第25球「希望の光」
ワッフルは正捕手の座を諦めたわけではなかった。
当分は別の者に譲るというだけで、ワッフルの次の課題が決まった。
「さっきも言ったけど、守備力は申し分ない。フレーミングもうまいし、盗塁阻止率も高い。次は打撃を鍛えろ。這い上がってこい」
ブレッドの言葉と同時にワッフルが涙を拭い顔を上げた。
「言われなくても……分かってるわよ」
ワッフルにも思うことはあるが、あえてこれ以上は口に出さなかった。
――翌日、オリュンポリティア属州キールストル――
オーナー室に1通のメールが届く。
それを見たエステルは嬉しそうにコマンドフォンを机の上に置いた。
「何か良いことでもあったんですか?」
傍にいたドボシュがエステルの表情に気づき声をかけた。
普段は厳しい表情を浮かべているエステルの些細な変化を見逃すことはなく、エステルが座っているオーナー席から机の向かい側にあるソファーに腰かけた。
「ブレッドがまたやってくれた」
「また何かトラブルでも?」
「いや、そうじゃない。ワッフルの問題を解決してくれた。ペンギンズにはスペードリーグのピッチャーのような打線の穴が問題になっていた。ワッフルが無条件で正捕手から降りてくれた」
「貴族相手によくやりますね」
「ブレッドにはもう後がない。曲がったことが嫌いな者であれば尚更思い切った判断ができる。しかもFA選手として色んな球団から声がかかっていたマカロンまで虜にした。今年のFAの目玉の1人を確保できたのはとてもありがたい」
「お陰で6年1億2000万メルヘンの大型契約を結ぶことができました。ちょっと値は張りましたけど、成績を考えればまだ安い方です。でもどうしてウィザーズを出たんでしょうね」
「ウィザーズは投手力に長けたチームだ。打力がなくても投球で勝てる。打線の核になっていたマカロンをFAにしたということは、もう打線は十分と判断したんだろう。お陰でウィザーズにはドラフトの優先権を渡すことになったわけだが、今後はドラフトで選手を選んだところで、アイリーンがいることを理由に入団を拒否されることを考えれば惜しくはない」
「当分は戦力が入れ替わらないということですか?」
「そうだ。血の入れ替えは十分に行われた。残る問題はリンツたちだが、どうしても彼らが納得しないならトレードもやむを得ない。最終的にアイリーンを受け入れられる者たちだけで固める必要がある。それで駄目なら、このビジネスは潮時ということだ」
半ば諦め気味にエステルが言った。
アイリーン1人のために多くの犠牲を払い、投手を中心に将来有望な選手の多くがペンギンズを去った今、もう取り返しがつかない段階にまで到達している。
ブレッドの成果はエステルたちの予想を遥かに超えていた。
監督として誰かを添え置くだけでも十分だったが、ブレッドは暴走する免疫細胞の如く、内部に存在する邪魔者を次々と取り除いていき、それがペンギンズにオーダーの柔軟性をもたらした。
死ぬ以外は掠り傷と思っているブレッドには、貴族出身のリンツやワッフルでさえ逆らえず、チームメイトでアイリーンを常時悪く言う者こそいなくなったが、ほとんどのチームメイトがアイリーンと距離を置いていた。
それは恐怖心以外の何ものでもなかった。
――数時間後、エルナン島クリテイシャスパーク――
クリテイシャス・ボールパークに隣接する恐竜園、クリテイシャスパークのゲートの前にはブレッドたちが佇んでいる。恐竜たちの鳴き声が響く中、ブレッドは管理人の正面から立っている。
ペンギンズの選手たちは、本来であれば予約でいっぱいの恐竜園に特別に訪問させてもらえることとなったが、ここでも隔離政策の壁にぶつかった。
「だからビノーを恐竜園に入れるわけにはいかねえって言ってるだろ」
「だったらペンギンズはここに入ることを拒否する」
「ビノーがここに来ることは想定されていない」
「だったら今からでも想定しろよ。どうしてもできないなら帰る」
「ならとっとと帰れよ。ビノー好きが」
「……園長にお前らのことを伝えておく」
不満の言葉を言い残しながらブレッドが立ち去っていく。
しかし、リンツたちはブレッドに構わずクリテイシャスパークに入っていった。その人数はペンギンズのチームメイト30人中、16人を占めていた。
ブレッドはペンギンズのアクティブ・ロースター枠を確定させておらず、投手と野手を合わせた25人を選ばなければならなかったが、選手たちの適性を見極めるのに時間を要していた。
「ねえ、リンツたちが入っていくよ」
「ほっとけ。前半戦が終わる頃には消えている連中だ」
「ブレッド、待って」
アイリーンがブレッドの前に立ち塞がった。
「何で止めるんだよ?」
