偽聖女なので雨は降らせられません。でも明日の雨なら分かります
雨は、降らなかった。
王都の大広場を埋め尽くした人々が、そろって空を見上げている。雲ひとつない青空だった。夏の日差しは容赦なく石畳を焼き、祭壇の前に跪くフィオナの額から汗が一筋流れ落ちる。
「聖女フィオナよ。女神に祈り、乾いた大地に恵みの雨を」
大司祭の声に促され、フィオナはもう一度目を閉じた。
祈り方が悪いのかもしれない。心が足りないのかもしれない。そう言われ続けて半年になる。
だから何度も祈った。朝も夜も祈った。誰もいない礼拝堂で膝が痛くなるまで祈ったし、水を断つ修行もした。王都周辺では春から雨が少なく、農民たちは空を見上げるたびに顔を曇らせている。その期待が自分ひとりの肩に載せられていると思えば、やらないという選択肢はなかった。
けれど、フィオナは知っている。
雨は祈ったから降るものではない。
前世の彼女は気象予報士だった。
大気が動き、水蒸気が運ばれ、雲が育つ。雨が降るまでには理由がある。もちろん今いる世界には魔法があり、前世の常識だけでは説明できない現象も多い。それでも、半年間何度祈っても一滴も落ちてこなかった事実だけは変わらない。
自分は聖女ではない。
そう思っていたフィオナの予想は、三日後に証明された。
北部の小さな村で保護された少女リリアが、神殿へ連れてこられたのである。
彼女が祭壇の前で両手を組んだ途端、晴れていた空に雲が湧いた。
最初の一滴がフィオナの頬を打ったとき、不思議と悔しさはなかった。
「ああ」
むしろ、ほっとした。
本当にいたのだ。
自分の代わりに雨を降らせられる人が。
雨脚はたちまち強くなった。半年間フィオナの祈りには沈黙を返し続けた空から、馬車の屋根を叩くほどの雨が降り注ぐ。人々は歓声を上げ、泣きながらリリアに手を伸ばした。
フィオナも笑った。
これで終わる。ようやく自分は、できもしない奇跡を求められる日々から解放される。
甘かった。
「フィオナ・エルヴァート。偽りの聖女として王家を欺いた罪、本来ならば厳罰に処すところだ」
翌日の王宮で、婚約者だった王太子レオンハルトはそう言った。
「お待ちください、殿下。フィオナ様は自ら聖女を名乗ったわけではありません」
横から声を上げたのは、本物の聖女リリアだった。昨日まで農村で暮らしていた少女には不似合いなドレスを着せられ、青ざめた顔でフィオナを見ている。
フィオナは小さく首を振った。
「ありがとう、リリア。いいのよ」
「でも……」
神殿が選んだ。王家が認めた。フィオナ自身は最初から、自分に雨を呼ぶ力があるなどと言ったことはない。けれど、そんな理屈が政治の場でどれほど役に立つかくらいは分かっていた。
半年も偽の聖女をありがたがっていたなどと、王家も神殿も認めたくはないのだ。
ならば、間違っていたのはフィオナひとりということにすればいい。
「よって聖女としての地位を剥奪する。また、私との婚約も本日をもって解消する」
「承知しました」
即答すると、なぜかレオンハルトの眉が動いた。
「……随分とあっさりしているな」
「殿下には本物の聖女がおられますので」
嫌味ではなく事実を言ったのだが、リリアがものすごい勢いでこちらを向いた。
「わ、私は殿下と結婚なんてしません!」
「リリア」
「だって昨日会ったばかりですよ!?」
その通りだ、とフィオナも思う。
レオンハルトが咳払いした。
「婚姻については後日改めて話す。今はフィオナの処遇だ」
どうやら本人の意思は後回しらしい。
結局フィオナは王都を離れることになった。名目は療養。実際には追放に近い。
行き先は王国西端、ヴァレイン辺境伯領。王都から馬車で十日ほどかかる海沿いの土地だった。
フィオナはさほど落ち込まなかった。
王太子との結婚に未練がなかったわけではない。ただ、それ以上に、もう大勢の前で空へ向かって祈らなくていいという安心の方が大きかった。
