第八話:月の波紋
朔夜との秘密の交流は、沙樹の心に鬼の一族への新たな視点をもたらしただけでなく、月の一族、特に鳴神兄弟への見方にも変化を与えていた。
千尋の揺るぎない正義感は、時として頑なさに映り、璋の反発的な態度は、単なる不真面目さではなく、一族のあり方への深い疑問から来ていることを沙樹は知った。
三人の想いが複雑に絡み合う中で、これまで水面下にあった鳴神兄弟の確執が、徐々に表面化し始めた。
ある日、沙樹は月華としての訓練を終え、千尋に今日の成果を報告していた。
千尋は沙樹の成長を心から喜び、その瞳には優しい光が宿っていた。
「沙樹は本当に努力家だな。お前の月華の力は、確実に一族の希望になる」
千尋の言葉は、沙樹にとって何よりも嬉しい褒め言葉だった。
しかし、同時に、胸の奥に微かな痛みが走った。
彼の言う「希望」とは、鬼を排除し、月の一族の支配する世界を維持することに他ならない。
朔夜と出会った今の沙樹には、その言葉が純粋に響かなくなっていた。
その日の夕食時、いつものように食卓を囲む千尋、璋、そして沙樹。
忍は別の任務で不在だった。
月の一族の話題が出ると、千尋はいつになく真剣な表情で語り始めた。
「最近、鬼の活動が活発化している。特に、これまで確認されていなかった新たな鬼の気配も増えているようだ。一族として、警戒を強めなければならない」
千尋の言葉に、沙樹は思わず朔夜の顔を思い浮かべた。
彼らの目的は「永遠の闇」と「始まりの月華」の探索だと言っていた。そのための行動なのだろう。
「そんなことして、何になるんだよ、兄貴」
不意に、璋が箸を置き、冷めた声で言った。
千尋は眉をひそめ、弟を見た。
「璋、何を言う。鬼は我々の宿敵だ。奴らを放置すれば、この世は闇に飲み込まれる」
「闇に飲み込まれるって、誰にとってだよ。俺たち月の一族にとって、だろ?」
璋の言葉に、食卓の空気が凍り付いた。沙樹は固唾を飲んで二人を見守る。
「お前は、一族の宿命を忘れたのか。月閃の血を引く者として、光を守るのが俺たちの役目だ」
千尋の声には、怒りが滲んでいた。
「光を守る? 闇を排除するってことだろ。あんたたちは、光が正義で、闇が悪だと決めつけてるだけだ。鬼にも、鬼なりの事情があるかもしれないじゃねーか」
璋の言葉に、千尋は立ち上がった。
「馬鹿なことを言うな! 鬼は、これまでどれほどの人間を、月の者を苦しめてきたと思っている! 奴らに情けなど無用だ!」
千尋の瞳には、鬼に対する揺るぎない憎悪と、一族の使命を全うしようとする固い決意が宿っていた。
沙樹の知る千尋の優しさとは裏腹に、そこには絶対的な「正義」があった。
璋もまた立ち上がり、千尋を真っ直ぐに見つめた。
「あんたは、全部を一族の言いなりになるのかよ。俺は、兄貴みたいに器用じゃねーんだ。納得できねぇことを、はいそうですかって受け入れられるほど、素直じゃねーよ」
「それは、お前が未熟だからだ。一族の歴史と、背負うべき責務を知れば、そんな馬鹿なことは言えなくなる」
「未熟で結構だよ。少なくとも、俺はあんたみたいに、自分の心を押し殺して、一族の傀儡にはならねー」
「傀儡だと!? 璋、貴様っ!」
千尋の手が、思わず璋の襟首を掴んだ。
二人の間に、張り詰めた空気が流れる。沙樹は、二人を止めるべきか迷ったが、言葉が出なかった。
その時、璋の視線が、一瞬だけ沙樹に向けられた。
その瞳には、何かを訴えかけるような、複雑な感情が宿っていた。
まるで、「あんたはどう思う?」と問われているかのように。
沙樹は、自分の知る「鬼の背景」を彼らに話すべきか、激しく葛藤した。
しかし、言えるはずがない。それは、自分と朔夜の秘密を明かすことになるからだ。
