1話 最後にした優しさ
高校1年の夏の終わり。
まだ残暑が厳しい日差しの中、家族はみんなで帰省先から戻るドライブに出かけた。
父が運転席でハンドルを握り、母が助手席で地図アプリを覗き込んで。
後部座席では兄と妹がいつものようにじゃれ合って、うるさいくらいに笑い声を上げていたらしい。
私は夏期講習の補習があって、一人、家に残った。
「綾、ちゃんと勉強しとけよー」
兄が車の窓から手を振って、いつもの調子でからかうように言った。
「アイス買って帰るからね! 綾の好きなチョコミント!」
妹がニコニコしながら、窓から身を乗り出して笑っていた。
いつからか、妹は生意気に私を名前で呼ぶようになった。
全く生意気な妹め。
私は玄関先で、精一杯の笑顔を浮かべて手を振り返した。
車がゆっくりと角を曲がって見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
あの瞬間が、最後に見た家族の笑顔だった。
陽射しが眩しくて、みんなの顔が少しぼやけて見えたけど……今でも、はっきり覚えてる。
その日の午後、私は塾の教室で数学の授業を受けていた。
黒板に並ぶ数式をぼんやり眺めながら、頭の片隅で「アイス、楽しみだな」なんて思っていた。
突然、教室のドアがノックされて、担任の先生が顔を出した。
いつも穏やかな顔が、真っ青だった。
「紫微さん……ちょっと来てくれるかな」
名前を呼ばれた瞬間、胸がざわついた。
なんだろう。悪い予感しかしなくて、手が震え始めた。
廊下に出ると、そこに警察官が二人と、見知らぬ人が立っていた。
先生が震える声で、何かを言おうとしたけど……言葉にならなくて。
警察官が、静かに、でもはっきりと伝えてきた。
伝えられたのは以下の事だった。
高速道路で、対向車線のトラックが居眠り運転。
飲酒もしてたらしい。
中央線をはみ出して、正面衝突。
家族全員……即死。
頭の中が、真っ白になった。
耳がキーンと鳴って、周りの音が遠くなる。
「嘘……」って呟いたら、声が掠れて出なくて。
次の瞬間、喉の奥から、抑えきれない嗚咽が溢れた。
泣き叫んだ。
母の顔が見たい。
父の優しい声が聞きたい。
兄のからかうような笑い声。
妹の甘えた声。
もう二度と、聞けないんだって……わかってるのに、わかってるのに、叫ばずにはいられなかった。
葬儀が終わって、家に戻った。
玄関のドアを開けた瞬間、息が止まりそうになった。
いつも誰かの声が響いていた家が……棺桶みたいに、静かすぎて。
テレビの音も、母のキッチンからの物音も、兄のゲームの効果音も、妹の歌う声も、何もかもなくなっていた。
リビングのソファに座っても、誰もいない。
家族の写真が飾られた棚が、ただじっと私を見ているだけ。
耳を澄ませば、風の音や時計の秒針だけが、かすかに聞こえる。
その静けさが、怖くて……怖くて、胸が潰れそうだった。
私は膝を抱えて、ただ震えていた。
あの夏の終わりから、私の世界は、永遠に変わってしまった。
それから少し経って、保険金が下りた。
生命保険と自動車保険その他もろもろ。
合わせて……かなりの額になった。
多分一生分のお金が入ったかもしれない。
まだ十五歳の私は、もちろん自分で管理なんてできない。
弁護士さんが全部預かって、信託みたいな形で管理してくれることになった。
数字を見せられたとき、頭が真っ白になった。
こんなにたくさんのお金が、私の家族の命と引き換えに来たなんて……。
嬉しいなんて、思えなかった。ただ、胸が重くて、息苦しかった。
それから、地獄のような日々が始まった。
最初は「遠い親戚」を名乗る人たちが、代わる代わる家のインターホンを鳴らした。
電子音が響くたび、心臓は嫌な音を立てて跳ね上がり、奥の方でぎゅっと縮こまった。
「お見舞いに来たのよ」
「様子を見に来ただけだから」
そう言って、彼らは笑顔でやってきた。
最初は、本当に優しかった。
「綾ちゃん、これから一人で大変よね。私たちが力になりたいと思っているのよ」
穏やかな声で、頭を撫でてくれる。その手のぬくもりに、一瞬だけ縋りたくなった。
でも、その指先が髪を撫で終える前に、必ず本音が顔を覗かせた。
