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糖度高めの現代短編まとめ

充電中

作者: 木村 真理

四月。

桜の時期はあっというまに過ぎた、平日の昼下がり。

もうとっくに春休みは終わっていて、学生も学校に通っているだろう。

社会人なら、平日がお休みって職業以外、会社に行っている時間のはず。


私は、ひとり、鴨川をぼんやりと眺めていた。

周囲には小さな子ども連れのお母様がたと、観光らしい人影がまばらにあるだけだ。


二週間ほど前まではずっと、私も今ごろは会社で仕事をしていた。

平日、月曜日から金曜日までの9時から18時までは、仕事。

残業は、適当に。

それが私の10年来の生活だった。


大学の事務職員っていう、仕事は好きだった。

正職員じゃなくて契約社員だから、5年たてば別の大学に移動しなくちゃいけないのは難点だけど、京都は大学の多い街だ。

そうやって60歳くらいまで務める先輩たちもいっぱいいたので、不安定な職ながら将来への不安も薄かった。

女ひとり、食べていくくらいは困らないお給料もいただいていたし。

なにより、自由と理想と現実がほどよく活気でミックスされたような大学のキャンバスの一員であることは、楽しくて、楽しくて……。


なのに、どうしてだろう。

周囲が結婚を焦りだした30歳の境をぼんやりとやりすごしたのに、32歳になって、急に仕事にやる気が失せてしまった。


今までなら、本を読んでも、ニュースを見ても、それが仕事につながるとあちこちにアンテナがはれたのに、とつぜん、気持ちが仕事を拒絶するようになった。


はじめは、気のせいだと思った。

慣れて、仕事がルーティン化したせいで、やる気が失せたように感じるだけだって思った。


自分の気持ちに蓋をするように、関連する資格をとったり、ご褒美と称して豪華な食事をしたりした。

でも、気づけば毎日、心に澱がたまっていく。


まっさきに悲鳴をあげたのは、体だった。

ブラックなんてとんでもない、残業もほとんどないお気楽な事務職。

忙しい職場に勤めている子なら、日付が変わるまで仕事、土日も休みじゃない、なんて話はよく聞くけど、そんなのぜんぜんありえない優良な職場だった。


なのに、私の体は仕事を拒絶した。

初めは、めまい。

耳鳴り、吐き気。

気持ちの問題だ、すぐ治るって自分で立て直そうとしても、治らなかった。

仕事に穴をあけなくなくて、周囲にもできるだけ気取られないよう普通に仕事をして……。


3か月で、ギブアップした。

3月末の契約終了時に辞めさせてほしいといえば、上司は引き留めてくれたけれど、退職届をだした私は、心底ほっとしていた。


あれから、二週間だ。

退職の手続きでばたばたした時期もすぎ、家にこもっているのにも飽きて、ふとここに向かっていた。

キラキラ光る水面をぼんやりと眺めるのは、京都人なら生活になじんだ癒しだ。

子どものころから、よくこうしてぼんやりしたものだった。


けれど、考えてみればここ数年は、こんな生活はしていなかったかもしれない。


ペットボトルのお茶をひとくち飲む。

コンビニで買ったバリバリの売り物なのに、ほうじ茶を選んだからか、懐かしい実家の味がする。


そういえば、いつから実家にも帰っていないんだっけ……。

実家も京都だから、バスに乗れば30分もかからずに帰れるのに、不義理なものだ。

とはいえ、はやくに結婚した妹が両親と同居し、妹の子どもたちも2人住んでいる実家は、大学卒業すぐに実家を出た不肖の姉が帰るには、微妙に敷居が高かった。


でも、一度くらい実家に帰ろうかな。


川の浅瀬におかれた飛び石を、歓声をあげて渡る女の子たちを見ながら、ふと思う。

カジュアルながらも綺麗めな恰好のお母様に手をひかれて石を飛ぶ女の子たちは、5歳くらいだろうか。

ちょうど上の姪っ子と同じくらいの年齢の子だった。


3歳年下の妹は、むかしからしっかりものだった。

