第15話:光と風と小さな置き土産
「キリ!」
私の目の前で、キリがウルマの放った禍々しいエネルギー弾を受け止め、苦痛に顔を歪めている。小さな体が、衝撃で震えているのが分かった。今にも倒れてしまいそうなのに、彼は私を庇うように、必死で踏みとどまっている。
(私の…せいで…!)
恐怖と焦りで呪文を思い出せなかった私のせいだ。キリが傷ついたのは。後悔と罪悪感が、胸を締め付ける。
「…へへっ…たいしたこと…ねーよ…」
キリは強がって笑おうとするが、その顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。明らかに無理をしている。
「小賢しい虫けらが、まだ立つか!」
ウルマは忌々しげに吐き捨てると、さらに追撃の妖術を放とうと手を掲げた!
「させん!」
その瞬間、イムトゥム神官長が渾身の力を込めて杖を突き出した。杖の先から放たれた眩いばかりの聖なる光の奔流が、ウルマの妖術を打ち消し、さらにウルマ自身をも吹き飛ばさんばかりの勢いで襲いかかる!
「ぐおおっ!?」
ウルマは咄嗟に防御壁を展開するが、神官長の捨て身の一撃は強力で、ウルマの体勢が大きく崩れた。儀式の呪文も途切れる!
(今しかない!)
キリの痛み、神官長の覚悟、そして、この街を守りたいという強い想いが、私の脳裏で一つになった。忘れかけていた呪文の言葉が、まるで天啓のように、はっきりと蘇ってきたのだ!
私は大きく息を吸い込み、ありったけの声を振り絞って、最後の呪文を叫んだ!
「『アヌンナ・キア・シャマシュ・ヌンキ! ティアマト・アプスー・エレシュキガル・ネルガル! 我、星辰の名において命ず! 鉄の巨人よ、永劫の眠りにつけ! リリートゥ・ナムタル!』」
私の声が、天に響き渡った。それはもう、震えてはいなかった。不思議な力が、私の体の中から湧き上がってくるような感覚があった。
すると、祭壇の上で禍々しい紫色の光を放っていた三つの「起動の印章」が、一斉に、パリンッ!と甲高い音を立てて砕け散ったのだ!
同時に、天を覆っていた暗雲が急速に晴れ渡り、激しかった地響きもピタリと止んだ。空には、ただ静かに輝く満月だけが浮かんでいる。ギルスの起動は、完全に阻止されたのだ!
「ば、馬鹿な…! 我が偉大なる計画が…! この小娘ごときに…!」
ウルマは信じられないといった表情で、砕け散った印章の欠片と私を交互に見つめている。儀式が失敗し、その反動を受けたのか、彼の体からは力が抜け、その場に膝をついた。
そこへ、タイミングよく(というべきか)、傷だらけになりながらも駆けつけてきた衛兵隊長ルガルさんと、数人の衛兵たちが雪崩れ込んできた!
