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第1話:書庫の憂鬱と風の闖入者

太陽が真上に昇りつめ、大河ブルラヌの水面がきらきらと黄金色に輝く昼下がり。ここ、交易都市アシュバルの心臓部、エ・クル・アン神殿の書庫は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。いや、静まり返っている、というのは正確ではないかもしれない。


(……また始まった)


私の名前はリシュナ。しがない神殿の書記官見習い、花の十六歳。目の前には小山のように積まれた粘土板。そして、その後ろには、私の直属の上司にして目下の悩みの種、イムトゥム神官長が仁王立ちになっておられた。


「リシュナ! この楔形文字の線の角度!なっていないと何度言えば分かるのですかな!? これでは太陽神ウシャス様への敬意が足りませぬぞ!」


来た来た、定時連絡。トキの頭部を持つカナプティ族の神官長は、今日も今日とて絶好調だ。細い目を吊り上げ、白い豪奢な装束の袖を翻しながら、私の刻んだ粘土板をつついている。あの長いくちばしでつつかれると、粘土板が割れそうでひやひやするんだけど。


「も、申し訳ありません、イムトゥム様! すぐに修正いたします!」

とりあえず、マニュアル通りに謝っておく。ここで反論しようものなら、お説教が軽く二時間は延長されることを、私は経験則で知っている。


(ああもう、お腹すいたな…。今日の神殿の配給、なんだっけ? 干しデーツだといいんだけど。あ、でも昨日は羊の串焼きだったから、今日は質素に麦粥かも…。それだけは勘弁してほしい…)


意識が食べ物のことへ飛びかけた、その時だった。

ひゅん、と軽い風を切る音がして、書庫の高い位置にある、いつもは埃で曇っている窓が、ガラリと開いた。そして、そこから逆さまに、にょきっと顔が現れたのだ。


(で、出たーーーっ!)


日焼けした肌に、砂まみれの短い黒髪。そして、どんな時でも面白そうなことを見逃すまいと輝いている、大きな黒い瞳。私の平穏な(はずの)日常を粉砕するために現れる、歩くトラブルメーカー。砂漠の民カザリムの少年、キリだ。


「リシュナー! 元気してるかー? 遊…じゃなくて、困ってないか見に来てやったぞ!」

逆さまのまま、キリは太陽みたいに笑う。


「キ、キリ!? あんた、また窓から! しかも逆さま!」

私が悲鳴に近い声を上げるのと、神官長が「な、何事ですかな!?」と驚きの声を上げるのは、ほぼ同時だった。


次の瞬間、キリは信じられないくらい軽い身のこなしで、くるりと宙で体勢を変えると、音もなく床に着地した。まるで猫みたいに。いや、猫より静かだったかもしれない。問題は、その着地点だ。


「あっ!」


そこは、私が昨日、貴重な古代神話が刻まれた、今にも砕け散りそうな粘土板を、徹夜で修復して積み上げておいた、まさにその山の上だった! パサッ、と乾いた、そして非常に嫌な音がした。


「ちょっ! 何してくれてんのよ! それ、すっごく大事なやつで、もし壊したら神官長に…って、あれ?」


怒りのあまり振り返ると、さっきまでそこにいたはずのイムトゥム神官長の姿が、忽然と消えていた。…まさか、キリの登場に驚いて逃げ出した? いや、あのプライドの高い神官長に限ってそれはない…はず。たぶん、面倒ごとを察知して、さっさと自分の執務室に引き上げたに違いない。


(逃げ足だけは速いんだから、あのトキ頭…!)


私が内心で毒づいていると、キリは粘土板の山からひょいと飛び降りた。足元の粘土板には、くっきりと新しい亀裂が入っている。…もう泣きたい。


「おお、わりぃわりぃ! ちょっと足場にしただけだって!」

キリは全く悪びれる様子もなく、ぺろりと舌を出した。この悪気のなさこそが、キリの最もタチの悪いところだ。怒る気力さえ削がれてしまう。


「そんなことより、リシュナ、これ見てくれよ!」

そう言って、キリは得意満面で懐をごそごそと探り、何かを取り出した。そして、それを私の目の前に、ぐいっと突き出したのだ。


「じゃーん! すっげーの見つけたんだ!」


キリの手の中にあったのは、黒曜石のような、黒く艶やかな石の破片だった。手のひらに収まるくらいの大きさで、表面には奇妙な渦巻き模様が刻まれている。磨かれたように滑らかだが、縁は鋭く欠けていて、何かの大きなものの一部だったことがうかがえた。


私は思わず眉をひそめる。キリが「すっげーの」とか「宝物」とか言って持ってくるものは、十中八九、ろくでもない代物だ。以前は「冥界の王様の落とし物だ!」と言って、ただの干からびたトカゲの死骸を持ってきたこともある。


「…ふーん。で、今度は何? どこかの遺跡の壁でも剥がしてきたの? それとも、誰かの家のタイル?」

私はわざと冷めた声で言った。期待すると、後でがっかりするだけだからだ。


「ちげーよ! これはな、冥界の女王ゲシュティ様の隠し財宝のありかを示す『印章』の一部なんだって!」

キリはぷんぷんと頬を膨らませる。

「市場の隅っこにいた、物知りじいさんが教えてくれたんだ! 間違いない!」


(物知りじいさんって、どうせまたキリの作り話でしょ…)

私はため息をつき、その怪しげな破片に手を伸ばそうとした。早く取り上げて、どこか安全な(そして神官長の目につかない)場所に隠してしまわないと。


その、指先が触れるか触れないかの、瞬間だった。


キリの手の中にある黒曜石の破片が、まるで脈打つかのように、淡い、けれど確かな紫色の光を放ち始めたのだ。それは、夜空に瞬く遠い星のような、あるいは、深海に棲む奇妙な生き物のような、神秘的で、どこか不吉な光だった。


「「えっ!?」」


私とキリの声が、静かな書庫に響いた。

目の前の光景が信じられなかった。ただの石ころだと思っていたものが、怪しく光っている。キリの言っていた「印章」という言葉が、急に現実味を帯びて私の頭に響いた。


(うそ…でしょ?)


背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。

これは、ガラクタなんかじゃない。

そして、たぶん、宝物でもない。


もっと、ずっと厄介で、危険な何かの始まりを告げる光だ。

私の平穏な(はずだった)日常が、またしてもこの風のような少年のせいで、とんでもない方向に吹き飛ばされようとしている、そんな確かな予感がした。

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