08話 スライム調伏
ゴールデンウィークが明けた5月上旬。
引き篭もり少年が社会復帰として選んだのは、スライム退治だった。
レベル1が木の棒で戦うようなスライム退治であれば、元引き籠もりには妥当な相手だ。
だが依頼の実態は、ブラック企業も裸足で逃げ出す凄まじい内容だった。
「フルオロアンチモン酸ですって?」
スライム退治の打ち合わせで聞かされたのは、ファンタジーにあってはならない単語だった。
フルオロアンチモン酸とは、最強の酸性を持つ物質だ。
依頼で当初聞いていた超強酸は、硫酸の1000倍の強さを持つ。
だがフルオロアンチモン酸は、そんな超強酸の『1万倍』でも『1億倍』でも『1兆倍』でもなく、更に上の『1京倍』という、人類が通常使わない単位の強さを持つ。
そんな酸で一体何を溶かせるのかというと、有機物全般を溶かせる。
人間が浴びれば、白煙を上げながら全身の骨を残らず溶かされ、グニャグニャのスライムになる。
もちろん全身がスライムになる前に死ぬが。
そんな、極めて恐ろしい特性を持った超強酸スライム(京)が、化学工場で産声を上げた。
スライムが専用容器から這い出した時点で、工場側は焼却処理した。
だが焼却後、実験室に入った研究者にスライムの残留物が取り憑いた。
それに気付かなかった研究者は、実験室から出た後に数日間苦しんだ挙げ句の果てに吸い殺された。
そして成長した超強酸スライム(京)は、研究室内を徘徊している。
工場の外には、人口数十万人が暮らす街並みが広がっており、明らかにバイオハザードの一歩手前だ。
今、人類がヤバい。
研究者たちが失敗した原因は、スライムが目に見えないサイズでも死なず、瘴気で活動エネルギーを得られる事を理解していなかった点だろうか。
要するに、スライムに対する理解不足である。
スライムは小さな得物を喰らって順に大きくなっていき、いずれ人の目に見えるサイズになって「どこから沸いてきたんだ」と思われるのが本来の出現方法だ。
目に見えないサイズのスライムが、いきなり人間を捕食するなど、本来であれば有り得ない。
それが実現したのは、スライムに超強酸の京倍という特殊能力を与えたからだ。
つまり、馬鹿なスライムを作った研究者が全部悪い。
「どうして、そんな馬鹿な事をしたんですかー?」
馬鹿のくだりで工場長はムッとした様子だったが、彼は現状を理解できているのだろうか。
このスライムが工場から脱走した場合、街中の人々が次々と溶かされる。
人々を溶かして魔力を得たスライムは次々と分裂し、やがて日本中へと生息域を広げていくだろう。
所詮はスライムなので魔力が少なく、完全に消滅させられる程度の魔法攻撃を加えれば倒せるが、こちらの世界では難易度が高い。少なくとも、研究者たちの手には負えない。
そんな馬鹿なスライムを生み出して、小学5年生に後始末を行わせる時点で、ここの工場長は馬鹿以外の何者でもない。
反論があるなら、まずは自分が創り出したスライムを何とかしろ。
「フルオロアンチモン酸は、注射器やスライドも溶かすため研究できません。ですがスライムは、得物を溶かすか否かを選択できます」
「はぁ」
俺が関心の薄い返事をすると、工場長は意地の悪い質問をしてきた。
「フルオロアンチモン酸が何か分かりますか?」
そんな事、普通の小学生に答えられる訳が無い。
だが俺は言い返した。
「フッ化水素と五フッ化アンチモンとの混合物ですよね。もう一度お聞きしますが、どうして、そんな馬鹿な事をしたんですかぁー?」
俺の外見は小学5年生だが、中身は輪廻転生者だ。
知能が並でも仕事の下調べは出来るし、調べれば答えられる。
俺に思いっきり蔑んだ瞳で見つめられた工場長は、顔を赤くしてプルプルと震えていたが、暫くすると再起動した。
「スライムは、最初に取り込んだ存在の特性を獲得すると知られています。どれくらい獲得するのかは不明でしたが、一部でも取り込めば特性の研究が可能となり、利用方法も生まれると考えました」
「利用方法の研究ですか」
例えるならば、工場長や研究者達がマッドサイエンティストで、工場を作って研究させた企業が悪の組織だろうか。
研究自体が駄目だとは言わない。
炭化水素をイオン化できる超強酸を生み出したジョージ・オラー博士は、ノーベル賞を受賞した。電気自動車や水素自動車に変わるエネルギー革命などが起これば、その分野で世界を席巻できるだろう。
だが超強酸スライム(京)という危険生物を生み出して、バイオハザードを起こしかけている現状は、怪物を作る悪の科学者そのものだ。