それでも幼いころは、隣の家に住んでいた男の子と一緒に、私の後ろをついて歩いたものだった。

「樹里姉ちゃん、樹里姉ちゃん」って私を呼びながら。

それが、いつのまにか人生大逆転である。


姉である私はいまだに結婚もしていないのに、妹は結婚も出産も先にしてしまった。

そういえば、お隣のあの男の子、結城くんも、今や大学で准教授をしているって噂を聞いたっけ。


大学の事務職なんてしていると、影では教員の悪口ばっかり言いながらも、表では教員をたてることばっかりだ。

大学のカーストの中でも下のほうにいる契約事務職員からすれば、「准」でも教授なら「かなり偉い人」だ。

ましてや結城くんは妹と同じ年齢で、まだ28歳か29歳のはず。

偉くなったものだ、と思う。


妹に対しては、素直に「すごいな」と思えるのに、結城くんには微妙に妬みの気持ちがわく。

正直にいえば、私だって大学を卒業したら大学院にいって、研究して、いつかは教授になりたかったのだ。

お金を借りてまで大学院に行こうって思えなかった程度の、子どもの夢みたいな夢だったんだけどさ。


結城くんは、まだ実家暮らしだという。

あそこの家、やたら広いから、家をでる必要もないんだろうな。

目算で、うちの5倍は軽くあったしな。


……やっぱり、実家に帰るのやめようかな。

今のメンタル弱った状態で、彼にばったりでくわしでもしたら、気分めりこんでしまいそう……。


「樹里姉ちゃん?」


「へっ」


耳に心地よい、低い男の人の声で、とつぜん名前をよばれて、顔をあげる。

私から2歩ほど離れた芝生の上に立っていたのは、やわらかそうな黒髪と、黒縁の眼鏡が印象的な長身の男の人だった。


「やっぱり、樹里姉ちゃん……ですよね」


わずかに耳を赤くして、やたら嬉しそうに笑う。

この顔には、見覚えがある。

やたら背が伸びて、精悍な印象になっていたから一瞬わからなかったけど、そのくしゃっとした笑顔は、まさに今思い出していたあの子の顔の面影がたっぷりだった。


「まさか……、結城くん?」


「はいっ」


ずいぶん久しぶりに思い出していた幼馴染が、まさかとうとつに目の前に現れるなんて、どんな偶然だ。

まだ夢を見ているようで、私がぼうっとしていると、結城くんは「あ、隣に座っていいですか?」と訊きながら、私の返事もまたずに隣に座る。


「久しぶりですね。まさかこんなところで樹里姉ちゃんに会えるなんて思ってなかったです」


「私もだよ。……ていうか、なにしてるの?こんなところで。仕事は?」


自分のことを盛大に棚上げして、聞く。

結城くんは、まっすぐ前を見ながら、


「俺、四月からこの近くの大学で准教授をしているんです。今は授業の合間で……、下賀茂神社にお参りに行っていたんですよ」


「下賀茂神社に……?ふぅん、いいね」


「あ、今から行きます?よかったら、一緒に行きますよ?」


何気ない相槌だったのに、結城くんの食いつきっぷりがすごい。

勢いごんで言われるけど、10年ぶりくらいに再会した異性の幼馴染って、そんなに長時間一緒にいたいものじゃない。

話題とかもないし。

いま、隣に座られているのも、ちょっと困惑しているくらいなんだけど。


適当に挨拶だけしたら、とっとと立ち去ってくれないかな。


お散歩を断られた犬みたいに、結城くんはしょげかえりながら「そうですか」という。

こんなにフレンドリーな子だっけ。

確かに昔は妹と一緒に懐いてくれていたと思うけど、高校生くらいの時にはもう道で会っても軽い挨拶を交わす程度の仲だったはずなんだけど。


微妙に気まずいのに、結城くんはやたら楽しそうだ。


「そうだ」


と、自分のかばんから小さな包みをとりだして、


「これ、食べます?学生から豆餅をいただいたんですけど」


「食べる」


遠慮なくうなずいて、しまったと思う。

コンマの間もなく「食べる」って、どれだけ飢えてるんだよっていう。