「私たちはチームなのよ。こんなバラバラの状態じゃ、この先勝てる試合も勝てないわ」
「だったらどうしろと?」
「私に構わず行って。私なら大丈夫だから」
ブレッドだけでなく、周囲に集まった葵たちにも顔を向けながら言った。
「そういう問題じゃない。こんな不当な扱いを受けて何とも思わないのか?」
「……思うことはあるわ。でもそれ以上に問題なのは、チームが分断されたままであることよ」
「リンツたちを制限リストに入れて、その分をボトムリーグから引き上げることもできるけど――」
「それで分断が解消されるなら、GMがとっくにやってるはずよ」
アイリーンがブレッドに求めたのは処分でもなければ先送りでもない。
誰かを追い出すことなく問題を解消することだが、発案者であるアイリーンにさえその方法は分からない。リンツたちの問題点はアイリーンのことではなく、ブレッド自身にあるのだ。
「ねえブレッド、一度リンツたちとうまくやってみたらどう?」
咄嗟にアリアがウインクをしながら軽いノリで発案する。
「あいつらと仲良くしろってか?」
「仲良くするんじゃなくて、うまくやるの。ブレッドはアイリーンのことばかりを考えるので精一杯みたいだけど、監督というのは誰か1人のためじゃなく、チームのために動くものよ」
「!」
少しばかり強い口調でアリアがブレッドを諭すと、ブレッドが何かに気づいた。
――確かにそうだ。僕はアイリーンのことばかりを考えるあまり、他の選手のことがすっかり頭から抜け落ちていた……これじゃ贔屓にしていると見なされてもしょうがねえよな。
「アイリーンのことで心が痛んでいるのは分かるけど、少しは相手に寄り添うことを覚えないと監督失格よ。レオンはチームの問題を解決することはできなかったけど、相性の悪い選手同士の仲を取り持つのはとてもうまかったわよ」
「仲を取り持つ?」
「去年もリンツたちと対立する選手が何人かいたんだけど、レオンが機転を利かせたお陰で、最後まで問題を起こさずにシーズンを過ごすことができたの」
「機転を利かせるねぇ~」
「まずはリンツたちと一緒に行動してみたら? いつも僕らと一緒にいるだけじゃ、チームを統括したとは言えないぞ」
葵が宥めるような口調で言った。心なしか、ブレッドはいつも葵たちと一緒にいることが多い。葵たちはあからさまにアイリーンに近づくことはできないが、距離感はそこまで遠くない。
騙されたと思いながらも、ブレッドは葵とアリアの言う通りにし、黙ってゲートを通った。
「利用しないんじゃなかったのかよ?」
「あいつらを連れ戻すだけだ」
建前とも本音とも受け取れる言葉を残し、リンツの背中を追った。
園外にあるギフトショップに入ると、そこには既にクリテイシャスパークを体験した人々でいっぱいだった。メルへニカ本島から来た人も多く、特に南東部から来た人はアイリーンを見た途端、脊髄反射で目を尖らせていた。
肩身の狭い思いをしながらも、アイリーンが1つの人形をその手に取った。
「それが欲しいの?」
「見ていただけよ」
「ちょっと待ってて」
「えっ……葵?」
アイリーンから人形を取り上げると、そのまま店の外へと持ち去った。
この時点で決済が完了し、葵の口座から代金が差し引かれている。
葵に続くようにアイリーンが外に出ると、オレンジ色の2本指を持つ肉食恐竜、ティラーレックスの人形をその手に渡された。
「気持ちは嬉しいけど、自分が欲しいと思ったものくらい自分で買えるわ」
「持ち帰りを拒否される可能性もあったんだよ」
「別に構わない。もう慣れた光景だから」
2人が店の外で会話をしていると、葵の後ろからファンたちが興味本位で近寄ってくる。
「あっ、葵がいるぞ!」
「ええっ! ホントにっ! あのっ、サインいただけませんか?」
「えー、どうしようかなー」
葵が疲れ切った左手をそっと右手で隠した。
それを見たアイリーンが葵に歩み寄った。
「葵は練習で疲れているの。また今度にしてくれない?」
「何だよビノー、邪魔すんなよ」
「そうよ。さっさとザークセルに帰りなさいよ。遺伝子疾患に用はないわ」
葵の心に突発的な怒りが落雷の如く表れ、それが葵の恐怖心をかき消した。
「……悪いけど……サインはできないな」
「ちょっと待って。もしかしてビノーを庇うつもり?」
「ビノーを庇ったらあんたも酷い目に遭うわよ」
「そういう問題じゃない。相手が誰であろうと、公然と目の前で酷い言葉を投げかける光景は見ていて気分が悪いんだよ。相手をリスペクトできない人にくれてやるサインはない。今日のところは引き上げてくれ。僕にも予定があるんだ」
心の奥底に埋まっていた言葉が噴火の勢いで吐き出された。