「依頼の中に、高分子の有機化合物の専用容器と書かれていた時点で、嫌な予感はしていました。高分子の有機化合物の専用容器は、テフロン加工ですよね。フルオロアンチモン酸を防ぐことでも知られています」
テフロンとは、フッ化炭素結合によって結合し、有機化学物質の中で最も強固な単結合を誇るものだ。
一般では、テフロン加工されたフライパンなどが有名だ。
「一輝くん。その液体は、どれくらい危険なのですか」
「人間が浴びれば、確実に死にます。そんな劇物がスライムと一体化して、自在に動き回って、人間を捕食している状態です」
同席するプロデューサーの質問に、例を3つ挙げた。
1例目、1982年に歯科医院で起こった事故。
歯にフッ化水素酸を塗られた3歳女児が、激痛で大人を突き飛ばして転げ回り、口から白煙を上らせ、急性薬物中毒で死亡した。
2例目、2012年に静岡県の工場で起こった事件。
男が自分を振った女性の靴にフッ化水素酸を塗り、靴を履いた女性が違和感を覚えて病院に駆け込んだものの、足の指5本が骨まで壊疽して切断に至った。
3例目、2013年9月に韓国の工場で起こった事故。
フッ化水素酸が漏れて爆発事故を起こし、従業員が全員死亡。現場に駆け付けた警察や消防、地域住民など3572人も死傷した。
ちなみに1例目は、歯科医院長が業務上過失致死で執行猶予付きの禁固刑。2例目は、ストーカー男が殺人未遂で懲役7年の実刑判決。3例目は、周辺が特別災難地域に指定された。
それらを順に説明していくと、プロデューサーも流石に顔を強ばらせた。
「頂いた情報に、重大な瑕疵がありますね。最低でも契約書の見直しは必要ですが、それ以前に一輝君、この依頼をどうしますか。受けない事も可能です」
俺は少し考える素振りをした後、ゆっくりと口を開いた。
「そうですね…………ボクは、金額次第では受けても構いませんよ」
「何故ですか」
「毒性と魔力は、無関係です。例えば、物凄く強い毒を持つカエルが居ます。でもカエルなので、踏み潰せば倒せます。それと同じ理屈で、いくら化学的に危険でも、ボクならスライムは倒せます」
「本当に倒せますか?」
「はい。逆にボク以外だと、また小さくなって、誰かに取り憑いて復活します。そして今度は外に出るかもしれません。そうすると、この工場が発生源のバイオハザードが日本中に広がります。拡散した後は、ボクも手に負えません」
プロデューサーが押し黙ると、同席していた八百万グループ本社の代表取締役専務が提案してきた。
「解決して頂けるのでしたら、充分な依頼料をお支払いします。放送に配慮して頂けるのでしたら、八百万グループがドラマのスポンサーになる事もお約束します」
「一体いくらをお考えですか」
そこからは札束の殴打、あるいは札束による圧殺だった。
八百万グループは、前年度の連結決算で売上高3兆円、純利益3000億円、純資産5兆円を誇る超巨大企業だ。
テレビCMをバンバン打っており、経済界にも大きな影響力を持つ。
そして同席している本社の専務は、創業者一族の次期後継者だ。父が社長、祖父が会長、そして彼は全権代理。
ふざけた金額の提示だったら断って警察に通報するところだったが、流石に全権代理が来ているだけあって、そうはならなかった。
「ドラマ少年陰陽師のスポンサー料は、おいくらでしょうか」
「ドラマ制作費は1本2000万円で、それをスポンサー4社で分担して頂いておりました。視聴率が高かったので、次回の改定時には上がりますが」
「それでは弊社もスポンサーに参加します。弊社は単独で1本3000万円のスポンサー料を最低10年間お約束します」
ドラマは週1回の放送なので、年間では約52本になる。
1本につき3000万円支払われるのであれば、八百万グループは年間15億6000万円の支払いを、10年続けると約束しているのと同じだ。
もっとも純利益が年間3000億円の超巨大企業なら余裕だろう。
八百万グループの主力製品は女性用の化粧品だし、スポンサーはテレビCMを流せるので、スポンサー料は企業の広報活動として処理できる。
もしも根絶できないバイオハザードを発生させた場合、八百万グループが受ける損害額は100億程度では済まない。
未来永劫スライム被害が発生するたびに賠償金を支払うか、事業を分割して切り捨てざるを得なくなる。
俺が八百万グループの代表取締役の会長か社長なら、ここで1000億払ってでも発生は食い止める。
「見返りは、今回の調伏を放送しない事でしょうか?」
「そうして頂けると、『スポンサー』として非常に助かります。弊社に損害が無ければ、番組製作には一切口を差し挟みません」
「なるほど」
