第6話:神官長の尋問とリシュナの嘘
シドゥリさんの酒場『豊穣の杯』は、アシュバルの市場の喧騒から少し離れた、比較的静かな通りにあった。昼間だからか、まだ客の姿はまばらだ。私たちは、人目を忍ぶように店の裏口からこっそりと中へ入った。
店の中は、香辛料と酒と、少しだけ埃の匂いが混じった、独特の空気が漂っていた。カウンターの奥で、恰幅のいい女主人、シドゥリさんが大きなジョッキを布で磨いているのが見える。艶やかな黒髪を後ろでまとめ、きりりとした目元が印象的な、頼りがいのある(そして少し怖い)女性だ。
「…あの、シドゥリさん」
私が恐る恐る声をかけると、シドゥリさんはゆっくりと顔を上げた。そして、ずぶ濡れで泥まみれの私たち二人(特に私)の姿を認めた瞬間、その眉がぐぐっと吊り上がった。
「……あんたたち、また何やらかしたんだい?」
地を這うような低い声。あ、これは本気で怒ってる時の声だ。キリは私の後ろにさっと隠れた。ずるい!
「い、いや、その、ちょっとした事故で…水路に落ちちゃって…」
私がしどろもどろに言い訳をすると、シドゥリさんは大きなため息をつき、カウンターにジョッキをドンッと置いた。その音に、私の肩がびくりと跳ねる。
「事故ねぇ…。ずぶ濡れのガキが二人、裏口からコソコソ入ってくるのが、ただの事故だって? しかも片方は、神殿のお堅い書記官見習いちゃんじゃないか」
シドゥリさんの鋭い目が、私とキリを交互に見る。嘘は通じそうにない。
「こいつだよ! こいつがまた変なもの拾ってきて、悪い奴らに追いかけられて!」
私はキリを指差しながら、半ばヤケクソで訴えた。
「ひどい! リシュナだって面白そうにしてたくせに!」
キリが私の背後から抗議の声を上げる。
「はいはい、喧嘩しない。どっちもどっちだってことは、見りゃ分かるよ」
シドゥリさんは呆れたように言うと、店の奥から乾いた布と、少し古いが清潔な服(おそらくシドゥリさんの若い頃のものか、あるいは誰かの忘れ物だろう)を持ってきてくれた。
「とりあえず、それで体を拭いて着替えな。風邪ひくよ。まったく、あんたたちを見てると、こっちの寿命が縮むわ」
ぶつぶつ言いながらも、世話を焼いてくれるあたりが、シドゥリさんの優しいところだ。私たちは店の隅で手早く体を拭き、服を着替えた。サイズの合わない服は少し滑稽だったけれど、泥まみれの濡れた服よりはずっとましだ。温かい飲み物まで出してもらって、ようやく人心地がついた。
「…で?」
落ち着いたのを見計らって、シドゥリさんが再び口を開いた。「悪い奴らってのは、どんな連中だい? もしかして、黒いローブ着てなかったかい?」
「えっ!? なんでそれを…!?」
私は驚いて聞き返した。
シドゥリさんは腕を組み、ふう、と息を吐く。
「やっぱりね。最近、その手の連中が街でコソコソ嗅ぎ回ってるって噂になってるんだよ。なんでも、ゲシュティ派の過激な連中でね、古代のヤバい遺物を探してるらしい」
ゲシュティ派…。混沌の女神ゲシュティを崇拝する、過激な思想を持つ妖術師の集団だ。表立って活動することは少ないけれど、裏社会では恐れられている存在だと聞いたことがある。
「ヤバい遺物って…もしかして、『印章』のことですか?」
私が尋ねると、シドゥリさんは眉をひそめた。
「…あんた、そんなことまで知ってるのかい? そうだよ。なんでも、三つ揃えると、とんでもない災厄が蘇るっていう、古代の呪いの品らしいじゃないか。詳しいことはあたしも知らないけどね。関わらないのが一番だよ、あんな連中には」
シドゥリさんの言葉は、私の不安をさらに掻き立てた。やっぱり、あの黒曜石の破片は、とんでもなく危険な代物なんだ。そして、それをゲシュティ派が狙っている。
(早く神殿に戻って、イムトゥム様に報告しないと…!)
