第8話:窓からの訪問者と無茶な提案
満月が煌々と夜空を照らす中、私は書庫から駆け出していた。古代兵器ギルス復活のタイムリミットが迫っているかもしれない。残る「起動の印章」の一つは、アシュバル郊外の砂漠にある「忘れられた監視者の塔」にある。ゲシュティ派より先に、それを見つけ出さなければ!
(…とは言ったものの)
廊下を走りながら、私は早くも壁にぶち当たっていた。勢い込んで決意したのはいいけれど、具体的にどうすればいいのか、さっぱり分からないのだ。
まず、どうやって砂漠の塔へ行く? 私は神殿の外に出ることさえ滅多にない書記官見習いだ。砂漠なんて歩いたこともないし、そもそも塔の正確な場所だって知らない。地図くらいはあるかもしれないけれど、それを見つけ出す時間も惜しい。それに、夜の砂漠なんて危険すぎる。方向を見失ったら最後、迷って死んでしまうかもしれない。
次に、どうやってゲシュティ派より先に印章を見つける? あの黒いローブの連中は、おそらく私なんかよりずっと遺跡探索や戦闘に長けているはずだ。もし塔で鉢合わせになったら? 私は何の力もないただの女の子だ。あっという間に捕まって、印章を奪われてしまうに決まっている。
(ダメだ…どう考えても無理ゲーすぎる…! 私一人じゃ、絶対に何もできない!)
考えれば考えるほど、自分の無力さに打ちのめされる。走りながら、涙が滲んできた。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの? 平穏に書記官として働いて、たまに市場で甘いお菓子を買って食べる、そんなささやかな幸せを望んでいただけなのに!
(…やっぱり、イムトゥム様に頼むべきだったのかな? あの人なら、衛兵隊を動かすとか、何かできるかもしれないし…)
でも、あの神官長の真意が分からない以上、迂闊に相談するわけにはいかない。もし彼も印章を狙っていたとしたら、私が場所を突き止めたと知れば、利用されるだけかもしれない。
(ああ、もう! どうすればいいのよ!)
半ばパニックになりながら、私は自分の部屋へと続く廊下を駆けていた。とりあえず部屋に戻って、少し落ち着いて考えよう。何か、何か方法があるはずだ…。
自分の部屋の扉の前にたどり着き、鍵を開けようとした、その時だった。
コンコン。
部屋の中から、窓を叩く音がした。
(え?)
私の部屋の窓は、廊下とは反対側、神殿の中庭に面しているはずだ。こんな夜中に、誰が窓を叩くっていうの? まさか、幽霊!?
恐る恐る、音を立てないように扉を開けて部屋の中に入る。そして、窓の方を見て、私はあんぐりと口を開けた。
そこには、満月を背にして、窓枠にひょっこりと腰掛けている人影があった。短い黒髪、大きな瞳、そして、ニッと笑う口元。
「よお、リシュナ! なんだか慌ててたみたいだけど、何かあったのか?」
キリだった。いつものように、神出鬼没。そして、どういうわけか、彼は私の部屋の場所を知っていて、しかも壁を登って窓から侵入(?)しているらしかった。
「キ、キリ!? あんた、なんで私の部屋に!? しかも窓から!」
私は驚きと呆れで、大声を出しそうになるのを必死でこらえた。
「ん? お前の部屋、ここだろ? 前に中庭で昼寝してる時に、お前が窓から顔出して本読んでるの見たからさ」
キリは悪びれもせず、あっけらかんと言う。
(昼寝って…神殿の中庭で!? しかも私の部屋、覗いてたの!? この子、プライバシーって言葉知らないのかしら…!)
