囲んでいる男子生徒が、護衛に向かって抗議した。
こんなに人がいる場所で、なんと迂闊な。
「ほう、いつ教会から発表があったんだい?」
ルスト様に見据えられ、男子生徒は己の失言に気がついたようだ。
「見ての通り私たちはこれから観劇なんだ。邪魔をしないでもらえるかな?」
もごもごと言い訳を始めた男子生徒にはそれ以上目もくれず、私たちは劇場内へと入った。
私たちの席は、王族や大公家のために設けられたロイヤルボックス。
フローレ様が近寄ることはできない。
それでも、フローレ様は諦めきれないようだった。
幕間で私が化粧室に向かうと、待ちかねたように彼女も現れた。
そしてまた、いつものお願いするようなポーズで私に向かってくる。
「ルスト様を縛らないでください!」
「いきなり、失礼ではなくて?」
「そうやって私を見下して!あなたがルスト様に言って、私たちと交流させないようにしてるんでしょう?」
まるで己が正義だと言わんばかりに、強い眼差しで私を糾弾する。
「ルスト様を解放してあげてください!」
「話にならないわ」
ピシャリと言い捨てて私はさっさと化粧室を後にした。
身分が上である私が、わざわざ彼女の戯言に付き合ってやる必要などない。
それに、縛る?私が、ルスト様を?
可笑しなことをいう。
一体誰が、月を縛れるというのか。
席に戻ると、ルスト様が何か言いたげに私を見たが、私はフローレ様が来たことは話さなかった。
たとえ好意でなくとも、ルスト様の心に一瞬でもほかの人がいるのは許せなかったから。
学園では、その後も私がフローレ様に嫌がらせをしているらしいと噂はエスカレートし、ルスト様がそれを否定してもフローレ様が彼の周りから離れることはなかった。
もともとさほど社交的でもない私は孤立し、周りからの悪意ある視線に疲弊していった。
そんな中、学園で実習を兼ねた狩猟会とが近づいていた。
魔獣を、学園内のエリアに放ちそれを狩るというもの。
とはいえ、魔獣はあらかじめ弱体化されており、また指定エリアは結界が張られ、それより外には出られないようにされている。
私はごく初歩的な補助魔法しか使えないので、後方待機組だ。
ルスト様は魔力も当然のように多いので、出陣組で参加する。
フローレ様は救護班。聖魔法である程度の傷なら回復できるのだそうだ。
弱体化されているとはいえ魔獣、舐めてかかれば思わぬ大怪我をしかねない。
私が怪我をしたら、ルスト様は心配してくださるかしら。
そんな事を考えながら裏庭近くの道を歩いていたら、誰かの話し声が聞こえた。
「…これでルスト様が怪我をしたら私が治療してあげるの!グッと距離が縮まるイベントなのよ」
ルスト様の名前が聞こえて身体を固くする。
「大丈夫!魔獣は別の方に行かせるから」
姿は見えないがこの声はきっとフローレ様。一緒にいるらしい男子生徒の声は小さくて聞き取れないが、止めているのだろうか?
