睡魔に勝てない話
ふと、昔よく聞いた曲のフレーズが脳裏によみがえり、頭上に目をやる。
今夜はよく晴れているようで、雲一つない空をビルの隙間から覗くと満点に星が散っているだろうことが感じられた。金星はどこにあるのだろうか。
上を見上げすぎて首が痛くなってきたので今度は地上を見渡す。
そこには闇に沈んだ街があった。
真夜中の住宅街に明かりが灯っていないことに違和感を覚える人は少ないかもしれない。
けれど駅前の繁華街、夜にこそ動き始めた歓楽街にも明かりが入っていないというのは多くの人に違和を感じさせるのではないだろうか。
あまつさえ、町のそこらにある街灯にすら火が灯らないとあっては違和感を超えた不可思議を見る人に与えるだろう。
しかし、残念なことにこの不可思議な光景を見ることが叶う人間はひどく少ない。
否、少ないという言葉では足りないだろう。
何故ってそれは、この世界に今いる人間は、いや、生物は私一人なのだから。
何故このような事になっているのか?
そんな問いは無意味だ。ナンセンスですらあるだろう。
とにかく、この世界に私一人きりと言うのが大切なのだ。
そんなことを考えながら私は人っ子一人いない歓楽街を歩いていた。別に目的地なんて
ものはないけれど、この一人きりの世界を観光してみたいと思っている、そんな感じだ。
ふと、ひどくうらぶれた、一本の隘路があることに気が付いた。私はゆっくりとそちらに歩を進めてゆく。道の端にはかつての主ももういないだろうゴミが所々に落ちている。
以前なら虫の一匹や二匹湧いてもおかしくはなかったのだろうが、今は影も形も見えない。そんな道をてくてく歩んでいくと、見覚えのない電波塔が見えてきた。
はて、こんなところにこんなものがあったとは、今まで気が付かなかった。だが、ここを上ればよりこの町をよく見渡せるだろう。電波塔の外階段は、かつてチェーンで厳重に閉じられていたらしいがすでに鎖は錆び朽ちかけ、力任せに引っ張れば簡単に壊れた。
私はペンキが剥げかけ、ギィギィ軋む階段をのんびりと上りながら自分の視点が次第次第に高くなっていく事に楽しさを覚えていた。
とうとう最後まで上り切った私の目に飛び込んできたのは、黒と白の対比だった。
暗闇に沈む街から少し目を上げれば天を満たした光の粒、粒、粒。宝石をちりばめた、とはうまい比喩なのだと感心させられる。そんな光景だった。
さて、わざわざ電波塔を、えっちらおっちら階段で上ってきたわけだが、これからどうしたものか。階段を上ってくるときに、錆の浮いた階段からはなかなか嫌な感じの音が聞こえていたわけだが。私は無事にここから降りられるだろうか。
「ま、行きが大丈夫だったんだから、帰りも何とかなるでしょ。」
ぼそりと呟いて、観覧用の手すりから身を起こす。そのあと、わざと軽い足取りで階段まで歩み寄る。
そう、軽い足取りで階段を下りれば、階段にかかる負荷も軽くなるかもしれない。
ギィギィと悲鳴を上げる階段を軽やかなステップで、バギン、
「あ」
普通に抜けた。
「おっ、が、ぐげっ、ぺぃぐっ」
普通に生活する分には出ないだろう声が勝手に私の口から洩れる。そうして目の前を暗闇が包み、
『電源との接続が遮断されました。覚醒シーケンスを実行します。』
「およ?」
再び何も見えなくなるが、今度のそれは私の意思一つですぐに消えてしまうような脆弱なそれだ。
「あのねぇ、夜更かしするなとはもう言わないけど、せめて睡眠時間は守りなさいな。」
そう言われて瞳を開けると遮光性のバイザーの向こうに呆れ顔の母親がいた。
はて、時計を見る。太い針が七と八の間に、細い針は真下を向いていた。太いのと細いのが入れ替わってくれないかなぁ、と現実逃避を試みていると母親が容赦なく布団から私を追い出しにかかった。彼女に人の心はないのか。
