19話 事務所移転
「マンションで、人が襲われたのですか」
「そうなんだ。今も2人が入院している」
それは傷害事件として、警察に通報すべきだ。
そんな常識が失われたのは、ミレニアムゾンビ事件以降である。
襲ってきた存在は、人間の霊であるらしい。
相手がゾンビなら警察に通報しても構わないが、霊の場合は市区町村の相談窓口が連絡先になる。
ちなみに市区町村に相談すると「お墓にお参りやお供え物をしたり、神社で護符を貰ったり、塩を撒いてみたらどうですか」と、一昔前であれば正気を疑うようなアドバイスが行われる。
それで手に負えない場合、地域の神社仏閣や、地元の霊媒師が登場する。
俺の父親も零細陰陽師の1人として、細々と仕事をしていた。
現在の賀茂事務所は、テレビ局を通さない仕事は原則お断りしている。
だが地元青山からの依頼だった事と、依頼内容が新築マンションだった事で、とりあえず話を聞く事になった。
「区役所に相談して、神社に案内されるとか、そういう事はされましたか?」
「そんな事をすれば、マンションの価値が下がる。言えるわけが無い」
「立地的には、今さらって気もしますけど」
依頼を持ち込んだのは、港区青山にマンションを建てたオーナーだ。
うちの事務所は、青山霊園の西側数十メートルで、時々霊が迷い込む。
そして依頼のマンションも、青山霊園の北東数十メートルにある。
「距離だけで考えても、うちと同規模の霊が出て当然です。しかも北東は、鬼門の位置です」
「鬼門というのは何だね」
「鬼門とは、文字通り鬼が出入りする門です。青山霊園の霊達は、北東を通って移動します。霊を糧にする悪鬼や魑魅魍魎も北東から出入りします。そしてマンションの位置は、霊の通り道を完全に塞いでいます」
2031年10月に完成予定の『グレートガーデン青山』は、地上30階、地下2階建てで309戸の超高級マンションだ。
1LDKですら、販売価格が1億7800万円以上。
管理・修繕費は、最初に積立金を数百万円納めるほか、1平方メートルにつき毎月1000円を徴収される。最低価格の1LDKが70平方メートルなので、最低でも毎月7万円の支払いが発生する。
これだけでも、普通に賃貸で1LDKを借りるのと変わらない価格だ。
だが、その分だけ贅沢な造りで、全戸に周辺の街並みを一望できるバルコニーが付いている。
共有空間も贅沢で、東京の空で泳げるプール、バーテンダー付きのスカイラウンジ、フィットネスジムなどもある。
小市民の俺には理解しがたいが、設備と価格帯は高い次元で釣り合っており、本来は飛ぶように売れるそうだ。
但し現在は、霊障が原因で購入キャンセルが立て続いているが。
「霊障は、巨大な建物で通り道を塞ぐなっていう、霊側の警告ですよ。建設中から被害がありませんでしたか?」
「建設中にも被害はあった。建設業者はお祓いしていたし、軽微なので構わずに進めたが」
「最初は軽い警告をして、従わなければ警告を強くしていく。人間でも、野生動物でも、同じ事をしますよね。霊も、そういう意図だと思います」
「だが、もう完成する。何とかしてくれ」
何とかしろとは、無茶な依頼もあったものだ。
「青山霊園には、12万人以上が埋葬されています。埋葬者は今後も増えますし、霊を餌にする鬼や魑魅魍魎も、鬼門から侵入してきます。全てを除霊するなんて不可能です」
「うちのマンションに霊が来なければ、それで良い」
マンションが全て売れれば、1000億円以上になる。
だが人が次々と襲われる霊障物件の場合、それを隠して売れば詐欺になるし、事実を伝えれば売れずに出費だけ掛かって大損する。
「オーナーさん。土地を買う時、お墓の北東なので、物凄く安く売って貰えませんでしたか。うちも青山に事務所を買ったとき、安かったんです」
「確かに安かった」
「その浮いた分のお金で、霊障の対策費用が捻出できますよね。むしろ、して当たり前です。当事務所の引き受け条件を提示します」
まず俺は、マンションの部屋を提示した。
25階西 3LDK 72坪 15億円
25階西 3LDK 36坪 5億円
25階西 3LDK 36坪 5億円
25階西 3LDK 36坪 5億円
25階西 3LDK 55坪 12億円
「ここって、今はネットでも入居者を募集中ですよね。合計42億ですけど、半値でうちに売って下さい。それを依頼料代わりにします」
