第十話:選択の時
「月華」の真の力を自覚し、鬼の背景と目的を知った月守沙樹の心は、もはや元の平穏な日常には戻れなかった。
光と闇、二つの世界に引き裂かれながら、沙樹は来るべき「その時」を予感していた。
そして、その予感は現実となる。
月の一族と鬼の一族、長きにわたる因縁に終止符を打つかのような、全面衝突が始まったのだ。
事の発端は、月の満ち欠けが最も強いとされる「望月の夜」だった。
その日は、一族にとって最も神聖な日であり、同時に鬼にとって力を増す日でもある。
一族は、この日を警戒し、各地に「月閃」を配置して厳戒態勢を敷いていた。
しかし、鬼たちは、これまでとは比較にならないほどの規模と連携で、月の一族の主要な拠点である本家を強襲してきたのだ。
夜空を覆い尽くすほどの黒い瘴気が、本家のある山間部を包み込み、月の光さえも霞ませる。
鬼たちの咆哮が、静寂を破り、大地を揺るがした。
「沙樹! こちらへ!」
千尋の声が、緊迫した状況の中で沙樹の耳に届く。
彼の表情は、これまでにないほど厳しく、瞳には戦士としての研ぎ澄まされた覚悟が宿っていた。
千尋は、月閃の隊を率い、鬼の先鋒を食い止めようと応戦していた。
彼の刀からは、鋭い月光が放たれ、闇を切り裂いていく。
「兄さん……!」
沙樹は、千尋の背中を見つめながら、彼の抱える使命の重さを改めて感じた。
彼にとって、鬼は憎むべき敵であり、排除すべき存在だ。
その正義感は揺るがない。だが、沙樹の知る鬼の背景は、その正義を複雑にしていた。
本家の広間では、月の結界が薄れ始めていた。一族の長老たちが焦燥の声を上げる。
「月華の力が必要だ! 結界を維持せよ!」
沙樹は、言われるがままに結界の陣の中央に立つ。
掌に意識を集中すると、温かい月の光が溢れ出した。
その光は、瘴気を押し返し、結界を強化していく。
しかし、沙樹の心は、戦闘の激しさとは裏腹に、どこか冷静だった。
この光は、ただ結界を強めるだけのものなのか? 朔夜が語った「闇に溶け込む光」の真の力は、どこにあるのだろう?
その時、一筋の影が、沙樹の視界を横切った。
「やっぱ、こんな派手なやり方しかできねーのかよ、兄貴は」
声の主は、璋だった。
彼は、一族の隊列から離れ、単独で鬼の群れに突っ込んでいく。
彼の刀は、千尋のように光を放つのではなく、闇に溶け込み、一瞬の閃光となって鬼の急所を的確に突いていた。
その動きは、誰よりも素早く、そしてどこか自由だった。
「璋! 無茶をするな!」
千尋の怒鳴り声が響く。だが、璋は振り返りもせず、嘲るように千尋を挑発した。
「あんたは、守ってりゃいいんだよ! 俺は、俺のやり方で戦る!」
璋は、一族の決められた戦い方や、兄の指示に反発するように、鬼の群れの中を縦横無尽に駆け巡る。
彼の心には、一族の隠された真実を暴こうとする探求心と、兄とは異なる「月閃」としての矜持が混在している。
沙樹は、そんな璋の姿に、どこか共感を覚えた。彼もまた、この戦いの「正しさ」に疑問を抱いているのだ。
激化する戦いの中で、鬼の一団が結界を破り、広間へと侵入してきた。
月の一族の長老たちが動揺する中、沙樹は鬼たちと対峙した。
鬼の放つ禍々しい気に、心がすくむ。
しかし、沙樹の瞳は、彼らの中に、どこか悲しげな光が宿っているのを見て取っていた。
彼らもまた、彼らなりの「正義」のために戦っているのだ。
「月華よ、我らが道を開けろ!」
鬼の一人の声が響く。
