第四話:鬼との出会い
鳴神千尋との穏やかな指導、そして鳴神璋との秘密めいた特訓。
二人の「月閃」との関わりの中で、月守沙樹は少しずつ「月華」としての力を自覚し始めていた。
特に璋との訓練は、沙樹の五感を研ぎ澄ませ、周囲の「気配」を敏感に察知する能力を磨き上げていた。
その夜、沙樹はいつものように、璋との特訓を終え、月の光が降り注ぐ森の小道を足早に帰っていた。
体は疲れているはずなのに、心は不思議と高揚していた。
璋との訓練は、厳しさの中に、まるで未知の扉を開くような興奮があったのだ。
その時だった。
ザワリ、と、森の空気が変わった。
肌を撫でる風が、冷たく、重い。本能が警鐘を鳴らす。
これは、あの夜に感じたものと同じ「気配」。鬼だ。
沙樹は反射的に身を隠し、呼吸を潜めた。
周囲の闇に目を凝らす。
木々の葉が風もないのにざわめき、微かな低い唸り声が聞こえてくる。
複数の鬼の気配だ。
しかし、その中に、一つだけ異質なものが混じっていた。
他の鬼が放つ、人を喰らわんとするような悪意に満ちた気配とは違う、もっと静かで、それでいて底知れない深淵のような気配。
沙樹は枝葉の隙間から、そっと覗き込んだ。
森の開けた場所に、三体の鬼がいた。
二体は見るからに禍々しく、獣じみた唸り声を上げている。
しかし、その中央に立つ一体は、まるで絵画から抜け出たかのような、静謐な美しさを湛えていた。
その鬼は、人間と寸分違わぬ容姿をしていた。
闇に溶け込むような黒い衣を纏い、月光を反射する白銀の髪が肩まで流れている。
顔は月の光を浴びて、彫刻のように端正で、どこか憂いを帯びた瞳は、森の奥深くを見据えていた。
彼だけが、他の鬼とは一線を画す、圧倒的な「静けさ」を纏っていた。
「……朔夜」
なぜだか、その名前が沙樹の頭に浮かんだ。
以前、一族の古文書で見たような、見ていないような。
だが、その名が、その鬼にぴったりだと感じた。
鬼たちは、何かを探しているようだった。
荒々しく地面を掘り返し、周囲の木々を薙ぎ倒していく。そ
の目的は分からないが、尋常ではない様子だった。
突如、一体の鬼が、沙樹が隠れている茂みに向かって顔を向けた。
「……いる」
その低い声に、沙樹の心臓が跳ね上がった。
見つかった!
身を固くして逃走経路を考える間もなく、獰猛な鬼が沙樹の隠れる茂みに飛びかかってきた。
その瞬間、沙樹の体が反射的に動いた。
璋との訓練で培われた、野生のような感覚。
意識するよりも早く、身を翻して木の陰に隠れた。
間一髪で鬼の攻撃を躱した沙樹は、冷や汗をかきながらも、その俊敏な動きに自分自身が驚いた。
しかし、二体目の鬼が既に沙樹の背後に回り込んでいた。
逃げ場はない。
絶体絶命の状況で、沙樹は反射的に、掌に月の光を集めようとした。
「月華」の力を。
だが、まだ未熟な沙樹の力では、咄嗟の状況で完全に使いこなすことはできない。
僅かに淡い光が掌に灯っただけだった。
その時。
静謐な美しさを纏っていた「朔夜」が、一歩、前に踏み出した。
彼の動きは、あまりにも静かで、あまりにも速かった。
獣じみた鬼たちが反応するよりも早く、朔夜の姿は沙樹の前に現れた。
朔夜は、右腕を軽く振った。
それだけの動作で、沙樹に迫っていた二体の鬼が、まるで目に見えない壁に弾かれたかのように吹き飛んだ。
その場に倒れ込み、苦しげに呻き声を上げる。
沙樹は、何が起こったのか理解できなかった。
鬼が、鬼を攻撃した?
朔夜は、沙樹の方を向いた。
その瞳は、深淵のような闇を湛え、しかし、そこに敵意は感じられなかった。
ただ、じっと、沙樹を見つめている。
「……貴様は、何者だ」
朔夜の声は、低く、しかし、不思議なほど耳に心地よかった。
そこに、あの夜に沙樹を襲った鬼のような禍々しさはなかった。
沙樹は言葉が出ない。ただ、朔夜の瞳に吸い込まれるように見つめ返していた。
その時、遠くから別の「気配」が近づいてくるのが分かった。
鳴神千尋と璋だ。彼らが沙樹の危機を察知し、駆けつけてくるのだろう。
朔夜は、その気配を察したのか、ふっと目を細めた。
「……来るな」
そう呟くと、朔夜は沙樹に背を向け、吹き飛んだ二体の鬼の元へ歩み寄った。
彼は倒れている鬼たちに何かを囁き、彼らを促すように森の奥へと消えていった。
まるで、最初からそこに存在しなかったかのように、彼の姿は闇に溶けていった。
朔夜の姿が完全に消えた後も、沙樹はその場に立ち尽くしていた。
何が起こったのか、頭が追いつかない。
直後、千尋と璋が駆け込んできた。
「沙樹! 大丈夫か!」
千尋が血相を変えて沙樹に駆け寄る。
その顔には、安堵と同時に、深い不安の色が浮かんでいた。
「鬼の気配がしたんだが……!」
璋も周囲を警戒するが、既に鬼たちの気配は消え失せていた。
沙樹は震える声で、今起こったことを千尋と璋に話した。
鬼が鬼を退けたこと、そして、その鬼が放っていた異質な気配のこと。
千尋の表情は、みるみるうちに険しくなった。
「鬼が、月華を守った……? そんな馬鹿な話があるものか」
千尋は、沙樹の言葉に信じられないという顔をした。
一族の歴史において、鬼が月の者、特に「月華」を助けたなどという記録は存在しない。
しかし、璋は腕を組み、何かを考えるように月夜を見上げていた。
「……ありえない話じゃねーな」
璋の呟きに、千尋は驚いて弟を見た。
「璋、何を言っているんだ」
「あの気配は、俺たちには馴染みねぇが、あの野郎が放ってたもんとは違う気がした。
それに、確かに一瞬、鬼の気配が引いたのを感じた」
千尋はそれでも納得がいかない様子で、鬼が去った方向を警戒するように見つめていた。
一族の使命を重んじる彼にとって、鬼は絶対的な敵であり、その認識を覆すことは容易ではないのだろう。
だが、沙樹の心には、千尋や一族の常識とは異なる、新たな感情が芽生え始めていた。
あの「朔夜」と名付けた鬼は、なぜ沙樹を助けたのか?
彼の憂いを帯びた瞳の奥には、一体何が隠されているのか?
月光の下、沙樹の心は、二人の月閃への異なる感情と、そして未知の鬼への抗えない好奇心で満たされていた。
それは、まるで禁断の果実に手を伸ばすような、予感に満ちた衝動だった。
沙樹の「月華の螺旋」は、この夜、さらに複雑な曲線を描き始めたのだ。