第一話:平穏の終わりと覚醒の光
月守沙樹の大学生活は、ごくありふれたものだった。
春から通い始めた緑豊かなキャンパスは、都会の喧騒を忘れさせる。
お気に入りのカフェで友人と語らい、図書館で課題に頭を悩ませ、たまにはオールで飲み明かす夜もある。
そんな平凡な日常こそが、沙樹にとっては何よりも尊いものだった。
彼女の実家は、代々続く古くからの家系だが、世間的には「少し変わったお屋敷」という認識でしかない。
しかし沙樹は知っている。
自分の一族、月守が、人知れず「月華」と呼ばれる特別な力を持つことを。
月の加護を戦士に与え、その力を何倍にも増幅させる能力を持つ者を「月華」と呼ぶ。
沙樹の姉、忍は、その才に恵まれ、既に一族から「月華」としての重責を担っていた。
沙樹は姉を尊敬している。
美しく、聡明で、凛とした強さを持つ忍は、沙樹にとって憧れの存在だった。
同時に、自分にはその才がないことに心底安堵していた。
特殊な力を持つことの重圧や、人知れぬ戦いに身を投じる宿命から免れていることに、ほっと胸をなでおろしていたのだ。
だから、大学に入ってからも、一族のしきたりや訓練とは無縁の、ごく普通の女の子としての生活を満喫していた。
「沙樹、課題終わった? 明日までに提出だよ?」
隣に座る友人の声に、思考の海から引き戻される。
ここは大学の図書館。
窓から差し込む夕焼けが、読みかけの分厚い専門書をオレンジ色に染めていた。
「あー……まだ。全然頭に入ってこない」
沙樹は苦笑しながら、腕を伸ばして大きく伸びをした。
窓の外では、もう宵闇が迫りつつある。
その日の夜、沙樹は少し遅れて家に帰った。
門をくぐり、庭の石畳を歩いていると、ふと、視線を感じた。
振り向いた先に、誰もいない。
だが、ぞくりと背筋を冷たいものが這い上がった。
気のせい、そう思おうとしたとき、庭の奥にある古びた社から、ひゅう、と風が吹き抜ける音がした。
その夜は、早く眠りにつこうと部屋に戻った沙樹だが、妙な胸騒ぎでなかなか寝付けなかった。
窓の外は、雲一つない澄んだ月夜。
しかし、その月光が、いつもより冷たく、妖しい光を放っているように感じられた。
午前一時を回った頃だっただろうか。
ギィ、と、玄関の戸がゆっくりと開く音がした。
泥棒? いや、そんな生易しいものではない。肌を粟立たせる、ぞっとするような「気配」。
沙樹は震える手でスマートフォンのライトをつけ、そっと部屋のドアを開けた。
廊下は真っ暗で、一階から聞こえる物音だけが不気味に響く。
「姉さん……?」
微かな声で呼んでみるが、返事はない。
忍は今夜、一族の任務で外出しているはずだ。
意を決して階段を下りると、リビングの障子が破られ、風が吹き込んでいるのが見えた。
そして、そこに立っていたのは、沙樹の知る人間ではなかった。
人型を保ってはいるが、その纏う空気は明らかに異質。
闇を凝縮したような黒い服を身につけ、顔はフードで深く覆われていて表情は読めない。
だが、フードの奥でギラリと光る一対の目は、獲物を捕らえる獣のように飢えた光を放っていた。
「……鬼」
幼い頃、一族の者から聞かされた「鬼」の存在。
夜に暗躍し、月の一族と対立する異形の者たち。
沙樹はこれまで、それをどこか遠い物語のように聞いていた。
だが今、目の前にいるのは、現実の、生きた「鬼」だ。
鬼はゆっくりと沙樹の方へ歩み寄ってくる。
その一歩一歩が、心臓を鷲掴みにされるような恐怖を煽った。
沙樹は身がすくんで動けない。
足が、まるで地面に縫い付けられたかのように固まっていた。
「……見つけた」
低く、響くような声。
その手が、ゆっくりと沙樹の首に伸びてくる。
沙樹はただ目を閉じ、死を覚悟した。その時だった。
閃光。
視界が一瞬、真っ白に染まった。
次の瞬間、鬼の体が大きく吹き飛び、リビングの壁に激しく叩きつけられる。
「沙樹っ!」
鋭い声が響く。
目を開けると、沙樹の目の前には、見慣れた二つの背中があった。
鳴神千尋と、鳴神璋。
幼馴染の、そして「月閃」の能力を持つ兄弟だ。
兄の千尋は、その名の通り、清らかな月の光を宿したかのような、穏やかな顔立ちをしている。
常に冷静で、沙樹を優しく見守る兄のような存在だ。
彼の周りには、微かに白い光の粒子が舞っている。
弟の璋は、どこか気だるげな雰囲気を纏い、一族のしきたりにも反発ばかりしているが、その戦闘能力は兄に引けを取らない。
彼の瞳は、暗闇の中で鋭く光っていた。
「大丈夫か、沙樹!」
千尋がすぐに沙樹の元へ駆け寄り、その肩を抱く。
彼の温かい手に、沙樹は安堵と同時に、言いようのない恥辱を感じた。
また守られた。いつもそうだ。自分は、いつも誰かに守られてばかり。
「ちっ、こんなとこで手間取ってんじゃねーよ、兄貴」
璋が舌打ちしながら、倒れ伏した鬼に冷静に近づいていく。
鬼はゆっくりと立ち上がり、禍々しい気を放ち始めた。
「お前は沙樹を連れて下がれ。こいつは俺がやる」
璋は、まるで夜の闇そのもののように、冷徹な目を鬼に向ける。
千尋は沙樹を抱きかかえ、リビングから離れようとした。
その時、鬼が怨嗟の叫びを上げた。
「我が力を! 我が血を喰らえ!」
鬼の体が不気味に膨張し、部屋中に黒い霧が充満する。
その霧は沙樹の皮膚を焼くように感じられ、強い吐き気がこみ上げた。
「くそっ、瘴気まで撒き散らす気か!」
璋が叫ぶ。
その時、千尋の腕の中で、沙樹の体が熱く脈動するのを感じた。
心臓が、まるで自らの意思を持っているかのように、激しく鼓動を打つ。
身体の内側から、温かい光が湧き上がってくる。
それは、姉がいつも纏っていた、あの清らかな月の光。
指先から、掌から、淡い光が零れ落ちる。
「え……?」
沙樹の意識が遠のきかけたその瞬間、光は一気に噴出した。
千尋の腕の中で、沙樹の体が眩い月光に包まれる。
その光は、鬼の放つ黒い瘴気を打ち消し、闇を払った。
驚愕に目を見開く千尋。そして、舌打ちしながらもその光に目を奪われる璋。
鬼は怯んだ。月光が、その異形を蝕むかのように輝く。
沙樹の体が、その光の中心で、確かに脈動していた。
それは、一族の誰もが予期しなかった「月華」の覚醒。
ごく普通の女の子としての生活は、この夜、あっけなく終わりを告げた。
この日を境に、月守沙樹の運命は、螺旋を描くように、抗えない戦いと、二つの禁断の恋へと巻き込まれていくことになる。