蝶の美容院
例えば同じクラスのひまりちゃん。
漢字で春野陽葵と書く。
ひまりちゃんはその名前を表したように明るく、優しい可愛い女の子だ。
彼女が同じクラスにいるだけで、冬の教室に春風がそよぐ様な、そんな素敵な女の子だ。クラスの誰もが、みんな彼女が大好きだった。
一方私の方はどうかというと、重川麗花。それが私の名前。
よくいろんな人から財閥のお嬢様みたいな綺麗な名前と呼ばれるけど、家はごく平凡な家庭で、私は全然綺麗じゃなくて、友達だって全然いなくて、
いつも教室の隅で本を読んで過ごしている。こんなにも大層な名前が似合わない人も、そうそういないはずだ。
私は自己紹介をするとき、いつもとてつもなく恥ずかしくなる。いっその事、地味子、なんて名前の方がよっぽど安心するのだ。
ある日のお昼休み。私はあまり仲が良いわけではないクラスの女の子とご飯を食べ、鞄から本を取り出し、読んでいると、教室の真ん中でひまりちゃんの声が聞こえた。
「最近、すっごくお気に入りの美容院が出来たの!」
ひまりちゃんは、少し興奮気味で友達に話していた。私はいつもひまりちゃんの話を聞くとき、読書をするふりをして、聞き耳を立てる。彼女の話はいつも本当にお面白くて、ちょくせつ聞ける彼女の友達になれたらどんなに嬉しいかと思いながら。
「店員さんがすっごいイケメンでね、すっごく上手なんだ! 私はもう一生そこで髪を切る!」
「マジ〜? どこどこ?教えてよ!」
友達の一人がそう言うと、ひまりちゃんはクスクスと笑い、
「やー、教えたくない! 私だけ独り占めしたいんだもん」
普通なら、そんな事を言ってしまうと嫌われてしまうんじゃないかと思ってしまう私と違い、ひまりちゃんは堂々と笑った。
「教えろよ〜」
友だちも気にしていない様子で、楽しそうに笑っていた。
ひまりちゃんが通い詰めている美容院。そして美容師のカッコいい男の人。もう本の内容は全く頭に入らずに、私はどんな人なのか気になってしょうがなかった。
次の美術の時間、油絵を描いていても私の興味心は治まらない。
もし私がそこに行けたのなら。
ひまりちゃんの様になれたのなら。
--重川麗花の名前にふさわしくなりたい。
「ねぇねぇレイカちゃん」
急に呼ばれて、顔を上げると、ひまりちゃんが目の前にいた。
「え……春野さん……?」
ひまりちゃんが私に話しかけている。
一瞬、私の妄想なんじゃないかと疑った。
「ひまりでいいよ 悪いんだけど、黄色絵の具貸してもらえないかな?」
ひまりちゃんは困った風に笑って、そう言った。
うちの高校の美術の時間は、音楽と選択式で、ひまりちゃんと仲が良い人達はいなかった。どうしてひまりちゃんは美術を浮かんだろう、私は疑問を感じながら答える
「ぜ、全然いいよえっと……ひまりちゃん」
「うん! ありがとう! レイカちゃん!」
初めて呼ばれた下の名前を耳にし、顔がちょっと熱くなる。最近その名前を呼ぶのはお母さんとお父さんだけだった。
「今回の課題、何書いてるの?」
「カラスの絵。なんとなくだけど」
「わぁ、凄く上手! あたしは絵、へたっぴなんだよね」
「ほんと……?」
実際に見てみると、確かにお世辞にも上手とはいえない、男性の姿が描かれていた。
「この絵って、もしかして美容師さん?」
「えぇ!? なんでわかるの? とゆうかレイカちゃんにこの事言ったっけ?」
「お、お昼休みに話してるのきいて……」
なんだか盗み聴きしたみたいでバツが悪いまま答える。
「あぁ〜! あたし声大きかったよね」
ひまりちゃんはニコリと笑った
「私、マサトさんの事好きなの」
「え、そ、そうなんだ」
好き、というストレートな言葉に私の方が恥ずかしくなる。ひまりちゃんは凄くまっすぐだった。でも、その真っ直ぐささがとても、羨ましかった。
「わ、わたしもその美容院、行ってみたい……かも」
私の口から勝手に言葉が出ていた。ひまりちゃんはキョトンとしてる。
「あ、ち、違うの。マサトさんに会いたいとかじゃそんなんじゃなくて、ひまりちゃんの髪型前から憧れていて、私も髪を切りたいなーと思って」
まずい、誤解されてしまう。だけどひまりちゃんはニコッと笑った。
「いいよ! 教えたげる!」
「え……でもいいの?」
「うん! あたし前からレイカちゃんはもっと綺麗になると思ってたからそんなレイカちゃんを見てみたいな」
顔が熱くなる。ほんとにこの人はなんでこんなに眩しいんだろう?
