第三話:二人の月閃 ~璋~
兄の千尋が丁寧な指導で沙樹を導く一方で、弟の鳴神璋は、全く異なる形で沙樹の「月華」としての覚醒に関わっていた。
璋は、あの鬼の襲撃以来、沙樹に対して以前にも増して気だるげな態度を取るようになった。
一族の訓練にも渋々参加している様子で、沙樹が月華として真面目に学ぼうとするほど、「そんなことして何になる」とばかりに冷めた視線を向けてくる。
「また真面目にやってんのかよ、月華様」
訓練の合間、璋は縁側に寝そべり、わざとらしくため息をついた。
沙樹は組んだ腕の中で深呼吸をしていたところだった。
「璋はもう少し真面目にやったらどうなの? 月閃なんでしょ?」
沙樹が少し咎めるように言うと、璋は片目を閉じ、面倒くさそうに返した。
「俺は兄貴と違って、一族のために人生捧げる気なんてねーんだよ。月閃だろうが何だろうが、俺は俺だ」
彼の言葉は、常に一族の重圧を感じていた沙樹の心に、どこか刺さるものがあった。
自分もまた、ごく普通の生活を失ったことに不満を感じている。
だからこそ、璋の言葉は、沙樹の抱える鬱屈を刺激するようだった。
だが、璋の態度は、沙樹の心に奇妙な影響を与えた。
千尋の優しさが「守られる」ことへの甘えや、自分の無力さへの焦りを生む一方で、璋の反発的な態度は、沙樹の心の奥底に眠っていた「自由への渇望」を呼び起こしたのだ。
ある夜、沙樹は忍の部屋を訪ねた。
忍は、古文書に囲まれ、眉間に深い皺を刻んで読みふけっていた。
「姉さん、私、本当に月華としてやっていけるのかな……」
沙樹の問いに、忍は顔を上げ、静かに微笑んだ。
「沙樹なら大丈夫よ。月の加護は、選ばれた者にしか宿らないもの」
その言葉は温かかったが、沙樹の心には届かなかった。
忍の凛とした姿は、あまりにも完成された「月華」で、沙樹とは遠くかけ離れた存在に思えたのだ。
部屋を出た沙樹は、ふと庭の隅から物音がするのに気づいた。
忍に知られてはいけない、そんな雰囲気が漂っている。
好奇心に駆られて近づくと、そこにいたのは璋だった。
彼は、一族から支給された刀ではなく、見慣れない短刀を構え、影と踊るように一人で訓練をしていた。
その動きは、無駄がなく、しなやかで、そして月光のように鋭かった。
日中の不真面目な態度とはまるで違う、真剣な眼差し。
沙樹が息を呑むと、璋は動きを止め、沙樹の方を振り返った。
「なんだよ、こんな時間に。まさか、俺のこと見張ってんのか?」
璋の言葉に、沙樹は慌てて首を振った。
「違う! 璋がこんな時間に何してるのかなって……」
「別に。あんたには関係ねーだろ」
そう言い放つ璋の横顔には、どこか寂しさが滲んでいるように見えた。
翌日、沙樹は思い切って璋に声をかけた。
「ねえ、璋。私も、戦えるようになりたい」
璋は鼻で笑った。
「今更かよ。あんたは月華だろ。月閃みたいに刀振り回す必要なんてねーんだよ」
「でも、足手まといになりたくないの! 兄さんたちに守られてばっかりじゃなくて、自分の力で、戦えるようになりたい!」
沙樹の必死な訴えに、璋は少しだけ目を見開いた。
「……へぇ。あんたにもそんな根性あったんだな」
意外そうな顔をした後、璋は不敵な笑みを浮かべた。
「じゃあ、一族には内緒だぞ。俺が、あんたに月閃の基礎を叩き込んでやる」
その日から、沙樹と璋の秘密の訓練が始まった。
場所は、一族の者が決して近づかない、屋敷の裏手にある森の奥。
夜が深まる頃、二人はこっそりと抜け出した。
千尋の指導が型に忠実で丁寧なのに対し、璋の教え方は、荒削りで実践的だった。
「いいか、相手は常に想像を裏切る動きをしてくる。月華の力に頼りすぎんな。自分の体を信じろ」
璋はそう言って、沙樹に容赦なく素早い攻撃を仕掛けてきた。
沙樹は何度も転び、泥だらけになった。
「くそっ、何で当たらないの!」
「当たり前だろ。俺の動きは、アンタの常識じゃ読めねーよ」
璋はニヤリと笑い、沙樹の腕を掴んで捻り上げ、体勢を崩した。
しかし、璋の型にはまらない指導は、沙樹にとって新鮮だった。
千尋が「こうあるべき」と教えるのに対し、璋は「こうすれば、もっと楽に動ける」と、常識を打ち破る発想を教えてくれた。
それは、これまで一族のしきたりに縛られていた沙樹の固定観念を打ち砕き、新たな視点を与えてくれた。
「月華の力は、感覚的なもんだ。理論ばっかりじゃダメだ」
ある日の訓練中、璋は疲れて座り込んだ沙樹の隣に、大の字になって寝転がった。
「一族の奴らは、血筋がどうとか、歴史がどうとかうるせーけど、結局は自分がどう信じるかだろ」
璋は、ぼんやりと夜空を見上げながら呟いた。
「俺だって、月閃なんてクソ食らえだと思ってた。
けど、そうするしかねー時もある。だからこそ、自分のやり方で、誰にも邪魔されずに戦いてーんだ」
その言葉に、沙樹はハッとした。
璋の反発的な態度の裏には、一族のしがらみから自由になりたいという、強い願いと、そして彼なりの「月閃」としての誇りがあることを知った。
「璋も、本当は、守りたいものがあるんでしょ?」
沙樹が問うと、璋は一瞬、言葉に詰まった。
そして、ふいと顔をそむけ、小さく呟いた。
「……かもな。まあ、それが何なのか、俺にもよくわかんねーけど」
その言葉の奥に、沙樹は、璋の孤独と、彼が抱える深い葛藤を感じ取った。
彼は、兄のように全てを受け入れることはできず、かといって全てを捨てることもできない。
その間で苦しんでいるのだと。
秘密の訓練を重ねるうちに、沙樹は少しずつ、自分の身体と「月華」の感覚が結びついていくのを感じ始めた。
璋との訓練は、時に危険で、時には理不尽だったが、そのおかげで、沙樹は千尋の指導だけでは得られなかった、本能的な「戦う力」を身につけつつあった。
そして何よりも、璋という、自分と似たような葛藤を抱える存在との交流は、沙樹の心を大きく成長させた。
月光の下、沙樹と璋は、汗だくになりながら笑い合った。
その瞬間、沙樹は感じた。
千尋とは異なる、璋との間の、特別な絆。
それは、互いの弱さを知り、共に反発し、そして共に成長していく、共犯者のような、深く強い繋がりだった。
沙樹の心の中で、二人の「月閃」への異なる感情が、複雑に絡み合い、螺旋を描き始めていた。