第六話:心の迷路
朔夜との秘密の逢瀬が重ねられるにつれて、沙樹の心は複雑な迷路に迷い込んだようだった。
「月華」としての重責、千尋の揺るぎない優しさ、璋の気まぐれな優しさ、そして朔夜という「敵」への抗えない惹かれ。これら全ての感情が、月光の下で、もつれ合った糸のように絡み合っていた。
日中の訓練で千尋と向き合うとき、沙樹は彼の瞳の奥に宿る、自分への深い信頼と愛情を感じ取っていた。
千尋は、沙樹が「月華」としての力を使いこなせず、落ち込んでいると、必ずと言っていいほど隣に寄り添ってくれた。
「沙樹は、焦りすぎているだけだ。お前の力は、必ず開花する」
そう言って、千尋は沙樹の手を優しく握る。
彼の掌から伝わる温もりは、沙樹の心をじんわりと温め、安心感を与えた。
その瞬間、沙樹は自分が千尋にどれほど支えられているかを痛感し、彼の隣にいることの安らぎを感じた。
同時に、彼が自分を包み込むように守ろうとするたびに、朔夜と密会している罪悪感が、チクリと胸を刺した。
千尋の優しさが深ければ深いほど、沙樹は自身の裏切りに似た行為に、ひどく胸を締め付けられるのだった。
ある日、千尋は珍しく、訓練後に沙樹を呼び止めた。
「沙樹、お前……最近、何かを隠しているな」
彼の声は穏やかだったが、その瞳は沙樹の心の奥底を見透かすようだった。
沙樹は心臓が跳ね上がり、反射的に目を伏せた。
「な、なんのこと……?」
「俺は、お前の幼馴染だ。お前のことなら、何でも分かるつもりだ」
千尋の手が、そっと沙樹の頬に触れた。
その指先は、まるで月の光のように優しく、沙樹の心を揺さぶった。
「もし、何か悩んでいることがあるなら、俺に話してくれ。どんなことでも、お前を支える」
千尋の言葉は、沙樹の心を温かく包み込んだ。
彼の揺るぎない信頼に、沙樹は胸が苦しくなる。
千尋の隣にいることが、どれほど幸福なことか。
だが、その幸福の裏側で、沙樹の心は別の場所に囚われている。
千尋の優しさが、沙樹を罪悪感で押し潰しそうになる。
一方で、璋との関係は、千尋とのそれとは全く異なる性質を持っていた。
秘密の特訓は続き、二人の間に、共犯者のような、特別な絆が育まれていた。
璋は、相変わらず一族のしきたりに反発し、月閃としての役割にも不満を漏らしていたが、沙樹が月華としての力を得るために努力する姿には、どこか満足げな表情を見せることがあった。
「いいか、沙樹。月の光は、お前の身体の一部だ。もっと自由に、本能のままに操れ」
璋はそう言って、沙樹に新しい訓練メニューを課した。
それは、一族の伝統的な月華の訓練とはかけ離れた、型破りなものだった。
沙樹は最初は戸惑ったが、彼の指導の下で、眠っていた月華の力が、これまでになく身体に馴染んでいくのを感じた。
ある夜、訓練を終え、月明かりの下で休憩していると、璋がふいに、沙樹の隣に寝転がった。
「なあ、沙樹。あんた、最近、なんか楽しそうだな」
璋の言葉に、沙樹はドキリとした。朔夜との逢瀬が、顔に出ていたのだろうか。
「そ、そんなことないよ」
沙樹が慌てて否定すると、璋はフッと笑った。
「嘘つけ。あんた、俺との訓練の時も、前より集中してるし、顔つきも変わった。……まあ、いいけどな。楽しそうで、何よりだ」
璋はそう言って、再び空を見上げた。
彼の声には、いつもの皮肉めいた響きはなく、どこか優しさが混じっていた。
「璋は……どうなの? 楽しい?」
沙樹が尋ねると、璋は少しだけ考え込むような素振りを見せた。
「……俺は、ずっと、この一族のしきたりが嫌いだった。
兄貴みたいに、全部を受け入れて、完璧にこなすなんて、俺には無理だ」
彼の声には、珍しく弱音が混じっていた。
「けど、アンタと訓練してると、たまに、どうでもよくなる時がある。
……俺も、俺なりに、誰かの役に立てるのかもなって」
璋は、そう言って、沙樹の顔を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、反発的な態度の裏に隠された、彼の純粋な気持ちが宿っていた。
沙樹は、その視線に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼もまた、自分と同じように、居場所を探し、自分の存在意義を見つけようと藻掻いているのだ。
璋の言葉は、沙樹の心を強く揺さぶり、彼への特別な感情を確かなものにした。
そして、朔夜との逢瀬は、沙樹の心を、より深い闇へと誘い込んでいく。
「月の者よ。お前は、我らをただの悪と見るか?」
朔夜は、静かに沙樹に問いかけた。彼の声は、闇夜に溶け込むように囁かれ、沙樹の心を魅了した。
沙樹は、迷いなく首を振った。
「違う。あなたは……違う」
「我らは、過去の過ちを繰り返すまいとしている。だが、お前たち月の一族は、それを理解しようとはしない」
朔夜の言葉には、深い悲しみと、諦めにも似た響きがあった。
彼は、鬼の一族が抱える苦しみや、月の一族との間に横たわる深い溝の存在を、沙樹に教えてくれた。
それは、沙樹がこれまで知っていた世界の全てを覆すような、衝撃的な真実だった。
「お前の力は、両者を繋ぎ止める光だ」
朔夜は、沙樹の掌に触れ、そこから漏れる月華の光を優しく包み込んだ。
「お前が信じる道を進めば、きっと、この螺旋を断ち切れるだろう」
彼の言葉は、沙樹の「月華」としての使命に、新たな意味を与えた。
単に鬼と戦うだけでなく、彼らの苦しみにも寄り添い、理解することで、この永きにわたる争いを終わらせる道があるのではないか。
朔夜の存在は、沙樹にとって、危険な誘惑であると同時に、閉塞した世界の「希望」ともなり得るものだった。
沙樹は、朔夜の隣にいる時だけ、一族のしきたりや、月華としての重圧から解放されるのを感じていた。
彼は、沙樹の弱さも、未熟さも、全てを包み込むように受け止めてくれる。
その禁断の繋がりは、沙樹の心に、これまで経験したことのない甘く危険な感情を呼び起こしていた。
千尋の揺るぎない信頼と愛情。璋との秘密めいた絆と、共に反発し合う共犯意識。そして、朔夜という「敵」への抗えないほどの惹かれ。
沙樹の心は、三つの異なる感情の間で激しく揺れ動いた。
どの感情も、沙樹にとってかけがえのないものであり、どれか一つを選ぶことなど、到底できそうになかった。
月華の力は、沙樹の内に宿ることで、三つの「愛」の螺旋を、さらに複雑に、深く絡み合わせていく。
この絡み合った運命の糸が、どのような結末へと沙樹を導くのか、まだ誰も知る由もなかった。