第二話 魔法お姉さん
「――おかあ、さん?」
ぼうっとした意識の中で呼び掛けると、何やら作業をしていたらしき女性が振り向いた。
「あらあら、目が覚めたのね。痛いとこない?」
女性にそう声を掛けられ、理性と記憶がぼんやりと戻ってきたかなえは赤面した。
「すみません、私、お母さんだなんて――」
「ふふふ、いいのよ。そう呼ばれるのには慣れてるから」
女性は穏やかにほほ笑むとかなえのベッドに腰かけた。かなえは改めて室内を見渡す。
見覚えのない場所だ。広い部屋の一角なのだろうが白いカーテンで仕切られていて周りの様子が分からない。病院のようでもあるが目の前に腰かける彼女は医者にもナースにも見えない。年は30代前半と言ったところだろうか。柔らかい茶髪を耳の下で結わえている。ゆったりとした丈の長いワンピースを着ていて、手には濡れタオルを持っていた。そのタオルでかなえの顔を優しく拭う。
「私は井原祥子。負傷者のケアを担当しています」
「負傷者……。 あの、オーシャンとフォレストは、私の仲間は……!!」
かなえが身を起こすと同時に仕切りのカーテンが勢いよく開けられた。
「なんだ元気じゃねえかよ」
けだるげな声に顔を上げると紅紅葉が腰に手を当てて立ちはだかっていた。
記憶にあったジャケットにパンツ姿ではなく、黒いシャツに細身のジーンズを身にまとっている
「あの、二人は、二人は今どこに!」
紅葉が祥子に視線をやる。すると祥子は仕方がないな、という風に立ち上がった。
「あんまり無理させちゃだめよ。目、覚めたばかりなんだから」
「分かってる」
紅葉の答えを聞くと祥子はカーテンを開き出て行ってしまった。
気まずい沈黙が流れる。聞こえてくるのはかすかな機械のうなり声だけだ。
「あの――」
「端的に言う」
紅葉は固い声で遮った。
「魔法少女オーシャン、海藤なぎさは一命をとりとめた。右腕が戻ることはないが」
「そんな――」
「そして魔法少女フォレスト、樹ふたばだが」
そこで一度言葉を区切ると紅葉は真っすぐにかなえを見つめた。
「亡くなった」
ひゅ、とかなえは息を飲んだ。紅葉は構わずに続ける。
「彼女の死は事故として処理させてもらう。そして、お前と海藤なぎさには魔法少女及び我々の機関に関する記憶をすべて失ってもらうことになる」
「記憶を、失う?」
「そうだ」
紅葉は窓の桟に寄りかかり、腕を組んだ。逆光で表情が見えない。
「でも、今までだって魔法少女のことはちゃんと内緒にしてきました!これからだって!」
「これから、なんてものはない」
そう言うと紅葉は腕を振った。投げ渡されたものを、かなえが受けとる。それは、かなえの変身用コンパクトだった。
「お前、いまここで変身してみろ」
「え――?」
「早くしろ、私だって暇じゃない」
わけもわからぬままかなえはコンパクトを構える。
「あ――」
声をもらしたのはかなえだった。
「できないだろ、変身」
腕を下ろすと、かなえは小さくうつむいた。
やり方が、分からない。変身の仕方を忘れてしまったわけではない。ただ、どうすればいいのか分からないのだ。今までの変身で感じてきた高揚感や、胸いっぱいにあふれ出すような力を全く感じない。
もう、魔法少女ではいられない。それはどうしようもない確信だった。
「魔法少女ではなくなったお前をそのまま元の生活に帰すわけにはいかない。海藤なぎさもだ。お前たちが魔法少女として経験した記憶はこちらで消させてもらう」
「全部、ですか」
「そうなる。お前にとっても悪い話じゃないはずだ。あれは、ショックが大きすぎたろう」
紅葉の言葉で再び記憶がよみがえる。
あの時。
初めて感じた、息が詰まるような恐怖。耳の奥にこびりついて離れない二人の悲鳴。鼻をつく生臭い血の匂い。
そして、抗いようのない絶望――。
かなえはシーツをきつく握ると黙り込んだ。
窓の桟に軽く腰かけかなえを見下ろしていた紅葉は、とん、と床に降り、続けた。
「同意書だ。明日の朝取りに来るから、今日はもう休んどけ」
そうしてカーテンに手をかける。かなえは背を向けたまま紅葉が呟くのを聞いた。
