10話 私の誕生日
誕生日当日。朝、目を覚ました瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。
いつもなら、眠気に負けてもう一度まぶたを閉じ、布団に沈み込むはずなのに……その日は、すっと意識が浮かび上がる。
まぶたの裏に残る夢の残像が、すぐに消えて、現実の輪郭がはっきりする。
静かすぎる。部屋の中が、いつもより空っぽに感じる。
部屋の中が、いつもより空っぽに感じる。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、床に淡い金色の線を描いているのに、空気が少し冷たくて、音が吸い込まれるように静まり返っている。
遠くの車の音も、今日はどこか遠くに聞こえる。
まるで、世界が息を潜めて、私を見ているみたいに。私はゆっくり体を起こして、ベッドの隣に手を伸ばした。
はっとする。白雪様がいない。いつもなら、ぎゅっと抱き寄せたまま、銀色の髪が私の胸に広がって、
規則正しい小さな寝息が、耳元で「すー、すー」と響いているはずなのに。
指先に触れたのは、体温のないシーツと、まだ少しだけ残っている温もりだけだった。
まるで、ついさっきまでそこにいた証みたいに、布団のくぼみが柔らかく残っていて、
その凹みに指を沈めると、ほんのり温かい感触が伝わってくる。
でも、隣は空っぽで、狐の耳も、尻尾も、金色の瞳も、何もない。胸が、どくん、と大きく鳴った。
喉の奥が急に乾いて、息が浅くなる。「……白雪様?」声が掠れて、小さく部屋に響く。
返事はない。
ただ、朝の光が、静かに床を照らすだけ。私は慌てて布団をはねのけて、立ち上がった。
足元が少しふらついて、部屋を見回す。
机の上に置かれたカレンダーが、今日の日付を赤く囲んでいる。
誕生日。
私の誕生日。でも、白雪様の姿はどこにもない。
いつもなら、朝一番に「おはよう、綾」って眠たげに笑って、
額にキスを返してくれるのに。
今日は、ただの静けさと、残り香のような温もりだけが、私を待っていた。
胸の違和感が、じわじわと広がっていく。
どこに行ったの?
どうして、いないの?
私はベッドの端に座り直して、シーツをぎゅっと握った。
まだ温かい部分に指を押し当てて、目を閉じる。
白雪様の寝息を、記憶の中で再生しようとするけど、
今日は本当に、聞こえない。部屋の空気が、重たく感じた。
誕生日なのに、こんなに寂しい朝なんて……初めてだった。
「……白雪様?」
小さく名前を呼びながら、体を起こす。
シーツの感触がまだ少し温かくて、指先がその残り香をなぞるように滑る。
部屋を見回しても、見慣れた銀色の髪はどこにも見えない。
障子越しの朝の光が、柔らかく床を照らしていて、淡い金色の粒子がゆっくり舞っているだけ。
空気が静かすぎて、自分の息づかいがやけに大きく聞こえる。
耳を澄ますと、リビングの方からかすかな物音がした。
カチャ、という小さな音。
スプーンが皿に触れるような、控えめで、忍ばせるような気配。
それと一緒に、ふわりと甘い匂いが鼻をくすぐる。
キッチンの方から漂ってくる、砂糖と生クリームの香り。
バニラの甘さと、ほんのり温かいバターの匂いが混じって、胸の奥を優しくくすぐる。
私はパジャマのまま、足音を立てないようにそっとドアを開けた。
リビングのテーブルの前に、白雪様が立っていた。
銀色の長い髪は、いつもより丁寧に三つ編みにされていて、きちんとまとめられている。
普段の着物の上には、見覚えのあるエプロン。
妹のものを白雪様用に修正したけど、少し大きくて、袖口がぶかぶかで、裾が膝のあたりでふわっと揺れている。
白雪様は真剣な横顔で、何かを整えていて……その姿が新鮮で、思わず見とれてしまう。
狐の耳がぴくりと動いて、尻尾がゆっくりと左右に揺れるのが、朝の光に映えてきれいだった。
私の気配に気づいた瞬間、白雪様はぱっと顔を上げた。
金色の瞳が大きく見開かれて、次の瞬間、ぱあっと花が咲いたみたいに表情が明るくなる。
「綾! おはよう! ……誕生日おめでとう!!」
そのまま、弾むような足取りで駆け寄ってきて、勢いよくぎゅっと抱きついてくる。
温かい腕が背中に回って、懐かしい甘い匂いが一気に包み込んでくる。
エプロンの布地がパジャマに触れて、柔らかくて、少し生クリームの甘い香りが移ってくる。
