その五
「こんにちは」先に声を掛けたのは礼似からだった。
「あら、どなたか一瞬解りませんでしたわ」
由美が戸惑ったのは、礼似がトレーニングスーツを着て、髪を下していたからだ。
「いつも和服姿でしたものね。今日はお休みですか?」
「ええ、久しぶりにね」
実は御子から華風組の出来ごとの連絡を受け、由美の身を守るために動きやすい服装で後を付けていたのだが。
「だから少し身体を動かしたくて、ジョギングしてたんです。こてつ君とお散歩ですか?」
「ええ、でもなぜかさっき、急に反対方向に走り出して。普段そんなことしないのに。どうしたのかしら?」
「きっと、遊んでもらいたくなったのよね。こてつ君」礼似は笑顔でこてつをなでながら、内心舌を巻いていた。(主人のピンチを見抜いたのかしら?)
こてつは何事にも動じない笑顔を礼似に向けた。
事がここまできた以上、由美から目を離すのは危険だ。自分は麗愛会の人間だが、由美の身を守るのがもともとの指令であったはず。しかし、こてつが意外なほど由美のボディガードの役目をしているのは正直助かった。勇治が出くわしたのは全くの誤算だったが。
礼似がそんな事を考えている時、由美の方は礼似の若々しい姿に驚いていた。
和服の時は自分とそう変わらない年周りに見えたが、軽快な服装の彼女は随分若やいで見える。実際礼似は若い時から華やかな美人で、今もあまり年齢が解りにくい印象をもたらしている。
そこに感心していたのは実は由美だけではなかった。勇治も同じことを考えていた。
仲居姿の礼似と呼ばれていた女。今日は別人のようだった。
男たちを次々倒すあの機敏な動きは彼女を一層美しく見せていた。助けられた恩だけではなく勇治は彼女に魅了されてしまった。
たこ焼き屋に連れ帰られ、腕の手当てをするハルオに勇治は尋ねた。
「あの……礼似さんとかいう人はどういう人なんです?」
「お、お前には、か、関係ない人だ」ハルオはむっつりした。
「だって俺を助けてくれたじゃないですか」勇治は食い下がったが_ハルオは頑として黙り込むばかりで、結局彼女の事は何も分からない。何故自分を助けたのか、自分がここにいるのは、彼女の意志なんじゃないかと、勇治は気になって仕方がなかった。
一方ハルオは勇治の様子に不安を覚えていた。ひょっとすると勇治は礼似が自分の母親だと気付いたのではないだろうか?親子の情は薄くても、特有の勘が働くと言う事があるかもしれない。これはますます、礼似さんと会わせない方がいいかもしれない。ハルオは一層勇治の行動に注意を向けた。それが、勇治の執着心を一層煽るとも思わずに。
それ以来勇治の頭の中は、常に礼似の事でいっぱいになってしまった。ハルオが不意に口を滑らせるのではないかと、四六時中礼似の事を聞き続けた。これにはハルオも閉口してしまい、ついに良平に相談した。
「れ、礼似さんには、じ、事情があるだろうが、お、思い切って、ふ、二人を合わせてみたら、ど、どうだろう?」
「今度の件はいろんな事が絡み合っているようだ。俺達が勝手に判断しない方がいいだろう」
良平は冷静だ。
「し、しかし、じ、実の親子が、だ、騙し合ったままってのも、へ、変だと思うが」
その時扉が開き勇治が叫んだ。
「実の親子だって!」
勇治はその場で真っ青になった。
「お、お前、た、立ち聞きしてやがったのか」
ハルオが驚いて勇治を見ると、勇治は力が抜けたようにひざをガックリとついた。
「それで俺の命を守っていてくれたのか」
勇治の殊勝な言葉にハルオは安心した。
「そ、そうさ、お、親の愛情は、い、何時まで経っても変わらないものさ。こ、これで礼似さんを、ゆ、許してやれねえか? き、きっと喜ぶぞ」
ハルオはにこやかに促すが、勇治にとってはそれどころではなかった。
これは思慕の情だったのだろうか?とてもそうは思えない。頭に浮かぶ礼似の姿はきりりとした美しい横顔。身をかわす時にひねった体のライン。枝を振り回す、細く長い腕の美しさ。長い脚から腰にかけての曲線……勇治は赤くなったり青くなったりを繰り返しながらも考えた。
今、否定的な言葉を出すと彼女に会えなくなる。 自信は無いが、何とか彼女を母親と思おう。そうすれば彼女とつながりが保てるだろう。
