第16球「ベースメトリクス」
ブレッドの言葉に反発しながらも、すぐに弱気の顔になるエイブル。
かと思えば、すぐに深刻そうな目でブレッドの目を見つめた。
エイブルがはめている紫色のグラブは濡れタオルで奇麗に拭かれているが、他の選手たちのグラブよりも明らかに使用頻度が低かった。
「そのことなんですけど、実は私、引退を考えてるんです」
「えっ……もしかして、歌手に専念したいとか?」
「それもありますけど、監督の言う通り、どっちかに絞った方がいいと思ったからです。私は焔さんみたいな才能はありませんから」
「何でそう中途半端なのかねぇ~」
「そんな言い方ないじゃないですか」
「引退するにしても、そういう決断はオフシーズンにするべきだし、どっちかに絞りたいんだったらベースボールに絞ってくれ。今は1人でも多くの戦力が必要だ。歌手は歌さえ上手ければいつでも復帰できるけど、メルリーガーは一度引退したら能力的な意味でもう戻ってこれねえぞ」
「それはそうですけど……」
「ここまで引退を引き延ばしたのは、ベースボールに対する未練があるからじゃねえのか?」
「……」
痛いところを突かれ、地蔵のように黙り込んでしまうエイブル。
スプリングトレーニング中にも何度か練習を抜け出し、シーズン開幕前のライブに向けた新曲を選手たちに披露していたが、兼業故の練習不足がスプリングトレーニングに表れていることをブレッドは見抜いていた。
その影響はレギュラーシーズンにも表れ、結果的にどちらも中途半端となっている。エイブルの歌唱力自体は高い方だ。しかしメディアに取り上げられることは少なく、全国規模で言えばマイナーな歌手だが、地元オリュンポリティアではそこそこの人気があり、グッズの売り上げにも貢献している。
そのために誰からも咎められることはなかったが、エイブル自身は兼業に限界を感じている。
「あっ、ライブのリハーサルしないと」
エイブルがコマンドフォンで時間を確認すると、ベンチ裏の会談へと向かおうとする。だがそれを阻もうと、ブレッドがエイブルの細長い腕をがっちりと掴んだ。
「ちょっと待て。話は終わってない」
「でも来月にはライブがあるんですよ」
「ライブは今すぐ中止にしろ」
「そんな勝手なこと言わないでくださいよ」
「メルリーガーも歌手も中途半端な奴のためにロースター枠を割いてやってるんだ。もしこのままライブのリハーサルに行ったら、帰ってくる頃にはお前の席はなくなってると思え。戦力自体は足りないけど、選手はいくらでも代わりがいる。焔だって二刀流とは言っても、ずっとベースボールに道を絞ってやってきた。両方とも一流なら誰も文句は言わない。だが両方とも人並みじゃ駄目だ。それならいくらでも替えが利く。替えが利く存在に価値なんてない。ここまで兼業できるくらいの才能はあるんだからさ、ベースボールに絞ればもっと活躍できるはずだ。どうしても引退したいなら、せめてスプリングトレーニングが終わるまではベースボールに集中しろ。それで駄目だったらDFAにしてやるから、それに乗じて堂々と引退すればいい」
「……分かりました」
ブレッドの言葉に背中を押され、決心がついたエイブルがコマンドフォンを手に取り、来月のライブを中止する旨を芸能事務所に伝えた。
しばらくして試合が始まると、まるで未知の海に飛び込むペンギンの如く、エイブルは心臓が震えるような思いでマウンドへと向かっていくのだった。
「へぇ~、エイブルちゃんを説得したんだー」
後ろから両手をブレッドの方に置き、顔を近づけながら話しかけるキルシュ。
キルシュはブレッドのアシスタントとして、チーム内におけるアイドル的存在となっており、監督であるブレッドよりも先にチームに馴染んでいる。
「優柔不断な奴には二択を押しつけるのが1番だ」
「ペンギンズは慢性的な資金不足だった。そこでグッズを売るための広告塔が必要だった。エイブルは歌手も目指していたから、それでエイブルをバロン家の傘下にある芸能事務所に所属させて、オフシーズンの宣伝広告塔になってもらう手筈だった」
割り込むようにドボシュが解説をする。
ペンギンズが抱える多くの問題は選手たちの都合だけでなかった。1つ1つの課題をエステルがリストアップし、それをドボシュがブレッドに渡していた。
「何で?」
「オフシーズンは球場のグッズが売れないんだ。プレーオフに進出すれば延長はできるけど、球団によってはオフシーズンでもグッズが売れるようにするために、球場をイベントや大会の会場にする場合があるんだ」
「へぇ~」
「でも思ったよりオフシーズンのレッスンやライブの予定が忙しくて、それでエイブルは練習を怠るようになった。いつしか歌手としての活動に傾いて、成績は見る見る内にボロボロになっていったわけだ。左打者に滅法強いサウスポーだから、しばらくはリリーフ起用になりそうだな」