「半値で?」
「はい。霊障物件なので、半値は相場通りの購入です。そして自分の住宅の安全確保は、住民として自発的に行って当然の行動。これでオッケーなら、仕事をお受けします」
芸能活動の拡大で事務所が手狭になってきたので、我が家は暫く前から引っ越しを検討していた。ちなみに5部屋揃えると、25階の西側を占拠できる。
利益供与は納税対象だが、相場通りなら、余計な金は掛からない。
この条件を提示したところ、オーナーは眉を顰めた。
「馬鹿を言わないでくれ。それだと21億円もの値引きだろう。除霊費用が21億円なんて、あまりに法外だ」
「人を襲う霊が定期的に出る霊障物件ですから、半値で相場通りですよ。それにオーナーさんにとっては、被害がエスカレートしたら、全戸の価値が3分の1とか、4分の1とか、どんどん下がり続けますよ」
「キミが引き受けるなら、価格は元に戻る。だったら21億円の値引きと変わらない。高すぎる」
「12万体の霊を防ぐ事業ですよ。埋葬者は毎月増えるし、外からも魑魅魍魎が寄って来ます。報酬を、霊の数で頭割りして下さい。21億円を12万体で割ると、1体1万7500円。スズメバチの巣の駆除料金よりも安いです」
スズメバチの駆除業者も、陰陽師も、依頼主の代わりに自分が襲われるリスクを負っている。
もしも料金が高いと言うなら、自分で駆除や除霊をすれば良いのだ。
あるいは、他にもっと安い業者を探すか。
この問題に対処出来る陰陽師が俺以外に居るなら、ぜひやって見せて欲しい。
「もう良い。他を探す」
「では次に依頼される時は、売値を3分の1にして下さい。もしも要望する部屋が無い場合、あるいは2ヵ月以上経った場合、依頼はお受けしません」
その数日後、目に隈ができたオーナーが、うちの事務所に再来した。
再び重傷者が出たらしく、問い合わせやキャンセルが相次いでいると。
今はお盆で、幽霊の活動が活発になるため、被害が増えるのは当然だ。
一方でお寺や陰陽師は繁盛期で忙しくなるので、他業者が捕まらないのは当然である。
「半値で良いから頼みたい」
オーナーは80台前半の白髪老人で、俗に言う団塊の世代。
性格は良く言って物怖じせず、俺から見れば図々しくてケチな金持ちだ。
それらを踏まえれば、絶対に値切ってくると思っていた。
「3分の1でなければ、お受けしませんよ。だって被害が大きくて、続発もしていますから。現在のマンションの適正価格は、3分の1以下です」
つまり俺の場合、適正価格以上での購入だ。
これでは無報酬と変わらない。
もっとも相場が回復する事は分かっている上、節税にもなってお得なので、こちらはその条件で構わないが。
「そんな若さで大金を稼いでどうするんだ。若い内はもっと苦労するものだ」
団塊の世代が説教してきたが、俺としては、80代の爺さんがこれ以上稼いでどうするのかと問いたい。
三途の川を渡る船賃は、六文銭だ。
だがこの手合には、そんな事を言っても仕方が無い。
「ボクは充分に苦労しましたよ。父親が陰陽師として売れなかったので、給食と道端の草花以外は食べられませんでした。休日はサランラップに包んで持ち帰った給食のパンを、公園の水道水でふやかして食べました」
俺は、自分が爺さんよりも苦労している事を説明することにした。
「月曜日の午前はお腹が空いて、いつも意識が朦朧としました。でも給食のデザートは必ず持ち帰って、妹にあげました。その後、両親は貧しくて離婚しましたけど。だから、ボクが小学生で働き始めたんです」
俺の説明に、団塊の世代は押し黙った。
彼らの世代は戦後の生まれで、焼け野原世代と異なり、小学生の頃に給食以外は食べられなかったという生活水準ではない。
つまり平均的には俺より遥かに恵まれており、俺より苦労していない。
「母親は再婚して、もう会えません。母親に引き取られた妹も生き別れです。ボクがお金を稼ぐのが遅かったんです。だから、せめてお金くらい稼がなくてどうするんですか」
最後には怒りを含めて、思いの丈を言い切った。
ふと気付くと、オーナーは無言で俺を見詰めていた。
だから俺も、何でも言い返してみろとばかりに老人を見詰め返す。
「分かった。3分の1で良いから頼みたい」
「では、お引き受けします」
オーナーが条件に承諾したので、俺は契約する事にした。