「全部忘れたら、きっと楽になる」
さっとカーテンを引き紅葉が出ていくと、再び重たい沈黙がかなえのベッドを占領した。
「体調はどうかしら」
つやっぽいハスキーな声と同時にカーテンがひかれ、紅葉と、続いて昨日とは別の女性が顔を出した。
濡れたような長髪を背中でウェーブさせ、かきあげた前髪が程よい角度で横顔を覆っている。陶磁器のような肌には一点の曇りもなく、切れの長い右目の下には泣きほくろがある。細身のノースリーブのタートルネックにワイドパンツといういでたちは色気がありながらも上品で、かなえはなんだか圧倒されてしまった。
「初めまして、ね」
ほほ笑んで小さく首を傾ける女性にかなえはやっとの思いで口を開く。
「あの、あなたは……」
「こいつは宮野薫。事務やなんかのこまごました手続き担当してる」
事務、と言われかなえは昨晩受け取った同意書に目をやった。まだ何も書き込めていない。かなえの様子を見てとると、薫が優しく微笑んだ。
「難しいわよね」
かなえは頷く。今までの四年間、ぽむりんを通して二人と出会い私たちは共に戦ってきた。それをすべて忘れてしまうなんて。
「聞いて、かなえ」
薫がそっとかなえの手を握る。かなえは顔を上げた。薫の濡れたような瞳がかなえの目の奥をじっと覗き込む。
「私たちには辛いことや悲しいことを忘れてしまう権利があるわ。生きていくの、そうやって」
かなえは目を閉じた。薫の言う通りかもしれない。
あの光景が忘れられるのなら。
「最後に、なぎさに会わせてもらえませんか」
薫の顔が曇る。
「ごめんなさい、それは許可できないわ」
「どうして!」
「そういう決まりなのよ。それに正直、あなた達はまだとても不安定な状態にあるわ。私個人としても会わない方がいいと思う。」
「そんな――」
すると、黙って様子を見ていた紅葉が口を開いた。
「あたしが同席しよう。それならいいだろ、薫」
「それは、まあ手続き上は可能だけれど」
険しい表情の薫に構うことなく、紅葉は白紙の同意書を手に取った。そしてそれをかなえの胸に押し付ける。
「てめえの目で見てしっかり受け入れろ」
それだけ言うとすたすたと歩き始めてしまった紅葉をかなえは慌てて追いかけた。
「何があっても騒ぐなよ。あいつは今ぎりぎりのところにいる。刺激してやるな」
長い廊下の突き当り、白く物々しい扉に手をかけると紅葉はそう言った。かなえは胸の前で手を握りしめ頷く。紅葉はその様子を見てとると手首に巻いた端末を扉の右わきに設置された認証機にかざした。かなえの部屋の扉よりもよほど分厚い扉が音もなく開く。二人は部屋に足を踏み入れた。
ICUというものに近いのかもしれない。部屋の真ん中には大きなベッドが設置されていて、そこから何本も伸びたコードが無数の機械につながれている。紅葉に目で促され、かなえはベッドに歩み寄った。
「――だ、れ?」
ベッドに寝かされていたなぎさが薄目を開けた。痛みからか、苦しみからか、目は泣きはらしたように腫れぼったく唇はかさかさに乾いている。右肩に目をやり、かなえは思わず視線をそらした。
「かな、え?」
弱弱しい声で尋ねられ、かなえははっとしたように顔をあげた。たくさんの管につながれた左手を握る。
「そう、そうだよ!なぎさ、わたし、わたし――!」
言葉が、続かない。
何を言えばいいのだろう。なんと、声をかければいいのだろう。
腕を失い、目の前で仲間を失った彼女にかけられる言葉なんて何も思いつかなかった。
「事故、だったんだよね」
なぎさが呟く。かなえははっとして紅葉を振り返った。紅葉は黙ってうなずく。
かなえは唇をかむと、そうだね、と小さく答えた。
「かなえも、一緒にいたんだよね」
かなえは沈黙する。なぎさはもう、記憶を消された後のようだ。事故として説明を受けたのだろう。
「交通事故で、トラックが突っ込んできて」
「うん」
「私何も覚えてなくて」
「うん」
「痛いのとか、怖いのとかも、全然覚えてないんだ」
なぎさは目を見開き、天井を見つめたまま続ける。かなえはなぎさを直視することができなかった。