「確かエイブルって先発だったよね?」
「これだけ成績が悪いんじゃしょうがねえよ。これでちょっとは改善してくれるといいけど」
「よくやった。父さんも君のことを褒めていたよ。思った以上に仕事をしてくれたって」
「こちとら失うものが何もないんだ。最下位を免れるんだったら象だって使う。借金地獄だけは真っ平御免だからな」
「あぁ~、なるほどねぇ~」
ブレッドのカバンには『自己破産申請』にまつわる本があることをキルシュは知っている。
メルへニカで自己破産申請を行うと、借金地獄は免れるが、代わりに働く場所を提供され、背負っていた借金に応じた期間中は『無償労働』をしなければならず、職場や職種も選べないため、集団生活を免れたいブレッドにとっては是が非でも避けたいものであった。
そんなブレッドの事情を知るドボシュは、必死にチームを再建しようと試みているブレッドに罪悪感を持っている。
「ところで、先発ローテーションは決まったのか?」
「5人中4人は決まった。ラーナと焔とバウムとエクレールだ」
「バウムはうちのロングリリーフだぞ」
「あれだけのスタミナがあるんだったら先発もできるはずだ。元先発みたいだし、あいつがリリーフになったのは他に優れた先発が大勢いたからで、オストリッツ時代はピッチャーが強いから先発になれなかった。でもうちなら十分に先発で通用する」
「そういうことだったか。でもどうして分かったの?」
「チーム防御率の一覧を見たんだよ。あれだけ頻繁に投げて防御率3点台を保てるくらいだし、登板する頻度が固定化されていればもっと安定したピッチングができるはずだ」
話しているブレッドの後ろから1人の人影が距離を詰めてくる。
「監督、何故私を先発で使わない?」
ブレッドに声をかけたのはルドルフだった。
血管が切れそうなくらいの険しい顔でブレッドに迫り、何の躊躇いもなく不満を訴えた。
「スタミナがないんだからしょうがねえだろ。好調なのは初回だけで2回以降は打たれまくりだし、そんな奴を先発に置くわけにはいかない」
「レオン監督は私の立ち上がりの良さを買って先発起用してくれたんだぞ」
「次世代エース候補としてデビルズからトレードで来たんだろ。でも実際はどうだ? 5回も持たずに降板するパターンばかりだ。そのせいでバウムが途中からロングリリーフとして頻繁に投げる破目になった。もし今年結果を出せなかったら、その時は容赦なくDFAだ」
「何だと」
「どうしても先発がしたいって言うなら、今度のマンキース戦で登板させてやるから、完璧に抑えてみせろ。そしたら考えてやる」
「約束だぞ」
渋々とルドルフがブルペンへと去っていく。
ブレッドは4人の先発を確定させたが中4日の登板を考えれば、あと1人先発を決めなければならないが、足りない部分はオープナーで埋めようと考えている。
しばらくはリリーフとして使われている投手たちの様子を見ることにし、オープナーに向いている投手とロングリリーフの併用を考えている。
「はぁ~、疲れたぁ~」
この日の夜、疲労困憊となっていたブレッドがベッドに横たわった。
夜まで選手たちの起用法を話し合っていたジャムは机に座りながらくつろいでいる。
相も変わらずキルシュがブレッドと同じベッドにパジャマ姿で乗り込むと、まるでペットのようにブレッドに懐いている。
「今日もお疲れだったねー」
ブレッドの耳元で労いの言葉をかけるキルシュ。
ずっと自分に構ってくれないことに苛立ちを覚えながらも、近くでブレッドの仕事を献身的に支え続けることが、キルシュにとっては大きな生きがいになっている。
「こんなに問題児の多いチームとは思わなかった」
「チームスポーツなのに、ほとんどの選手は自分のことしか考えてなかったね」
「そりゃ当然だ。成績を残さないと、来年にはここにいないかもしれないからな。そういう世界だ。後は嘆願書を取り下げない連中をどうにかしないとな」
結局、リンツ、丸雄、プレク、ワッフル、ファンクの合計5人が嘆願書を取り下げないままだ。リンツたちはトレード先が見つかればすぐにチームを去らなければならなくなった。
プロスペクトとして確保した選手の多くがアイリーンに反感を持っている他、嘆願書を取り下げたチームメイトたちの中には、口に出さずともアイリーンに対して少なからず抵抗を持っている。心の壁が消え去ることはなく、こうしたチーム内からの抵抗もまた、ブレッドたちの悩みの種であった。
「まずはスタメンを確定させないとね……ブレッド?」
ベッドの上には体力を使い果たし、ぐっすりと熟睡しているブレッドの姿がある。
「寝ちゃってますね。じゃあそろそろ部屋に戻りますね」
「うん、また明日」
キルシュはブレッドに掛け布団を敷くと、ブレッドの隣に寄り添うように同じベッドに上がり、そのまま眠るのであった。
