ほろ酔い語りの夜
うちの妻について、ですか?
いえ、そういう話はちょっと。人前でするのは気恥ずかしいですし、そもそもお聞かせするほどの話ではありませんから。
違いますよ、惚気ているわけでもないです。ただこういうお酒の席で、わざわざお話しするようなことじゃ――止めてくださいよ、部長。からかわないでください。
わかりました。お話しします、お話ししますから。
ええそうです、うちはお見合い結婚でした。たまたま運よく、知人の伝手で紹介して貰いまして、それで所帯を持つことになったのです。
いや、『運よく』というのはですね、別に惚気たわけではなくて。そういう意味ではありません。言葉尻を捕まえて、いちいち揶揄するのも止めてください。照れますよ、そりゃあ。
何と申しますか。正直なところ、僕なんかが所帯を持てるとは思ってもいませんでしたから。ご縁があったのも、話が上手くまとまったのも、運がよかったのだろうなと思った次第です。
僕は、結婚できない自信があったんですよ、あの当時は。どうしてって、それは――僕はこの通り冴えない男ですから。この年になるまでは、とんと縁もありませんでした。
部長、からかわないでください。運命とかそういうことではなくてですね、とにかく運がよかっただけなんです。
いや、運がよかったというのはそういう意味ではありません!
全く、すぐ惚気ていると決めつけたがるんですね。そんなことはありませんから。
妻ですか?
ついこの間、二十一になったばかりです。
ええ、短大を出てすぐに僕と見合いをして、そのまま結婚を――今度は犯罪者呼ばわりですか。
別に僕が誑かしたわけではありません。ちゃんとお互い同意の上で籍を入れました。向こうの親にもきちんと了解を得ていますし。
まあ、部長の仰る通りです。僕とはいささか歳が離れております。でも歳の差があるからって、罪になるというわけではないでしょう。
部長のお宅はどうなんですか?
はあ、姉さん女房ですか。尻に敷かれていらっしゃると。ええとその、大変、なんですね。
うちは特に、尻に敷かれているということもないような気がします。だからと言って亭主関白というわけでもなく――惚気てないですよ。違います。尋ねられたから答えただけなのに、どうしてそんな言われようをされなきゃならないんですか。
今夜は無礼講?
あの、部長。部長に無礼講と言われてもですね。
いえ、いいです。とにかく、惚気ているわけではありませんから。
他の人からも、よく言われますね。
お互いを思い遣っていられるのも今のうちだけだって。
そのうち夫婦の間に隙間風が吹くようになるか、あるいはどちらかが権力を握って主従関係のようになるって。
そうしみじみと言われてしまうと、こちらとしても、そうなのかなと思わず納得したくなってしまいますよ。部長も苦労なさっているんですね。
うちに限って言えば、この先どのような夫婦になるのか、まだよくわからないというのが本音です。何せ所帯を持ったばかりですし、今のところはお互いに手探り状態で、ようやく二人暮らしに慣れてきたという具合ですし。
――いえ、あの、部長。手探りというのはそういう意味ではありません。おかしな方向に話を捻じ曲げないでください。お酒、そろそろ止めておいた方がよろしいのでは。この後、二件目もあるそうですし。
心配事、ですか?
妻を一人で、家に置いておくことに不安はないです。
だけど歳の若い妻が相手だと、やはり話が合わななと思うことが何度かありました。僕が子供の頃にあった出来事について語ると、彼女はまだ生まれていなかったので知らない、ということが何度か。時事を話題に持ってくるのは、年齢の差がある場合には適さないのだと学びました。
いや、自慢じゃないですよ。ないですってば。若い妻がいるというだけで自慢になるわけでもないでしょう。知識と経験を兼ね備えた奥さんというのも、なかなかに頼りがいがあって、よいものではないでしょうか。
でもさすがに、とりかえっこは丁重にお断りいたします、部長。
あ、これはご丁寧にどうも。僕もこの一杯でおしまいにしておきます。二件目は歌声喫茶へ行くそうですから、部長も今は控えておいた方が。
まだ、うちの妻のことを話さなくてはなりませんか?