「……それでね、実はうちも今、少し立て込んでいて。お金、少しだけ融通してもらえないかしら。身内なんだし、困った時はお互い様でしょ?」
「大学進学の費用とか、女の子一人じゃ管理しきれないでしょ? 私が預かってあげる。あなたが変なことに使わないように、ちゃんと守ってあげるから」
断ると、貼り付いていた笑顔が、ガラスが割れるみたいに一瞬で消えた。
「……恩知らずね。せっかく心配してあげたのに」
「血がつながっているのに、どうしてそんなに可愛くないのかしら。お金を持つと人間変わるのね」
投げつけられた言葉の棘が、剥き出しの胸に突き刺さる。
重い玄関のドアを閉めた後も、薄い壁を透かして廊下から陰口が這い込んできた。
「あの子、家族が死んで大金が転がり込んだからって、すっかり天狗になっちゃって。お兄さんが言ってたような『優しい娘』なんて嘘だったのね。がめついだけじゃない」
「わざわざ時間を割いてきてあげたのに、何あの態度。……薄情な子」
学校でも、風向きが変わった。
最初は、誰もが腫れ物に触れるような同情の目を向けてくれた。
「紫微さん、家族みんな亡くなったんだって……可哀想に」
教室の隅で、そっと肩を抱いてくれる子もいた。
その時はまだ、ここが私の居場所だと思いたかった。
でも、数億円とも言われる保険金の話が漏れ、噂が一気に広がった瞬間――世界の色が変わった。
休み時間、一番仲が良かったはずの友達が、明るすぎる声で笑いながら言った。
「親も兄妹もいなくなって、誰にも文句言われないんだよ? 自由でいいよね。金さえあれば、何でもできるじゃん」
私は、何も言い返せなかった。
喉の奥が熱くなり、胸を万力で締め付けられるような痛みが走る。
さらに、廊下では男子の一人が、ニヤニヤと卑屈な笑みを浮かべて近づいてきた。
「なあ、金目当てで付き合ってやるよ。どう? Win-Winだろ?」
冗談のつもりだったのかもしれない。
周りからは笑い声が漏れていた。でも、私はその場に崩れ落ちて吐きそうになった。
誰も、私の本当の気持ちなんてわかってくれない。
私がどれだけ泣いたか、どれだけ夜の静寂に怯えていたか、誰も知らない。
ただ「大金を手に入れた可哀想な子」という、剥がれないレッテルを貼られて、私はその檻の中に閉じ込められた。
家族のいない家に帰るのが怖くて、学校にいるのも怖くて……。
どこにも、居場所がなくなったみたいだった。
夜になると、ベッドの中で膝を抱えて、私は声を殺して泣いた。
枕に顔を埋めて、嗚咽を噛み殺しながら、ただ震えるしかなかった。
母さんに抱きしめてほしい。
あの温かくて、優しい匂いがする腕に、ぎゅっと包まれたい。
父さんに頭を撫でてほしい。
「よく頑張ったな」って、穏やかな声で言ってほしい。
兄にからかわれて、ちょっとムカついても、なんだか安心するような。
妹に甘えられて、髪をいじられたり、くっつかれたり、そんな当たり前のことが……もう、二度とできないんだ。
食事が喉を通らなくなった。
一口食べようとするだけで、胃が拒否して、吐き気がする。
夜も、眠れなくなった。
目を閉じると、家族の笑顔が浮かんで、胸が張り裂けそうになる。
開けると、天井の暗闇が怖くて……結局、朝まで天井を見つめていた。
ある朝、ふらふらと起きて、洗面所の鏡を見た。
髪が、一晩で真っ白になっていた。
根元から先まで、雪のように純白。
まるで、ショックと悲しみが、体の中を内側から焼き尽くして、色素まで奪ったみたいに。
指で触れても、夢じゃない。
現実だった。
自分の姿を見て、膝から力が抜けた。
鏡の中の私が、知らない誰かみたいで怖かった。
学校に行くと、教室がざわついた。
みんなの視線が、一斉に刺さる。
「不良になったの?」
「髪、染めたの? 急にどうしたの?」
好奇心と嘲笑が混じった声。
私はただ、下を向いて席に座るしかなかった。
昼休み、担任に職員室に呼び出された。
ドアを開けた瞬間、先生の顔が険しくなる。
「紫微、何だその髪は。親がいなくなって、そんな風になったのか?」
地毛だって説明した。
声が震えて、うまく言葉が出てこない。
先生は一瞬、黙った。
でも、次の瞬間、また大声で怒鳴った。
「だったらなぜ黒く染めないんだ! 学校の風紀を乱す気か! ルールはルールだ!」
私はもう、何も言えなかった。
