第三話 初仕事その1
「おはようございまーす……」
かなえは恐る恐る声をかけつつ、無機質なスチール製の扉を開いた。
「おせえぞ新人!!」
途端、紅葉の怒号が飛び、かなえは思わず首をすくめた。
窓の下に置かれた黒い皮のソファーに、無作法にも靴のまま寝転がる紅葉がタバコを灰皿に押し付ける。
「あらあら、今日からだったのねえ」
そう声をかけつつぱたぱたと駆け寄ってきたのは祥子である。
「おはよう、かなえちゃん」
「おはようございます、祥子さん」
溶けたバターのような優しい微笑みにかなえの緊張もほぐれる。
「改めてよろしくね、かなえ」
少し離れた場所から片目をつぶって見せたのは薫だ。
部屋の向かって右奥にはカウンターのような区画ができていて、高いスツールに腰かけたかなえが頬杖をついていた。
まだ朝の9時だというのに薫のいるところだけ深夜のバーを思わせる。
「おい、あいさつくらいしたらどうなんだ」
不機嫌そうに身を起こした紅葉に促され、かなえははっとしたように頭を下げた。
「あの、先日はありがとうございました!今日からこちらで働かせていただく、星空かなえです!よろしくお願いします!」
顔を上げると、胸の前で小さく拍手をする祥子、妖艶な微笑みを浮かべる薫、そしてニーハイブーツに覆われた長い脚を組みタバコをくゆらす紅葉が見えた。
ここが、かなえが所属された非常事態対策5班である。
例の事件から一週間、かなえは正式に紅葉たちの所属する高次機関、全魔法少女統括本部へ加入することが決定した。ふたばの葬式や機関に所属するための書類手続きなど悲しみに暮れる間もなく慌ただしく過ごしているうちに、気が付けば初出勤日を迎えていたのだ。
大学との兼ね合いから月ごとのシフト制にしてもらったり、給与まで発生するというのだから魔法少女時代とはえらい違いだ。
「てめえの席はここ、端末はこれな」
黒いジャケットに細身のパンツといった、初めて会った時と同じ格好の紅葉が腕時計のような形をした器械を投げ渡す。
「あとはー、なんだ、薫に衣装部屋に連れて行ってもらえ」
投げやりにそう言うと、紅葉は再び寝転がってしまった。
既に寝息を立てている。
「ご指名ね。さ、行きましょうか」
そう言うと薫は立ち上がりかなえのもとへ歩み寄った。
一歩を踏み出すごとに深いスリットからなまめかしく白い脚が露わになる。
薫も初めて見たときと同じ、黒のタイトなワンピースを身に着けていた。
「なんか紅葉さん……機嫌悪いですか?」
後ろ手に部屋の扉を閉めつつかなえが尋ねる。
薫が楽しそうに微笑んだ。
「あなたの加入を認めさせるためにまる一週間粘ったのよ。通常業務に加えての根回しや説得で今日までろくに休めてなかったみたいね」
かわいいでしょ?と赤い唇に人差し指をあてて薫が小首をかしげる。かなえは一瞬あっけにとられたのち、小さく笑った。緊張にこわばっていたからだがふっと軽くなる。その様子を見てとると薫は目を細め、先に立ってリノリウムの廊下を歩きだした。
「この建物ってそんなに広くないんですね。二階までしかないし」
かなえが話しかけると薫は苦笑した。
「本部と言ってもはぐれモノたちが寄せ集められた旧社だからね」
「はぐれモノ?」
「そう。エースたちの部署があるのは新社。あっちの方はすごいわよ。全面ガラス張り」
厭味ったらしいったらないのよ、と続けて薫は笑った。
薫の話によると、現在かなえたちがいるのが旧社と呼ばれる建物で、新社とは渡り廊下でつながっているらしい。1~5まで番号を与えられた各部署はその番号が序列となっていて、1~4班の部屋は新社にあるという。
「ってことは、この建物にあるのって……」
「うちだけ」
そう言って薫は片目をつぶって見せた。だからはぐれモノか。
「ついたわよ」
長い廊下の突き当り、一つの扉の前で薫は立ち止まった。
「ここ、ですか?」
かなえは不安げに薫を見上げる。無理もないだろう。元は部署室の扉と同じアルミであったと思われる扉は赤や黄色や緑といった塗料でサイケデリックに塗装され、扉の枠は点滅を繰り返す電飾で派手に飾り立てられている。扉の上部には電光掲示板が掲げられていて「衣裳部屋」の四文字が点滅している。
