ある出来事
夜といったら、きみは何を連想するだろうか。
街に広がる灯り、やけに響く学生の笑い声、空にゆらっと浮かぶおぼろげな月など。
恐怖、なんてのもイメージではあるかもしれない。
僕が連想するものは、駅だ。
夜、気怠い階段を上り、改札を抜けて、誰もいない構内を、夜の入り口に向かってゆっくり、歩いて行くんだ。磨かれた窓ガラスなんかに、自分の姿が映ったりすると、ぞっとして立ち止まってしまう。
頭のてっぺんから足先まで、どこにもかしこにも、今日一日のなんだか嫌なものがくっついちまってる気がして、気持ちの悪い鳥肌がたつんだよ、そう、ちょうど今、きみの触ってる二の腕のあたりだ。
そんな夜に、いつだか、奇妙な体験をした事があるんだ。ちょっと話がそれるようだけれど、まあ、聞いてみてくれよ。
僕はいつもの様に、いつもの駅で降りた。その日は、色々とトラブルがあったせいで、着く頃にはとうに十時を過ぎていた。
今日も嫌な一日だったなあ、なんて事を考えながら、外に続く階段を降りて駐輪場の前に立ったのが、十時三十七分だった。
僕は安い腕時計のバンドをかちゃかちゃ鳴らして、ふと街灯を見上げた。
駅前には、ばかにでかい街灯があるんだが、その日は街灯の光が妙に、眩しく見えたんだよ。オレンジ色のライトにかっと照らされて、街じゅうにあるあらゆるものが、なんというか、妙にぎらついていて、僕はこういうのを説明するのが苦手なんだけれど、なんだか全部が蛍光色のペンで縁取られたみたいに、変に浮き浮きとしているんだ。
疲れで目がふらついてるんだろう、くらいにしか考えなかった僕は、いつもの様にアパートまでの道を歩き出した。ああ、その頃はまだ独り身だったんだよ。何年も前の話だからね。
僕は灯りの多い駅前を抜けて、人通りの少ない道に出た。街灯は二十メートル間隔に一個づつくらいしかなく、ときどき点滅したりして、なんだか冷たい雰囲気なのさ。
ひと気なんてもってのほかで、どこの家のライトもすっかり消えて、まるで街自体が床についたみたいに、シーンと静まりかえっていた。
実を言うと僕は夜のこういう雰囲気が大好きで、ちょっとした楽しみでもあった。わかるかな、なんだかわくわくしてくるような、自分がドラマの主人公にでもなったような気分になれるんだ。
僕は道のど真ん中を歩いた。どうせ車なんか通らないからね。僕は一人きりの夜の世界をぶらぶらと、無駄に大きく手を振ったりしながら進んだ。
どれほどだろう、街灯四つ分くらいを過ぎた時に、僕はある異変に気付いた。
真っ直ぐ先の突き当たりの街灯の下に、誰かが立っていたんだ。
男か女かわからない、歩くというわけでも、誰かを待っているというわけでも(まあ、こんな時間に人を待つというのもおかしいけれど)なさそうで、街灯の下に一人、仁王立ちのようにしてそいつは立っていた。
時間が時間だったものだから、僕は少し恐怖心を覚えた。僕は神様と幽霊は信じない主義なんだが、この時ばかりは少し怖かった。君だって普段、誰もいないはずの場所に見知らぬ男が立っていたら、怖いだろう?
近づいていくと、どうもそいつは男らしいということがわかってきた。一昔前のフロックコートみたいなものを身につけて、海外の探偵モノなんかでしか見ないような帽子を深くかぶって、不動のままで立っていた。
僕は困った。僕のアパートはその突き当たりを左に曲がった先の信号を一つ渡った先にあった。男は道の中央に立っていたから、避けるのは難しそうだった。
よく考えれば、いくらでも迂回する道はあったんだ。でもその時の僕に、そんな考えはなかった。よくわからないんだが、"そこを通らないといけない"みたいな強迫的ななにかが、そこにはあったんだと思うんだ。
僕はゆっくり男に近づいていった。男は動く様子がない。
その時には既に、僕の中の恐怖心はいそいそと撤退し始めていて、むしろ好奇心の方が勝っているようだった。こんな夜道に、それもこんな時間に、何であの男はあんな格好をして立っているんだ?