ただ、いつまでも現実から逃げようとしても残念ながら叶いそうもないので、私は渋々布団から起き上がり、装着したままではやや重いヘッドギアを外した。
このヘッドギアこそ私が先程までいた不可思議な世界への切符。脳のニューロンがなんやかんやで電気刺激をどちゃらこーちゃらすることによって実現した、理想の夢を見せてくれる魔法の機械。フルダイブ型ばあちゃるりありてぃ…?何とかだ。
ヘッドギアの中に入っていた髪が顔にかかった。うっとうしい。髪を払いつつリビングに向かう。リビングには既にやや冷めた朝ごはんが用意されていた。
「じゃあ、お母さんもう行くから。ちゃんと学校行くのよ。」
「うん、行ってらっしゃい。」
そう言い残すと母親は仕事かばんを掴んで家を出て行った。父親は既に家を出た後らしい、玄関から私には少し大きな革靴がなくなっていた。
朝ごはんを食べおわり、食器を食洗機に放り込んで私は自分の部屋に戻った。
部屋は、実際物は少ない方だろうと思う。広げられた布団と勉強机、教科書、ノートと学校指定のカバン、それから、例のヘッドギアと私が先程まで遊んでいたカセットが一本。
「Night Walk」と名付けられたそれは、人がいない世界をただ歩き回るというどこに需要を向けているのか判然としないゲームだった。驚くほど精緻に造られたグラフィックと病的なほど優秀な物理演算によって作られた世界はもはやもう一つの現実と呼んで差し支えないレベルだという。
ふと、私はなぜこんなものを、そう安くないヘッドギアまで用意して買ってしまったのだったかという疑問が私を襲う。
…まぁ、いいか。覚えていないということはそれほど重要な事ではないということだろう。
しかし、先ほどの死に方はゲームとは言えあまりに雑すぎたな、と反省しながら私は学校のカバンに必要なものを詰め込み、家を出た。
外は秋の終わりを告げるように肌寒くなり始めていた。特に今日は空に雲がかかり日光を微かに遮っている上に風も激しく、体感の気温を下げている。
私はのんびりと人気の少ない通学路を歩く。学校が始まってからの通学路は驚くほどに人通りが減る。少し前まで黒や紺の学生服で埋め尽くされていたとは信じがたい道を通り、私は学校の前に着いた。
通用門を通って学校に入ると、ひとまず職員室に向かう。職員室に入るといつもよくいる先生がこちらを少し見て、またお前かとばかりに軽くため息を吐くと何も言わずに遅刻票を渡してきた。私も特に何を言うことなく、さっさと必要事項を記入して教室へ向かった。
教室に着くと既に朝礼も終わり、一時間目が始まった所だった。少し気を使うべきかとできる限り静かに扉を開けようと試みた。まぁ、失敗したが。気にせず教卓の横に行くと担当
の教師に遅刻票を渡し自分の席に座る。いつものように教師からは何も言われなかった。
あくびを噛み殺しながら自分の席に着く。カバンから教科書やノートを引きずり出しながら、自分の生徒が遅刻しようがサボろうが何も言わない先生のありがたいお話を聞き流す。自分の前の席に座っている人の背中を何と無しに眺めていると、ふと、今夜はここに来よう、と思った。
一時間目は半分眠ったような状態で過ごした。単純に睡眠時間が足りていないからだろう。起きていようという努力はあまりしなかった。
一時間目が終わるチャイムの音で本格的に覚醒したようだった。周りを見ると、既に休み時間に入っているらしく軽くあくびをしながら机の上に出していた用意をカバンの中に戻す。と、そこで、おはよう、と声をかけられた。
「おはよう。なんか、すごく眠そうだったけど。昨日、よく眠れなかったの?」