薫は躊躇することなく扉を開けた。
「うわっ」
突然目の前に巨大な肉壁が現れてかなえはのけぞった。さすがというかなんんというか、薫はかなえを盾としてうまくよける。
肌色の壁のように見えたものは露わになった胸筋であった。
かなえはじりじりと後ずさり改めて男性の風貌を確認する。
年は、不詳である。鍛え抜かれた浅黒い肌に、ぴったりとしたラバーのショートパンツと、胸の大きく開いたベストをつけている。短い丈の下にピアスのはめられたきれいなへそが見える。切れ長の目はライオンのような金色で、刈り上げた頭にはシルクハットが斜めに乗せられている。
「ようこそ、あなたが噂の新人ちゃんね?」
指先だけを隠す革の手袋をはめた細い腕がかなえの顎を軽く持ち上げる。
かなえは目を白黒させながらかくかくと頷いた。
「かわいい顔してるじゃない。ね、5班なんて物騒な部署辞めて衣裳部屋で働かない?」
男性の顔がぐいと近ずく。鼻先に唇が触れるのではないかというところで、薫がかなえの肩を引き寄せた。
「節操がないわよ、リリー」
「あら、もうあなたのお手付きってわけ?相変わらず手が早いのね」
挑発的な視線を向けるリリーに薫はふっとほほ笑んだ。
「いいからこの子に適当なの身繕ってあげて。仕事よ、仕事」
リリーはつまんない、と手を振ると踵を返した。薫がかなえの肩を抱いたまま部屋へと足を進める。
そこは、まるで巨大なウォークインクローゼットのようだった。
両側の壁はポールに吊るされた服の数々で完全に覆われている。足元にはピンヒールからスニーカー、オーバーニーのブーツにいたるまで様々なテイスト、カラー、サイズの靴が積み上げられ、天井付近の空間さえ据え付けの棚からあふれ出す被りものではちきれんばかりである。
「すごい……。でもこれ、なんの衣装なんですか?」
先を行くリリーにかなえが尋ねる。
「なんのって、戦闘用の衣装に決まってるじゃない。まさか普段着でバケモノたちと戦うわけにはいかないでしょう?」
リリーは言いながら素早い動作で服や靴を拾い上げていく。かなえと薫はその後ろに続く形だ。
「制服みたいなものよ。魔法少女の皆だって戦うときは変身するでしょう?」
薫が言葉を引き継ぐ。
「魔法お姉さんは変身できないからね、自前で用意するしかないのよ」
それに、とリリーが振り返った。片手を頬にあて悩ましげにため息をつく。
「20過ぎてフリフリきらきらの股下一センチ超ミニスカートは厳しいでしょう」
「おっしゃる通りです……」
遠くを見るような表情のかなえを薫が哀れみのこもった目で見つめていた。
「ま、こんなもんかしらね」
ウォークインクローゼットコーナーの奥には少し開けた試着スペースが用意されていた。
毛足の長い深紅の円形カーペットの上、大きな一枚鏡の前にかなえは立たされている。
用意されたのはオフホワイトのセットアップだった。詰襟のゆったりとしたブラウスに重ねるのはぴったりとしたベスト、下は膝上のショートパンツである。
「似合ってるわ、かなえ」
薫がほほ笑む。胸をはったのはリリーだった。
「当たり前じゃない、このリリー・ローズの仕事なんだから」
「皆さんの服もリリーさんが用意されたんですか?」
「そうよ、この子だけは自分で選んでいったけどね。可愛くないでしょう?」
リリーはそう答えると忌々しげに薫をみやる。薫は歯牙にもかけない。
「あなたが提案しようとしてたのも、同じ黒のタイトワンピだったじゃない。問題ないでしょう?」
「だから腹立たしいのよ!」
リリーが食って掛かろうとしたときだった。
けたたましいアラームが鳴り響き、薫がリリーの口をふさいだ。
薫の手の下でふがふが言うリリーをよそに、薫が鋭く目を細める。
『イレギュラー発生。イレギュラー発生。2区36番21号地区。待機班は直ちに出動せよ。
繰り返す――』
そこまで聞くと薫はかなえの腕をとり駆けだした。
「ちょ、薫さん?!」
「初現場が出勤初日なんてついてるわね、かなえ」
かなえは走りつつ唾を飲み込む。
「さあ、お仕事よ」
薫が赤い舌でちろりと唇をなめた。