第五話:「禁断の恋」の始まり
あの夜、森で朔夜と出会って以来、月守沙樹の心は、得体のしれない波紋を広げ続けていた。
一族では鬼を「災厄」と呼び、断固として排除すべき存在だと教えられてきた。
千尋もまた、沙樹の「鬼に助けられた」という話を、信じられない、と頑なな表情で聞いていた。
しかし、沙樹がこの目で見た朔夜は、あの夜の襲撃者とは明らかに異なっていた。
そして、彼の瞳の奥に宿っていた、あの静謐な光が、沙樹の心を掴んで離さない。
沙樹は、秘密の訓練の帰り道、璋に尋ねてみた。
「ねぇ、璋。鬼って、本当にみんな悪い奴なの?」
璋は、月明かりの下で短刀の手入れをしながら、ちらりと沙樹を見た。
「あ? 悪いっつーか、害があるのは確かだろ。俺たちとは相容れない存在だ」
「でも、全部がそうじゃない気がするの。あの時、私を助けてくれた鬼は……」
「偶然だろ。獲物を横取りされたくなかっただけかもしれねーし、気まぐれだろ」
璋は吐き捨てるように言ったが、その声には、どこか断言しきれない響きがあった。
彼もまた、あの夜の異質な気配を感じ取っていたはずだ。
朔夜への好奇心は、日を追うごとに募っていった。
一族の厳しい訓練、千尋の優しい庇護、そして璋との秘密の特訓。
それらのどれもが、沙樹の「月華」としての力を磨き、この世界に深く関わる自分を自覚させていく。
だが、心の奥底では、あの鬼の存在が、沙樹の知る世界の常識に、静かにひびを入れていた。
ある日の深夜、沙樹は眠れずに窓辺に立っていた。
満月が、屋敷の庭を白く照らしている。その光景を見ていると、胸騒ぎがした。
まるで、誰かに呼ばれているような、そんな不思議な感覚。
衝動的に、沙樹は部屋を抜け出した。
忍に見つからないよう、千尋と璋にも気づかれないよう、音もなく屋敷の裏口から外へ出る。
足は、あの夜、朔夜と出会った森へと向かっていた。
森の奥深くまで進むと、ひんやりとした夜の空気が肌を撫でた。
木々のざわめきが、まるで囁き声のように聞こえる。
「……朔夜?」
沙樹は、誰に聞かせるでもなく、小さく彼の名を呼んだ。
返事はない。やはり、気のせいだったのだろうか。
沙樹が踵を返そうとした、その時だった。
「……何の用だ」
背後から、低い声がした。
振り返ると、そこには、闇に溶け込むように立つ朔夜がいた。
黒い衣は夜の闇に紛れ、白銀の髪だけが月光を吸い込んで輝いている。
彼の瞳は、静かに沙樹を見つめていた。
沙樹の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
恐怖よりも先に、目の前に彼がいることへの、抗えない興奮が湧き上がる。
「あ、あなた……あの時の……」
沙樹が言葉を探していると、朔夜はゆっくりと沙樹に近づいてきた。
その動作は滑らかで、一切の無駄がない。
「月の一族の娘が、単身で鬼の縄張りに入ってくるとはな。命知らずか、愚か者か」
彼の声には嘲りも悪意もなく、ただ淡々と事実を述べる響きがあった。
「な、なんで、あの時、私を助けたの?」
沙樹は、勇気を振り絞って尋ねた。
朔夜は、沙樹の質問にすぐに答えず、じっと彼女の顔を見つめた。
その視線に、沙樹は体が石になったかのように動けなくなる。
やがて、朔夜はふと目を細め、夜空を見上げた。
「……お前は、他の月の一族とは、何かが違う」
彼の言葉は、沙樹にとって思いがけないものだった。
「月の加護は、時として厄介な光を放つ。だが、お前の光は……どこか、温かい」
彼の言葉の意図がわからず、沙樹は首を傾げた。
「温かい……?」
「そうだ。他の月の者たちが、ただ闇を払うだけの光を放つ中、お前の光は、何かを包み込むようだ」
朔夜はそう言い、静かに沙樹の方へ手を伸ばした。
その指先が、沙樹の頬にそっと触れる。
ひんやりとした感触。だが、そこには、人を傷つけるような冷たさはなかった。
「お前の内に宿る力に、興味がある」
朔夜の視線が、沙樹の瞳の奥を覗き込むように、深く、見つめてくる。
沙樹は、彼の視線から目を離すことができなかった。
一族の使命も、千尋の心配も、璋の反発も、その全てが、この瞬間の沙樹の意識から消え去っていた。
ただ、目の前の鬼の、深く、そしてどこか孤独を湛えた瞳に、吸い込まれていく感覚だけがあった。
「私は、月守沙樹……」
気がつけば、沙樹は自分の名を告げていた。
朔夜は、その名を聞いて、微かに口元を緩めたように見えた。
「……朔夜」
彼もまた、自分の名を告げた。
その瞬間、二人の間に、目に見えない線が引かれ、そして結ばれたような、不思議な感覚がした。
それから、沙樹と朔夜は、夜な夜な森で会うようになった。
一族には決して明かせない、秘密の逢瀬。
朔夜は、沙樹に鬼の一族の話をしてくれた。
彼らがなぜ夜にしか活動しないのか、なぜ光を嫌うのか。
それは、ただ単に「悪」だからではなく、彼らなりの事情や、遠い昔に月の一族と交わした「約束」のようなものが関係していることを、朔夜は仄めかした。
「我らは、過去に囚われている。お前たち月の一族も、きっと同じだろう」
朔夜の言葉は、これまで沙樹が教えられてきた「鬼はただの悪」という単純な図式を、複雑なものへと変えていった。
沙樹もまた、大学での普通の生活を失ったこと、月華としての力に戸惑い、足手まといになることへの歯がゆさなど、誰にも言えなかった本音を朔夜に打ち明けた。
朔夜は、沙樹の言葉を、ただ静かに聞いてくれた。
時に、ふっと笑うような表情を見せることもあった。
その表情は、人のそれと何ら変わらず、沙樹は彼の側にいる時だけ、一族の重圧や、戦いの恐怖から解放されるような気がした。
朔夜と会っている間だけは、自分は「月華」でもなく、「月の戦士」の妹でもなく、ただ一人の「沙樹」でいられた。
それは、沙樹にとって、かけがえのない時間となっていった。
「沙樹、お前の光は、闇を照らすだけでなく、闇に溶け込むことができる。
それは、この世界を変えるかもしれない」
ある夜、朔夜は、沙樹の掌から淡く漏れる月華の光を見つめながら、静かにそう言った。
沙樹の心に、電流が走る。
彼だけが、沙樹の「月華」の力の真の可能性を、見抜いているかのように思えた。
月明かりの下、朔夜は沙樹の髪に触れ、そっとその頬を包んだ。
その瞳は、深淵のように深く、そして、吸い込まれるような魅力に満ちていた。
沙樹は、彼の瞳の奥に、自分と同じような孤独と、何かを求めているような切なさを感じた。
一族の掟、宿命、そして「敵」であるはずの存在。
それらの全てを乗り越えて、沙樹の心は、彼に強く惹かれ始めていた。
それは、月の一族と鬼の一族、それぞれの歴史が許さない、まさに禁断の恋の始まりだった。
この抗えない感情は、沙樹の「月華の螺旋」を、さらに深く、そして危険な方向へと導いていくことになるだろう。