契約後、マンションの管理人が億ションを案内してくれた。
管理人は30台の男性で、オーナーの孫の1人である。
「いやあ、マジでヤバかった。早く何とかして」
若いけど、苦労して居なさそうな孫である。
爺さんの『若い内はもっと苦労するものだ』は、一体何処へ行ったのだろう。
「何とかしますけど、その前に部屋を見せて下さい。夢の億ションを」
「はぁ、良いけどさ。除霊は頼むよ」
案内されたマンション内は、庶民の俺にとって異次元に等しい空間だった。
グランドエントランスからは、ここが港区である事を忘れてしまうような、5000平方メートルの広大な芝生が眺められる。
その先に進むと、皇帝の居城にあるような高級エレベーターがあって、そこから上がると各階のラウンジに繋がっている。
例えば28階のプールやジャグジーからは、泳ぎながら東京を見下ろせた。
スカイラウンジにはバーがあって、防音の仕切り内で仲間達と酒を飲みながら騒げるようになっている。その奥には、映画配信システムとリンクしたシアタールームがある。
建物自体も波打つように曲線を描いており、それが一般的な住宅とは一線を画すデザイン性をもたらしている。
そんな外側を一通り見学した後、いよいよ我が家に入った。
賀茂家が買ったのは3LDKが5戸だ。
「ぎゃー、何これっ!?」
1戸目は、72坪。
LDKが50帖で、部屋は7帖と12帖と18帖。
全ての部屋に+αでウォークインクローゼットが付いており、12帖の部屋には化粧室とトイレもある。
その他にも広い脱衣所、バスルーム、エントランス、シューズクローク、洗面所、2つのトイレ、廊下などがある。
大理石がふんだんに使われたキッチンやバスルーム、アイランドカウンター式で機能的なキッチン、手作りに手彫りまでされたドアなど、仕事で使うには勿体なすぎる高級感が溢れる空間だ。
ここは賀茂事務所として使う予定で、LDKが事務所、7帖が所長室、12帖が女性用更衣・休憩仮眠室、18帖が男性用更衣・休憩仮眠室になる。
これまで賀茂陰陽師事務所には、所長の父親と陰陽師の俺、他に女性所員が2人しか居なかった。
だが幽霊巡視船の40名を式神化した結果、陸の拠点が必要になった。
そこで事務所の手伝いをして貰う代わりに、貴重品などの私物も置ける場所を提供しようと考えたのだ。
「一輝、儂は胃が痛い」
凄すぎる部屋を見た父親が、呆然と立ち尽くした。
次の55坪は、LDK37帖、部屋が15帖と6帖と7帖だった。
それぞれの部屋には、+αで広いクローゼットも付いている。
ここは父親が、再婚予定のうちの事務員さんと住む。
再婚相手の事務員さんは25歳で、40歳の父親とは15歳差。
父親は自分の好みで採用しており、相手も父親の財産目当てで自ら誘ったので、お互いの需要と供給は一致している。
(お父さんは、離婚しているから再婚も自由だしなぁ)
再婚に関して、俺は納得済みだ。
今の父親は年収が億単位で、誰かに言い寄られるのは時間の問題だった。
俺には反対する機会もあったが、本当の母親は既に再婚しており、再婚相手との間に子供も産まれているので、復縁は有り得ない。
すると単に父親が再婚できず、子供が輪廻転生者だけという結末に至る。
それは如何なものだろうかと考えた結果、俺は自分と父親の収入や住居を分けて貰う条件を出した上で、再婚に賛成した。
それらを分けたのは、義母に子供が生まれた後の展開を想像したからだ。
『ボク単独でやる仕事の取り分は、1月まで遡ってボクが7割、事務所が3割。それと新婚夫婦とは別居』
芸能人と事務所の取り分は、真っ当な事務所で4対6や、5対5だ。それと比較すれば、7対3は破格の好待遇になる。
この割合でも、俺が50億稼ぐと、父の事務所には15億入るが。
当面はこの割合で、不満があれば成人後に独立すれば良いと考えた。
俺が住む家は、事務所と父親の家の間にある36坪の家3戸だ。
いずれもLDKが25帖、部屋が10帖と7帖と6.5帖。
これらは俺が稼いだ金で、自分を家主として購入した。
「自分の部屋からバルコニーに出られるなら、霊の調伏も簡単かな」
「どういう事だい?」
案内してくれていた管理人が、俺の発言を聞き咎めた。
「実際に、お見せしますね。青龍、朱雀、黄竜、木代、火代、土代、金代、水代、木柱、火柱、金柱、水柱。みんな出ておいで」
