第3話:地下通路と壁画の警告
バタン、という鈍い音と共に石の扉が完全に閉まると、私たちの周りは本当の、完全な暗闇に包まれた。さっきまでの書庫の明かりが嘘のようだ。一筋の光さえ差し込まない、まるで地の底にでも落ちてしまったかのような感覚。
「……」
私はキリに手首を掴まれたまま、呆然と立ち尽くすしかなかった。静かすぎる。聞こえるのは、隣でキリが立てるそわそわとした衣擦れの音と、どくどくと早鐘のように打つ自分の心臓の音だけ。ひんやりとした、湿った空気が肌にまとわりついてくる。カビ臭いような、古い土のような匂いが鼻をついた。
(うそでしょ…本当に閉じ込められちゃった…)
背後にはもう戻れない石の扉。目の前にはどこまでも続く(ように思える)暗闇。もう最悪だ。なんで私はいつもこう、キリの起こすトラブルに巻き込まれてしまうんだろう。あの時、きっぱりと断ればよかった。いや、そもそもキリを書庫に入れるべきじゃなかったんだ!
「…ねえ、キリ」私はかろうじて声を絞り出した。「真っ暗で何も見えないんだけど。どうするつもり?」
「んー? 大丈夫だって、すぐ目が慣れる…はず!」
キリは相変わらず能天気な声で答える。…はず、って何よ、はずって! 無責任すぎる!
(この子、本当に状況分かってるのかな…もしかして、ただの馬鹿…いや、でもさっきの石の破片は本物っぽかったし…)
私の脳内ツッコミがフル回転している間に、キリの言う通り、少しずつ目が暗闇に順応してきた。完全な漆黒だった世界に、ぼんやりと輪郭が浮かび上がってくる。
どうやら私たちは、石を積み上げて作られた通路の中にいるらしい。壁は高く、天井は暗くてよく見えない。道幅は、そうだな、大人二人がなんとかすれ違えるくらい? 足元は少しぬかるんでいて、歩くとちゃぷ、と小さな水音がした。そして、道は緩やかに下り坂になっているようだ。
「よし、行くぞ! お宝が俺たちを待ってる!」
キリは私の返事も待たずに、再び歩き始めた。暗闇の中でも、まるで昼間の市場を歩くかのように、足取りは軽い。
「ちょっと待ってよ! どこに行くつもりなの? 道、分かってるの?」
私は慌てて後を追う。置いていかれたら、この暗闇の中で私は完全に迷子だ。
「さあ? なんとなく、こっちっぽい気がする!」
キリは振り返りもせずに答える。気がする、って…! もう、この子の行動原理は私には理解不能だ。
(でも、なんでこんなに平気なんだろう? 普通、怖がるでしょ、こんな場所…)
もしかしたら、キリはカザリムの民だから、暗闇やこういう古代の遺跡に慣れているのかもしれない。彼らの部族は砂漠の民で、古い遺跡をねぐらにしたり、誰も知らない抜け道を知っていたりするという噂を聞いたことがある。…まさか、この通路も、キリにとってはただの「近道」だったりするんだろうか?
そんなことを考えながら歩いていると、通路の壁の一部が他とは違うことに気づいた。表面が少し滑らかで、何か模様のようなものが描かれている…?
私は足を止め、壁に近づいて目を凝らした。松明でもあればもっとはっきり見えるのだろうけど、今は手元に光源は何もない。
「ん? どうしたリシュナ? 何かあったか?」
キリが不思議そうに立ち止まって私を見る。
「…これ、見て。何か描かれてるみたい」
目を凝らすと、それは間違いなく壁画だった。色褪せて、所々剥がれ落ちてはいるけれど、描かれた内容ははっきりと見て取れた。
それは、巨大な、粘土か何かで作られたような人型の怪物が、アシュバルの街と思われる場所を破壊している場面だった。顔のないのっぺりとした頭部。太い腕を振り上げ、神殿のような建物を粉々に砕いている。人々は豆粒のように小さく描かれ、恐怖に叫びながら逃げ惑い、あるいは天に向かって必死に祈りを捧げている。その破壊と絶望の光景は、荒々しい線で描かれているにも関わらず、妙に生々しくて、見ているだけで息が詰まりそうだった。
「うわ…なにこれ…ひどい…」
私は思わず息を呑んだ。壁画から放たれる負のエネルギーに、背筋が凍るような感覚を覚える。
「あ、これ?」
私の隣に来たキリが、壁画を指差して、まるで古い知り合いにでも会ったかのように言った。
「多分、昔いたデッカイ番人だよ。俺たちカザリムの古い言い伝えにも出てくるやつ」
「言い伝え…?」
「うん。名前は確か…ギルス、だったかな? めっちゃ強くて、昔々、アシュバルの街を滅ぼしかけたんだってさ。神様たちも手を焼いたとか」
ギルス――その名前を聞いた瞬間、私の脳裏に、書庫で読んだ古文書の一節が閃光のように蘇った。
『…禁忌の古代兵器ギルス、その力は神々に匹敵し、大地を割り、天を焦がす…創造主の制御を離れ、災厄と化す…』
(まさか…この壁画に描かれているのが、あの古文書にあった…!?)
「言い伝えだと、最後は知恵の神ヌンキ様がなんとかギルスを眠らせて、その力を三つの『印章』に分けて、世界のどこかに隠したって話だけど…ま、ただのおとぎ話だよな!」
キリはそう言うと、自分の懐を探って、あの黒曜石の破片を再び取り出した。破片は、まだ淡い紫色の光を放ち続けている。その光が、壁画の破壊の場面を不気味に照らし出した。
「……」
私は言葉を失った。おとぎ話? いいや、違う。目の前の壁画も、この光る破片も、全てが繋がっている気がする。偶然なんかじゃない。
ふと、壁画の隅の方に、何か文字のようなものが刻まれているのに気づいた。古代の楔形文字だ。書記官見習いとして、この文字を読む訓練は受けている。私は震える指先で、壁に刻まれた文字をそっとなぞった。埃っぽく、読みにくい。でも、必死で解読しようと試みる。
「ええっと…これは…『ギ…ル…ス』…?」
間違いない。あの禁忌の兵器の名前だ。続けて他の文字も読んでいく。
「…『メ…ザ…メ』…目覚め?」
「…『イン…ショウ』…印章…?」
「…『ソロ…ウ…トキ』…揃う時?」
「…『サイ…ヤク…フタ…タビ』…災厄、再び…?」
古代文字は断片的で、完全な文章にはなっていない。でも、そこから読み取れる単語の断片は、恐ろしい可能性を示唆していた。
ギルスが、目覚める。印章が、揃う時。災厄が、再び訪れる…?
(うそ…じゃあ、キリが持ってるこの破片は…宝の地図なんかじゃなくて…あのギルスを目覚めさせるための…鍵の一部だってこと…!?)
全身の血の気が引いていくのを感じた。私たちは、とんでもないものを手にしてしまったのかもしれない。いや、キリが拾ってきて、私が巻き込まれただけだけど!
私は恐怖に顔を引きつらせ、隣で「なんだ? なんて書いてあんだ?」と呑気に尋ねてくるキリと、その手の中で不吉な紫色の光を放ち続ける黒曜石の破片を、交互に見つめることしかできなかった。
これは宝探しなんかじゃない。私たちは、アシュバルを滅ぼしかねない、古代の悪夢の欠片を手にしているんだ…! どうしよう、これから、いったいどうなっちゃうの!?