その言葉に、沙樹は葛藤した。
もし、自分が「始まりの月華」だとしたら、戦いを止める道があるのではないか。
この全面衝突は、本当に避けられないものなのだろうか。
その時、一際強く、異質な鬼の気配が広間に満ちた。
「朔夜……!」
沙樹の視線の先に、漆黒の衣を纏った朔夜が現れた。
彼の背後には、彼に従うかのように、強力な鬼たちが控えている。
朔夜の瞳は、沙樹を真っ直ぐに見つめていた。
その視線には、沙樹への個人的な感情と、鬼の一族の命運を賭けた戦いへの強い決意が混じり合っていた。
「沙樹、奴らに構うな! 奴らは邪悪な存在だ!」
千尋が、鬼を斬り伏せながら、沙樹に叫ぶ。
彼の声は、沙樹を守ろうとする切実な想いに満ちていた。
沙樹は、千尋の愛情に胸を締め付けられる。
彼を裏切っているという罪悪感が、再び沙樹の心を苛んだ。
朔夜は、沙樹のすぐ近くまで歩み寄ってきた。
その間に、千尋と璋が鬼たちを排除し、朔夜との間に距離を取ろうとする。
「月華よ。お前の力は、この戦いを終わらせる。光を否定せず、闇を受け入れよ」
朔夜の声が、沙樹の心に直接響いてくるようだった。
彼の言葉は、沙樹の「月華」の真の力を呼び覚まそうとしていた。
「―― 貴様、何をするつもりだ!」
千尋が、朔夜に向かって刀を構える。
その瞳には、沙樹への深い愛と、彼女を守り抜こうとする覚悟が宿っていた。
「沙樹は、貴様らに利用させるわけにはいかない!」
千尋は、一族の月閃としての全てを賭け、朔夜に斬りかかった。
だが、朔夜は千尋の攻撃を、まるで舞うように軽く躱した。
彼の動きは、千尋の月閃の閃光よりもさらに速く、そして優雅だった。
「千尋兄さん!」
沙樹が思わず叫ぶ。
朔夜は、千尋の攻撃を避けながら、静かに語りかける。
「月閃よ。お前たちの正義は、本当に正しいのか?
闇を排除することだけが、この世界の救いなのか?」
朔夜の言葉は、千尋の心に深く突き刺さったように見えた。
彼の動きが一瞬だけ止まった隙を突き、朔夜は千尋の胸元を狙って、見えない一撃を放った。
「兄貴!」
璋が叫び、千尋の援護に回ろうとする。
しかし、彼の前には別の鬼たちが立ちはだかり、行く手を阻んだ。
千尋は、朔夜の一撃を受け、大きく吹き飛ばされた。
結界の壁に激しく叩きつけられ、苦しげに呻き声を上げる。
彼の周りを纏っていた白い月光が、大きく揺らめいた。
「千尋兄さんっ!!」
沙樹の悲鳴が、広間に響き渡った。
目の前で、兄が傷ついた。月の一族の命運、そして千尋の命が危うい。
しかし、同時に、朔夜の言葉が沙樹の脳裏を駆け巡る。
「光と闇、その全てを抱擁せよ」。
沙樹の心の中で、三つの想いが激しく衝突する。
千尋を助けたい。鬼から一族を守りたい。
でも、朔夜の言う「真実」も理解できる。彼の悲しみも、目的も。
そして、璋もまた、この戦いの「正しさ」を疑っている。
沙樹の掌から溢れ出す月華の光が、激しく脈動した。
それは、ただ闇を払うだけの光ではない。
この激しい衝突の渦中で、沙樹の「月華」の真の力が、覚醒しようとしていた。
この戦いを終わらせるために、自分に何ができるのか。
月の一族と鬼の一族、どちらか一方を選ぶのか。
それとも、全てを包み込み、新たな道を開くことができるのか。
沙樹は、この全面衝突の中で、究極の選択を迫られることになる。
この選択が、彼女自身の運命を、そして光と闇の世界の未来を、決定づけるだろう。