「許すも何も、あの人は俺の命の恩人です。礼を言う事はあっても、恨む気なんかない。急に母親だと言われても、すぐにはピンとこないが、感謝しているよ」
良平は勇治の顔色を見て、ひどく違和感を感じていたが、ハルオはこの言葉を聞いて大いに喜んだ。
「そ、それなら良かった。じ、実の親を怨むのは、さ、最悪の親不孝だ。お、お前がそういう気持ちなら、き、きっと礼似さんに、つ、通じるだろう」ハルオは満足げにうなずいた。
勇治が飛んだ勘違いで身をもんでいるとは知りもしない礼似は、今日も由美の散歩の後を付けていた。
あの騒ぎがもとで、ついにこてつ組の会長も由美の周りの警備を厳しく言いつけた。
証拠が甘く実態もつかめないまま麗愛会に因縁はつけられないが、実際由美の身が危険なのは確かだ。
由美がらみで事を荒立てたくない会長は、実情を知りつつ由美に不信がられずに近づける礼似に、由美を見守るよう指図したのだ。
あれ以来由美の散歩にはタエが必ず同行し、そのあとを礼似がつけていく事になった。もちろんこてつ家の周辺は組員がそれとなく見回っている。
だが由美は何も知らずに散歩の遠出を楽しむ事が多い上、緑が多いが人気の少ない場所へ向かう事も多いので、タエや礼似は常に緊張を緩めず周囲を警戒していた。
今日も由美はタエと散歩を楽しんでいたが……
「タエさん」
「何でしょう、奥様?」由美がこてつのリードをひいて歩調を遅くした。
「タエさんは何を悩んでいるのか解らないけどそんなにピリピリしていたら身体によくないわ。少し休暇を取ったらどうかしら?」
タエは驚いて否定した
「悩み事なんてありませんよ。それに休暇なんていりませんし。奥様のそばが私の一番安らぐ場所です」 しかし由美ははっきり言った。
「ううん。何か悩んでる。困っている事があるんでしょう? でも私に言いだせない事なら、私には何もできない事なのね? それに最近家の雰囲気がおかしいわ。主人の仕事の事なら私は口を出せないけど、タエさんは別の事で悩んでいるわ。私にはわかるの」まるで全てを見通したような口調だ。
タエは内心の動揺を隠しながら「何でもない」と言い通した。今、自分が由美のそばを離れたら本当に何があるか分からない。しかも事の発端は勇治がつまらない事に加担して、こてつ組を追いこもうとしたのが原因だ。
「奥様は自分が守らないと」
そんな気の張りが由美に伝わってしまった様だ。
由美は身をかがめてこてつに向き合った。
「ねえこてつ、タエさんは少し辛そうよね。お前にも解るよね」
するとこてつは由美のリードをひいて歩きだした。
「こてつ? 何処に行きたいの?」
由美とタエはこてつにひかれて歩きだす。礼似も後を付けた。こてつはあのたこ焼き屋へやって来た。 こてつは店先で急に駆け出しリードを握る由美の手を振りほどくと、店の裏手へと入って行った。
そこにはゴミの始末をしながらため息をつき続ける勇治の姿があった。こてつが近づいてくるのに勇治は気が付いた。
「お前、なんでこんな所にいるんだ?」
後を追って由美とタエがやって来た。勇治にとっては常連客の二人である。
「こてつ、ダメじゃないの」
こてつに話しかける由美に勇治は聞いた。
「この犬は奥さんの飼い犬ですか?」由美がうなずくと
「しかることないですよ。こいつ俺に気が付いてここへ来たんだろう。お前は俺が参っている時に現れるんだな。不思議なやつだ」
そう言って勇治がこてつをなでていると、こてつが突然威嚇するような唸り声を出した。
見ると向こうから男が近づいてくる。この間由美を襲った連中だ。
「これはいい具合に二人揃ってくれてるな。手間が省けた」
勇治が身構えて言った。
「この間と一緒にすんなよ。虫の居所が悪いんだ」
勇治は手近な相手をいきなり殴りつけた。他の男が由美の方へ向かって行く。タエが思わず立ちはだかろうとすると、建物の蔭から礼似が顔を出す。
「あんたらも懲りないわね」
それを見た男達は一瞬ひるんだが、
「いつも同じメンツだと思うなよ」と、さらに三人もの男が顔を見せた。
「今度はどうしてもしくじれないんでね。堅気をかばって八対二じゃ勝ち目はないぞ」
男達が距離を詰めてきた。