9:ヒロインと吸血方法
『休館2階、一番奥の演劇部の部室で待ってます』
紅羽さんからの連絡を受けて、放課後の僕は普段めったに近寄らない古い校舎に足を踏み入れた。今の校舎が建つ前に使われていた建物で、今は部活や同好会の倉庫みたいな扱いになっている。どこか時間が止まったような、埃っぽい匂いが漂っていた。
「……やっぱ、不気味だなぁ」
きしむ床、色あせた掲示物。ホラー映画のロケ地にでも使えそうだ。こんな場所で“吸血鬼”と会うなんて――紅羽さんが超絶美少女じゃなければ、僕はとっくに卒倒しているだろう。
押し開けた演劇部の部室のドア。その奥、窓際の椅子にちょこんと腰かけた紅羽さんが、手をひらひら振ってきた。夕暮れの逆光に透ける髪、セーラー服の襟がふわりと揺れる。
「あ、野中くん。やっほー」
天女のようなシルエット!! 耳に刺さるプリティボイス!!
あぁ……今日も可愛すぎる!!
さっきまで不気味だった廃校が、一瞬で映えスポットに変わった気がした。
「どうしたの? 顔真っ赤だよ」
「いや、ちょっと……天女が見えて。ところで、1人で怖くなかった?」
「ううん、全然。むしろ私は落ち着く方かも」
吸血鬼って人間と変わらないんだと思ってたけど……やっぱりホラー耐性とか違うんだろうか?
「あ、野中くん。ドアの鍵、閉めてね?」
僕は振り返って、内側の錠をグリグリっと押し回す。古い校舎にありがちなネジ締まり錠ってやつだ。
「締めたよ」
「……うん。邪魔されたら困るから」
紅羽さんは小さく呟いた。
……誤解しそうなセリフだが、彼女的には“食事”を邪魔されたくないだけである。
実際、つい先日も体育館裏で吸血寸前に人が来て失敗した。
そのあと紅羽さんは、ホラー映画でよく見る“飢餓寸前の吸血鬼”みたいな顔になっていた。死ぬわけじゃないらしいけど、あれは本当に辛そうだった。……それでも可愛いのはもはやチートである。
「えっと……じゃあどうしよう? 立ってた方がいい?」
「うーん……」
紅羽さんはほっぺに指を当ててムニムニしながら考え込む。尊い。
「本当は、前のカラオケのときが一番吸いやすかったんだけど……」
「ああ……膝の上に座るやつ……」
「うん……」
沈黙。お互いに顔が真っ赤になる。
……うん、あの体勢は、ちょっとエッチすぎる。
「じゃあ、いっそ吸う場所を変えてみたら?」
「――たしかに!!」
こうして僕たちの“吸血方法検証会”が始まった。
* * *
机を挟んで椅子に座り、向かい合う。
「とりあえず……腕からいく?」
「うん! じゃあ……いただきまーす」
紅羽さんの犬歯がにゅん、と伸びて僕の腕に軽く突き立てられる。見た目はすごく痛そうなのに、なぜか全く痛くないのが不思議だ。だが、二回ほど吸われたあたりで、紅羽さんは眉間にうっすらと皺を寄せて口を離した。
「……ちょっと薄い」
「え、味って変わるの?」
紅羽さんはコクンと頷く。
「私、今まであんまり吸ってなかったから知識でしか知らなかったんだけど……野中くんの美味しさがこれじゃ発揮できてない。無駄遣いだよ、もったいない」
その顔が、本当に残念そうで可哀想になるくらいだ。
「うーん。逆に、一番おいしい場所ってあるの?」
「人によるけど、みんな口を揃えて『そこが美味しい』っていう部位は、あるかな」
「へー、どこなの?」
少し間を置いて、紅羽さんは小声でぽつりと言った。
「……ふとももの、付け根」
僕は思わず心の中で叫んだ。想像するな! するんじゃない!!
我が煩悩よ、大気圏を突破して、太陽系を出て宇宙の彼方へ飛んでゆけ! 機体名Hsugi-ma-SUはジェットの限り飛んでゆく!!