プロデューサーの横顔を見るに、悪くないと考えているようだった。
1本2000万円の番組に3000万円を追加してくれるのであれば、1本5000万円の巨大な製作予算になる。
一方で、ドラマの製作費は、実はあまり掛かっていない。
俺の陰陽術は実写なので、スタジオセットも映像編集も不要なのだ。
依頼人もテレビに出る条件に応じているため、エキストラのギャラも殆ど掛からない。
「今回の依頼料も当初は10億円の概算でしたが、弊社に重大な事実誤認がありましたので、その迷惑料も込みで、正式には50億円で如何でしょうか」
金額を聞いた俺は硬直し、生唾をごくりと飲み込んだ。
今なら、先程までのプロデューサーの気持ちが理解できる。
依頼料のうち調伏料の部分は、殆どが賀茂事務所に入るのだ。小市民の俺は、提示された額にとても耐えられなかった。
「ボク、スライムやっつけるよ。でもスライムは、どこで倒したか覚えてないや。専務さんは、スポンサーになってくれてから、はじめて会いました!」
札束で頬を殴られた俺は、敢え無く昇天した。
「一輝君、それで良いのですね?」
「うん。バイオハザードを阻止するには、八百万グループさんと協力しないと。再発したらすぐ教えてもらうためにも、ボクは責めないし、何も言わないよ。だから解決した後でも、何か変だったら、すぐに教えてください」
見事な掌返しを行った俺の口からは、自分にとって都合の良い言い訳が、スラスラと飛び出してくる。
工場長が呆れた目で俺を見ているが、プライドでご飯は食べられない。武士は食わねど高楊枝などという諺もあるが、俺は武士ではないのだ。
「参加者はボクとプロデューサーさんだけにして、放送せずに10年経てば映像も処分します。50億円分の契約書も、内容は不明瞭にしましょう。今回の契約外の調整料は、プロデューサーさんにも現金で分配します」
秘密を知る者を増やさず、口止め料はきちんと分配するという表明だ。
こうする事で相手に安心感を与え、依頼後に余計な気を起こさせる事を防ぐ。
プロデューサーは軽く頷き、依頼を受ける事に同意を示した。
「自分の実験動物に襲われた研究者は、自業自得です。遺族も、生物テロ未遂での死亡という真実は知りたくないでしょう。その件は、突然の失踪でも何でも、八百万グループさんにお任せします。ボクは、何も知りません」
バイオハザードを引き起こす魔物を作っていた以上、単なる被害者では無い。
むしろ俺が居なければ、歴史上稀に見る生物テロの加害者になっていた。
本人の名誉のためにも、家族のためにも、真実は暴かない方が良い。
「最後に、八百万グループさんは、スポンサーとして社会貢献される素晴らしい企業です。そのおかげで番組が長く続いて、世間から魔物被害が減ります。ボクたちは、現時点から選択可能な最善の選択肢を選びました」
「…………良いでしょう。『事故』の追求は、我々の仕事ではありません。依頼人に対しては、守秘義務もあります。契約を詰めさせて頂きます」
本社専務とプロデューサーが細部を調整し、すぐに契約がまとまった。
「それじゃあ、サクサクと済ませますか」
手順は簡単だ。
工場の入り口を一カ所だけ開けて、そこから世界神の祝福を受けた火魔法を流し込んでスライムの残留物を滅する。
次いで入口に契約魔方陣を作成し、動物系の式神を飛ばしてスライムを誘き寄せ、式神契約を行ってスライムを服従させる。
その後は式神化したスライムを分裂させて、建物内を徘徊させながら残留物を吸収させる。
その後は式神を放って俺の陽気を拡散させて、建物全体のスライムの陰気を消し飛ばして掃討完了である。
「ボクは自分自身に陽気を纏えるので、目に見えないサイズの陰気のスライムが食い付いてきても倒せます。でも皆さんは危険なので、まだ近付かないで下さい」
「スライムの残留物は、どれくらいあるんだね」
「工場で焼却処理された時に、どれだけ焼却し切れずに分裂したかによります。普通は小さすぎて害にならないんですけど、細菌兵器みたいになっちゃいましたね」
「厄介すぎるな」
「そうですね。専務さん、研究者さんや工員の方が不調だったら、陽気を掛けますので教えて下さい。遠慮される方が危険です」
「分かりました。よろしくお願いします」
大人達の不安を他所に、俺は滞りなくスライムを調伏した。
魔法を使った焼却も実施し、その後は不調になった研究者や工員も出ていないので、おそらく成功したのだろう。
なお大金を得た俺が、前回とは別の意味で引き篭もりたくなったのは、致し方が無い話である。
