俺はバルコニーに立って、12羽の式神達を顕現させた。
「カァーッ、カァーッ」
「カァア、カァア」
「カッカッカッ」
青龍たちは翼を羽ばたかせながら、バルコニーの手すりに飛び乗った。
ちなみに顕現時の大きさは、カラス程度にまで抑えている。
「今日からここが、みんなの縄張りで狩り場だよ。付近の霊は、全部狩って良いよ。疲れたら、ボクのところへ戻ってくること!」
「カアァッ」
「カァーッ、カァーッ」
「クアッ、クアッ、クアッ」
「カァア、カァア」
「カッカッカッ」
八咫烏たちは広い大空に向かって翼を羽ばたかせ、喜びを露わにした。
そして次々と飛び立ち、マンションの傍を漂う浮遊霊を狩り始めた。
(狩りの練習になるし、力も上がるから、丁度良い訓練場かも)
一番力が弱い魔カラスでも、小鬼2匹分の強さは有る。
群れとして連携も出来るので、人間の浮遊霊には負けないだろう。
俺は飛び立った12羽に続き、新たな式神を喚び出した。
「菖蒲、樒、水仙、鈴蘭、出ておいで」
「あたしを喚んだかしら」
「シキミを喚ぶの、おっそーいっ」
「私の獲物は、この人間?」
「ボクたち4人を同時に喚ぶなんて、珍しいね」
俺の影から、4人の少女が姿を現わす。
黒髪で、赤い着物姿に赤い髪飾りも付けた菖蒲。
金髪で、青いワンピース姿で白のフリルを付けた樒。
銀髪で、紫のドレス姿で首にネックレスも付けた水仙。
茶髪で、黒を基調に花の模様を入れた着物姿に青い帯の鈴蘭。
母親の絡新婦は、黒髪と黒い着物姿だったが、娘達はとても個性豊かだ。
「この人たちは食べたらダメ。ここがボクの新しい住処になるから。みんなは縄張りに入ってくる霊とか魑魅魍魎を霊糸で捕まえて食べて。食べ飽きても、獲物は霊糸で捕らえて、建物に入れないようにしてね」
「あたしの獲物は、嬲っても良いのかしら?」
菖蒲は俺が許可を出さなくても、勝手に嬲りそうな表情で嗤っていた。
「良いよ」
魑魅魍魎に愛着など無いので、許可は出しておく。
但し捕食シーンは、絶対に見たくないが。
「樒は食べ散らかしてもいい?」
「霊は死体が出ないから良いよ。鬼の死体も、他の鬼が食べるかな。一応、マンションの外に捨ててね。それか、京くんを現場まで連れて行く事」
「はーい」
樒は精神が幼いのか、無邪気なのか、嬲るという発想は無い。
だが無邪気さ故の残酷さは持ち合わせているので、あまり複雑な指示は出せない。魔力は一番強いのだが、使い所が難しい。
「私は選り好みするけど」
「霊や魑魅魍魎をマンションに入れないのが、皆のお仕事です。捕まえた獲物を食べるかどうかは、水仙の自由です」
「分かったわ」
水仙は話こそ通じるが、何事にも選り好みがある。
嫌な事を無理強いするとあからさまに手を抜くので、嫌がらない範囲で使役させなければならない。
「ご主人様。困っていたら、ボクに言ってね」
「鈴蘭は、本当に良い子だなぁ」
俺は鈴蘭の頭を撫でつつ、スネる前に樒の頭も撫でた。
鈴蘭は4体の絡新婦の中で、唯一の良い子である。
「一輝くん。この子たちは?」
「絡新婦の式神たちです」
「絡新婦?」
「はい、蜘蛛の妖怪ですよ。マンションに霊糸を張り巡らせれば、霊の侵入は防げます。霊糸は一般人には見えませんから、住人には分かりません。あとは小さな蜘蛛の姿で移動すれば良いかな」
「大丈夫なんですか」
「絡新婦は大鬼と戦えますし、さっきのカラスも八咫烏の子供です。その辺の霊なんて、この子たちにとってはスナック菓子程度の認識です。だから大丈夫です」
菖蒲たちは、さっそくベランダから好き勝手に糸を飛ばし始めた。
「25階の西区画はうちの家だけど、他のベランダには、人化した姿で行かないでね」
「はいはい」
「わかったー」
「面倒ね」
「行ってきまーす」
俺たちは、飛び立った12羽の八咫烏と、糸を伝って移動していった4体の絡新婦の式神たちを見送った。
これで仕事は完了である。
あまりに呆気ない解決に管理人が言葉を失う中、父親が尋ねた。
「ところで一輝、どうして3つもマンションを購入したんだ。仕事の都合で西区画を占有したいのだったら、2つは事務所で買っても良かったのだぞ」
節税面だけを考えるなら、確かにそちらの方が安上がる。
「うん。でも、ボクに恩返しをしたいって子が、押しかけて来るから」
足の治療後から信奉者になった少女を思い浮かべ、俺は溜息を吐いた。