「ヘデラ様の方はお願い」
甘える声の後に、静かになった。
フローレ様が何かを企んでいる。
ルスト様に知らさなければ。
でも、あれは本当にフローレ様だった?信じてもらえるだろうか。
何事もなければ、私が彼女に疑いをかけただけになる。
明日がその狩猟会という日、帰りの馬車でルスト様と2人になり、ようやくその時に言うことができた。
「フローレ様が、ルスト様の治療をすると張り切っていらっしゃるようで…あの、お気をつけて」
「まるで怪我してほしいように聞こえるね。彼女にも困ったものだ」
やはり、もっとはっきり言っておくべきだったのだと、私は何度も後悔することになる。
狩猟会当日。
それぞれの組と、更にその中で班に分かれて、指定された場所で待機する。
「あ、あの、あなたの班の腕章はこれです」
緊張気味に腕章を渡してきた実行委員の男子生徒は、普段フローレ様のそばでよく見る取り巻きの一人だ。
目を合わすのも嫌なほど、私のことを嫌っているのね。
自虐的な笑みを抑えて腕章をつけた瞬間、ふわりと、嗅ぎ慣れない香りがした気がした。
魔獣が放たれた合図の音が鳴り、前衛の男子生徒達が騎乗して出陣していく。
戦闘能力の低い私たちは、結界の端で待機している。
魔獣避けの香も焚いており、魔獣がこちらに来ることは基本ない。
なのに。
私たちの前に、手負いの魔獣がいた。
背後でパニックを起こして泣き叫ぶ女子生徒の声がするが、私は魔獣と目が合ってしまい動けなくなっていた。
「早く、先生を呼んできて!」
そう叫ぶのが精一杯だった。
彼女たちが動いてくれたのか確認するすべはない。
目をそらしたら、魔獣は飛びかかってくる。
「ヘデラ!」
その声に、私の目はそちらを向いた。
その瞬間、世界が時間を止めたように、全てがゆっくりと動いていくように見えた。
魔獣の後ろの茂みから飛び出してきたルスト様が、馬から振り落とされ、私の前に叩きつけられるように落ちた。
同時に、魔獣が跳躍しルスト様と重なる。
魔獣の爪がルスト様の足に食い込み、ルスト様は手を突き出し、その前で閃光が弾けた。
轟音と光。
眩んだ視界がようやく戻ると、ルスト様の攻撃魔法で魔獣は跡形も無く消し飛んでいた。
しかしその足は大きく抉られ、おびただしい血が地面に広がっていく。
「ルスト様ルスト様ルスト様」
泣き叫ぶ私の声に、別の叫びが重なった。
「ルスト様がなんでここに!なんでアンタじゃないのよ?!」
その言葉の意味を考えるより先に、これが彼女のせいなのだと理解して激昂した私は叫んだ。
「あなたがやったのね!」
だが、ようやく駆けつけた救護班に私は引き剥がされ、フローレ様は教師の一人に押さえられていた。
事態を重くみた国から、正式に騎士団や魔導士が調査に入り、事件として捜査された結果、ルスト様が騎乗した馬には軽い興奮剤が盛られており、また私に渡された腕章には魔物を呼び寄せる効果のある香りがつけられていた事が判明した。
魔獣避けの香も一部がすり替えられており、そのために私の待機場所に魔獣がたどり着けたのだ。
フローレ様は、あの現場での叫びを他の人も聞いていたことで取り調べを受け、共犯である男子生徒が自白したため、罪が明らかとなった。
私に腕章を渡したあの男子生徒が、彼女の共犯者の一人だったのだ。
他にも興奮剤や香を用意した者が、退学などの処分を受けた。
フローレ様は王族に連なる者を害したとして、本来なら処刑もおかしくなかったが、王家の監視付きで教会に生涯幽閉となり、その魔法を民のため使わされることとなった。
教会から出ることも、外の人間と治療以外で会うことも話すこともできずに過ごすことが、処刑より軽いのかどうかはわからない。
そしてルスト様の傷は、フローレ様が治療できるようなレベルのものではなかった。
えぐられた傷から毒が入り込み、解毒はしたものの高熱を出して数日間昏睡状態に陥った。
意識が戻ってからも、長いことベッドの上の生活が続き、私はその間学校が終わると大公家に通ってルスト様のお顔を見る日を過ごした。
本当は学校になど行かず、一日中お側にいたかったのだけれど。
やがて足の傷は癒えたが、毒の後遺症でその機能をほぼ失い車椅子となった。
また、あの美しい顔にも傷が残った。
大公家の後継の座も弟に譲り、ルスト様の周りに常にあった人の輪は静かに消えていった。