雨を降らせられない人間に、雨を降らせろと言われ続けるのは、想像以上に苦しい。
だから辺境へ向かう馬車の窓から久しぶりに好きなだけ空を眺められたとき、フィオナは少しだけ自由になった気がした。
ヴァレイン領へ到着した日は、よく晴れていた。
「フィオナ・エルヴァート嬢だな」
城門まで迎えに来た辺境伯アルノー・ヴァレインは、思っていたより若かった。二十六歳だと聞いている。日に焼けた肌と短い黒髪、飾り気のない濃紺の上着。王都の貴族とはずいぶん雰囲気が違う。
「長旅ご苦労だった。俺がアルノーだ」
「このたびはお世話になります」
「世話というほどのことはしない。部屋と食事は用意するが、王都へ帰るまで好きに過ごしてくれればいい」
気を遣っているのか、単に興味がないのか分からない。
フィオナとしてはありがたかった。
ただ、町を通ったときに人々から向けられる視線には、少しだけ胸が痛んだ。
「あれが偽聖女か」
「雨ひとつ降らせられなかったって?」
聞こえないふりをした。
この地方も雨が少ないらしい。城へ向かう道沿いの畑はところどころ土が白く乾き、井戸には水を待つ列ができていた。
「ヴァレインも干ばつなんですか?」
「干ばつというほどじゃない。今年は例年より雨が少ない。農家は困っているがな」
「そうですか」
城へ着く前、馬車は港の近くを通った。
そこでフィオナは窓から身を乗り出した。
「止めてください」
御者が驚いて手綱を引く。
フィオナは馬車を降り、港まで歩いた。海の上にはまだ青空が広がっている。漁師たちが網を干し、商人が木箱を荷車へ積んでいる。見たところ、雨に備えている者はいない。
けれど、西の空に高く薄い雲が伸び始めていた。
鳥の羽のような雲。
フィオナはしばらく眺め、それから頬を撫でる風を確かめた。
「何をしている?」
いつの間にかアルノーが隣へ来ていた。
「空を見ています」
「それは見れば分かる」
思ったより容赦がない。
フィオナは西の空を指差した。
「雨が来ます」
アルノーも見上げる。
「降っていないが」
「今ではありません。明日です」
「明日?」
「昼過ぎから。長くは続かないと思いますけど、一度かなり強く降ります」
アルノーが初めて、まともにフィオナの顔を見た。
「聖女の力か?」
「いいえ」
フィオナは苦笑した。
「私は偽聖女なので、雨は降らせられません。でも、明日の雨なら分かります」
言ってから、ずいぶん妙なことを口走ったと思った。
ところがアルノーは笑わなかった。
「なぜ分かる?」
「雲です。それに風も」
「詳しく」
フィオナは少し驚き、それから説明した。西から湿った空気が入っていること。高いところに見える薄い雲が少しずつ厚くなっていること。上空と地上で風向きが違うこと。このままなら明日の午後、天気が崩れる可能性が高い。
専門用語は避けた。前世と同じ大気の仕組みなのか、まだ完全には確信できないからだ。
アルノーは最後まで黙って聞いていた。
「どのくらい自信がある?」
「七割くらいです」
「十割じゃないのか」
「天気に十割はありません」
間髪入れず答えると、アルノーの口元がわずかに上がった。
「気に入った」
「はい?」
「十割だと言われたら信用しなかった」
アルノーは港を振り返った。
「雨が降った場合、困るのは干している穀物と積み荷か。早めに片づけさせても、大した損にはならないな」
その日のうちに、辺境伯の命令で港と町へ通達が出た。
明日の午後、雨の可能性あり。
人々は半信半疑だった。むしろ「偽聖女がまた雨を降らせるつもりらしい」と誤解している者もいた。
翌日は朝から快晴だった。
昼になっても晴れている。
フィオナは城の窓から空を見上げながら、胃が痛くなってきた。
「降らなかったらどうしよう……」