怒りがこみ上げてくるが、今はそれどころじゃない。そうだ、キリなら! この子なら、もしかしたら…。
「キリ、ちょうどよかった! あんたに頼みたいことがあるの!」
私はキリに駆け寄った。
「おお、なんだなんだ? 俺に任せろ!」
キリは頼りにされたのが嬉しいのか、胸を叩く。
「砂漠にある、『忘れられた監視者の塔』って知ってる? そこに、今すぐ行きたいの!」
私は必死の形相で訴えた。
「忘れられた監視者の塔? ああ、知ってるぜ! アシュバルの東、砂丘を三つ越えた先にある、ボロい塔だろ? 何度か探検に行ったことあるぞ!」
(やっぱり知ってた! しかも探検済み!?)
この子の行動範囲と知識は、本当に謎だらけだ。でも、今はそれがありがたい!
「そこに、あの黒曜石の破片…『起動の印章』の仲間が隠されてるの! ゲシュティ派っていう悪い奴らもそれを狙ってる! 彼らより先に、私たちがそれを見つけ出さないと、アシュバルが大変なことになるかもしれない!」
私は早口で事情を説明した。ギルスのこと、タイムリミットのことも。
私の話を聞き終えると、キリはいつものお調子者の顔から一転、少し真剣な表情になった。そして、懐からあの光る印章を取り出し、じっと見つめた。
「…ふーん。やっぱり、ただの宝物じゃなかったんだな、これ」
そして、キリは顔を上げると、ニカッと笑った。
「よし、分かった! 面白そうじゃん!」
(…え? 面白そう…?)
私の必死の訴えは、この子にとってはやっぱり「面白そう」な冒険のネタでしかなかったらしい。一瞬、脱力感が襲う。でも、今はキリの協力が不可欠だ。
「じゃあ、決まりだな! 今すぐ塔に向かおうぜ!」
キリは窓枠からひらりと部屋の中に飛び降りると、私の手を取ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
私は慌ててその手を振り払う。
「今すぐって言ったって、どうやって行くのよ? 夜の砂漠だよ? それに、ゲシュティ派と戦うことになるかもしれないんだよ!? 私たちだけで大丈夫なわけ!?」
私の当然の疑問に、キリは「んー?」と首を傾げた。そして、何かを思いついたように、ポンと手を叩いた。
「そうだ! これがあるじゃん!」
そう言ってキリが取り出したのは、シミだらけの、使い古された羊皮紙の切れ端だった。どう見ても、ただのゴミにしか見えない。
「…何これ?」
「これな、さっきの物知りじいさんがくれた、塔までの秘密の近道の地図なんだ!」
キリは得意げにその羊皮紙を広げる。そこには、ミミズが這ったような線と、意味不明な記号がいくつか描かれているだけだった。
(…絶対、嘘だ。どうせキリが適当に描いた落書きでしょ…)
私は心の中で深く、深くため息をついた。やっぱり、この子に頼ろうとしたのが間違いだったのかもしれない。でも、もう後戻りはできない。
「大丈夫だって! この地図があれば、ゲシュティ派の連中よりずっと早く塔に着けるはずだ! それに、戦う必要なんてないさ。見つかる前に、ささっと印章だけ取ってきちゃえばいいんだ!」
キリは自信満々に言い放つ。その根拠のない自信は、どこから来るんだろう。
(ささっと取ってくるって、そんな簡単にいくわけないじゃない…)
私の不安をよそに、キリは「ほら、行くぞリシュナ! 時間がないんだろ?」と、再び私の手を引こうとする。
今度は、振り払うことができなかった。
もう、この無鉄砲な風の民についていくしかないのだ。たとえその先が、さらなるトラブルと危険に満ちていたとしても。
(ああ、神様…どうか、私たちを…いえ、私を守ってください…!)
私は心の中で切実に祈りながら、キリに引かれるまま、再び夜の闇へと足を踏み出すことになった。目指すは、砂塵の果ての忘れられた塔。果たして、私たちは無事に印章を手に入れることができるのだろうか?
キリの(怪しすぎる)地図を頼りに、二人は夜の砂漠へ! ゲシュティ派との時間との戦いが始まる!