――翌朝――
ブレッドがゆっくりと目を開けると、まず見えたのはブレッドの体を揺さぶっているキルシュだ。その隣にはジャムが立ち、様子を見守っている。
「ブレッドー、早く起きないと遅刻するよー」
「――遅刻? ――マジかっ! やばい、目覚まし設定すんの忘れたっ!」
「そうだろうと思って、真っ先に起きちゃった」
「今何時だ?」
「9時52分です。昼からの練習試合にさえ間に合えば問題ありませんから、ゆっくりしていても大丈夫ですよ」
ジャムの言葉を聞いた途端、ブレッドは再びベットの上に横たわった。
すると、扉の向こう側からコンコンと丁寧に扉を叩く音が聞こえ、3人は扉の方向に首を向けた。
「誰だ?」
ブレッドが疲れの取れていない体を起こし、扉に近づきながら言った。
「わたくしはヘレントルテ・バロン・ウィトゲンシュタイン。ドボシュトルタの娘ですわ」
優雅で気高い声が扉越しに聞こえると、ブレッドは恐る恐る扉を少し開いた。
目の前には黒を基調としたドレス姿の女性が姿勢を正したまま佇んでおり、ふわふわしたツインテールの毛先まで見事に手入れが行き届いている。
ブレッドはその落ち着きのある表情から気品を感じ取った。
「ウィトゲンシュタイン家が僕に何の用だ?」
「ペンギンズに面白い監督が就任したと聞きまして。あなたがブレッド・ベイカーですわね。お父様から常々話は聞いています。わたくしのことはヘレンと呼んでもらって結構ですわ。男好みの顔だからという理由でついた名前ですけど、まあそんなことはどうでもいいですわ。お父様から聞きましたが、何でも助けが必要であるとか。一助になるかと思い、一度お会いしておこうと思いまして」
「それは助かるけど、ベースボールは知ってるのか?」
「知ってるも何も、わたくしはベルマガの編集長ですのよ。あなたたちよりもベースボールのデータにはずっと詳しいのですわ」
「「「ベルマガの編集長!?」」」
ブレッド、ジャム、キルシュが同時に叫んだ。
ベルマガは選手1人1人を客観的に評価するだけでなく、膨大なデータを各チームに提供する仕事まで請け負っている企業である。
「編集長並びにメルリーグのデータ管理をしながら『ベースメトリクス』のデータ分析もしていますのよ。以後お見知りおきを」
ドレスの両端を上品に持ち上げながら挨拶をするヘレン。
「お、おう。ていうか1つ聞きたいんだけどさ」
「何ですの?」
「ベースメトリクスって……何だ?」
ブレッドの唐突な疑問に、ブレッド以外の全員がこけそうになる。
「ブレッドさん、知らないんですか?」
「言っただろ。世間から離れてたって」
「と、とりあえず、あなたに助けが必要なのはよく分かりましたわ。では簡単に説明しましょう。ベースメトリクスとは、ベースボールにおいて、歴代メルリーガーたちの膨大なデータを統計学による客観的な見地から分析し、選手の評価や戦略を考える分析手法ですの」
「ベースボールはデータじゃねえぞ。データっていうのは、あくまでも膨大なサンプルの平均値だ。机上論でやる試合と実際の試合は全然違うぞ」
「確かにこれを用いて結果を出したチームはありませんわね。ではこれはどうですの?」
「!」
ヘレンがコマンドフォンをポケットから取り出すと、ブレッドの自室を占領するかのようにベースメトリクスの膨大なデータがホログラムとして飛び出し、部屋の中を漂っている。
一通り説明を受け、ブレッドたちはベースメトリクスがメルリーグに与えている影響の低さに口を開けたまま驚愕するが、このデータの正確さにはあっさりと納得してしまった。
メルリーグ創成期より、1つ1つの試合から細かいプレイまでもが全て管理され、それぞれの選手たちの傾向を完璧なまでに説明している。
「なるほど、じゃあ今のメルリーグはまだどこの球団もベースメトリクスを用いていないわけか」
「誰も実績を出していませんから、それでまだ市民権がないんですの。半世紀ほど前まではスモールボールを用いる球団が多数派でした。でもこの50年で段々とスラッガーの数が増え、ビッグボールが多数派となっていますの。奇しくもそれがリードオフマン時代を終わらせる原因でしたの」
「リードオフマン時代があったのは知ってるけど、それはスラッガー不足が要因だからな」
ブレッドが感心しながらホログラム化された説明文を読み漁っている。
それを見たヘレンはクスッと笑みを浮かべるのであった。
メルリーグでは前の投手が残したランナーを次の投手がホームに生還させた場合は自責点とはならない。あくまでも自分で出して自分で帰したランナーのみが自責点の対象となっており、これは先発とリリーフの力の差が大きかった時代の名残である。
歴代ベースボール評論家たちの著書『ベースペディア』より




