第3球「理不尽への反逆」
――1年後、グリューンフェルデ属州ハープスベルク――
11946年12月、メルへニカの西にある人口10万人ほどの小さな町、ハープスベルク。その中でも煉瓦の家が集うカーランド通りと呼ばれるこの場所に、1軒のオレンジ色の三角屋根を持った3階建てのベーカリー、ブレッディヌスが建っている。
木材と煉瓦で造られてから年月が経ち、絵に描いたような殺風景が昔と変わらぬまま続いている。
そこに人通りはほとんどなく、ベーカリーの中には1人の客もおらず風通しが良い。何種類ものできたてのパンを並べてからレジの近くにある椅子に座ると、魔法でコマンドフォンを空中浮遊させながらその手に引き寄せ、それをリモコンのように使いテレビをつけた。
メルリーグの試合をテレビのビデオで観戦している1人の男、ブレッド・ベイカーは膨大な時間を持て余す日々を過ごしていた。黒髪の姫カット、女子と間違われるほど端正で可愛らしい顔、高めの声に弱々しい細身の体型の男性である。
故郷ハープスベルクへと戻ってからはすぐに実家の両親が病気を理由に隠居し、1人暮らしとなったブレッドは両親の手術費用を稼ぐためにブレッディヌスを継いだが、小さな街であったためにパンがあまり売れず、倒産の危機に瀕していた。更には毎月支給されるベーシックインカムだけでは店が持たず、近い内に店を閉め、のんびり暮らそうとブレッドは考えている。
画面を見ながら欠伸を繰り返し、途方に暮れるブレッド。
ブレッドにとって、画面越しに見えるメルリーガーたちは憧れの対象であった。
そこに、ブレッドとつき合いのあるドボシュが入ってくる。
ドボシュの後にはエステルがのっそりと店内を見渡した。
「いらっしゃい――これまた珍しい客だな」
カランコロンと来客を知らせるドアベルの音に気づいたブレッドが2人の顔を見た。
「久しぶりだな。ブレッド」
ブレッドとドボシュが握手を交わす。
「久しぶり。元気そうで何より」
「なかなか良い店だな。客がいないことを除けばだが」
「この人は?」
「私の養父で、ペンギンズのオーナーを務めているエステルハージートルタ・バロン・ウィトゲンシュタインだ。今日はブレッドに話があって来た」
「エステルと呼んでくれ」
握手を交わすブレッドとエステル。
「ブレッドと呼んでくれ。それで? 話って何?」
パンくずがこぼれることさえ珍しいテーブル席にエステルとドボシュを座らせ、真向かいにはブレッドがのっそりと腰かけた。
先ほどから深刻な表情を浮かべる2人。その哀愁が漂っている様子にはブレッドも気づいていた。
少なめに作られたパンの中からいくつかのパンを購入すると、それらを食しながらエステルとドボシュが深い事情を話し始めた。
「まさかドボシュがペンギンズのGMになってるとは思ってもみなかったよ」
「パティジュリーの人事だった頃の実績を買われてね。ブレッド、君がベーカリーを経営しているのは知っていたが、この様子を見る限りだと、経営はうまくいってないように見えるが」
「小さな町だからな。しかも向かい側に大きなベーカリーが建ってからは、あの店にこっちの生気も運気も客もみんな吸い取られた。しかもあそこは、皮肉にも僕が務めていたパティジュリーの新店舗だ。あんなものが建っちまったら、周りの店がみんな潰れるってのに、全く何考えてんだか」
「まあ新しい店舗が古い店舗を潰しにかかるのはよくある話だ。世間話はこのくらいにして、そろそろ本題に移ろうか」
「そうですね。ブレッド、実は君にペンギンズの監督をやってもらいたいと思っている」
「……は?」
ブレッドにとってドボシュの言葉は青天の霹靂であった。
メルリーグの監督は古くからメルリーグでの選手経験を持った者ばかりが務めている。社会人ベースボールチームに数年ほど在籍していただけのブレッドにとっては信じ難い話だ。
ぽかーんとした顔のままエステルの顔を見るブレッド。
「1ヵ月ほど前、ペンギンズの監督を務めていたレオン・トラキアンが解雇された」
「レオン・トラキアンって、確か数多くのチームをポストシーズンに導いてきた名将だろ。それがまた何で解雇なんだよ?」
「質問を返すようで悪いが、君はアルビノの人たちに対して嫌悪感はあるかね?」
「別にねえよ。特別好きってわけでもないけど、あいつらへの隔離政策は明らかな人権侵害だ。そのことを小学校で発表したら、みんなから顰蹙を買った。あれが原因で他の生徒と殴り合いになってそのまま中退したから、決して良い思い出とは言えないけどな」
「はははははっ! なかなか素晴らしい倫理観を持っているようで何よりだ。ではさっきの質問に答えよう。レオンが解雇された理由は他でもない……私がアルビノの選手をペンギンズのスプリングトレーニングに招待したからだ」
「アルビノの選手を?」
「ああ、そうだ」
エステルが今までの経緯をブレッドに説明する。