別に誰かを騙したわけではない。可能性が高いと言っただけだ。それでも前世の記憶が嫌でも蘇る。
『晴れって言ってたのに雨降ったぞ』
『予報士なんて適当なこと言って金もらえるんだから楽だよな』
台風の進路予報が少しずれただけで、会社へ苦情が入ったこともあった。
窓の外では、まだ人々が普通に歩いている。
午後の鐘が鳴った。
フィオナは空を見る。
雲の底が暗くなっていた。
「来る」
一陣の風が窓を揺らした。
ぽつり。
庭の石畳に黒い点ができた。
二つ、三つと増えていき、次の瞬間には屋根を叩くほどの雨になった。
「降った!」
城の下で誰かが叫んでいる。
フィオナは思わず窓を開けた。
湿った風と雨の匂いが部屋へ吹き込んでくる。
港では事前に荷物を片づけていたため、大きな混乱はなかった。農家も干していた麦を午前中に取り込んでいる。
廊下から足音がして、アルノーが現れた。
「当たったな」
「はい」
フィオナは顔が緩むのを抑えられなかった。
「でも私が降らせたわけじゃありませんからね」
「分かっている」
アルノーは窓の向こうを見た。
「次も分かるか?」
「観測を続ければ、たぶん」
「何がいる?」
思いもよらない質問だった。
「……紙と、筆記具を」
「それだけか?」
「最初は」
こうしてフィオナは、ヴァレイン領の天気を記録し始めた。
毎朝、日の出より少し前に城の屋上へ上がる。空の様子、雲、風向き、体感できる湿り気。雨が降れば始まった時刻と終わった時刻を書き留める。正確な温度計も気圧計もない以上、前世ほどの精度は出せない。それでも記録が増えるほど、この土地特有の癖が少しずつ見えてきた。
意外だったのは、漁師たちの知識が非常に役に立ったことだ。
「沖の雲があの形になると、夜には風が強くなる」
「山が妙に近く見える日は雨になることが多い」
「海鳥が早く戻ってくる日は船を出さねえ方がいい」
最初はフィオナを偽聖女と呼んでいた老人たちも、質問すると惜しみなく教えてくれた。
フィオナはそれを一つずつ帳面に書いた。
「そんな迷信まで記録するのか?」
アルノーが聞いた。
「迷信かどうかは、確認してから決めます」
「なるほど」
いつからか彼も毎朝屋上へ来るようになった。
最初は領主として必要だからと言っていたが、観測が終わるまで隣に立ち、フィオナが帳面を書く間も帰らない。最近では雲を見上げて「今日は昨日より高いところの雲が速いな」などと言い始めた。
「随分詳しくなりましたね」
「毎日聞かされていれば覚える」
「聞かせてほしいと言ったのはアルノー様ですよ」
「そうだったか?」
とぼける顔が少しおかしくて、フィオナは笑った。
町の広場には、アルノーの提案で一枚の大きな板が置かれた。
『本日 晴れ。夕方から雲が増える見込み。明日 午前中は曇り。午後、一時雨の可能性』
最初は誰も見なかった。
そのうち農家が立ち止まるようになった。次に漁師、商人、洗濯物を干す主婦たちも見るようになった。
「フィオナ様、明日の朝は晴れるかい?」
「朝市に野菜を持っていきたいんだが」
「明日の午後は雨の可能性が高いです。朝なら大丈夫だと思います」
「じゃあ早めに出るか」
そんな会話が増えた。
前世でもフィオナは、予報そのものより、その先にある暮らしを想像するのが好きだった。
明日晴れると伝えれば、誰かが洗濯をする。
雨が来ると伝えれば、誰かが傘を持って出る。
大雪になると伝えれば、誰かが予定を変えて家にいる。
予報は未来を変えない。ただ、未来が来る前に少しだけ準備する時間をくれる。
自分が好きだった仕事を、フィオナはようやく思い出していた。
順調すぎたのかもしれない。
一月ほど経ったころ、フィオナは翌日の夕方に雨が降ると予報した。
農家は予定を変え、商人は商品を早めに倉庫へ運んだ。
しかし雨は降らなかった。
夕暮れになっても、空は曇ったままだった。