けど、ほんわりしたフォルムの豆餅は、まぎれもなくこの近くの名店の豆餅で、見たら食べるしかないっていうアレだ。


「おひとつ、どうぞ」


2個いりの豆餅を、結城くんが差し出してくれる。

そっととりあげると、白い粉がパラパラ落ちる。

パクリと口に含むと、柔らかい求肥と上品な甘さのあんこ、それに硬めのアクセントのお豆。

おいしいいいい。


もふもふ食べていると、結城くんも豆餅にかぶりつく。

知的で上品な印象が崩れる、豪快な食いっぷり。

そういえば、意外にこの子もおいしい物好きの食いしん坊だっけ。


食べ物をもらったせいじゃないけど、さっきまでの気まずさもほどけて、くすくす笑いがこみあげてきた。

ハンカチで口元をぬぐって、お茶を飲む。

さぁっと気持ちのよい風が通り過ぎていって、あぁ、いいお天気だなとしみじみ思った。


ふと結城くんを見ると、結城くんはなんだかすごく優しい顔で私を見ていて、


「動かないでください」


そっと私の頬に、手で触れる。

太い、少しカサついた指が、そっと私の口元を撫でる。

眼鏡のレンズのむこうで、結城くんの黒い目が私をじっと見つめているのを感じる。

結城くんに触れられたところが、むずむずする。


「とれましたよ、粉」


「あ、ありがとう」


豆餅についていた粉をとってくれているだけだって、わかってた。

なのに、なんだかくすぐったくて、顔が赤くなってしまう。

照れながらお礼を言うと、結城くんも心なしか赤くなった。


「やっぱり、下賀茂神社、行きませんか」


「今日は行かないってば。なんでそんなに下賀茂神社推しなの」


笑って訊けば、結城くんはますます顔を赤らめて口ごもる。

それから、ふと真面目な顔になった。


「樹里さんは、お仕事やめられたんですよね」


それは、疑問形じゃなく、確認の言葉だった。

結城くんの言葉には、蔑みも同情も感じなかった。

だから私は、あっさりと「うん」と返した。


「早耳だね。実家情報?」


「はい。わりと今でも、里奈とは顔を合わせることが多いんですよ」


里奈というのは、私の妹だ。

今でもお隣同士の彼らは、ときどき顔を合わせるんだろう。


それにしても、私の現状まで話しているなんて。

ふたりがそこまで気安い仲だというのは、ちょっと意外だった。


「すみません、勝手に聞いてしまって」


「えっ、いいよ、別に。里奈が話しただけでしょ」


すこしの沈黙を、私が咎めているせいかと思ったらしい。

結城くんが深々と頭を下げたから、慌ててその肩をたたいて「いいって」という。


結城くんは顔をあげると、逡巡しながら言う。


「それで……、研究に戻られるんですか?」


「へ?」


「本当なら大学院に進学したかったと、むかしおっしゃっていたでしょう?」


「……そんなこと、覚えてくれていたんだ」


子どもの頃の、夢だ。

なんの行動もしなかった、ただ思い描いていただけの夢。


誰かに言ったことすら、自分でも忘れていたのに。


「あの時、俺はまだ大学ににゅうがくしたばかりで、樹里さんの研究発表を聞いてもよくわかりませんでした。でも、周囲の先生方の評価が甚だしかったのは覚えています。あなたが、すごく研究が好きだったことも」


「……そうだったね」


そんな時もあった。

忘れていた昔の情熱が胸の奥にぽぅっと火をともす。

だけど。


「別に、今さら大学院に行きたいって思って仕事を辞めたわけじゃないよ。ただなんとなく……、疲れちゃっただけ」


30歳もすぎて、無職になって。

仕事で体を壊して辞めたなんていっても、仕事は他の人に比べればぜんぜん大変じゃない仕事で。

私って、なんてだめなんだろって思う時もある。


結城くんは、私が無職って知っていても軽蔑も同情もしていないみたいだったのも嬉しかったんだけど、それも私が大学院に行くためのポジティブな選択をしたって思っていたからなのかな。

だったら、ほんとうの今の私を知ったら、呆れる?