当然、酔っ払いという訳ではないだろうし、チンピラややくざの類いにはどうも見えない。僕の中の男に対する疑問が、ぐんぐんと強まっていった。
ついに、僕は男の目の前まで辿り着いた。男は初めに見た時から少しも動いていない。真上にある街灯のせいで、男の顔にかかる影がより一層濃く見えた。顔立ちは全く分からなかった。
僕はこのまま通り過ぎてしまうか、一旦足を緩めて会釈の一つでもしようかと迷った。だがこの迷いは全くの無駄になる。
なぜなら、男の方から語りかけてきたからさ。
随分遅いんだな、と男ははっきりした口調で言った。男の声は低く、ずっしりとした重厚感があった。
僕はどきっとした。まさか向こうからこんな風に絡んでくるとは思っていなかったんだ。あまりに急だったものだから、へっ?なんて、うわずった情けない声を出す羽目になっちまった。
男は気にせずに、いつもこんな時間まで仕事をするのかい?と聞いてきた。僕は頭の中がいっぱいになっていたものだから、はあ、だのまあ、だのとよくわからないことを呟いて、どうしたものかと考えていた。
考えてもみてくれよ。見知らぬ男が、それも珍妙な格好をした男が夜道で突然、友達か何かみたいに話しかけてくるんだぜ。柄の悪い連中に絡まれるのと同じくらい、僕にとっては怖かったね。
僕が何も言えなくなると、男もまた黙ってしまった。間に奇妙な間が生まれる。僕は立ち去ろうにも立ち去れず、かといって何か話しかけることも出来ずに、ただただ情けなく突っ立っていた。
しばらく、といっても三十秒くらいして、男が口を開いた。
そんなに怖がることはないじゃないか、と男は言った。怖がるに決まっている、と心の中で悪態をつくと、僕は奴に向き直って言ってやったんだ。何か用ですか、とね。
すると、これがまた気味悪いんだが、奴は急に高笑いをし出したんだ。不気味な声でね、ぴんと張った弦を一度に断ち切ったような、割れる風船のような笑い声さ。
男はひとしきり笑った後、突然静かになって、下を向いた。そしてはっきりとこう言った。何か理由でもなけりゃあ、君に話しかけることもかなわんのかね?
実に意味深で不気味な言葉だ。僕はこの男は頭がおかしいのだと思った。まともな会話は期待できないし、これ以上いたら何をし出すかわからない。僕はもう無視を決め込んで、まっすぐ家に帰ってしまおうと決めた。
そうと決まると僕はすぐさま顔を下に向けて、路地を右に突っ切ろうとした。
歩いて数歩のところでだ。また男の声が後ろから響いた。聞きたくなくても、その声色は不思議と耳に潜り込んでくる。額に脂汗を浮かべて振り返った僕に、奴は言ったんだ。
ひとつ、面白いことをしてあげよう。
君がどうにも、私を訝しげにみるものだから。それでどうするかは君が決めてくれよ。私はいつでも、夜の何処かにいるから。
そういって男は踵を返して、薄暗い路地を歩いて行った。僕はなにもかも分からなくなって、随分の間、阿呆のようにぽかんとしているほかなかった。
ここまでが、僕の身に起こったまぎれもない体験だ。それでどうなってしまったか、は君の想像に委ねよう。好きなように考えるといいさ。どうせ行き着く先は同じだろうからね。
もう夜も更けてくる頃だろうか。余計な話が長引いて朝寝坊をくらうまえに、お暇させてもらうことにするが最後にひとつだけ言っておこう。
僕はいまでも、その男を探しているということさ。