愛しい冬日の海
私はひとつの悩み事を数年抱え続け、ある日それが心底どうでも良くなって、人気のない海辺をふらふらと歩いていた。
景色は変わらず真っ黒い海。
冬の海はどんな季節にも負けない暗く深く沈んだ色味で、私の気持ちにひっそり寄り添って共感する。
「なんだって、私がこんな目に」
ときたま通り過ぎる車たちを横目に、私は愚痴を吐く。
久しぶりの休日だが、仕事があると偽って出てきた手前帰る気にもならない。
堅苦しいスーツにサイズの合わない贈り物のコートは海辺では心もとない防寒具だったが、私は鞄を抱きしめて耐えようとする。
ここに居たいんだもの、我慢するしかない。
この海は私にとって特別で、初恋をして初めて振られて、今の彼と出会って最後にキスをした場所である。
二人でここに来たのは、一年も前のこと。
「どうせテルは興味無いんだ」
彼の名を口にしたのもいつぶりか。
「そろそろ終わりだなー」
波の音に掻き消されて、私の声は自身の耳にも殆ど届かない。
まるでそれは蚊の飛ぶ耳障りなノイズ。
痛むようにじりじりと胸の熱くなる感覚ももはや感じられなくて、あぁ、冬が来た、と心で呟いた。
怒りも、恋焦がれる気持ちも、体を求めあう衝動も、全て二度目の冬を越すことなく消えてしまうんだ。
一年前から会話のない私たちは、ひとつ屋根の下に暮らすだけの別世界の人間になってしまったんだ。
「あんなやつ、付き合ったのが間違いだった」
心の声が漏れ出す。
きらきら、陽が海上に黒と白のコントラストを生み出す。
「だいっっっきらい!!!」
愛しい海に向かって叫べば、いつも私を見ていた彼は冷たい風で突き放す。
煽られた私はふらついて、しかし転倒するには至らず、おかしな体勢のまま視線を動かし空を見た。
あれれ、曇ってきた。
私の気持ちにつられたのか、地球も一緒に暗くなって、冷たくなった。
名残惜しいけれど、このままここにいたら風邪引いて明日の仕事に支障をきたすと判断した私は、泣くようにさざめく海に手を振った。
「あっ」
と同時に私の後ろで声がした。
「え?」
振り向けば、そこにはすぐ後ろの車から降りたと思われる女性が立っていた。
真っ黒の流れるような長髪とダウンに、白い肌のコントラストが神秘的。
「海」
咄嗟にそう口から出たのも仕方ない。
私は自分を不思議そうに見詰める女性と数秒間無言で対峙した。
「……」
「……あの」
先に口を開いたのは女性の方で、私は少し身構えながら続きを待った。
「大丈夫、ですか。とても、寒そうですけれど」
掠れたような声の彼女は、私にいたわるような目線を向けてきた。
「寒い……けど」
冷えた手を擦りながら呟けば、彼女は私の手を引いた。
「じゃあ、乗ってください。自分、家が近いのでとりあえず暖まっていってください」
優しげで儚げな雰囲気に似合わず力強く積極的な彼女に流されるように、私は彼女の車に乗り込んだ。
海らしい。
この時すでに私は彼女を好ましく思っていた。
それから私は彼女と暮らした。
経緯はもう説明しようがない。
荒波に飲まれるように、気が付いたら私はこの家に帰るようになっていたのだ。
彼に何も告げず、しかし連絡もないので良いのだろうと思い、そのまま彼女の家から彼女の服を着て彼女の髪留めを借りて会社へ向かう日々。
愚痴を聞いてもらい、頷いてもらうだけの夜。
彼女は暖かい、私の海だった。
「それでね、上司がいったわけ!ここはこのデータをまとめろと言っただろう!って。でも一時間前には違うことを……」
その日私はいつものように愚痴を吐いていた。
ぴるるるる
愚痴の最中に電子音が響き、私の思考が停止した。
「……はい、もしもし」
心配そうに見詰める彼女を安心させるように笑みを作った私は、その直後
「ちょっと、出掛けるね」
と言って、飛び出した。
彼が、会いたいって。
暖かな場所でゆっくりと回復してきた熱は、消えずに冬を越せたのかもしれない。
少しの不安と期待と、ほんの僅かの愛しさと、大きな大きな寂しさとが入り交じって、私は心臓がどくどくうるさく脈打つのを感じながらタクシーを呼び、乗り込み、家に向かった。
晴れていたが、海には目も向けなかった。
「おかえり、心配したんだぞ」
そう言った彼は、私を快く迎えてくれた。
しかし中に入れば、背中が冷たくなった。
ぐちゃぐちゃに食器が重なったシンクに散らばった服、見覚えのないアクセサリに、香水の匂い。
あ、振られたのかな。
咄嗟にそう思ったが、いやいや浮気なんて本当は、と頭を振った。
ぶかぶかのコートを脱がされた私は何か言おうとして口を開くが、それもできぬままくちびるを重ねられた。
背中の冷気が全身にまわった。
振られたんだ。
知らない匂いのする彼は、噛み付くようにくちびるを重ね、舌を絡みつけた。
そして呆然としてそれを受ける私に一言
「お前しかいねぇわ、やっぱ」
なんて、適当な愛を囁いて、抱き締めてきた。
シたいだけだ。
そうわかっても、私は動けない。
冷えて凍ってしまって、動けない。
それを見た彼は私を押し倒した。
「まだ俺らは付き合ってんだから」
そこでようやく私の喉に熱が通う。
やっと、冷え固まっていた私の喉に沸騰しそうな感情が流れて、その喉を震わせて言葉を紡ぐ。
「いや」
「はっ、気持ちよくなりたいくせに」
紡いだ言葉は否定され、私はそのまま乱雑に服を脱がされて身体を貪られる。
揉まれて撫でられてくちびるで触れられて指先で愛撫されて、耳を噛まれて、力任せに、欲望のままに、貪られる。
それでも身体は裏切り者のようで、私は彼を受け入れていた。
「ほら、濡れてんじゃん」
その日は最後の夜になった。
私は逃げるように彼女の元へ帰り、無責任な彼のことを愚痴り、泣きじゃくり、その朝は熱を出して仕事を休んだ。
「大丈夫ですか」
「いいよ、わざわざ私のために……」
私と一緒に仕事を休んだ彼女は出来たての雑炊を持って来た。
共に暮らしているのに敬語をやめない彼女は、初めて会ったときから変わらずに白と黒。
私を安心させてくれる、広い存在。
「おいしい」
雑炊は私の好きな味だった。
いつ知ったんだろうと思うくらい、彼女は私の全てを知っているようだった。
一ヶ月後、私は振り返る。
彼女は私の最愛の人。
海は私に転機をくれた。
「今日はね、またあのくそ上司が……」
「はいはい、聞きますよ」
海の代わりに私の愚痴を包み込んでくれる彼女は、きっと本当は私にもっと言いたいことがあるんだろう。
それはこれから知っていこう、と考えながら。
私は今日も彼女と支え合う。