私は、あぁ、うん、まぁ、と、答えを濁しつつ目の前のクラスメイトの名前を思い出そうとしていた。
「そうそう、それでさぁ、この前勧めたゲーム、どうだった?前に聞いた時は始めてみたって言ってくれたから気になってさ。」
勧めたゲーム?私はゲームを一つしか持っていない。と言うことはこの人が私にあの独りを体感できるゲームを教えてくれたのだろうか。
「ナイトウォークの事?」
「そうそう、君なら気に入ってくれると思ったんだけど。」
その答えを聞きながら私は何とも言い難い違和感を覚えていた。はたして、私は誰かにあれを勧められたのだったか。…思い出せない。いや、彼が勧めたと言うなら、おそらく私は彼に勧められたのだろう。私の記憶は近頃ひどく曖昧だ。
「気に入ってる、と思うよ。」
毎日、遊んでいるのだ。こういう事をきっと気に入っているというのだろう。
「変な答えだなぁ。ま、気に入ってくれたんなら嬉しいよ。」
そう言って彼は自分の席に帰っていった。私としては彼の方がよっぽど変な人間に見える。私に進んで話しかけるような人間が——
チャイムが鳴った。二時間目が始まるようだ。
二時間目は数学だった。二元一次方程式?とかいう何かよく分からない文字群をこねくり回してよく分からない文字群に分ける方法を学ぶらしい。うぅむ、さっぱり分からない。最近授業をサボりすぎたのだろうか。頭に?を浮かべていると教師が私を指名して黒板の問題を解くように言ってきた。困った、解けない物を解けと言われてもどうすることも———
パチリ、と目が覚めた。はて、っ、そうだ、黒板の問題を解かないと、
おや?
黒板には曲線のグラフが描かれ、教師は何の滞りもなく授業を進めている。
ゆめ?だったのだろうか?…まぁ、いいか。授業が滞りなく進んでいるということは、私が何もしなくてもいいということだ。教師に指名されて黒板に向かった前の席の人を見送りながら、私は再び文字と数字を弄り始めた。
さっぱり分からん。
授業が終わって、幸い掃除当番にもあたっていなかったのでさっさと帰ることにする。それでも私が帰り始めたころには何かの部活が校外のランニングを始めていた。イチニーイチニー掛け声を合わせて私を追い抜いていく。
私は、もう少し早く帰り始めていたらと少し後悔した。そうだったら、この道を通っている人の数はもっと少なかったはずなのに。
ただ、そんな不快も曲がり角を折れればすぐに解消された。私が好んで使う、住宅街のルート。一軒家が軒を連ね、植木や家庭菜園なんかのプランターが車道にはみ出している。使われていない訳でなく、ただ必要もなければ誰もここを通ることを選ばない道。子供たちは既に家にこもり、ホワイトカラーが帰ってくるには早すぎる時間帯、この道は本当に人通りがなくなる。まるで人だけが皆いなくなってしまったかのように。
こういう光景が私は好きなのだろう。ヒトが心地良く生きようと思ったらその数はあまりに多すぎる。いや、単に私が人間を嫌っているだけなのかもしれないが。
そうして人の少ない道を選んで家まで帰りついた私は、扉の鍵を閉めた所で、ふ、とため息をついていた。眠いことに加えて、久しぶりの学校で思ったよりも疲れてしまっていたらしい。
ただ、今は無性に眠い。私は学校カバンを放り出して、制服にしわが付くことも気にせず布団に倒れこんだのだった。
その晩も例のゲームをやった。人のいない夜の学校に行ってみた。特に面白いことも起こらなかったので、自分の座席を蹴り飛ばしてみたら教卓まで巻き込んでどんがらがっしゃんとなぎ倒していった。愉快だった。
翌朝、いつものように母親に叩き起こされた。昨日のように小言を言われた。母親が家を出て行った後、今日は制服ではない服を選び、薄手のコートを着て財布をもって家を出る。学校には昨日行ったし、今日はいいだろう。
