第九話:闇に溶け込む光
鳴神兄弟の確執が表面化し、朔夜から鬼の一族の真の目的を聞かされて以来、月守沙樹は自身の「月華」の力が、単なる戦闘補助の役割に留まらないことを漠然と感じ始めていた。
月の一族が語る「闇を払う光」とは異なる、朔夜が感じ取った「闇に溶け込む光」――その意味を探る日々が続いていた。
沙樹は、これまでの月華の訓練では決して触れられなかった古文書を、忍の目を盗んで読み漁っていた。
それは、一族の歴史の中でも特に秘匿されてきた、古の時代に関する記述がされたものだった。
そこには、朔夜が語った「始まりの月華」に関する記述が、断片的に記されていた。
『始まりの月華は、月の光と闇、その全てを抱擁する者なり。光を以て闇を照らし、闇を以て光を識る。故に、世界は均衡を保つ。』
この記述を読んだ瞬間、沙樹の心に雷が落ちたような衝撃が走った。
これまで一族が教えてきたのは、月の光による「排斥」の歴史だった。だが、この古文書は、かつては光と闇が共存していた時代があり、その均衡を保っていたのが「始まりの月華」だったと示唆している。
そして、その力が自分の中に宿っているかもしれない、という朔夜の言葉が、改めて沙樹の脳裏をよぎった。
沙樹は、その真偽を確かめるべく、より深く「月華」の力を探求し始めた。
千尋の教えを忠実に守りながら、彼の目を盗んでは、璋との秘密の訓練で教わった、より感覚的な力の使い方を試した。
そして、夜には朔夜との逢瀬で、彼の言葉から鬼の視点を取り入れた。
ある夜、沙樹は瞑想中に、これまでとは異なる「月華」の感覚を掴んだ。
手のひらに集まる月の光は、以前よりも温かく、そして、どこか柔らかい。
その光は、ただ明るいだけでなく、闇の奥深くまで浸透し、隠されたものまで照らし出すかのように感じられた。
それはまるで、光と闇が互いを否定することなく、寄り添い合っているような感覚だった。
「これだ……!」
沙樹は目を開けた。その瞬間、彼女の瞳は、月の光を宿したかのように淡く輝いていた。
その日の夜、沙樹は朔夜と森で会っていた。
「朔夜、あなた、まさか、このことを知っていたの?」
沙樹は、古文書で得た知識と、自身の「月華」の変化を、彼に打ち明けた。
朔夜は、静かに沙樹の言葉を聞くと、どこか安堵したように微笑んだ。
「やはり、お前は『始まりの月華』の素質を持っている」
朔夜の言葉に、沙樹は確信を得た。
「光と闇を抱擁する力。それは、お前が憎しみではない、別の感情で闇に触れた時に初めて現れる」
朔夜はそう言い、沙樹の掌にそっと触れた。
「お前は、月の一族でありながら、我らの苦しみにも耳を傾けた。
その心が、お前の月華の光を、真の意味で目覚めさせたのだ」
彼の言葉は、沙樹の心を深く震わせた。
憎しみではなく、理解と共感。それが「月華」の真の力を引き出す鍵だった。
朔夜は、沙樹に鬼の一族が追い求めてきた「永遠の闇」と「始まりの月華」の伝説を、より詳しく語ってくれた。
かつて、光と闇が混沌としていた世界を秩序付けたのが、初代の「始まりの月華」であったこと。
その月華は、光の眷属と闇の眷属、双方の信頼を得て、世界の均衡を保っていたこと。
しかし、ある時、月の一族が闇を「悪」と断罪し、排斥を始めたことで、世界は光に偏り、鬼の一族は隠れ潜むしかなかったこと。
そして、この歪みを正すため、鬼の一族は新たな「始まりの月華」の覚醒を待ち望み、「永遠の闇」を通じて、再び均衡を取り戻そうとしてきたこと。
「我らは、闇に生きる者ゆえ、光を憎んだ。だが、それは、光が我らを否定したからだ。
お前は、我らの苦しみを知った。その心が、我らを救う光となるだろう」
朔夜の言葉には、鬼の一族が抱える深い悲しみと、彼らが求めてきた真の「救済」の願いが込められていた。
沙樹の「月華」の力は、単なる攻撃や防御の能力を超え、月と鬼、二つの種族に横たわる千年を超える憎しみの螺旋を断ち切るための、唯一の希望となり得るものだった。
しかし、この真実を知ることは、沙樹を更なる葛藤へと引きずり込んだ。
千尋は、これまで以上に鬼の討伐に執念を燃やしていた。
彼にとって鬼は、決して許すことのできない存在だ。
月の一族の歴史と使命を重んじる彼に、鬼の悲しい背景を話すことなど、できるはずもなかった。
千尋が抱く鬼への憎悪は、沙樹の知る「真実」とはあまりにもかけ離れていた。
彼が、どれほどの重圧を背負っているのかを知っているだけに、沙樹は彼の苦しみに寄り添いながらも、真実を告げられない自分に深く苦しんだ。
一方、璋は、一族の監視の目をかいくぐり、夜な夜な外の世界へと出かけていた。
彼もまた、一族が隠している真実を求めていた。
「沙樹、この一族は、何かを隠してる。俺は、それを自分の目で確かめたいんだ」
ある日、璋は沙樹にそう告げた。彼の瞳には、探求心と、一族への深い不信感が宿っていた。
沙樹は、彼に朔夜から聞いた真実を打ち明けたい衝動に駆られた。
彼なら、きっと理解してくれる。だが、それは朔夜との秘密を明かすことになり、彼を危険に晒すことにもなる。沙樹は言葉を飲み込んだ。
三つの異なる想いと、それぞれの真実が沙樹の心の中で複雑に交錯する。
千尋の絶対的な正義感と、彼が守ろうとする「光の世界」。
璋の自由への渇望と、彼が追求する「隠された真実」。
そして、朔夜が示す、「光と闇の均衡」という世界のあり方。
沙樹の「月華」の真の力は、これら全ての要素を理解し、抱擁することによって発現する。
それは、鬼と月の一族の間の架け橋となり、千年もの間続いてきた争いの螺旋を断ち切る可能性を秘めていた。
だが、その力を使いこなすには、沙樹自身の覚悟が必要だった。
月の一族としての使命と、鬼への禁断の愛。
そして、どちらの側にも立つことのできる「始まりの月華」としての、究極の選択が、沙樹を待ち受けていることを、彼女は悟っていた。
この世界を変えることができるのは、光でも闇でもない。
光と闇、その全てを包み込み、新たな均衡を築くことのできる「始まりの月華」――月守沙樹の、その真の力が試される時が、刻一刻と近づいていた。