ただ、涙がぽろぽろとこぼれて、床に落ちた。
頑張った。本当に、必死で頑張った。
生きてるから、生きなきゃいけないから。
でも、心は少しずつ、少しずつ、確実に壊れていった。
そして、高校一年生の一月一日――
新年の朝、布団の中で目を覚ましたとき、あの時のことを思い出した。
高校受験を控えた夏休み真っ只中。
予備校の夏期講習が本格的に始まる前の、ほんのわずかな“隙間時間”。
そんな中、私はなんとなく。本当に、なんとなくなんだけど。
名古屋駅のバスターミナルに立ち寄って、新穂高温泉方面行きの高速バスに乗り込んでしまった。
別に山が大好きってわけじゃない。
ただ、家に帰れば家族の声が四六時中響いてきて、頭がガンガンするんだもん。
静かで、誰もいない場所が欲しかっただけ。
それに、ここから見える景色は日本屈指の絶景だってネットで見たし……気分転換くらいにはなるかな、なんて軽い気持ちで来てみた。
バスが山道をぐんぐん登っていくにつれ、窓の外はどんどん深い緑に染まっていく。
やがてロープウェイを二つ乗り継いで、西穂高口駅に降り立った。
まだ夏本番の序盤だから、木々は濃いエメラルドグリーンの景色はすごかった。
登山道を少し下ったあたりを、私は一人でトボトボ歩いていた。木漏れ日が地面にキラキラとまだらな光の模様を描き、足元で揺れている。
遠くで鳥のさえずりが、柔らかく木々の間を渡っていく。
時折、優しい風が吹き抜けて、葉っぱ同士がサワサワと擦れ合う音が、私の耳をくすぐる。
なんだかそのリズムに合わせて、心臓の鼓動までがゆっくり、ゆっくりと落ち着いていくみたい。
こんな静かな場所、久しぶりだよね。
家にいると、いつも誰かの声やテレビの音が響いてて、頭の中がざわざわするのに。
ここは違う感じ。
ここは、ただただ穏やかで、私だけがいるみたいな――。
そんな心地よい静けさを、突然、誰かが優しく引き裂いたみたいに。
藪の奥、濃い緑の葉の影から、かすかで、弱々しい生き物の声が聞こえてきたような気がする。
「クゥン……」
最初は、風のいたずらかと思った。
木の枝が揺れて、遠くの鳥が何か言ってるのかなって。
でも、次の瞬間――また、同じ声。
今度はもっと近くて、もっと痛々しくて、
「クゥン……」
私の足が、ぴたりと止まった。
思わず息を飲んで、耳を澄ます。
……間違いない。
これは、生き物の声。
しかも、すごく弱ってる。
助けを、必死で求めているみたいな、切ないか細い響き。
胸の奥が、ドクン、と大きく跳ねた。
え、なにこれ。
なんで、こんな山の奥で……こんな心臓が跳ねるようなことが起きるの?
視線をゆっくり、音のした方向へ移す。
木漏れ日がまだらに差し込む中、濃い緑の葉っぱの隙間から、
何か小さな影が、うずくまるように動いているのが……チラリと見えた。
放っておけない、よね
小さく息を吐いて、私はそっと、一歩踏み出した。
スカートの裾が軽く揺れて、足元の木の根に引っかかりそうになる。
慌てて手を伸ばして裾を直しながら、
心臓がまた少し速くなったのを感じた。
怖いような、でも、気になるような……そんな気持ちを抱えたまま声のする方へと向かっていった。
藪をかき分けるたび、細い枝が頰をチクチクと引っ掻いて、痛いのに構っていられない。
顔の周りをブンブン飛び回る小さな虫たちも、払う余裕なんてなくてただ、早く、あの声の主にたどり着きたくて、奥へ奥へと進んだ。
そして、ようやく視界が開けた瞬間。
そこにいたのは、白い狐だった。
まだ幼い、小さな体。
純白の毛並みが、鮮やかな赤でべっとりと染まっている。
右の後ろ足が、金属の罠。たしかトラバサミに、がっちりと食い込まれていた。
動くたびに、金属が肉に食い込む音が、かすかに聞こえる気がした。
狐は痛みで全身を細かく震わせながら、それでもゆっくりと顔を上げて、私を見上げてきた。
濡れたような赤い瞳が、キラキラと光を反射している。
怯えと、痛みと……どこか、すがるような色を浮かべて。
「……かわいそう……」
声が、勝手に漏れた。
喉の奥が熱くなって、胸がぎゅっと締め付けられる。
私は慌ててその場にしゃがみ込んで、罠に手を伸ばした。
金属は冷たくて、ところどころ錆びていて、鉄と血の生臭い匂いが鼻を突く。