別段目的地もあるわけではないが、とりあえず普段行ったこともない場所を目指すことにする。確か南東方向にはあまり行ったことがなかったはずだ。自転車を引っ張り出してロックを外す。少しあくびを漏らして自転車を走らせた。
自転車は油が切れかけているのか、じゃかじゃかと騒々しい音を立てて走る。そのうちに駅前の歓楽街らしき所に差し掛かった。しかし、来たこともないはずなのに、不思議と既視感がある。少し考えて、あのゲームでみた電波塔へ至る歓楽街だったかと考える。
そうだったかもしれない。
あのゲームが本当に現実に準ずるのなら、多分この先の、隘路を進んだ先にあの電波塔があるはずだ。私は少しの躊躇を感じながら、裏路地に歩を向けた。自転車は路地の入り口近くに停めておいた。
恐る恐る、やや臭気のきつい道を進んでいく。それに、ゲームの時よりもひどく歩きにくい。少しぬかるんでいるからだろうか、でこぼこした壁に挟まれた通路は想像以上の難物だった。
歩を進め、臭いに少し吐き気を覚え、この選択を後悔しだしたころ、ようやく裏路地を抜けた。その先は思ったよりも大通りに面していた。というよりも、この大通りに電波塔があることは昔から知っていた。ただ、あの道がここに繋がるとは思っていなかった。
ゲームで初めて見たような気になったのは、ここに人や車がいないところを見たことがなかったからだろう。
せっかくなので、電波塔に上ってみることにした。入場料を結構取られて、お財布には痛いけれど、まさかチェーンを壊して上るわけにもいかない。多分まだ錆びたりもしてないし。
そうしてエレベーターに乗せられ展望階に上ったのだが、景観はとても良かった。真っ昼間の晴天に整然と並ぶビル群、ごちゃごちゃとした繁華街と所々に散らばる色褪せた中層建築。それらがコントラストを描き、夜中のそれとはまた違った姿を見せてくれた。
ただ、昼間だからか歩いている人は少なかったが、代わりに道路を車がひしめいて走っていた。…もう、下りようか。
この人間嫌いは直すべきだろうとは思う。
電波塔の階段を下りていく途中、いろいろなものを通り過ぎた。血の通ったマネキン、時計仕掛けの狂人、妄想と空想をこねて作られた人間。気持ち悪い。
パチリ、と目が覚めた。
私は自転車の傍らに立っていた。
私の目の前ではあの電波塔に繋がる隘路が、私が歩みだすのを今か今かと待ち構えている。
いま、わたしがみたものは…?ゆめ、?い、いや、でも、
「っうぅ、」
やめよう。あれの内容を思い出そうとしただけで、ひどく気持ちが悪い。考えたくない。
私は、まだ昼過ぎだったが今日はもう家に帰ることにした。ひどく胃がむかむかしたし、それ以上に睡魔がひどかったからだ。
家に帰りついた私は全てを投げ出して、しばらく泥のように眠った。目が覚めるとつぃと手を伸ばして理想の夢を見せてくれるヘッドギアを手に取っていた。上半身だけを起こしてヘッドギアをかぶり、ぱたりと再び布団に倒れこんだ。こめかみ辺りにある電源ボタンを押し込み、一個だけ存在するアイコンを選択する。瞬間、全身から布団の感覚が消えた。
瞳を開けると月明りだけが全てを照らす、青灰色に沈んだ世界だった。
この世界に来た時、いつだって始めは家で自分のベッドに寝転んでいる。
ゆっくりと起き上がり、家を出る。どこか錆びてくたびれた様な空気を肺に目いっぱい吸い込む。この世界に来た時、いつもしている一種のルーチンだ。これをしておくと、この世界によりよく馴染めるような、そんな気がする。
凝り固まった全身をほぐす様に伸びをしたりしながら気の向くままに歩き出す。