「外した……」
フィオナは自室の机に座り、帳面を見つめていた。
予想より北からの乾いた風が強く入った。それで雨雲が沿岸まで届かなかったのだろう。
原因は推測できる。
それでも胸の奥に、懐かしい嫌な感覚が戻ってきた。
偽聖女。
雨ひとつ降らせられない。
自分の中ではとうに終わったはずの言葉が、妙に鮮明に蘇る。
「フィオナ」
扉が叩かれた。
アルノーだった。
「……外しました」
「そうだな」
慰めくらい言ってくれてもいいのに。
「怒らないんですか?」
「誰に?」
「私にです」
「なぜ俺が?」
「だって、領民に予定を変えさせました」
アルノーは不思議そうに眉を寄せ、それから机の上の帳面を手に取った。
「予報は絶対ではないと、最初に言っていただろう」
「それはそうですけど……」
「で、なぜ外れた?」
フィオナは顔を上げた。
「北から乾いた風が予想以上に強くなったんだと思います。雲はできていました。でも、こちらまで届かなかった」
「なら、それを書け」
「え?」
「外れた理由が分かったなら記録しておけばいい。次に同じ風が来たとき、判断材料が増える」
アルノーは机の上に帳面を戻した。
「一度外れたらやめる仕事なのか?」
答えは決まっている。
「……いいえ」
「なら問題ない」
あまりにも簡単に言う。
フィオナはしばらく黙っていたが、ふっと笑ってしまった。
「アルノー様って、優しいんだか冷たいんだか分かりませんね」
「慰めてほしかったのか?」
「少しくらいは」
「そうか。では」
アルノーは考え込んだ。
「次は当たるといいな」
「下手ですね」
「慣れていない」
今度は声を上げて笑った。
それから三週間後、フィオナは海を見ていて胸騒ぎを覚えた。
朝から空は晴れている。風も弱い。
それなのに、港の外では妙に大きなうねりが続いていた。
「風もないのに波が高いな」
横にいたアルノーも気づいたらしい。
「遠くで海が荒れているのかもしれません」
フィオナは空を見上げた。
高いところに薄い雲が伸びている。流れが異様に速い。
嫌な感じがした。
港へ降り、古参の漁師たちにも話を聞いた。
「このうねりは気味が悪い」
「昔、でかい嵐が来る前にも似た波があった気がするな」
「でも、この辺りじゃこの季節にそこまで荒れることは滅多にねえぞ」
城へ戻ったフィオナは、それまでの記録を何度も見直した。
材料は少ない。
前世なら衛星画像も天気図もある。気圧配置も分かる。
今は空と海と風、それに人々の経験だけ。
それでも、無視していい兆候ではなかった。
「三日後」
執務室に集まったアルノーと家臣たちを前に、フィオナは言った。
「この辺りに大きな嵐が来る可能性があります」
部屋が静かになった。
三日後には、隣国へ向けて六隻の大型商船が出港する予定だった。冬を越すために必要な交易品を運ぶ重要な船団である。
財務官が顔をしかめた。
「確かなのですか?」
「確かではありません」
「では、出航を止めるわけにはいきません。延期すれば契約違反になります」
「分かっています」
「前回は雨の予報を外したではありませんか」
胸に刺さった。
それでもフィオナは頷いた。
「はい。外しました」
誤魔化してはいけない。
「今回も外れるかもしれません」
「ならば――」
「でも、もし当たった場合、沖に出ている船はどうなりますか?」
財務官が黙った。
フィオナはアルノーを見た。
「私を信じないでください」
「何?」
「私が元聖女だからでも、これまで何度か予報を当てたからでもありません。海のうねり、雲、風、それから漁師たちの話を見て決めてください。嵐が来ると断言することはできません。でも、来た場合の被害が大きすぎます」
しばらく誰も喋らなかった。
アルノーは窓の外へ目を向けた。
「船団の出航を五日延期する」
「閣下!」
「契約先には俺の名で謝罪を送れ。違約金が出るなら領主家が持つ」