私は、ひまりちゃんになりたかった。
「それに……レイカちゃんも病みつきになると思うよ」
「……え」
「そろそろ片づけしなきゃ。絵の具ありがとね!」
そう言ってひまりちゃんはパレットを手にパタパタと駆けていく。
最後の病みつきという言葉は、ひまりちゃんらしからない、……なんだかエッチな響きだった。
日曜日、お母さんに髪を切りたいと行って、お金をもらった。
いつもは簡単にはくれないのだけれど、普段化粧気が無い私が言ったのが珍しいのか、すんなりとお金を渡してくれた。
「……ここね」
バスから降りてしばらく歩いた所に、その美容院はあった。ガラス張りで、とてもオシャレな雰囲気だ。いつもの近所の美容院とは、全然違う。
「もっと、オシャレな服着てくればよかったかな」
私は手鏡で自分の姿を見直す。
「あのー、もしかしてご予約の人?」
男性の声がした。顔を上げると赤髪の背の高い男性が微笑んでいた。すごくカッコいい顔立ち。ーーひまりちゃんの絵でみた、マサトさんだ。
「え、あはい。よ、予約していた重川です」
「下の名前は?」
「えぇ!? 下の名前はれ、麗華です」
どうして下の名前を言う必要があるのだろう? 私は僅かに疑問を感じながら答える。なんだか恥ずかしくて顔を上げられない。
「じゃあれいかちゃん、ようこそ当店へ〜」
のんびりとした笑顔でマサトさんは歩きだす。
椅子に座ると鏡越しにマサトさんが見えた。ひまりちゃんが言うとおり、本当にかっこよくて、こんな人に髪を切ってもらうのは現実感が全然無かった。
「今日はどんな髪型にするの?」
ニコリと、鏡に写ったマサトさんは言う
「こ、こんな感じで、」
私はスマートフォンで検索しておいた女優の写真。ひまりちゃんと似ている人だ。
「お、この女優を見せた人君で二人目だ。この人の髪型、流行ってるの?」
「そ、そうなんですか?」
「うん〜君と同じくらいの女の子」
--もしかしたら、ひまりちゃん?
私がひまりちゃんに憧れる様に、ひまりちゃんもあの女優さんに憧れていたの? なんだか不思議な気分になる。
「じゃあカットクロスに腕通して、切り始めるよ〜」
「お、お願いします」
マサトさんは慣れた手つきで、はさみを動かす。赤い髪が揺れていて、なんだか綺麗だなぁと思った。
私の髪はパラパラと落ちていき、整髪はあっという間に終わった。
「お気に召した?」
鏡をかざすマサトさん。
「はい! ……すごい、綺麗」
ひまりちゃんと似ている、だけど同じでは無くて、上手く言えないけれど、まるで最初からこれが私だけの髪だという様な。
「良かった。でもまだ俺の仕事はまだ終わってないんだ」
終わりじゃない……? だって髪型は既に完璧なのに。
カットクロスを取ったマサトさんは、私の肩に、触れた。直後、私の中で、何かが走った。
「肩マッサージね。まぁレイカちゃんは若いからいらないと思うけど、これは俺流のおまじない」
「マサト……さんっ、これ、なんですか? こんな感覚、私、初めて」
気持ちいい。だけど、このまま触れられていたら、何かが、私の中の何かが変わっていくような、不安もあって、少し怖くなる。
吐息が漏れて、凄く恥ずかしい……。
「レイカちゃんって綺麗な名前だね」
ぽつりと、マサトさんがそう言うものだから、私はすごくびっくりした。
「い、いえいえ! 全然私なんかに似合わない名前で、私下の名前を言うのが恥ずかしくて」
「なるほどね、それがレイカちゃんが家にきた理由なんだね」
「え……」
なんだろう、マサトさんはまるで予言する占い師みたいな口調だった。
「みんなそうだよ。うちに来る子は大なり小なり、悩みを抱えてる」
「そ、そうなんですか……? ひまりちゃんも?」
「ひまりちゃんって春野ひまり? あの子と同じ学校って事? 仲いいんだ?」
「……ひまりちゃんは何が悩みだったんですか?」
人の悩みを聴くのは、悪趣味だとは思ったけれど、私はどうしてもひまりちゃんの事を知りたくなったのだ。
「雨の日だったかな。当時中学生くらいだったひまりちゃんは、ずぶ濡れでウチに来た。長い髪をバッサリと切ってくださいと言ってきた」
マサトさんの声とハサミの髪を切る音が響く。
「失恋した。と言っていたな。……よっぽど酷い恋愛だったんだろうな。ーー俺はね、時々思うんだ」
マサトさんはそっと瞳を閉じて、話す。
「この仕事はね、小学生の夏休みにやった、蝶の観察日記と似てるなといつも思うんだ。
女の子は進化していく。君たちは傷つき、そして脱皮をする様にに変化し、別の女性に進化していく。俺は、その課程をただ、眺めるのが好きなんだ」
マサトさんは微笑む。心から楽しそうに、嬉しそうに。
身体が熱い。何かが、変わっていく。私は一体、どうなってしまうの。
「レイカちゃん、君は、どんな風に進化していくのかな?」
優しい口調で、マサトさんの声が頭に響いた。
翌日、学校に向かう途中、ひまりちゃんが前を歩いていた。
「ひまりちゃん!」
私が発した声はよく響き、自分の声じゃ無いみたいだった。
ひまりちゃんは振り向き、ちょっと驚いた顔をして、すぐに笑った。
「あ、レイカちゃんおはよー! ーーめっちゃ雰囲気変わったね」
ひまりちゃんがそう言ってくれた事が嬉しくて、私は口元が緩んだ。
「ありがとう、ひまりちゃん」
彼女はくすりと笑って、
「ねぇ、マサトさんは、病みつきになるでしょう?」
私は頷く。まだどこか身体が熱い。
私達は、マサトさんに変えられた者同士。
「レイカちゃんあたしね、美術室で話した時からレイカちゃんを染めたかったんだ。ーーマサトさんの美容院は、他の人には秘密ね」
「ーーうん」
誰かに喋るつもりは、全く無かった。
私達はきっと、共通の過程を通った、蝶になったのだろう。