「腕、なくなっちゃった」
なぎさの表情は変わらない。ただ天井を見つめている。
「もう、キャミソール着れないや」
「――っ」
かなえは唇を噛んだ。こみあげてくる何かを必死でこらえる。
「――んで」
なぎさがかなえの手を握り返す。
唐突に強い力が加わり、なぎさの細い指がかなえの皮膚に食い込む。
「なんで、なんでかなえは平気なの」
「え――」
なぎさがむりやりに体を起こす。いくつかのコードが引きはがされけたたましいブザーが鳴り響いた。強い力で腕をつかまれ、かなえは身動きをとることができない。
「ふたばは死んだ!私は腕をなくした!それなのに!!それなのになんでかなえだけ無事なの!なんともないの!!ずるい!!ずるいよ!!」
なぎさは絶叫した。紅葉が動き、なぎさの身体をおさえつける。傷口が開いたのか、右肩に巻かれた包帯に血がにじむ。それでもなぎさはいやいやをするようにめちゃくちゃに腕を振り回した。
入り口からばたばたと足音が聞こえ、白衣に身を包んだ人たちが複数人駆けこんできた。かなえは無理やり引きはがされ、なぎさの姿が見えなくなる。
「鎮静剤を!」
「海藤さん、落ち着いてください!」
看護師や医者と見られる人たちがあわただしく声を掛ける。
かなえは病室を飛び出した。
「大丈夫か」
なぎさの病室を飛び出したかなえは、扉のすぐ足元で膝を抱えていた。暫くしてやってきた紅葉は隣で扉に背を預けると声をかけた。
かなえは答えない。
――仕方ないか。
紅葉は心の中で嘆息した。少し、この少女に肩入れしすぎていたのかもしれない。やはり会わせるべきではなかった。
紅葉は先ほどのなぎさの言葉を思い出し苦々しく思った。
今は一人にしておいた方がいいのかもしれない、そう考え紅葉が歩き出そうとした時だった。
「――やです」
かなえの、小さいけれど力強い声が紅葉を引き留めた。
そのまま勢い良く立ち上がる。
「事故なんかじゃない!」
かなえは叫んだ。紅葉の目を真っすぐに見つめる。
「ふたばも、なぎさも、皆を守ろうとして傷ついた!それは絶対事故なんかじゃない!私が、それを忘れていいわけがない!だって私たちは!!」
一気にまくしたてるとかなえはそこで息を吸い込んだ。涙に濡れた瞳は、それでも強い光を宿している。
「仲間だから――っ!」
言葉を失ったのは紅葉だった。そしてすぐにふっとほほ笑む。
久しぶりに、こういう目を見た。
恐怖も、絶望も、混乱も、全てを包み込んでそれでもなお消えない強い光。
紅葉は改めてかなえの方に体を向けると口を開いた。
「一つだけ、方法がある」
「え?」
かなえが驚いたように顔を上げる。
「お前、魔法お姉さんになれ」
暫くの沈黙ののち、かなえはしっかりと頷いた。
二日前――。
薄暗い病室、窓から漏れる月明かりを横顔に浴びながらベッドに眠るかなえを見つめる紅葉の髪を細い手がふわりとかき上げた。
「――!」
思わず声を上げそうになった紅葉の唇に、し、と今度はしっとりとした指があてがわれる。
紅葉はあきらめたように嘆息し振り向いた。
「お前な、いい加減後ろとるのやめろよな」
立っていたのは祥子だった。ふふふ、と笑うと紅葉の耳に手を伸ばす。
「またピアス増えてるわね」
紅葉はうっとおしそうにその手を払う。
「いいだろ別に」
「二葉ちゃんと、なぎさちゃんのぶんね」
正解をつかれ、紅葉はばつが悪そうに押し黙った。真新しい小粒のシルバーピアスが月明かりに反射する。
「――じきにこいつの記憶も処理する。誰か覚えててやる奴が一人くらいいてもいいだろうがよ」
祥子は小さく息をつくとかなえのベッドに歩み寄った。汗で張り付いた前髪をそっと整える。悪夢でも見ているのか、かなえの息は荒い。
「自罰的なのはあなたの可愛いところでもあるけれど、やり過ぎるのは貴方の良くないところよ」
紅葉はいまいましげに小さく舌打ちするとカーテンを開き出ていってしまった。
祥子はため息をつくとかなえの布団を直す。
「どこか、似ているのかもしれないわね。あなたたち」
薄い月明かりに祥子のつぶやきは溶けて消えた。