ここなら誰にも気兼ねをする必要なく、自由にふるまえる。道端に落ちていた木の枝を拾い、上機嫌に街を歩く。私以外の誰もいない今だけ、この木の枝は剣にも、槍にも、指揮棒にもなることができる。木の棒を適当にタクトみたいに振り回しながら行先もなく徘徊する。
ふと、例の電波塔に行きたくなった。反対に進めていた足を返し、すたすたと歩いて行く。
歓楽街には歩きでも意外と早く着いた。あるいは、時計を持ち歩いているわけでもないので時間が経っていいることに気づかなかっただけか。あちらの世界では二度と使う気になれない隘路を迷わず選んで進んでいく。
この街には臭いを出すものなんて存在しないし、この道が不快になることもないだろう、と思っていた。
隘路を進んでいくと先日の散歩のときにはなかったはずのものが道をふさいでいた。
マネキン、だろうか。でこぼこした壁に道をふさぐようにマネキンが立てかけられていた。
「邪魔だなぁ。」
ぼやいて退かそうとするがなぜかうまくいかない。ぐいぐい押しても関節にバネが仕込まれているかのように押し返してくる。いい加減に腹が立ってきて、力任せに押しのけたとき、
「お?」
手に持っていた枝が一体のマネキンの目があっただろう所に深々と突き刺さった。その時——
「う、が、あぁぁあ」
いないはずの何者かの苦悶の声があたりに響いた。そして、枝が刺さったマネキンは、まるで、人間のように、がくがく痙攣しながら崩れ落ちて、そして———
動かなくなった。
私は、あまりの事にしばらく放心していたのだろう。気付いた時には他の二体のマネキンは跡形もなく、どこかに行ってしまったようだった。…?
私は何を言っているのだろうか。まるで、ゲームのオブジェクトが意思を持って行動しているような、そんな言いようじゃないか。おそらく、今さっきのマネキンの動きはバグによるものだろう。そうに違いない。それよりも、体のあちこちがやけにぬめるような気がする。
臭いもひどいし、早く家に帰ってシャワーを浴びたいところだ。こうなっては、自転車で来なかったことが悔やまれる。私はできるだけ裏路地を選びながら急いで家に帰った。
着ていた服を洗濯機に放り込んでシャワーを浴びながら幾らかすると、先ほどまでの焦りも少しは落ち着いてきた。というか、なんで私はあんなにも焦っていたのだろう。所詮これはゲームなのだから、そこで何が起こっても焦るようなことではないと思うけれど…。
ただ、今日はもうこれ以上遊ぶのやめにしておこう。こんな気分で遊んでも楽しい事なんて起こらないだろう。私はそう思って、ベッドに寝転び、覚醒シーケンスとやらを実行させた。
パチリ、と目を開くと、遮光グラス越しに明かりも着けられていない私の部屋の天井が見えた。大きくあくびを漏らすと、ヘッドギアを寝転んだ状態で無理やり外し、今日はそのまま眠ることにした。ひどく頭痛がするが、どうせ不眠が原因のよくある奴だろう。
今日は珍しくちゃんとした時間に起きることができた。母親が私の布団を引き剥がさずに済むのがこんなに楽だとは、と感激していた。朝食を食べた後は学校の用意をカバンに詰め込んで家を出た。バラ色の空を眺めながら嫌になる程の黒と紺に埋め尽くされた通学路を通って、原色の組み合わせで構成された学校に飲み込まれていく。
いつも遅刻票をくれる手錠頭の教師が
「お、今日はちゃんと来れとるのか。感心、感心。」
と、話しかけてきた。少し照れ笑いをして返し、教室に入った。教卓では空気で形作られた担任が出欠をとるとき全員から返事が返ってきて少し嬉しそうだった。
思えば私は彼が笑っているところをこれまで見たことがなかったかもしれない。思ったよりも人懐こい顔をする。授業は相変わらずあまり分からなかったが、休み時間には例のゲームを勧めてくれた人から話しかけられた。
