第2話「サビ残は犯罪です」
「帰るのか? 空気読めよ」
時計は19時。定時を過ぎて1時間。
ほとんどの社員はまだパソコンに向かい、カタカタとキーボードを打ち続けている。
その中で、颯爽と上着を羽織った黒嶺に、部長の怒気を含んだ声が飛んだ。
「新入りが真っ先に帰るとか、ありえないだろうが」
黒嶺は一瞬だけ振り返った。
表情はいつもと変わらず、冷静で無機質なままだ。
「就業時間は18時までと伺っています。残業命令書もございませんでしたので、帰ります」
「は? そんなもん、いちいち紙で出してたら会社が回るか。
残ってるのが当然だろ?」
「……なるほど。つまりこれは“強制”ですね?」
「おうよ。“自主的”にな」
部長がニヤつく。
「空気読んで残るのが社会人」
「新人は黙って残業しろ」
──言外に、そんな“常識”を押しつけてくる。
しかし黒嶺は一歩も引かない。
鞄から一枚の紙をスッと差し出す。
「労働基準監督署への相談メモです。
現在、社内で残業が“慣習化”しており、“業務命令が文書で存在しない”こと、
さらに“時間外の賃金が支払われていない可能性がある”旨、相談済みです」
部長の顔が引きつる。
「おい、てめぇ……密告したのか?」
「いえ、“相談”です。密告というのは、悪事をしているという自覚がある者が恐れる言葉です」
社員たちのキーボードの音が止まった。
一人、また一人と顔を上げ、黒嶺と部長のやり取りに注目する。
「……いいか。うちの業界じゃ、なぁなぁが普通なんだよ。
若いうちは苦労しろ。それが将来の財産だ」
「では、苦労に対する“報酬”は?」
「は?」
「“将来”に期待して“今”の違法を見逃す?
そんな契約、僕は結んでいません。
労働契約書にも、そんなことは一言も書かれていませんでした」
部長は何かを言いかけたが、口をつぐんだ。
自信満々に言葉を重ねたつもりが、全て理論武装で返されたのだ。
「……明日、部長会議で話題に出す予定です。
社内の残業実態、労働時間、業務命令の形式、そして“空気”という曖昧な強制の横行について」
「貴様、何が目的だ……?」
「改革です。
働く人が“当たり前に”帰れる職場を作ること。
それができないのなら──この会社は、もう企業を名乗る資格はありません」
—
帰り際、廊下で女性社員がこっそり声をかけてきた。
「……黒嶺さん、ありがとうございます。
今日、私も初めて“堂々と”定時で帰れそうです」
「当然の権利ですから。……ただし、“誰かが戦う”までは、それは権利じゃなくて夢なんですよ」
—
その夜。
黒嶺は一人、部屋で資料を開いていた。
「次は、経費の闇か……。さあ、暴いていこう」
彼の目には、もはや“改革”というレベルを超えた“征服”の炎が灯っていた。
次回、「経費の闇にメスを」
不正処理、キックバック、裏帳簿……次なる敵は、カネの流れだ。