それはもう面映いものですから、このくらいで勘弁していただきたいです。
特に面白おかしい話などもありませんし。いたって普通の家庭ですよ、うちは。部長、もうおしまいにしませんか?
駄目ですか。
妻のことは、普通に名前で呼んでいます。
名前に、さん付けで。
お、おかしいですか?
まあ、歳の差はありますけど、何と申しますか、そこで亭主関白風を吹かす気にもなりませんでしたし。まだ一緒になって日も浅いですし、妻を呼び捨てにするのはその、何となく、照れまして。
からかわないでくださいってば。いいじゃないですか、まだ新婚で、不慣れなんですから。なかなか今すぐになんてことは――ええわかりました、これから時間をかけてでも、慣れるようにしますよ、もう。
うちの妻も同じです。
僕と同様に、僕のことを名前にさん付けで呼んでいます。
結婚してから一ヶ月ほどは名字で呼ぶ癖が抜け切らなかったくらいですから、これでも譲歩してもらっている方です。このままでいいんじゃないかな、と考えています。いけませんか?
ああ、なるほど。部長のお言葉には含蓄がありますね。亭主の威厳を示しておくのも、時として必要な場合があると。
確かに、そうなのかもしれません。
でも僕は、今のまま、のんびり暮らしていくだけでもいいと思っています。
肩肘張らずに、ゆったり、気楽に構えているのも夫婦のあり方の一つではないかと。
そりゃあ僕らは歳の差もありますし、話題の噛み合わないことも、趣味の合わないこともたくさんありますが、そういうのも他人同士が一緒になった醍醐味じゃないかと思うんです。
いささか楽観的、なのかもしれませんね。
皆さん、口を揃えて言います。何も考えず、幸せでいられるのも今のうち、新婚時代だけだって。部長もそう仰いますか。いえ、僕もそのご意見に、異を唱えるつもりはありません。まだ若輩の身で、そんなことはないだなんて言い張れる根拠など、持ち合わせてはおりませんから。
ただ、そうだとしても、それはそれで構わないと思っているんです。
この先、妻の尻に敷かれようが、今の気持ちが冷めてしまおうが、僕らなら上手くやっていけるんじゃないかという気がしています。
彼女は僕を自然で、気楽でいさせてくれるような、とても居心地のいい人なんです。
まだ手探りの、覚束ない関係かもしれませんが、それはそれでとてもよいものだと、今はしみじみ思っています。
すみません、結局惚気になってしまいましたね。
ええまあ、仰る通りです。今は僕ら、とても幸せなんです。
そのせいで現実が見えていないというなら、きっとそうなんでしょう。僕も妻も、今はまだ所帯を持って日の浅い若輩者ですから、先のことをちゃんと考えられていないのも事実なのかもしれません。
わかりました。その時の為に今夜の部長のお言葉、心に留めておきます。
いつか、今日のことをしみじみ思い出す日がやってくるかもしれませんし。
あ、部長。そろそろお開きのようですよ。
大丈夫ですか、立てますか?
部長は当然、二件目にも行かれるんでしょう。足元にお気をつけて、楽しんでいらしてくださいね。
いえ、僕は、ここでお暇させていただきます。
すみません。家で妻が待っているもので。
一応先に寝ているようにとは言っておいたのですが、彼女ならきっと起きて待っているはずなんです。そういう人なんです、彼女は。なかなか言うことを聞いてもらえなくて。ですから僕も、あまり遅くなるわけにはいきません。
本当に申し訳ないです。それこそ惚気ているみたいですが、新婚だからということで看過していただけませんか、部長。
もちろん今夜のお言葉は、ちゃんと胸にしまっておきますから。