二人で窓の外を見やる。恥ずかしくなったら外を見よう。心が落ち着いて冷静になるから。
「それはダメだね」
遠くから野球部の掛け声が聞こえてきて、僕たちは小さく笑った。
この後も指や手のひらなど色々と試してみたけれど――。
「腕周りはやっぱり、最初に香りがガツンと来ないのかな……? 後味で野中くん特有のフルーティな味わいは膨らんで来るんだけど、初動が弱くてコンボが決まってないというか……」
紅羽さんの食レポがどんどん上手くなっていくのは面白いけど、結果はやっぱりイマイチ。
「基本首筋で体勢を変えようか……」
「うん、味が保証されてる部位だからねっ!」
紅羽さんはガッツポーズを決めた。……部位て。
「じゃあ、行きまーす!」
「はーい」
立っている僕の背後から、紅羽さんが後ろから覆いかぶさってくる。狙うのは首筋。
僕は背が大きい方じゃない。
それでも、紅羽さんにとっては首筋に届きにくいらしく、つま先立ちにならざるを得ない。
「野中くん、ちょっと下に下がって欲しいかも」
「あ、ごめん」
僕は慌てて少し膝を折る。スクワットみたいな体勢で妙に不安定だ。
「安定しない……」
「僕も微妙にしんどい……」
思わず笑いがこみ上げる。
その時だった。
背中に触れる温もりよりも、ふわっと鼻先をかすめた香りに一瞬で心を持っていかれる。
シャンプーの爽やかさ? リンスの甘さ?
いや違う。もっと複雑で、もっとシンプルで――紅羽さんそのものの匂い。
一呼吸するたびに胸の奥がじんわり熱を帯びる。
視界がふっと霞むくらい、頭の中がその香りでいっぱいになる。
……理解してしまった。
僕は今、紳士として“匂いフェチ”に目覚めてしまったのだ。
紅羽さんの香り、それだけでスキー!!!と叫びたくなるくらいに。
「後ろから抱きつくと……首筋が遠いんだね」
ゆっくりと紅羽さんが離れていく。
「前かがみにはなりやすいけど、後ろかがみにはなれないしなぁ」
……人間は、背中合わせに抱き合うようにはできていないんだな。そう思った。これ真理では?
「やっぱり床かな」
「え?」
「野中くん、床で仰向けになってみて」
言われるままに床へ。下には適当に段ボールを敷いてみた。
「……ええっと。これからどうする気なの?」
視線が低くなると、天井が遠くて部屋が広く見える。
「……一人だとちょっと不安?」
紅羽さんが小さく笑って、僕の隣にぽすんと横になる。
肩が触れそうな距離で、同じ天井を見上げる体勢。
「このまま覆いかぶさったら、吸いやすいかなって……」
不意に、紅羽さんの手が僕のお腹にちょんと触れた。
ドキリと心臓が跳ねる。
僕は即座に上半身を起こし、真顔で首を振った。
「……?」
首をかしげる紅羽さんに、僕はゆっくりと告げる。
「それは……アウトだ」
次の瞬間、紅羽さんはその体勢を想像して凄い速さで飛び起きながら顔を真っ赤に爆発させた。
慌てて両手で頬を覆う仕草が、どうしようもなく可愛い。
……けれど、その赤面は照れだけじゃない。
紅羽さんの瞳には、抑えきれない空腹の色がにじんでいた。
まるで本能に突き動かされるように、僕の首筋をロックオンしている。
紅羽さんは床に座ったままの僕の膝上に、ちょこんと腰かけた。
「ちょ、ちょっと待って紅羽さん!! そのまま座ると……スカート危ないから!!」
僕が慌てて言うと、紅羽さんはぽやんとした顔でこちらを見つめる。
吸血衝動で冷静さを失っているのか、焦点の合わないトロンとした瞳のまま、スカートの裾を指でつまんだ。
そして、ひょいと軽くたくし上げてみせる。
「……こうすればいいの?」
丈がほんの少し短くなっただけ。もちろんパンツなんて全然見えていない。
――のに、脳内では「見えそう」アラームが爆音で鳴り響き、理性がバグりかける。
「いやいやいやいや!! そういう問題じゃなくて!!」
天然爆撃に被弾して頭を抱える僕をよそに、紅羽さんは無邪気に腰を下ろしてきた。
柔らかな重みと体温が直に伝わってきて、ダメだこれ!!理性飛びそう!!!
「いや、紅羽さん……この体勢はやっぱり……」
「野中くん、ごめんね……?」
耳もとに落とされた声が、背筋をぞくりと走る。
ほんのり甘い吐息さえ、理性をかき乱す。
「お腹が減って……冷静になれないかも」
紅羽さんがそっと顔を近づける。
頬にかかる髪がくすぐったい。呼吸がかかるたび、心臓が跳ねる。
――そして。
首筋に触れる、小さな柔らかさ。
そこから伝わる体温と、じんわりとした吸い込まれる感覚。
チュウ……チュウ……と可愛い音が響くたび、血だけじゃなく理性まで吸い取られていく気がした。
……だめだ。
吸われているのは血だけじゃない。完全に、僕の心ごと飲み込まれている。