アイリーンはこの1年間でレインディアーズに在籍し、メルリーグに昇格するだけの成績を残したことで、昇格を前提とした招待選手として呼ばれることが決定した。
しかし、このことを聞きつけた他球団がメルリーグ機構に直談判を行った結果、些細な不祥事を盾にレオン監督の解任が発表された。
「世間には公表していないが、監督だけでなくコーチまでもが一斉に辞めてしまった。まだペンギンズにはアルビノに反感を持つ者がいる。コーチの数も足りない。既に何人かの職員をコーチに就かせたが、ヘッドコーチはベースボールの経験を持った者に限る。ここだけは譲れん」
「そのヘッドコーチについてだが、もしよければブレッドが連れてきてほしいんだ」
「おいおい、まさかとは思うが、ペンギンズの監督を務めながら、アルビノの選手の面倒まで見させるために誘ったとか言うんじゃねえだろうな?」
「その通りだ」
平然とした顔でエステルが頷いた。
これにはブレッドも思わず立ち上がってしまい、沈黙しながらその場を右往左往ようにうろつき、エステルたちに背を向けつつ頭を抱えた。
頭の中が真っ白になるブレッド。
「……冗談だろ」
「冗談ではない。至って真剣な話だ。曲がったことが嫌いで、マイノリティに対して理解があり、社会人ベースボールプレイヤーとしての経験を持つ君ならきっとやってのけるはずだ。聞けば監督がいない時には、選手兼任監督までやっていたそうじゃないか。なあ、頼むよ。他にやってくれそうな人がいない。みんなアルビノの選手を嫌がって引き受けたがらないんだ」
「そんな面倒な役回りを僕が引き受けると思うか?」
「思うとも。ドボシュから聞いたが、君の両親は病気で隠居しているそうだな。君の両親の手術費用を我々が負担しよう。もちろん給料も出すし、食事つきでホテルの年間宿泊券も出そう」
「気持ちはありがたいけど、そんな金があるなら選手の補強に使えるんじゃねえのか?」
「なあブレッド、どうしてそう頑なに拒むんだ?」
「あんたなら知ってるだろ。僕が社会人チームにいた時にどんな問題が起きたか。あんな理不尽を見るのは二度と御免だ」
「……そのことなら当時の監督から聞いたよ。監督はクビにした。二度とあんな問題が起きないように社員教育を徹底するようにしている」
話半分に聞いているブレッドが再びテーブル席に着いた。
ブレッドは集団生活が苦手だ。再びその渦中に引きずり込まれることを知ったブレッドに世間と戦う覚悟はない。故郷に帰ったのも、世間との軋轢から逃れるためだ。
周囲に合わせられず、理不尽を受け入れられないブレッドにとって、世間と正面からまともにつき合うこと自体が地獄に落ちるようなものである。
「ペンギンズは12年連続地区最下位で、歴代最弱チームと呼ぶ者もいる。レオンでさえチームを立て直すことはできなかった。だがそれは歴代の監督がチームの中にある理不尽を甘んじて受け入れてきたからだ。君ならそれを変えられる。君には失うものが何もない。誰かに弱みを握られているような立場でもない。堂々と改革を行える。大事なことだからもう一度言おう。うちにはアルビノの選手がいる。もし君が監督にならないというのであれば、君の代わりに監督に就任した者がチームの理不尽に従うことになる」
「――何が言いたい?」
「ペンギンズにはアルビノの選手を受け入れられない勢力が存在する。そいつらを炙り出してどうにかしない限り、君の憎む理不尽はずっと続く。アルビノの選手は理不尽の犠牲になるだろう」
「……」
エステルの言葉に絶句するブレッド。
ブレッドの天秤に新たな重りがのしかかった。同時にブレッドは気づいてしまった。理不尽から逃げることで犠牲が出ることもまた、理不尽を受け入れる行為なのだと。
そして自らが世に巣食う理不尽を変えられる機会を与えられているとようやく理解した。
「――キールストルにはいつ引っ越せばいい?」
この質問にはエステルもドボシュもホッとした笑みを浮かべた。
しばらくの交渉が済んだ後、エステルとドボシュはブレッディヌスを去った。その道中、オリュンポリティア属州へと進む全自動車の中では、エステルとドボシュが後部座席に座っている。
「君が言った通りだな」
「父さんが真っ直ぐな心を持った人物はいないかと言った時、真っ先にブレッドの顔が浮かんだんです。ただ、融通が利かないというか、当時の社員たちからは生意気な奴と言われていました。隔離政策に反感を持ち、自分がいた社会人チームがアルビノのチームと対戦した際、アルビノの選手を動物のように扱った監督を怒鳴りつけ、チームから孤立してしまったそうです」
「そして最終的にいじめを受けていたチームメイトを庇い、監督や他の選手たちと殴り合いになってチームを退団した。貴族なら気骨があると言われるぞ。今のペンギンズには曲がったことを許さない監督が必要だ。融通なんて利かないくらいが丁度良い。それが自浄作用というものだ」
「しかし、メルリーグでの選手経験もない者に監督が務まりますかね?」