白雪様の三つ編みが私の頰に当たって、さらさらと滑る感触がくすぐったい。
胸の奥で、さっきの不安が一瞬で溶けていく。
代わりに、温かくて、ふわふわした喜びが広がって、目頭が熱くなった。
「……びっくりした……」
掠れた声で呟くと、白雪様はぎゅっと抱きしめたまま、くすくすと笑った。
「ごめんね、起こさないようにそーっと起きて……綾の誕生日、特別にしたくて」
その言葉が、耳元で優しく響いて、
私は白雪様の背中に腕を回して、ぎゅっと抱き返した。
朝の光が、二人を優しく照らしている。
誕生日なのに、こんなに温かい朝が来るなんて……
白雪様がいるから、こんなに幸せなんだって、改めて実感した。
驚きで固まる私に、白雪様は少し誇らしげに、でもどこか照れくさそうに笑った。
狐の耳がぴくぴくと動いて、尻尾の先がゆっくりと左右に揺れる。
金色の瞳が朝の光に照らされて、キラキラと輝いている。
「綾の誕生日、前から、こっそり準備してたの……」
そう言って、私の手を取る。
少しひんやりしているけど、ぎゅっと力がこもっていて、指先が震えているのが伝わってくる。
そのまま、テーブルの方へ優しく引かれていく。
足音がリビングのフローリングに小さく響いて、朝の静けさを優しく破る。
テーブルの上には、手作りのケーキが置かれていた。
形は少しだけいびつで、スポンジが片側だけ高くなっていたり、クリームがところどころ波打っていたり……完璧とは言えない。
でも、赤いいちごがたくさん飾られていて、真っ赤な実が朝の光に濡れたように輝いている。
チョコペンで書かれた「綾へ♡」の文字が、丸っこくて少し歪んでいるけど。
丁寧で、一文字一文字に想いが込められているのがわかる。
その文字を見るだけで、胸がきゅっとなって、息が詰まる。
ケーキの横には、小さな手作りのカード。
白雪様は、少し緊張した表情でそれを差し出した。
指先が微かに震えていて、エプロンの袖がぶかぶか揺れる。
「これ……綾に」
私はそっとカードを受け取って、開く。
中には、丁寧で少し丸みのある、白雪様の字。
インクの匂いがふわりと漂って、胸の奥をくすぐる。
「綾へ誕生日おめでとう。綾と出会ってから、私の世界が変わったよ。毎日が楽しくて、温かくて、幸せで……これからも、ずっと一緒にいたい。白雪より」
最後には、小さな狐のイラスト。
耳がぴょこんと立っていて、尻尾がくるんと巻いていて、どこか白雪様にそっくりで、愛らしい。
文字を追ううちに、視界がにじむ。
胸の奥が熱くなって、涙が溜まっていく。
喉が詰まって、息が震える。
「……白雪様、ありがとう」
声が少し震える。
それに気づいた白雪様は、慌てたように私の顔を覗き込んだ。
金色の瞳が心配そうに揺れて、狐の耳がぴくっと下がる。
「綾、泣かないで……!サプライズ、失敗しちゃった?」
「違うよ……嬉しすぎて」
そう言って、私は白雪様を抱きしめた。
温かい体が腕の中に収まって、エプロンの布地がパジャマに触れる。
白雪様はほっとしたように息を吐いて、私の背中を優しく撫でる。
指先がゆっくりと上下して、優しいリズムで心を落ち着かせてくれる。
「よかった……綾が喜んでくれて、私も嬉しい」
ケーキを切って、ふたりで並んで座る。
白雪様はフォークで一口すくって、少し緊張した顔で私の方へ差し出した。
クリームが少し崩れて、いちごの汁がぽたりと落ちる。
でも、その不器用さが愛おしくて、胸がまた熱くなる。
「綾、あーん」
白雪様のフォークが、ゆっくりと私の口元に近づいてくる。
いちごの赤い実がクリームに半分埋もれて、朝の光に濡れたようにツヤツヤ光ってる。
チョコペンの文字が少し溶けかけて、甘い匂いが鼻先をくすぐる。
私は言われるまま、素直に口を開けて、ぱくり。
甘さが舌の上にふわっと広がって、スポンジの柔らかさと生クリームの濃厚さが溶け合う。
いちごの酸味が優しくアクセントになって、胸の奥までじんわりと染み込んでくる。
一口で、幸せが体中に広がる感じ。
「美味しい……白雪様が作ってくれたケーキ、最高」
そう言うと、白雪様は頬をほんのり赤くして、照れたように笑った。
狐の耳がぴくぴくと下がって、尻尾の先がテーブル下で小さくぴょんぴょん跳ねるみたいに揺れる。
金色の瞳が、朝日を受けてキラキラ輝いて、なんだか見てるだけで胸がきゅんとする。
「綾の好きな甘さにしたよ……生クリーム、少し多めにしちゃったけど」
「ちょうどいいよ」