狐は最初、私の手を怖がって小さく牙をむき出したけど。
すぐに、力尽きたみたいに、ぴたりと動きを止めた。
「大丈夫だよ……もう少しだから、動かないでね」
必死で罠の仕組みを探る。
指先が震えて、何度も滑りそうになる。
金属の縁が指に食い込んで、じんわり血がにじんだけど、そんなの気にしてられない。
ようやく、レバーの部分を見つけて、力を込めて押し開いた。
カチッ、という乾いた音とともに、罠が開く。
狐は解放された瞬間、ぐったりとその場に横たわった。
雪みたいに白い体が、血でまだらに汚れて、息も弱々しい。
出血がひどい……このままじゃ、危ない。
私は持っていたハンカチを急いで丸めて、傷口にそっと押し当てる。
温かくて、柔らかくて、でも震えが止まらない小さな体を、両手で優しく抱き上げた。
軽い。
本当に、軽すぎて――心臓がまた、ドクンと鳴った。
「病院、連れてくから……待っててね」
誰に言ってるのか、自分でもわからない。
ただ、そう呟かずにはいられなくて。
そのまま、狐を胸に抱きしめて、背負うようにして下山を始めた。
道行くハイカーたちが、不思議そうにこちらを振り返る視線を感じたけど。
誰も、声をかけてこなかった。
近くの町まで下りて、ようやく動物病院を探し当てた。
幸い、獣医さんがすぐに診てくれてよかったって思った。
「珍しい白い狐だね。アルビノかな? 傷は深いけど、命に別状はないよ」
獣医さんの穏やかな声が、診察室に優しく響いた。
私はホッと胸を撫で下ろしながら、ガラス越しにいる小さな白い体を見つめた。
純白の毛が少し乱れて、包帯が巻かれた後ろ足が痛々しい。
でも、あの赤い瞳はまだ、ちゃんとこちらを捉えていて……なんだか、安心したみたいに、ゆっくり瞬きをした。
治療費は結局、数万円かかった。
貯めていたお小遣い全部を、迷わず出した。
親に内緒でこっそりバイトしていた分も、全部無くなったけど。
財布がぺったんこになっちゃったけど、後悔なんて一つもなかった。
だって、この子を放っておけなかったんだもん。
数日間、入院することになった。
私は毎日、学校が終わるとすぐにバスに飛び乗って、動物病院へ通った。
最初は檻の奥で体を縮こまらせて、耳を伏せて怯えていた狐も。
私が毎日同じ時間に来て、そっと名前を呼んだり、指先で優しく撫でたりしているうちに、少しずつ、少しずつ、慣れてくれた。
近づくと、尻尾の先が小さく揺れるようになったり、
赤い瞳が、キラキラと柔らかく光るようになったり。
そんな小さな変化が、すごく嬉しくて……胸が温かくなった。
そして、ついに退院の日。
獣医さんが優しく言った。
「もう山に帰してあげなさい。この子は野生だからね」
私は狐をそっと抱き上げて、再びあの山へ向かった。
あの藪の近く、木漏れ日が優しく差し込む場所で、地面にゆっくり下ろす。
狐は少し足を引きずりながら、でもちゃんと立って……一度、振り返った。
赤い瞳が、じっと私を見つめてくる。
痛みと、感謝と……何か、言葉にできない、深い感情が混じったような瞳。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「元気でね」
私は精一杯の笑顔で、手を振った。
狐は一度だけ、小さく「クゥン……」と鼻を鳴らして――それから、ゆっくりと藪の中へ消えていった。
白い毛が、緑の影に溶けていくように。
あの瞳が、今でも時々、夢に出てくる。
痛みと、感謝と、何か言葉にできない温かさが混じった、あの赤い瞳。
それが、私が最後にできた、本当に「いいこと」だったのかもしれない。
―そう思うと、なんだか涙がにじんで、でも、優しい気持ちでいっぱいになった。
あの夏の山で出会った、白い狐の、小さくて温かかった体を。
あの赤い瞳に宿っていた、かすかな信頼と、優しさ。
私を、ただの人間として見てくれた。
今の私との落差が、あまりにも大きすぎて。
誰も信じられない。
誰も優しくしてくれない。
誰も、私を必要としてくれない。
心が、完全に折れた。
ぽきり、と音がした気がした。
それから、何も感じなくなった。
ただ、空っぽの殻みたいに、ベッドに横たわっていた。
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