「メルリーグ創成期の監督はいずれもアマチュアリーグの選手だった。前例ならいくらでもあるぞ。どれだけレベルが変わろうが、本質的なところは何も変わらない。メルリーグとてそれは同じ。レベルが世界トップクラスに高くなったというだけで、ベースボールであることに変わりはない」
こうして、エステルの思惑通り、ブレッドはペンギンズの監督を引き受けることに。
ブレッドはペンギンズが嵐の中の船であることを知った上で、その渦中へと飛び込んだ。監督就任まであと1ヵ月。それまでにヘッドコーチの勧誘まで依頼されたブレッドは、早速仲の良かった者たちに連絡を取るが、誰もがペンギンズのヘッドコーチという仕事の大きさに怯んだ。
ブレッドは候補が決まらぬまま、日が暮れてしまった。
この日もブレッディヌスを訪れた客は数えるほどで、客のほとんどは相も変わらず、向かい側の店に吸い寄せられている。そろそろ店を閉めようかという時、1人の女性が意気揚々と入店する。
「ブレッドー、遊びに来たよー!」
「キルシュ、今日はもう閉めるんだけど」
「えー、いいじゃーん。ここのパン食べていい?」
「別にいいぞ。どうせ捨てる予定だし」
「えへっ、ここに来ると必ずパンが余ってるから、貧乏になっても生きていけるねー」
嬉しそうに冷え切ったウインナーロールを食べ始めるキルシュ。
キルシュトルテ・ヴァルト、通称キルシュはブレッドの店に毎日のように遊びに来る女性だ。ブレッドとは年が一回りも離れており、今年で18歳のパティシエである。
チョコレート色のロングヘアー、真っ赤に輝くサクランボの髪飾り、細身で人目を引くほどの豊満な胸が印象的なキルシュは、ブレッドの家の隣に住んでいる3人姉妹の末っ子だ。キルシュの姉たちが営むベーアハルデは、そこそこ売れているスイーツショップである。
ブレッディヌスとベーアハルデは昔からのつき合いである。
かつてはその縁で、キルシュがブレッドに愛の告白をするもあっさりと振られ、告白拒否がもとでブレッドが近所中から干され、売り上げが下がっていった因縁の相手でもあるが、それでもキルシュは健気にもブレッドとの距離を詰めようと懸命だ。
ハープスベルクはグリューンフェルデ属州の中でもかなりの田舎である。メルへニカにいくつもある都市部とは異なり、近所の子供同士を結婚させる古い慣習が未だに残っていた。
「残念ながらそれは無理だ。今月中に店を畳んで、キールストルに引っ越すことになったからな」
「じゃあ私も一緒に行く。家のお手伝いさせてよ」
「理由も聞かずについてくる気かよ」
「ブレッドが引っ越す理由なら知ってるよ。オリュンポリティア・ペンギンズの監督に就任することになったんでしょー」
キルシュの言葉を聞いた途端、ブレッドの背筋に雷のような怖気が走った。
「何で知ってんだっ!?」
思わず飛び上がるように反応するブレッド。だがキルシュは至って冷静だ。
「さっきうちに寄ってくれたエステルさんから聞いたもん。それに隣から会話が丸聞こえだったし、一応ブレッドの恋人としてついていくことになったから、よろしくねっ」
「まさかとは思うが、僕の恋人だって嘘を吐いたんじゃねえだろうな」
「実質恋人みたいなもんじゃーん。こうして毎日会ってるんだし、事情もおおよそ把握してる人が一緒にいた方が安心でしょ。私も協力するから。ねっ」
可愛くウインクをしてみせるキルシュ。
ブレッドの家は貧しく、耳を澄ませば隣の家の声や物音が聞こえるくらいの欠陥住宅に住まざるを得なかった。ブレッディヌスとベーアハルデの間には、蟻の這い出る隙間もない。
エステルたちの話を聞いている間、ブレッドの頭からはこのことが完全に抜け落ちていたことをようやく思い知り、魂が抜けるように意気消沈する。
「はぁ~……あっ、アンナとノワールの許可は取ったのか?」
「もちのろんだよ。お姉ちゃんたちもブレッドのことを信頼しているみたいだからね。それに私、たとえ何の事情も知らなかったとしても、ブレッドのことを信じてたよ。ブレッドはつまらない嘘なんて吐けるほど器用じゃないし、またベースボールをやっているブレッドが見たいんだもん」
「……つまんねえことしやがったら、即刻ハープスベルクまで強制送還だぞ」
「じゃあ連れてってくれるのっ!?」
キルシュが子供のように目をキラキラを輝かせながらブレッドに近寄った。
「エステルが世話役として寄こしたんだろ。だったら僕に拒否権はねえよ」
「やったー!」
ブレッドはキルシュと距離を置くように顔を後ろに向けた、これから一体どうなることやらと、キルシュを気にすることなく、不安の表情を浮かべた。
ブレッドにとって、この落ち着きは嵐の前の静けさにすぎなかった。
怪我や病気に倒れても、ポーションのお陰ですぐに直すことができる。そのお陰で選手の長期離脱はないが、体力面や精神面を考慮した休養は相変わらず必要だ。
歴代ベースボール評論家たちの著書『ベースペディア』より