たとえあの神官長が頼りなくても、今は神殿の力を借りるしかない。シドゥリさんにお礼(と、後で必ず洗濯代と迷惑料を払うという約束)を言い、私たちは酒場を後にした。
幸い、借りた服のおかげで、見た目はそれほど怪しくない。私たちは人目を避けつつ、裏道を通ってエ・クル・アン神殿へと急いだ。
無事に神殿の敷地内に入り、書庫へ向かう廊下を歩いていた、その時だった。
「――リシュナ」
背後から、冷たく、そして聞き慣れた声がかけられた。
びくうぅっ!!
私の全身が、凍りついたように硬直する。ゆっくりと、本当にゆっくりと振り返ると、そこには、いつものように腕を組み、氷のような(あるいは爬虫類のような)冷たい目で私を見据える、イムトゥム神官長の姿があった。
(うそ…なんでこんなところに…! 今日はもう会わないと思ってたのに!)
「…イムトゥム様。ご、ごきげんよう…」
私は引きつった笑顔で挨拶をする。隣にいるキリは、さっと柱の陰に隠れようとしたが、神官長の鋭い視線からは逃れられない。
「ごきげんよう、ではありませんな。書記官見習いが、許可なく神殿を抜け出し、あまつさえ、そのような場末の酒場で使われているような粗末な衣服を身につけて、一体何をしていたのですかな?」
神官長の言葉は、ねっとりと嫌味を含んでいる。どうやら、私たちがシドゥリさんの店から出てくるところを見られていたらしい。最悪だ。
「そ、それは、その…古文書の調査で街へ出ておりましたところ、少々汚してしまいまして…それで、その、知り合いに服を借りただけで…」
私は必死で言い訳を考え出す。頭が真っ白になりそうだ。
「ほう、調査ですか。では、その隣にいる『風の民』の小僧も、調査に必要な協力者であると?」
神官長の視線が、柱の陰から顔を半分だけ出しているキリに向けられる。キリは気まずそうに視線を逸らした。
「か、彼はその、道案内を…」
「道案内? このアシュバルの街を知り尽くした書記官見習いが、このような素性の知れぬ者に道案内を頼むと? それに、先ほど書庫で貴女が触れていた、あの奇妙な黒曜石の破片…あれも調査の一環ですかな?」
(ど、どこまで見てたのよ、このトキ頭ーっ!?)
私の心臓は、破裂しそうなほどドキドキしていた。神官長は明らかに何かを疑っている。あの光る破片のことまで知っているなんて。
「い、いえ、あれはただの古い石ころで…」
「石ころ、ですか。しかし、あの扉を開けたのは、ただの石ころではありますまい?」
神官長の言葉に、私は息を呑んだ。あの「開かずの扉」が開いたことまで、知っていたなんて!
(まさか、この神官長も、『印章』のことを…? ゲシュティ派と同じように、あれを狙ってる…?)
一瞬、そんな疑念が頭をよぎる。しかし、神官長の表情からは何も読み取れない。ただ、冷たく、探るような視線が私に突き刺さるだけだ。
「…まあ、良いでしょう。今はこれ以上問い詰めますまい。ただし、書記官見習いとしての自覚を持ち、軽率な行動は慎むように。そして、二度と、あのような者と神殿内で馴れ合うことのないように」
神官長はそう言い放つと、私とキリを一瞥し、長い首を揺らしながら廊下の向こうへと去っていった。
後に残されたのは、重苦しい沈黙と、私の混乱した心だけだった。
なんとか尋問は切り抜けた…みたいだけど。
神官長は、いったい何を知っているんだろう? そして、あの冷たい目の奥には、何を隠しているんだろう?
イムトゥム神官長の不気味な追求。彼は味方なの? それとも…? 深まる謎と不安を抱えたまま、私はただ立ち尽くすしかなかった。