野良犬
十二月二十四日木曜日午前九時五十一分
目を開けた。カーテンの隙間から太陽が差し込む。布団を退かし、ラークの箱を取る。最後の一本に火をつけた。
ベッドを抜け、カーテンを開けた。太陽が眩しかった。ホテルの八階から眺めは最高だった。歌舞伎町を一望出来る。欠伸をした。ベッドに置いたベレッタをホルスターに差し込んだ。
煙を吐き、コートを着た。バックを持ち、煙草を灰皿に擦りつけて部屋を出た。
ホテルの外に出ると冷たい風で眠気が吹き飛んだ。近くにあった自動販売機で煙草を買った。フィルターをくわえ、火をつける。煙を肺に入れる。
花道通りに出る。パトカーと白バイに先導されている黒い霊柩車が向かってきた。木村は影に隠れる。目の前を通り過ぎって行った。通りにいた人々は静かにそれを見守った。中には敬礼している奴もいる。元警官なのだろうか。
パトカーと白バイと霊柩車が遠くに行くにつれて普段通りになった。木村も煙草を踏み潰して歩き始めた。
賑やかな歌舞伎町。昨日の事が嘘の様だ。人々は明日のクリスマスが待ち遠しいのだ。カップルがプレゼントを交換したり、誰かに送ったり、色々だろう。
携帯電話が震えた。画面を見ずに電話に出た。
「もしもし?」
『まだ生きてるのか』
聞きたくもない声、劉だった。
「……やる事があるからな」
『少し話そう。どうだ?』
気に食わない。何か企んでるのだろう。
「……何処に行けばいいんだ?」
『三十分後に第一立体駐車場だ』
電話を切った。第一立体駐車場は靖国通りにある。ここから十五分は歩くだろう。煙草に火をつけ、靖国通りに向かった。
交通量の多い靖国通りを渡り、立体駐車に入っていった。静かだった。靴の音が響き、人の気配がまったく感じられない。
車の間を見ながらベレッタを抜き、安全装置を外した。
「こっちだ」
振り向き、ベレッタを向けた。銃口の先には平然と煙草を吸っている劉が立っていた。
「銃をしまえ。丸腰だ」
信じる訳ではないがベレッタをホルスターに戻し、すぐに出せる様にしといた。
劉のあとを歩いていると懐かしい顔がいた。
「久しぶりだな、龍」
そこには林が立っていた。あの時とまったく変わっていなかった。
「………」
憎き男が目の前にベレッタは出せなかった。林は劉に顔で指示を出した。劉はスーツの手を入れた。瞬時に身構えた。だが銃は出てこなかった。紙切れが渡された。
「街から消えろ。そうすれば水に流す」
紙切れはニューヨーク行きの航空券だった。
「だが、それを受け取らないと言うのなら死んでもらう」
林は淡々と言った。まるであの時と同じだ。
「どうする?」
「………」
足音。振り向くと李が立っていた。
「……誰だ?」
林の低い声が響く。
「殺し屋です」
劉が冷静にそう言った。李は木村の隣で立ち止まる。
「何の用だ?」
「あんたを殺しに来た」
ジーンズの腰から銃を抜いて林の顔に銃口を向ける。一瞬の出来事だった。
「頭を冷やせ。自分が何をやってるのか分かってるのか?」
劉はやはり冷静だった。逆にそれが不気味だった。
「分かってるさ。だがあんたは俺を落とし入れようとしている。違うか?刑事を殺るなんて聞いてないぞ」
安全装置が外れた。複数の足音が聞こえてくる。ホルスターからベレッタを抜いた。
「ボス!」
七人の男が走ってくる。
「動くな!」
ベレッタを向けた。男達がそれに気づいて走るのを止めた。
「おい。行くぞ」
李は目を丸くした。
「馬鹿か?一発で終わらせる」
再び林に向き直り、グリップを握りしめた。
「そいつはどうかな」
劉が不気味に微笑みながら言った。李はようやく気づいた様だ。服に赤い点がいくつもあることに。李は大きくため息をつく。
「ここで死ぬか?」
林が李を見下ろしながら言った。
「行くぞ」
ベレッタを男達に向けながら車の影に隠れた。李も林に向けながら来た。林を見ると劉と耳打ちをしていた。
「来い」
木村はさっさとここを出ることにした。それが一番利口だろう。
「死呀(死ね)!」
その言葉の次に来るのは分かっていた。銃声。見ると李が男より早く撃っていた。改めてプロだと実感する。
「野郎!」
銃声が駐車場に響き渡る。李が何やら銃を見ていた。見ると排莢口に薬莢が引っかかっていた。ジャム。
「伏低(伏せろ)!」
木村は李にタックルするようにして地面に倒した。透かさずベレッタを撃った。
「コピー品が!」
そう言うと中国五四式拳銃を捨てた。木村はバックからブローニングと予備マガジンを渡した。
「使え」
李は微かに笑った。銃弾が壁に当たり弾ける。
「行け!」
その合図で木村はベレッタを撃った。李はその隙に後ろに下がる。スライドが止まった。
「来い!」
今度は李が撃ち始めた。体を低くしながらマガジンを替える。スライドを戻し、元の形に。
出口に着いた。李も何発か撃って走ってくる。走って靖国通りを渡った。クラクションの嵐。
息を切らして立ち止まる。ベレッタをホルスターに入れた。壁に寄りかかり、煙草に火をつけた。
「これで後戻りは出来ないぞ?」
「あんた言っただろ?自分で決めろって。決めたよ。後悔はない」
