第13話:迫る刻限、神殿への疾走
「……行っちゃった」
黒い砂煙が消え去った後、塔の最上階には、重苦しい沈黙だけが残された。妖術師ウルマは、二つの「起動の印章」を手に入れ、最後の印章があるというエ・クル・アン神殿へと向かってしまった。呆然と立ち尽くす私、リシュナと、悔しそうに唇を噛むキリ、そして、苦虫を噛み潰したような表情のイムトゥム神官長。さっきまでの激しい戦闘が嘘のように、静まり返っている。
(どうしよう…どうなっちゃうの…? ウルマが最後の印章を手に入れたら、本当にギルスが目覚めちゃうんだ…)
絶望的な状況に、目の前が暗くなりそうだった。アシュバルが、あの壁画に描かれていたような、破壊と混乱に包まれる光景が目に浮かぶ。私の家族や、友人たち、シドゥリさんや、市場の人々…みんなが危険に晒される。
「…くそっ! あのキツネ目野郎! 俺の宝物返しやがれ!」
沈黙を破ったのは、キリの怒りに満ちた叫びだった。彼は悔しそうに床を蹴飛ばすと、いきなり部屋の入り口に向かって駆け出した。
「おい、待てキリ! どこへ行く!」
私が慌てて呼び止めると、キリは振り返って叫んだ。
「決まってるだろ! 神殿に戻って、ウルマって奴を追いかけるんだ! あいつから印章を取り返す!」
「一人で行ってどうするのよ! あの妖術師がどれだけ強いか、さっき見たでしょ!」
「うるさい! ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと行くぞ! 時間がないんだろ!」
キリは私の制止も聞かず、勝手に隠し通路へと走り去ろうとする。私は慌ててその後を追おうとしたが、その前に、イムトゥム神官長が動いた。
「待ちなさい、二人とも」
神官長は、いつもの冷たい声で私たちを制止した。そして、ゆっくりと私たちの方へと歩み寄ってくる。その表情は相変わらず読めないが、さっきまでの敵意のようなものは薄れているように見えた。
「…イムトゥム様」私は恐る恐る声をかけた。「あなたは…いったい…?」
神官長は、ふぅ、と一つため息をつくと、重々しく口を開いた。
「…ウルマの言う通り、私もこの印章の力を探ってはいた。だが、それはギルスの力を利用するためではない。むしろ逆だ。あの災厄を完全に封印する方法を探るため、古代の記録を追っていたのだ」
「封印…?」
「そうだ。ギルスはかつてヌンキ神によって眠らされたが、その封印は完全ではない。星辰が乱れ、三つの印章が揃えば、再び目覚めてしまう。それを防ぐためには、印章を破壊するか、あるいは、より強力な封印を施す必要がある。私はその方法を探していた」
神官長の言葉は、真実のように聞こえた。でも、なぜそれを今まで隠していたんだろう? なぜ私たちを疑うような態度を取ったんだろう?
私の疑問を見透かしたかのように、神官長は続けた。
「貴女たちを試すような真似をしたのは、申し訳なかった。だが、この印章に関わる情報は、極秘中の極秘。ゲシュティ派のスパイが神殿内部に潜んでいる可能性も否定できなかったのだ。迂闊に情報を漏らすわけにはいかなかった」
なるほど…。そういうことだったのか。神官長は、敵ではなかった。ただ、非常に用心深く、そして不器用な人だっただけなのかもしれない。
(…ちょっとだけ、見直したかも。ほんのちょっとだけね)
「だが、私の慎重さが裏目に出た。ウルマに先を越されてしまったのは、私の落ち度だ」神官長は悔しそうに言う。「最後の印章は、エ・クル・アン神殿の最深部、古代の聖域に保管されている。ウルマは必ずそこへ向かうはずだ。急いで戻らねば、手遅れになる!」
神官長の言葉に、私たちはハッと顔を見合わせた。そうだ、感傷に浸っている暇はない! ウルマは今まさに、神殿に向かっているのだ!
「よし、決まりだ! 急いで神殿に戻るぞ!」
キリが再び駆け出そうとする。
「待て、小僧」神官長がそれを制した。「ここから神殿までは距離がある。普通に戻っていては間に合わんかもしれん」
神官長はそう言うと、懐から小さな角笛を取り出した。そして、それを高く掲げ、空に向かって短く、鋭い音を三度鳴らした。ピィーッ、ピィーッ、ピィーッ!
何をするつもりだろう? 私とキリが訝しげに見ていると、遠くの空から、何かがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。それは、鳥…? いや、違う。もっと大きい!
それは、青銅のように輝く体、鷲のような巨大な翼、そしてライオンのような体に人間の顔を持つ、神々しい姿の聖獣だった!
「セ、セドゥだ!」
キリが驚きの声を上げる。セドゥは、秩序の神々に仕え、神殿や聖地を守護すると言われる伝説の聖獣だ。まさか、実在したなんて!
セドゥは、塔の頂上の開口部に舞い降りると、恭しく神官長の前で頭を下げた。
「おお、イムトゥム様。お呼びにより参上いたしました」
セドゥが、荘厳な声で話した!
(聖獣が喋った!? もう、何が何だか…!)
私の驚きをよそに、神官長はセドゥに命じた。
「セドゥよ、緊急事態だ。我々を乗せ、全速力でエ・クル・アン神殿へ飛んでくれ!」
「はっ! 承知いたしました!」
私たちは、神官長に促されるまま、恐る恐るセドゥの背中に乗った。広々としていて、意外にも乗り心地は悪くない。
「しっかり掴まっておれ!」
神官長の声と共に、セドゥは力強く翼を羽ばたかせ、満月の夜空へと舞い上がった!
眼下には、広大な砂漠が広がっている。風がびゅうびゅうと顔に当たり、ものすごいスピードで景色が後ろへと流れていく。さっきまであれだけ苦労して歩いてきた砂漠が、あっという間に小さくなっていく。
(すごい…本当に飛んでる…!)
初めての空の旅に興奮する私。隣では、キリも目をキラキラさせて景色を眺めている。しかし、私たちの心は晴れない。眼下に広がるのは、これからウルマによって危機に晒されようとしている、私たちの故郷、アシュバルの街の灯りなのだ。
(ウルマを止めないと…! アシュバルを守らないと!)
セドゥの背中の上で、私は強く拳を握りしめた。迫る刻限。最後の決戦の舞台は、エ・クル・アン神殿だ!
こうして、伝説の聖獣セドゥに乗り、神殿へと急ぐリシュナたち! しかし、ウルマは既に神殿に到着しているかもしれない! 果たして間に合うのか!? 最終決戦の幕が上がる!