結局、その夜は、忍が任務から戻り、二人の間に割って入る形で事なきを得た。
しかし、この一件で、千尋と璋の間には、修復しがたいほどの亀裂が入ってしまったように見えた。
その翌週、沙樹は璋との秘密の特訓の最中に、彼の口から驚くべき真実を聞かされた。
「あのさ、俺、近いうちに一族を出ていくかもしれねー」
璋は、月光の下で、どこか諦めたような表情で呟いた。
「え……? 璋、何言ってるの?」
沙樹は思わず声を上げた。
「兄貴といても、埒があかねーんだよ。あいつは、一族の教えを絶対だと思い込んでる。
俺は、違う。このままじゃ、息が詰まる」
璋はそう言い、夜空に浮かぶ月を睨みつけた。
「俺は、俺のやり方で、真実を見つけたい。一族が隠してること、鬼の本当に目的。全部、自分の目で確かめたいんだ」
璋の言葉は、沙樹が朔夜から聞いた「世界の歪み」という言葉と重なった。
「じゃあ、璋も……鬼が、ただの悪じゃないって、思ってるの?」
沙樹が震える声で尋ねると、璋は一瞬、沙樹の顔を見て、そして、皮肉げに口元を歪めた。
「さあな。だが、少なくとも、兄貴や一族の言うことが全てだとは思ってねーよ」
彼の瞳には、どこか寂しげな色が宿っていた。
璋は、月閃としての類稀なる才能を持ちながら、一族の在り方に疑問を抱き、自由を求めていた。
彼の反発は、単なる反抗期ではなく、彼なりの正義と探求心から来ていたのだ。
沙樹は、彼の孤独と、彼が背負う葛藤に深く共感した。
そして、彼の「自分の目で確かめたい」という純粋な思いが、沙樹自身の心に響いた。
「もし、璋が本当に一族を出ていったら……どうなるの?」
「さあな。裏切り者として追われるか、放っておかれるか。どっちにしろ、もう俺は月閃じゃなくなる」
璋の言葉に、沙樹の胸が締め付けられた。
彼が、どれほどの覚悟でその言葉を口にしているのか、沙樹には痛いほど分かった。
その頃、千尋は鬼の討伐任務に、これまで以上に積極的に参加するようになっていた。
彼の表情は日に日に険しくなり、その眼差しからは、以前の穏やかさよりも、使命を全うしようとする固い意志が強く感じられるようになっていた。
沙樹は、彼の強さに尊敬の念を抱きつつも、その強さが、彼自身の心を押し潰しているのではないかと、不安を感じていた。
ある夜、千尋は任務から戻るなり、激しく荒れていた。彼の服は破れ、顔には土と血がついていた。
「千尋兄さん! どうしたの!?」
沙樹が駆け寄ると、千尋は悔しそうに拳を握りしめた。
「まただ……奴らは、以前よりも狡猾になっている。このままでは……」
千尋の言葉には、焦りと苛立ちが滲んでいた。
そして、その視線は、憎しみを込めて夜空に浮かぶ月を睨んでいた。
「必ず、奴らを根絶やしにする。それが、俺の、月閃としての使命だ」
その言葉を聞いて、沙樹は千尋の孤独と、彼が背負う重圧を改めて感じた。
彼は、一族の期待を一身に背負い、その使命を全うしようと必死なのだ。
その背中は、あまりにも大きく、そして、どこか寂しそうに見えた。
月守沙樹の心は、三つの異なる感情の奔流に揉まれていた。
千尋の絶対的な正義感と、彼が背負う重圧への共感。
璋の自由への渇望と、隠された真実を探求しようとする意志への共感。
そして、朔夜という「敵」が持つ、悲しい背景と、世界の均衡を取り戻したいという願いへの理解。
兄弟間の確執は、単なる兄弟喧嘩ではなかった。
それは、月の一族の根幹を揺るがす、思想の対立だった。
そして、沙樹は、その対立の中心に立つ「月華」として、どちらか一方を選ぶことができない、苦しい立場に立たされていた。
沙樹の「月華の螺旋」は、加速していく。
三つの異なる「愛」と「真実」が絡み合い、彼女を究極の選択へと導いていく予感を、沙樹はひしひしと感じていた。