ブローニングを差し出された。
「やるよ。必要だろ?」
李は無言のままブローニングを腰に差し込んだ。煙を吐き出す。腕時計を見た。十一時二十三分。
「何か食べるか?」
李は無言のまま頷いた。二人はセントラルロードを歩きだした。
「あの女は?」
コーヒーを飲みながら木村は李に尋ねた。
「売春婦だ」
「やったのか?」
李は大きく咳き込んだ。煙草を火をつける。
「何?」
口元を押さえながら言った。
「だからやったのか?」
「まさか。やってない」
「じゃ何で……」
「助けただけだ」
再び料理に手をつける。
「怪しいもんだ」
コーヒーを啜る。
「勝手に思ってろ」
李は水を一気に飲み干した。煙草の灰を灰皿に落とした。
「煙草は吸わないのか?」
「そんなの吸ったら体力がなくなるだろ」
「映画じゃよく吸ってるだろ」
煙草を灰皿に擦りつけた。
「映画は見ない」
「金は払っとくよ」
李は何食わぬ顔で店を出ていった。コーヒーを飲み干す。腕時計を見た。一時五分。携帯電話が震えた。画面には見慣れない番号。
「もしもし?」
「………龍さん?」
綺麗な広東語。今一番会いたい人の声。声を聞いたのは約二ヶ月ぶりといったところか。
「關さん?」
「本当に龍なの?」
涙声。鼻を啜る音も聞こえてくる。
「死んだと思ってた」
「この通り生きてる」
「私……私……もう忘れようとしてた。そしたらニュースで見たの。そしたらきっと生きてるんだと思ったの」
「あぁ」
「我想見(会いたいよ)」
震える声が聞こえてくる。
「見到面(会えるさ)。必定(必ず)……」
木村も声が震えている事に気づいて、思わず微笑んだ。
「じゃ見つかっちゃうから」
「明日会いに行くよ」
「えっ?」
電話を切った。声を聞けただけで満足だった。だがまだやる事が残っている。明日という日がある。この日死ぬかもしれない。それでもいい。木村に取って、關に自分の気持ちを伝える事が出来ればそれでいい。
携帯電話がうるさく震えていた。ぎこちなく携帯電話を開く。電話に出た。
「もしもし?」
『今すぐ大久保病院の裏にある廃ビルに来い。三階にいる』
佐藤の声だった。待てと言おうとしたが一方的に切られた。体に掛けたコートを着て、バッグを持って自分のねぐらである家から出た。目を擦りながら腕時計を見た。いつの間にか六時三十二分になっていた。煙草に火をつけ、煙を吸い込んだ。
歌舞伎町一番街を花道通りに向かい、無人になった交番の横を通り、廃ビルに着いた。
ビルの前には立ち入り禁止の看板があったが構わず中に入った。中は真っ暗だった。壁には所々落書きがされてあった。床には煙草の吸い殻、注射器、吐瀉物の跡などがあった。チンピラなどの溜まり場の様だ。階段を上がり、三階に登った。
三階は若干、街の明かりで見える。
「誰だ?」
佐藤の声で振り返った。ライトで目を細めた。よく見ると他にも誰かがいる。ライトのせいで顔は分からない。
「こんな所に呼び出して何の用だ?」
「相沢。連れて来い」
佐藤の奥にいる影が動き、もう一人の影を連れて来た。佐藤はその影にライトを当てる。李仁古だった。手錠をされているのか、手は後ろに回っている。
「知ってたな」
よく見ると佐藤の手にはグロック19が握られていた。
「あぁ」
煙草をくわえた。
「こいつは田中も殺してたんだ。それも知ってたか?」
「いや」
ジッポの火で少し辺りが明るくなる。火を消し、闇に変わる。
「俺を殺したいらしい」
李が淡々と言った。死ぬのが怖くない様だ。
「当然だ。親友が死んだんだ。死んで報いろ」
佐藤は躊躇なく李に銃口を向けた。李は目を閉じた。
「殺れよ。憎いんだろ?人差し指に力を入れるだけで死ぬんだ。簡単だろ?」
「待ってよ。私達が本当に憎いのはこの人じゃないでしょ?香港マフィアの林迎明でしょ?」
相沢と呼ばれた女が銃口の前に出る。誰かと思えばあの時、佐藤と一緒に店を訪れた女だった。
「彼女の言う通りだ」
煙を吐きながら言った。佐藤は戸惑いながらあっさりとグロックを下ろした。
「くそ!」
床に転がったペットボトルを蹴り飛ばす。ペットボトルは壁に当たり、乾いた音をたてながら床に転がった。相沢が近づいてくる。
「一本くれない?」
ポケットからラークの箱とジッポを出した。小さな唇で茶色いフィルターくわえる。ジッポに火をつける。
「ありがと」
「殺さないなら手錠外してくれないか?」
李は手錠を見せながら言った。佐藤は嫌そうに手錠を外す。
「明日やるのか?」
「そのつもりだ」
煙草を踏み潰した。今度は李が近づいてくる。相沢に手を差し出す。
「返してくれないか?」
相沢は手に握ったブローニングを李に渡す。ブローニングを渡された李は腰に差し込んだ。
「帰ってもいいか?」
「さっさと消えろ」
佐藤は李を睨みながら言った。それを気にせず階段を下りていった。
「けっ」
「他に用は?」
無言のまま首を横に振った。階段に向かって歩を進めたが、止まった。
「明日どうする?」
「勿論行くさ」
即答だった。それを聞いて再び階段に向かった。