私はもう一口フォークでケーキをすくって、白雪様の口元に差し出す。
白雪様は目を細めて、ぱくりと食べて、くすくす笑う。
クリームが唇の端に少しついて、白雪様が指でそっと拭う仕草が可愛くて、
思わず見とれてしまう。
指先がクリームをなぞって、ぺろっと舐める仕草まで、愛おしくてたまらない。
ふたりでケーキを半分こして、コーヒーを飲みながら、ゆっくり話す。
カップから立ち上る湯気が、朝の光に透けて、部屋を優しくぼかしていく。
コーヒーの苦味とケーキの甘さが口の中で混じって、時間が穏やかに流れていく。
時計の秒針の音が、遠くで小さく響くだけ。
「白雪様、いつ準備してたの?」
「綾が学校行ってる間に、こっそり……昨日は夜中までケーキ焼いてたの。ちょっと焦げちゃったけど、綾に食べてもらいたくて」
白雪様の声が少し小さくなって、耳がぴくっと下がる。
私はケーキの端っこをフォークでつつきながら、首を振った。
「焦げてないよ……すごく美味しい」
いびつな形も、多めのクリームも、全部が白雪様の想いが詰まってるみたいで、
一口食べるたび、胸が温かくなって、涙がにじみそうになる。
白雪様は私の手を握って、指先を絡める。
少しひんやりした指が、すぐに私の体温で温まって、ぴったりと重なる。
手のひらから伝わる温かさが、胸の奥までじわじわ広がっていく。
「綾の誕生日、初めて祝えて……私、幸せすぎて、胸がきゅんきゅんする」
「私も……白雪様に祝ってもらえて、こんなに嬉しい誕生日、初めて」
プレゼントは、カードの他に小さな箱。
白雪様が少し緊張した手つきで差し出してくる。
箱はシンプルな白い紙に包まれていて、淡いピンクのリボンがふわっと結ばれていて、朝の光に照らされて優しく輝いている。
そっと開けると、中にはシルバーのネックレス。
チェーンは細くて繊細で、光に当たると小さな星のようにキラキラと反射する。
その先には、小さな狐のチャーム。
耳がぴょこんと立っていて、尻尾がくるんと巻いた形が、白雪様にそっくりで、愛らしい。
チャームの表面は滑らかで、指で触れるとほんのり温かみが残っている気がした。
「これ……私が作ったの。綾の誕生日プレゼントに、狐の分身を少しだけ、分けてみたんだ」
白雪様は照れくさそうに目を伏せる。
狐の耳がぴくっと下がって、頰がほんのり桜色に染まる。
金色の瞳が、ちらりと私を覗いてはすぐに逸らされて、長いまつ毛が影を落とす。
「これを着けてると、私の気持ちがいつも綾の近くにいるよ……」
私はネックレスをそっと手に取って、首にかける。
チェーンが肌に触れる瞬間、ひんやりとした冷たさが一瞬だけ感じられて、すぐに体温に馴染んでいく。
小さな狐のチャームが胸元で軽く揺れて、銀色の光が反射する。
指でそっと触れると、チャームの輪郭が指先に優しく当たって、温かさがじんわり伝わってくる。
「ありがとう……大切にする」
声が少し震えて、自然と笑みがこぼれる。
白雪様は私の首元に手を伸ばして、ネックレスを優しく整えてくれる。
指先が鎖骨に軽く触れて、くすぐったいのに心地いい。
そして、そっとキスを落とす。
唇の柔らかさが首筋に触れて、温かさがじんわりと広がる。
甘い生クリームの匂いが混じって、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「綾……大好き」
その囁きが耳元で響いて、胸の奥が熱くなる。
私は白雪様の頰に手を添えて、優しく返した。
「私も……白雪様、大好き」
誕生日ケーキを食べ終えて、ふたりでソファに座り、プレゼントの箱を抱きしめ合う。
箱の紙の感触が手に残って、ケーキの甘い匂いがまだ部屋に漂っている。
白雪様は私の膝に頭を乗せて、安心したように目を細めた。
銀色の髪が膝の上に広がって、さらさらと滑る。
狐の耳が私の太ももに軽く触れて、ぴくりぴくり動くのが感じられる。
尻尾がソファの上でゆっくりと揺れて、柔らかい毛が私の足に当たる。
「綾の誕生日、これからも毎年祝いたい……」
「うん……一緒に、ずっと」
夕方まで、ふたりでごろごろしながら、誕生日を祝ってくれた。
外は春の陽が優しく差し込んで、部屋の中は甘いケーキの匂いと、白雪様の温もりで満ちていた。
「白雪様と二人暮らし」をお楽しみいただけましたか?
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