昔は慕ってくれていた子に、呆れられるは辛い。

けれど、私はヤケになったかのように、言葉をつづけた。


「いまの私は、なんにんもないんだよ。仕事も、恋人も、やりたいことも、しなくちゃいけないこともなんにもない。それに対する焦りとか不安さえ、なんにもないの」


へらりと笑う。

からっぽの私は、辛いと思いつつ、その感情すら希薄だ。

いったいどうして、こんなふうになっちゃったんだろう。


「でも、豆餅はおいしかったでしょう?」


真面目な顔で、結城くんが言う。

なんだ、それ。


「うん、豆餅は、おいしかったけどさ」


「それに、自惚れじゃないなら、さっき俺が触れた時、樹里さんは俺のこと、意識してましたよね」


「えっ、なにそれ。なに言ってるの」


図星ですけど、真顔でなにを言い出すんだコイツ。

アラサーの幼馴染が河原でする会話なのか、これ。


思わず周囲を見回すけど、子どもたちはきゃわきゃわ遊ぶのに夢中で、お母様方もこちらのほうなんて気にしていない。

……誰も見ていなくても、恥ずかしいのは恥ずかしいんですけど。


「樹里姉ちゃんは、空っぽなんかじゃないってことです!」


「は?」


言いきられたけど、なんだそれ。

ぽかんとして結城くんを見る。

結城くんは立ち上がって、私を見下ろして、


「おいしいものを食べておいしいって思えたり、ドキドキするうちは、心が空っぽなんかじゃないんです。樹里姉ちゃんの心は、今はちょっと疲れて休憩しているだけで、空っぽなんかじゃない。わかりますか?」


そういえば、結城くんの専門って心理学系のなんかだっけ。

こちらの比喩表現すらスルーできずに、専門家が専門的な話を展開するのは、慣れてます。

伊達に大学に10年も務めていません。


まぁ、結城くんは私という素人相手だからと、専門用語を使わないようにしているだけマシだよね。

頭には数名、やたら専門用語を使ってお説教する教授が去来する。


「でも、樹里姉ちゃんが、今は大切なものとかなにもないなら……!俺と、結婚してくれませんか?」


わりと聞き流す方向で、結城くんの熱弁を聞いていたら、とつぜん謎の言葉が耳に入った。

さすがに聞き流せなくて、ストップをかける。


「落ち着け。なに言ってるの?結婚?」


ほぼ10年ぶりに再会した幼馴染に何を言う。

元カレに言われても驚くレベルなんですけど、今までいっさい男女関係なんて匂わせなかった弟分に言われたら、びっくりどころの話じゃないわ。


「あっ…………、先走りすぎました」


結城くんは、頭を抱えて、その場にうずくまる。


「うわぁ、俺、恥ずかしすぎる……」


「ていうか、意味不明すぎるんだけど」


大人の女のフォローなんて、できません。

むしろ、えぐる方向で訊いてしまう。


「なに、結城くん、私のこと、好きなの?」


結城くんは膝を抱えたまま、こくんとうなずく。

図体のでかい男がやっても、ぜんぜんかわいくない仕草だけど、かわいくないところがかわいいと思ってしまう。


「いつから……?って、今からじゃないよね?むかし好きだったってこと?」


ゴリゴリに結城くんの恥部をえぐる。

いや、だって、むかしの私が好きとか言われても、10年も前の自分なんて別人だもの。


結城くんは、顔をあげないまま、ぽつりぽつりと言う。


「物心ついたころからです。けど樹里姉ちゃんは4歳も年上だし、子どものころだと4歳も違ったら子ども扱いだったから、言えなくて。樹里姉ちゃん、わりといつも彼氏もいたし。俺も大学3年から東京の大学行ったり、留学したりで、好きっていっても淡い気持ちのつもりだったんだけど、ずっと好きで」


「ふぅん」


なんて言っていいのかわからなくて、気のない相槌をうつ。

けれど結城くんは自分で話していて、だんだん興奮してきたのか、すこしずつ声に力がこもってきた。


「里奈には、むかしから気持ちがバレてて、”私のお姉ちゃん取らないでよね”って言われていたんです。日本に戻ってきてからもさりげなく樹里姉ちゃんのこと聞いたら、”何年も会ってないのに好きとかキモい。お姉ちゃんには、結婚寸前の恋人がいるから”って釘をさされていて」