葵もまた、ブレッドと同様に理不尽を嫌う性分であった。自らと同じオーラをブレッドに感じながらギフトショップを去った。
アイリーンは葵に続いたが、ファンたちは反感しかなかった。
「ちぇっ、ビノーがいなきゃサイン貰えたのに」
「ビノーがペンギンズに入ってから滅茶苦茶よ。お気に入りの選手もみんな出て行っちゃったし、このままじゃアリアも出て行っちゃうかもね」
「そうだな。ビノーが試合に出られないように署名しようぜ」
「それいいわね。確かロイヤルズが署名運動をしているはずよ。早速署名しましょ」
恐る恐るファンたちの会話を聞いていたアイリーンに激震が走った。
今までの間、外からの情報など知る由もなかった。そんなアイリーンにとって、知ることは背負うことであるという自覚があった。
葵にとっては全く違った意味で心に傷がついていた。味方をすることもできず、中立的な理由でしか助けてやれない自分自身を許せずにいた。しかもアイリーンの助力まで借りてしまったことには尚更こたえた。
葵はアイリーンと2人きりのまま、クリテイシャス・ボールパークに入った。
ベンチ裏の廊下で2人は向き合いながら壁にもたれた。
「さっきの、わざとだよね?」
「サインしたくなかったんでしょ。目が泳いでた」
「人の心が読めるんだね」
「心で思ったことは行動に表れる。どんなに誤魔化そうとしても、人の心は嘘を吐かない。あの人だかりを見て、葵がペンギンズの中で特に人気があることはよく分かったわ。他にも選手がいたけど、ファンサービスを求める人があまりいなかった」
「ファンサービスって、結構体力を消耗するから、できれば避けたいんだよね」
「だったら避ければいいじゃない」
「僕にも立場がある。僕が嫌われ者になったら、ペンギンズのグッズが売れなくなる。まだ監督には内緒にしてるけど、ペンギンズの売り上げが下がったら、球団そのものが売却されてしまう。僕は球団の顔だから……本来なら真っ先に……アイリーンの味方をしないといけないはずなのに……」
「!」
段々と涙声になる葵にアイリーンが気づいた。
そっと後ろから葵に寄り添い温度を伝えようとするアイリーン。
葵はアイリーンに球団の事情を話した。ペンギンズが売却の危機にあること、ペンギンズという最も選手の多様性を受け入れてきた球団が消滅することで、あらゆる可能性が消えてしまう件も話した。
「――どうしてそんな話を私に?」
「自分の中だけでため込んでおくのは、精神衛生上よくない。というか、僕1人で背負えるような状況じゃない。それに、さっきのアイリーンを見て、このままだったら黙っていても隠し通せないって思ったからさ。これから戦うのは世間なのに、味方に悩まされるのは御免だからね」
「それはお互い様よ。今のペンギンズじゃ、最下位どころかシーズン最多敗戦記録を塗り替えてしまう恐れがあるわ。他のチームは一致団結している。まずはこの状況をどうにかしないと」
「確かに今のままだと、リンツたちはブレッドの指示には従わないだろうね」
「今のブレッドに話すのは避けた方がいいわ」
「レギュラーシーズンに集中させたいから、だよね?」
「流石はキャプテンね」
珍しくアイリーンが少女のような笑顔を見せた。
葵はベンチ裏の階段の上を見上げながら腕を組んだ。
「5年もキャプテンをやってたら分かるよ。僕が入ってから、監督はブレッドで4人目だ。3人目までは誰1人として、ペンギンズの運命を変えられなかった」
「でも、ブレッドならできるわ。私はブレッドを信じる」
「それまたどうして?」
「ブレッドは自分の立場を顧みることもそっちのけで、私を信頼して起用してくれた希望の光なの。私はブレッドに応えたい。みんなブレッドを疑いの目で見ているけど、悪い人でないことは確かよ」
「だったら、その希望の光に向かって進もうよ。まずは僕らから、ペンギンズを変えていこうよ」
葵が躊躇なく右手をアイリーンに向かって伸ばしながら歩み寄った。
「――ええ」
アイリーンは喜んで握手に応じた。その細い体で孤独を歩いてきた薄幸の乙女にとって、2人きりの空間ならば、思ったままの言葉を交わせることが嬉しくてたまらなかった。
今のところ、嬉しさを表情にまで出せるのは一部の味方のみ。
本当の意味でチーム全体が味方になることを、アイリーンは胸の内で静かに祈った。
メルへニカリーグベースボール創成期では、投手の負担と打線の切れ目が懸念され、DH制導入が議論されたが、投手も打席に入る伝統を崩したくないスペードリーグが断固として拒否し、ハートリーグは喜んで導入した。以降は革新のハートリーグ、保守のスペードリーグと呼ばれるようになった。
歴代ベースボール評論家たちの著書『ベースペディア』より




