第1話「ようこそ、地獄へ」
「あの……新人の黒嶺です。本日からお世話になります」
その声が、あまりにも冷静で落ち着いていたせいか、誰も振り向かなかった。
朝8時、ビルの7階。社名も古びて剥げかけたフロアに足を踏み入れた黒嶺隼人は、まるで監獄のような空気を感じていた。
ざわざわとしたオフィス。PCの打鍵音、誰かがため息をつく音、そして──上司の怒号。
「おい! この書類、いつまで寝かせてんだよ! 頭ついてんのか!?」
見渡せば、疲れ切った顔で頭を垂れる社員たち。
デスクにはカップ麺、椅子に座ったまま仮眠を取る男、そして眠気と闘うように目をこする新卒風の女性社員。
(なるほど、見事なまでのブラックだ)
黒嶺は、薄く笑った。
そして、隣の席に座っていた中年の男性に声をかけた。
「失礼ですが、新人研修の担当の方は──」
「ああ? そんなもんねぇよ。見て覚えろ。以上だ」
にべもない返事。どうやらここでは“研修”などという概念すら存在しないらしい。
「……ふむ、了解です」
黒嶺は特に驚いた様子もなく、自席に座るとPCの電源を入れた。
—
10時。
課長が“恒例”の朝礼と称し、怒鳴り散らす。
「このプロジェクト、なぜ終わってねえ! 責任取れるのか!?」
「今日中に全部終わらせろ! 徹夜してでもやれ!」
社員たちは顔を伏せる。誰も反論などできるはずがない。
だが、その中でただ一人、黒嶺だけが、まっすぐに課長の目を見ていた。
「課長、一つ確認してもよろしいでしょうか?」
「あ? なんだ新人」
「“今日中”に“全部”というのは、具体的に何件の作業を指していますか?
また、それを処理するにあたり、法定労働時間と整合性が取れているか、精査された上での指示でしょうか?」
オフィスが静まり返った。
空気が凍りつく。
「……はぁ? 何言ってんだお前……」
「労働基準法第32条。労働時間は原則1日8時間、週40時間が上限です。
これを超える業務命令は、法的根拠と“労使協定”に基づく必要があります」
「てめぇ、ルールブックか何かか?」
「いえ。ただの労働者です。が、知っている労働者です」
—
昼休み、案の定、課長から呼び出される。
「お前、空気読めよ」「目立つな」
そんな言葉を散々浴びせられた。
だが、黒嶺は微笑んだまま、こう言い放った。
「空気は、読むものではなく、変えるものです」
—
夜22時。
まだ明かりが灯るオフィス。
女の子がコピー機の横で、眠そうにまぶたを擦っていた。
「新人さん、早く帰らないと、巻き込まれますよ……」
「そうですか。ありがとうございます。……でも、僕は違うんです」
「え?」
「僕はこの会社を変えに来ました。破壊して、再構築するために」
女の子が目を見開いた。
その横顔を一瞥し、黒嶺は小さくつぶやく。
「ようこそ、地獄へ──いや、地獄の主役は今日から俺だ」