「ウルマーッ! 年貢の納め時だ! 神聖なる神殿を汚した罪、償ってもらうぞ!」
ルガル隊長が力強く叫び、衛兵たちが一斉にウルマとその手下たちを取り押さえる!神官長との戦いで既に消耗していたのか次々と捕縛されていった。
「おのれ、おのれぇぇぇっ! 放せ! 我が主ゲシュティ様の怒りを知れ! アシュバルに災厄あれー!」
ウルマは最後まで呪いの言葉を吐きながら、衛兵たちに引きずられていく。
こうして、古代兵器ギルス復活の危機は、寸でのところで回避されたのだった。
………。
数日後。エ・クル・アン神殿には、いつもの(比較的)平穏な日常が戻っていた。ジッグラトの頂上は、まだ戦闘の爪痕が生々しく残っており、修復作業が続けられている。
私は、あの激闘の後、過労と緊張の糸が切れたせいで丸一日寝込んでしまったけれど、今はすっかり元気になり、再び書庫での仕事に復帰していた。もちろん、イムトゥム神官長の呼び出し付きで。
「…リシュナ」
神官長の執務室。私は直立不動で、ありがたい(?)お言葉を拝聴していた。
「今回の貴女の働き、見事であった。都市を救った功績は大きい。…よって、これまでの無断外出、規則違反、その他諸々の不行状については、特別に不問としよう」
(やった! …って、結局お咎めなしってこと? ちょっと拍子抜け…)
「だが、しかし!」
神官長は言葉を続ける。「書記官見習いとしての本分を忘れてはならぬ。今後、二度とあのような素性の知れぬ者と関わり、神殿に混乱を招くような軽率な行動は…云々」
(…はいはい、結局お説教なのね。分かってましたよ…)
私は心の中でため息をつきながら、神官長のありがたいお言葉を聞き流す。でも、不思議と以前のような嫌な感じはしなかった。この不器用な神官長なりに、私のことを心配してくれているのが、少しだけ伝わってきたからかもしれない。
お説教が終わり、執務室を出ようとした時、神官長がぽつりと言った。
「…あの小僧にも、よろしく伝えておきたまえ。…まあ、礼など言わぬがな」
(やっぱり、素直じゃないんだから)
私は小さく微笑んで、執務室を後にした。
書庫に戻ると、私の作業台の横に、見慣れた人影が座っていた。腕に包帯を巻いているが、顔色は良く、いつものようにニヤニヤしている。キリだ。彼は幸い、あの時の傷は見た目ほど深くはなく、シドゥリさんの手厚い(?)看護もあって、すぐに回復したらしかった。
「よお、リシュナ! 退院祝いだ!」
キリはそう言って、どこから持ってきたのか、大きなデーツを私に差し出した。
「…ありがとう。でも、これ、またどこかから『借りてきた』んじゃないでしょうね?」
私がジト目で言うと、キリは「失礼な! これはちゃんと買ったんだぞ! …シドゥリのおばちゃんのツケでな!」と胸を張った。…やっぱり。
「それにしても、つまんねーの」キリはデーツを齧りながら言った。「もっと、ギルスってのがドッカーン! ズガーン! ってなって、俺が大活躍するはずだったのによー」
「なりません! なったらアシュバルが滅びるって言ってるでしょ!」
私は思わず、いつものように素でツッコんでしまった。
「まあ、でも、リシュナのあの呪文、すごかったな! ちょっと見直しちったぜ!」
キリが珍しく褒めてくれる。少しだけ、頬が熱くなるのを感じた。
しばらく他愛のない話をした後、キリはひらりと窓枠に飛び乗った。
「じゃあな、リシュナ! そろそろ行くわ!」
「え? もう行くの?」
「おう! 退屈だしな! 次はもっとスッゲェ宝、見つけてくるからよ!」
(宝物はもうこりごりだってのに…)
「そん時は、また付き合えよな!」
キリは悪戯っぽくウィンクすると、一陣の風のように軽やかに、青空へと飛び去っていった。嵐のような少年は、嵐のように去っていく。
私は一人、再び書庫で粘土板と向き合う。インクの匂い、古い紙の匂い。静かで、退屈で、でも、どこか心地の良い、いつもの日常。
窓の外に広がるのは、どこまでも青いアシュバルの空。あの空の下を、キリは今頃、どこへ向かって走っているんだろう。
「まったく、キリは騒がしいんだから…」
小さく呟き、私は自分の作業台に目をやった。すると、粘土板の上に、何か小さなものが置かれているのに気づいた。
それは、キリが置いていったのだろう、奇妙な渦巻き模様の入った、小さな青い石だった。どこか、あの砕け散った印章の欠片に似ているような気もする。
(…いらないんだけど、こういうの)
私はそう思いながらも、その小石をそっと指で撫でた。ひんやりとした感触が心地よい。
ふっと、小さく息をつくと、私の口元には、自分でも気づかないうちに、小さな笑みが浮かんでいた。
そして、私は目の前の粘土板に向き直り、新しい一日を刻み始めるのだった。
おわり