「どう?最近、あのゲームやってる?」
私は首肯しながらも、でも、と続けた。
「でも、もう、あのゲームでは遊ばないよ。」
「ええぇぇ!そんなぁ。どうしても?」
彼は情けない声を上げて聞いてきたが、私は首を縦に振った。
「うん。どうしても。」
彼は少し切羽詰まったような顔で
「お願いだから、もう一回だけ、今晩一回だけでもやってくれない?」
そんな風に懇願してくるのだ。そのあまりの憐れを誘う請願に私はつい、じゃあ、と請け負ってしまった。じゃあ、一回だけ、と。
その時の彼ほど嬉しげな顔をした人間を私は見たことがなかった。約束だからね、と言って、彼は去っていった。
私としてはとても不本意なうえに、あれをもう一度しなければならないというのはひどく不快だったが致し方ない。
今日も掃除当番ではなかったらしく、まっすぐ家に帰ることができる。今日は運動部が外を走り始める前に帰ることに成功したらしく、イチニーイチニーという掛け声に追い抜かされることはなかった。
さて、すぐそこの角を曲がれば、私が好んで使う住宅街だ。冴えわたる緑の空と虹色のどぶ、人っ子一人いない道には、空色の植木や家庭菜園がはみ出している。
どこかおかしく、しかしどこがおかしいか私には分からない。そんな街を歩いて抜け、家に帰りついた。
自室に着いて、ヘッドギアを持って自問する。なんで私がこのような事をしなければならないのか。答えは出ない。
ヘッドギアをつけて布団に横たわる。アプリを選択し、私にとって、最後になるだろうあの世界の探索を始めた。
ベッドから起き上がり、家から出ると、目の前の道路を車が走っていった。いや、この世界に車なんてものは存在しない。とりあえず、大通りの方から電波塔に向かうことにする。
横断歩道が赤色になったので止まり、違う!人間がいないんだから信号がつくはずがない。歩道橋を通って進む。
サイレンが聞こえる。いや、聞こえない。なら、なんで私は道端に隠れている?
うるさい。
電波塔の入場料を———違う、チェーンを壊して———エレベーターで展望階へ———いや、階段で行った————
頭が痛い。
どうしようもなく頭が痛い。
もう、いいだろう。もう、このゲームを終わらせてもいいはずだ。覚醒シーケンスを——
パチリ、と目が覚め、
瞳を開いた私が見たものはバグとノイズで崩れゆく『私の現実』だった。
「なんで、なんで!」
私は、物分かり悪く、その実何が起きているのか全て知っているというのに、なぜ、と叫び続けた。そうしていると、私にあの『ゲーム』を勧めたと言ってきたあの男が話しかけてきた。
「なんでって、そんなの分かり切っているじゃないか。君は一時、とてもうまく狂えていた。けど、うまく狂い続けられるほど、根っからの狂人じゃなかったってことだよ。」
そんな事を、自身もノイズに溶け出しているというのに、ひょうひょうと語ってきた。
「私は狂わないほど、強くない…」
「狂い続けられるほど脆くなかったってことだ。よかったね。」
彼は崩れ続けながらもそんな言葉を適当に私に投げかけてきが、ふと
「そろそろ時間だね、きみ、もうすぐ正気に戻れるよ。じゃ、人生頑張ってね。」
と、言ったか否か、『私の現実』は崩れ去り、『ゲーム』だけが残った。
人間の血と汗と手垢にまみれた、歪なくせに筋道通った、『ゲーム』が。
私にこれからどう生きろというのだろう。
目の前のガラスの向こうが、とても簡単な答えに見えた。
私は展望窓に手を伸ばし———
その手を横から伸びてきたごつい手に掴まれた。
そいつは桜の代紋付の手帳を見せながら、
「歓楽街での殺人事件について、少しお話聞かせてもらえるかな?」
と、問いかけてきた。
どうやら、私は死ぬことすら満足にできないらしい。