「しかし、何も起こらなかった場合は――」
「俺が判断した。フィオナのせいにはするな」
その場で命令が下った。
船を港の奥へ移し、漁船にも三日後の出漁を控えるよう通達する。低い土地の倉庫から荷物を移動させ、排水路を掃除する。屋根や柵も補強した。
町では不満も出た。
空は晴れているのだ。
二日目も晴れた。
三日目の朝になっても、まだ青空が見えていた。
フィオナは城の屋上に立ち、冷たくなった指を握りしめていた。
「外れたかもしれません」
「かもしれないな」
アルノーはいつもと同じ調子だった。
「莫大な損が出ますよ」
「その可能性もある」
「怖くないんですか?」
「怖いさ」
意外な答えだった。
アルノーは海を眺めた。
「領主の判断ひとつで何百人もの生活が変わる。怖くないわけがない」
「なら、どうして……」
「怖いから材料を集める。集めた材料を見て決める。それ以上のことはできん」
フィオナは何も言えなかった。
夕方、風向きが変わった。
夜半には窓が鳴り始めた。
そして日付が変わる頃、嵐が来た。
フィオナの記憶にあるどんな台風にも負けないような暴風だった。
雨が壁のように城を叩き、木々が大きくしなる。港には何度も高波が押し寄せた。もし船団が出ていれば、逃げ帰ることさえ難しかっただろう。
けれど町は準備を終えていた。
船は港の奥へ避難している。荷物は高い倉庫へ移した。排水路も開いていた。農家は家畜を安全な場所へ移し、漁師は全員陸にいる。
フィオナは窓から荒れ狂う雨を見つめた。
「私、何もしていないんですね」
隣にいたアルノーが怪訝そうにこちらを見る。
「これだけの雨なのに、止められない。風も止められません」
「だから?」
「本物の聖女なら、もしかすると……」
「聖女なら嵐を止められたかもしれないな」
胸が少し痛んだ。
だが、アルノーは続けた。
「君は三日前に、全員を家へ帰した」
フィオナは顔を上げた。
「俺にはそっちの方がありがたい」
外では相変わらず風が唸っている。
何も止まっていない。
嵐は嵐のまま通り過ぎていく。
それでも、フィオナの中で半年間降り続いていた冷たい雨だけが、その瞬間に止んだような気がした。
翌朝には風が弱まり、昼頃には雲の隙間から青空が見えた。
町の被害はゼロではなかった。屋根が飛んだ家もあり、海沿いの小屋はいくつか壊れた。
死者はいなかった。
行方不明者もいなかった。
港へ行くと、最初の雨予報を笑っていた老漁師がフィオナの前へ来た。
「フィオナ様」
「はい」
「次にまた変な雲が来たら教えてくれ」
偽聖女とは呼ばれなかった。
フィオナは笑って頷いた。
「もちろんです」
嵐から一週間後、王都から二通の手紙が届いた。
一通目は王太子レオンハルトからだった。
ヴァレイン領での功績を王宮も高く評価している。気象に関する知識を王国全土のために活用してほしい。王都への帰還を許可し、王宮顧問として迎える用意がある。
そして最後に、婚約についても再検討してよいと書かれていた。
「再検討」
声に出すと、何だか笑えてきた。
半年間、雨を降らせられない自分には価値がないと言われ続けた。
今度は天気を予測できると知ったら戻ってこいと言う。
フィオナは短い返事を書いた。
『ありがたいお話ですが、辞退いたします』
それだけで十分だった。
もう一通は、リリアからだった。
丁寧だが、ところどころ文字が震えている。
『フィオナ様。勝手にお手紙を送ることをお許しください。ヴァレインで嵐を予測して、多くの方を救ったと聞きました。お願いがあります。私にも、天気の読み方を教えていただけませんか』
フィオナは背筋を伸ばした。
続きを読んで、理由が分かった。
リリアは今も雨を求められ続けている。
彼女は確かに雨を呼べる。しかし奇跡を使うたびにひどく疲れ、何度も続けると数日寝込んでしまうらしい。