「恋人……?そりゃ、ちょいちょいいたけど。最近はべつにいなかったよ?」


悲しいことに、ここ数年は彼氏もいなかった。

それにすら寂しいとも思わない枯れっぷりだったのだけど。


「俺が、樹里姉ちゃんにいまは彼氏いないって聞いたのは、つい3日前です」


それまで、里奈は私に彼氏がいないってことすら隠していたらしい。

別にいいけど、なぜだ。


「自分でも、ちょっとおかしいとはわかっているんです。ときどき、樹里姉ちゃんが実家に帰ってきているのを目にするぐらいしか接点もなくなって、まともに話ししたのは10年くらい前なのに、ずっと好きとか、おかしいですよね。里奈が俺のことを遠ざけようとするのももっともだし、俺自身、樹里姉ちゃんが好きっていう気持ちは理想化された偶像で、俺は単に恋愛とか男女関係が不得意だから、ぜったいに手に入らない樹里姉ちゃんを好きだと思い込むことで、逃げをうっているんじゃないかって思っていました」


結城くんは、一息に言う。

やたら早口で、ちょっとキモい。

イケメンでもキモいものは、キモいんだなぁ。

ていうか、里奈にもキモい扱いされて遠ざけられていたのか。


それがいま、解禁されたのは……。

心配かけているんだろうなぁ。


姉がアラサーとも言えない年齢になりつつあるのに、無職、独身、彼氏もナシでは、妹だって心配なんだろう。

ちょっと不審とはいえ、幼馴染で、人柄もわかっていて、私のことを一途に好きだと主張している男を斡旋してしまうほどには。


しみじみしていると、結城くんががばっと顔をあげて、私を見る。

あ、目が血走ってる。

わー、マジでキモいわー。

キモい、んだけど、ね。


「でも、今日、ここで会って。樹里姉ちゃんを見たら、そんなもの俺のうがちすぎだってわかりました。俺、やっぱり樹里姉ちゃんが好きです!見てるだけで、好きだ、好きだって全身が叫ぶんです。側にいるだけで、嬉しくて、幸せで……」


ちゅっ。

しゃべりまくる結城くんの唇に、唇を重ねる。

一瞬だけの、キスともいえないようなキス。


けれど、結城くんはネジの止まったおもちゃのように口を閉じた。

ぎぎっとぎこちなく私を見るその目は、まだ血走っていて、イケメンのはずなのに、キモい。


なのにねー、なんか嫌じゃないんだよね。

心が弱っているからだろうか。

自分のことを好き好き言われると、なんか胸が暖かくなる。

わりとコイツ、だめだろってわかってるのに。


だけど、からっぽだと感じていた心に、すこしだけ暖かなものが芽生えているから。

アリ、なのかな。


「樹里、姉ちゃん……」


「まずは、その”姉ちゃん”っていうの、やめてくれる?”樹里”って呼んで。ね?」


「じゅ、樹里……さん?」


樹里さんとは、さっきも呼んでいたよね。

なんで「さんづけ」で呼ぶだけで、顔が赤いの。

でも、そうじゃなく。要求しているのは。


「樹里」


「じゅ、樹里」


名前を呼ぶだけで真っ赤になられても、困るんですけど。


「よし。ねぇ、さっきのプロポーズ、有効?」


こてんと首をかしげる。

おもいっきり、かわいこぶった仕草。


そういえば、こんな仕草をしたのいつぶりだろう。

まさか今さらこんなかわいこぶった態度をとることがあろうとは思ってもいなかったけど、目の前の男が慌てつつも幸せそうな空気を醸し出すのがかわいくて仕方なくて、自然と体が動く。


「も、もちろんです!結婚してくれるんですか?」


「……それはねー、もうちょっとお試しの後、かな」


何様だと自分でつっこみつつ、ふふっと笑う。

結城くんは、がっかりしつつも、「お試し」の言葉に目を輝かせた。


「じゃ、じゃぁ。つきあってはくれたりするんですか?」


期待のこもった眼差しを、体いっぱいに感じる。

胸の奥に、なにかがよみがえった気分。


私は、すごく久しぶりに晴れ晴れと笑った。


「うん。よろしくー」


結城くんの頭を撫でながら、言う。


……あー、あと。あとで、大学院の試験について調べよう。

わりと貯金、あるんだよね。

今さらだけど、大学院に行くことも考えてもいいかもしれない。


空っぽかと思ったけど、私にもまだまだやりたいこととかあった気がする。

いまの、なにもないような時間は、それを思い出す時間なのかも。


おそるおそるといった手つきで私を抱きしめる結城くんの胸にそっと頬を寄せながら、そんなことを思った。

下賀茂神社: 縁結びのご利益あり。

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