第二話:二人の月閃 ~千尋~
あの夜から、沙樹の日常は完全にひっくり返った。
大学へは形式的に籍を置いているだけで、ほとんど実家に籠りきりだ。
一族の者たちが入れ替わり立ち替わり現れては、「月華」としての心構えや、古い文献に記された月の加護の歴史を叩き込まれる。
戦いとは無縁だった生活は一変し、沙樹は戸惑いと、自身の無力さに打ちひしがれていた。
特に、毎日のように行われる体術の訓練は、沙樹にとって苦痛でしかなかった。
今まで体力には自信があったつもりだが、専門的な訓練を受けた月閃たちとは比べ物にならない。
少し動けば息が上がり、筋肉痛は日常茶飯事。何よりも、自分が全く役に立てないことが、沙樹の心を深く抉った。
「沙樹、重心がぶれてる。もっと地面に根を張るように」
穏やかな声が、沙樹の耳に届く。
従兄の鳴神千尋だ。
彼は、厳しい訓練の中にあっても、決して声を荒げることはなかった。
いつも沙樹の側にいて、細やかなアドバイスをくれる。
彼の瞳は、月光のように澄んでいて、沙樹のどんな小さな努力も見逃さない。
千尋は、幼い頃から沙樹にとって、包容力のある「兄」だった。
どんな時も優しく、守ってくれる。
あの夜、鬼に襲われた際も、真っ先に駆けつけてくれたのは彼だった。
その絶対的な安心感は変わらない。
だが、今の沙樹は、その優しさに甘えるばかりの自分に、強い歯がゆさを感じていた。
「ごめんなさい、千尋兄さん……私、全然できなくて」
訓練の休憩中、沙樹は項垂れて呟いた。掌は豆だらけで、体は鉛のように重い。
千尋は何も言わず、沙樹の隣に腰を下ろすと、そっと冷たいタオルを差し出した。
「謝る必要はない。沙樹は、これまで特殊な訓練を受けてこなかったんだから。焦ることはないよ」
彼の声は、疲弊した沙樹の心にじんわりと染み渡る。
だが、その優しさが、かえって沙樹の胸を締め付けた。
「でも……私、月華なのに。全然力が使えない。いつも千尋兄さんたちに守られてばかりで……足手まといにしかなってない」
沙樹の声は震え、瞳には悔しさがにじむ。
千尋は静かに沙樹の言葉を聞いていたが、やがて視線を上げ、遠くの空に浮かぶ白い月を見つめた。
「沙樹は、足手まといなんかじゃない」
彼の声は、いつもよりも少しだけ、低い響きを帯びていた。
「月華の力は、単純な攻撃力じゃない。俺たちが、その力を最大限に引き出せるように、お前がいてくれるだけでいい。お前がいなければ、俺たちは戦えないんだ」
そう言って、千尋は沙樹の手を取り、その掌を優しく包んだ。
彼の掌は、訓練で鍛え上げられただけあって大きく、温かい。
その温もりが、沙樹の心の奥底に染み渡る。
「……でも、私、戦いたい。千尋兄さんみたいに、自分も、大切な人を守れるようになりたい」
沙樹の言葉に、千尋は小さく息を呑んだ。そして、沙樹の手を握る力を、少しだけ強めた。
「沙樹……」
彼の瞳には、沙樹への深い愛情と、何かを堪えるような複雑な感情が入り混じっていた。
その日以来、千尋は、沙樹に対する指導をより一層、熱心に行った。
座学や古文書の読み解きに加え、月華としての力の使い方を、実践的に教えてくれるようになったのだ。
「月華の力は、心を落ち着かせ、月の光を体に取り込むことで強くなる」
千尋はそう言って、訓練場の中央で瞑想する沙樹の傍らに座った。
「焦るな。月の光は、常にそこにある。お前の心の中に、静かに満ちていくのを感じるんだ」
沙樹は目を閉じ、千尋の言葉に耳を傾ける。
彼の声は、まるで月の光そのものであるかのように、心を穏やかにしてくれる。
最初は、なかなかうまくいかなかった。
光を感じようとしても、雑念ばかりが浮かんでくる。
だが、千尋は決して諦めなかった。
何時間でも沙樹の隣に座り、時には手を重ねて、その温かい月閃の気を流し込んでくれることもあった。
ある夜、沙樹は訓練場で一人、瞑想を試みていた。
何度やっても、しっくりこない。
いら立ちが募り、思わず目を開けると、そこに千尋が立っていた。
「どうした、眠れないのか?」
千尋は優しく微笑み、沙樹の隣にそっと腰を下ろした。
「私、全然ダメで。千尋兄さんみたいに、強く……なれない」
沙樹の目に涙が浮かぶ。
千尋は何も言わず、ただ沙樹の震える手を握りしめた。
「沙樹は、沙樹のままでいいんだ。強さの形は、一つじゃない」
彼の言葉は、沙樹の心をじんわりと温めた。
その温かさに、沙樹の心に、微かな光が灯るのを感じた。
「千尋兄さんも……大変だよね」
ふと、沙樹は千尋の横顔を見上げた。
一族の期待、そして「月閃」としての重責。千尋は常に完璧で、弱音を吐くところなど見たことがない。
千尋は、沙樹の言葉に少しだけ目を伏せた。
「……俺は、長男だからな。一族を支えるのは、当然の役目だと思っている」
彼の声は、どこか諦めにも似た響きがあった。
「でも、たまに、ふと考えることがあるんだ」
千尋は、初めて見せるような、少し寂しそうな表情で呟いた。
「俺にも、本当にこれでいいのか、迷う時がある。お前みたいに、自分の気持ちに正直になれたら、どんなに楽だろう、と」
彼の口から、弱音が零れたのは初めてだった。
常に完璧に見えた彼の、人間的な一面を垣間見て、沙樹の胸に、新たな感情が芽生える。
それは、単なる「守られる存在」としての安心感ではなく、彼もまた、自分と同じように重圧を抱え、苦しんでいる一人の人間なのだという、深い共感と、彼を支えたいという切ないほどの想いだった。
千尋は、すぐにいつもの穏やかな表情に戻ったが、沙樹の心には、その一瞬の彼の弱さが深く刻み込まれた。
この夜、沙樹は確かに感じたのだ。
千尋への信頼は揺るがない。だが、彼の隣に立ち、共にこの重圧を分かち合いたいという、これまでとは違う感情が芽生え始めていることを。
それは、守られるだけの自分を卒業し、彼を守れる存在になりたいという、沙樹自身の成長への強い願望でもあった。