『三日後に自然に雨が降ると分かっていれば、今日、奇跡を使わなくてもいいのだと思います。雨が降りやすい日に祈れば、もっと少ない力で済むのかもしれません。私は雨を降らせることしかできません。だからフィオナ様の知識を貸してください』
しばらく手紙を見つめてから、フィオナは笑った。
机に新しい紙を広げる。
『もちろんです』
そこまで書き、少し考えて続けた。
『まず毎日、同じ時間に空を見るところから始めましょう』
それから一年。
ヴァレイン領では、朝になると町の広場に今日と明日の天気が書かれるのが当たり前になった。
王都にも簡単な観測所が作られ、リリアの奇跡が使われる回数は大きく減ったという。各地の港や農村から届く記録も増えつつある。
フィオナは相変わらず、日の出前に城の屋上へ上がった。
ただし最近は一人ではない。
「今日は西風が昨日より強いな」
隣でアルノーが空を見上げた。
「正解です。よく分かるようになりましたね」
「毎朝付き合わされているからな」
「自分から来ているじゃないですか」
「そうだったか」
「一年間毎日ですよ」
アルノーは返事をせず、手にしていた記録帳へ風向きを書き込んだ。
フィオナは東の空を見る。
朝焼けの中に薄い雲がある。
「明日は?」
アルノーが聞いた。
「晴れです。夕方から少し雲が増えますけど、雨にはならないと思います」
「その次は?」
「まだ何とも」
「一月後は?」
「分かりません」
「一年後は?」
フィオナは笑った。
「そんな先まで分かったら、気象予報士じゃなくて予言者ですよ」
「そうか」
アルノーは妙に真面目な顔で頷いた。
「なら、一日ずつ知っていけばいい」
「はい?」
「君の隣で」
一瞬、意味が分からなかった。
アルノーが懐から小さな箱を取り出す。
中に指輪が入っている。
「フィオナ。俺と結婚してくれ」
朝の冷たい風が頬を撫でた。
フィオナは指輪とアルノーの顔を交互に見た。
「……急ですね」
「一年待った」
「そういう意味ではなくて」
「嫌か?」
「嫌ではありません」
口にすると、自分でも驚くほど簡単だった。
アルノーが少しだけ安堵した顔になる。
フィオナは空を見上げた。
「でも、未来は分かりませんよ」
「知っている」
「一年先に何が起こるかも、十年先も」
「それでいい」
アルノーはフィオナの左手を取った。
「明日の雨が分かるんだろう?」
「それくらいなら」
「十分だ」
指輪が薬指にはまる。
不思議なくらい馴染んだ。
未来のすべてを知ることなんてできない。
前世でもそうだった。どれだけ技術が進んでも、予報には必ず不確実さが残る。まして、人の人生ならなおさらだ。
けれど人は、未来を全部知らなくても生きていける。
明日雨が降ると分かったなら、今日のうちに洗濯物を取り込めばいい。
嵐が来ると分かったなら、船を港へ戻せばいい。
そして明日が晴れるなら、好きな人とどこへ行こうか考えることもできる。
「ところで、フィオナ」
「はい?」
「明日は晴れだったな」
「そう言いましたけど」
「なら町へ行こう。昼を食べる店を探したい」
「仕事は?」
「明日の分まで今日やる」
フィオナは吹き出した。
「ずいぶん予報の使い方が上手になりましたね」
「先生がいいからな」
朝日が海の上へ昇っていく。
昔のフィオナは、雨を降らせることができなかった。
そのせいで偽物と呼ばれた。
今でも雨を降らせることはできないし、この先もきっとできない。
でも、それでいい。
私は雨を降らせられない。
けれど、明日の雨なら分かる。
そして明日もきっと、この人と一緒に空を見上げている。
最後まで読んで頂きありがとうございます!
作者のペンギンの搾り汁(Tiho)です。
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