私にも婚約の白紙の申し出があったが、私はそれを断った。
傷ついたくらいであの方から離れるなんて、全く考えられないことだったから。
私の学園卒業を待って、その後すぐにルスト様に嫁いだ。
大公家の広い屋敷の敷地の中に離れを建て、私たちはそこで暮らしている。
使用人はいるが、ルスト様のお世話はほぼ私がやっている。
傷ついても、ルスト様は変わらず聡明で優しくて美しい。
あの日、フローレ様が何かを企んでいるともっとしっかり伝えていたら。
この後悔を私は一生抱えて、ルスト様の側にいるのだろう。
私を庇って怪我を負った負い目で、私が尽くしていると勘違いする人もいるがとんでもない。
私は心から望んで、この人のそばにいるのに。
欠けて、傷ついて、私のところまで堕ちてきたお月さま。
あなたを独り占めできることに悦びを感じてしまうこの醜い欲望。
それが暴かれてしまうことを恐れながら、今日も私はあなたのおそばでお世話をする。
私だけのお月さま。
生まれた時から、つまらない人生だった。
容姿も家柄も、富も才も、欲しいと思う前に持っていた。
早くに自分の立場も理解し、貴公子の仮面をかぶることを覚えた。
周りの人間を見ていて、恐らく自分には何かが欠けているのだろうなと思ったが、どうでもいいことだった。
6歳の誕生パーティーで、婚約者候補の令嬢たちと顔合わせをした。
どの子も同じ顔にしか見えなかった。
その中で1人、目の奥に違う熱を感じた。
彼女の名はヘデラ。でもその時はそれだけだった。
崇拝、恋慕、執着。
私に向けられる視線はほぼそれだ。
そうして私を望み、私を支配しようとする。
ヘデラもまた、崇拝に似た眼差しを私に向けてくる。
ときおり熱を忍ばせて。
だが彼女は、私に何も求めてこなかった。
婚約者という、家族の次に親しい立場にいるというのに。
あれだけ強い眼差しを向けながら、しかしそれを隠そうとしている彼女に興味を持った。
学園に入っても、私の生活は変わらない。
私の容姿、身分に惹かれて人が集まるのも変わらない。
大公家を継いだあとに困らない程度の人脈があればいいが、そもそも我が家とわざわざ敵対したい家があるはずもなく。
そしてヘデラが入学し、生活に少し色がついた。
学園でも、いつも彼女は私を見ていた。
時折その視線に混じるのは、嫉妬だろうか?
わざわざ不安にさせるのは悪手だが、私は彼女のその顔を、美しいと思った。
だが、そのヘデラが目を伏せて、私から視線をそらすことが増えた。
私はなにかしただろうかと、考えを巡らせてみるが思い当たることがない。
周りを見渡してようやく、気がついた。
やたら馴れ馴れしい平民上がりの小娘。
群がる羽虫の一匹、おそらくはこの者のせいでヘデラに何かしらの不安を与えているのだろう。
そろそろあの小娘を排除するかと考え出した頃、学園で狩猟会があった。
魔獣が放たれて私も出陣したが、馬がどこか落ち着かない。
そして、魔力の流れが何かおかしい。
先に見つけた生徒が攻撃したものの仕留められず、魔獣は逃げたようだが、本来いるはずのエリアに気配がない。
違和感を頼りに馬を走らせれば、前方に魔獣と、それと対峙するヘデラの姿が見えた。
言うことを聞かない馬を限界まで走らせ薮を飛び越えた時、私は馬から振り落とされた。
全身を激痛が襲ったが、丁度良くヘデラと魔獣の間に落ちたので、私は魔獣に向けて攻撃魔法を放った。
薄れゆく意識の中、私の名を呼ぶヘデラの声が聞こえていた。
君は、こんな声も出すのだな。
思ったより私は重症だったようだ。
私の状態が明らかになると、それまですり寄っていた者たちは潮が引くように去っていった。
いっそ清々しいほどの手のひら返しだった。
後遺症も顔の傷も、たいして気にはならなかった。
私にとっては、騒々しい世界が静かになっただけのことだった。
そうして、私のそばに残ったのはヘデラだけだった。
私の身体に残る傷を見る時、苦痛と同時に、昏い愉悦の熱が彼女の瞳の奥に宿るのを知っている。
それを感じるたび、私の心は歓喜に震えるのだ。
愚かで、愛おしいヘデラ。
私は今日も善良な夫を演じよう。
罪悪感の鎖でがんじがらめになって、私しか見えないように。
君は私を月のようだと言うけれど、君の眼差しの前でだけ、多分私は人になる。




