「婚約破棄されましたので、お持ちしたフォークは返していただきますわ」〜たかがフォーク一本と笑った王太子殿下、それは王家の命運を握る神器でした〜
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプト。本日をもって、お前との婚約を破棄する」
王太子エドワードの声が、満場の貴族たちに響き渡った。
シャンデリアの光が降り注ぐ大広間。数百の視線が、私に突き刺さる。
(あー、やっぱりこうなったか)
内心でため息をつきながら、私は伏し目がちに立ち尽くしていた。淡い亜麻色の髪は艶がなく、血色の悪い肌。侍女たちが陰で「枯れた花」と呼ぶ、地味な公爵令嬢。それが今の私だ。
「五年だ。五年も待ってやったというのに、お前は何一つ変わらなかった」
エドワードは金髪を揺らし、嘲るように続ける。碧眼には傲慢さが滲み、口元には薄い笑み。
「退屈な女だ。会話も、笑顔も、何もかもが色褪せている」
(退屈ね。ええ、そうでしょうとも)
五年間、一度も不満を口にしなかった。彼の好みに合わせ、彼の機嫌を窺い、彼のために尽くした。その結果がこれだ。
前世の記憶で言うなら——って、あれ?
前世?
頭の片隅で、何かがちらつく。試食会。レシピ開発。テレビ収録。
(……なんだっけ、この感覚)
まあいい。今はそれどころではない。
「そこで、新たな婚約者を紹介しよう」
エドワードが手を差し伸べた先には、蜂蜜色の巻き毛を揺らす少女がいた。
「アメリア・スターリング。お前の義妹だ」
アメリアは大きな翡翠の瞳を潤ませ、私を見上げた。ふっくらとした頬に愛らしいえくぼ。男性の庇護欲を刺激する、小動物のような可憐さ。
「お、お姉様……申し訳ございません……私、殿下のお心を……」
涙声で俯くアメリア。しかし、私は知っている。
彼女の目が、笑っていないことを。
(この子、私の恋文を偽造しようとしたり、母上への薬湯を横取りしたり、散々やってくれたわよね)
「お姉様は私を虐めるんです」と、エドワードに嘘の涙で訴え続けた義妹。私が五年間黙って耐えてきた理由の一つが、この少女だった。
貴族たちがざわめく。同情、嘲笑、好奇の視線。
私は静かに息を吸い、口を開いた。
「承知いたしました」
短く、穏やかに。
エドワードが一瞬、面食らったような顔をした。泣き喚くか、縋りつくか、そういう反応を期待していたのだろう。
(残念でした。私、もう五年前から心の準備はできてるんですよ)
「では、一つだけお願いがございます」
私は会場の中央に設えられた晩餐のテーブルへ視線を向けた。
銀の食器が並ぶ中、一本だけ異質なものがある。
古びた銀のフォーク。
他の煌びやかな食器に比べれば、みすぼらしいとすら言える代物。しかしそれは、私が婚約時に持参したものだった。
「私が持参したものはお返しいただけますね」
指先でフォークを示す。
エドワードは鼻で笑った。
「たかがフォーク一本、くれてやればいいものを」
その言葉に、私は静かに微笑んだ。
(ええ、たかがフォーク。あなたにとっては、ね)
「お心遣い、感謝いたします。では、頂戴いたしますわ」
私がテーブルに歩み寄り、フォークに手を伸ばした瞬間——
古びた銀が、黄金の光を放った。
「なっ……!?」
光は私の指先から腕へ、全身へと広がっていく。
同時に、頭の中で何かが弾けた。
——レシピ。食材。火加減。味の記憶。
前世の記憶。日本で料理研究家として生きた、三十二年間の全て。
(そうだ、私は……)
光の中で、もう一つの真実が流れ込んでくる。
このフォークは、公爵家に代々伝わる『神託の食器』。王家の正統な後継者にのみ反応し、毒を浄化し、食したものに祝福を与える神器。
そして私は——失われた古王家の血を引く者。
光が収まった時、大広間は静まり返っていた。
私は自分の手を見下ろした。
黄金に輝くフォーク。そして、鏡のように磨かれた銀の表面に映る私の姿。
淡い亜麻色だった髪には、蜂蜜のような金色の光沢が戻っていた。伏し目がちだった灰青色の瞳は、澄んだ空色に輝いている。
「な、何だ……今のは……」
エドワードの顔から血の気が引いていた。
私は背筋を伸ばし、凛とした笑みを浮かべた。
「お騒がせいたしました、殿下」
フォークを握りしめ、踵を返す。
「待て! そのフォークは——」
「私が持参したものですわ。先ほど、殿下ご自身がお返しくださると仰いましたよね?」
振り返らずに答える。
「それでは皆様、ごきげんよう」
大広間を後にする私の背中に、エドワードの叫びが追いかけてきた。
「待てと言っている! リーゼロッテ!」
(もう遅いですよ、殿下)
私は微笑んだ。誰にも見えない、静かな笑みを。
五年間の「承知いたしました」は、今日で終わり。
これからの「承知いたしました」は——決別の言葉だ。
◇ ◇ ◇
屋敷に戻った私を待っていたのは、銀髪を堅く結い上げた老女だった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
筆頭侍女、マルガレーテ・ホルン。四十年公爵家に仕え、私の母の代から傍にいてくれた人。
彼女の厳格な顔が、今夜は微かに緩んでいた。
「マルガレーテ。知っていたの? このフォークのことを」
私は黄金に輝くフォークを掲げた。
老侍女は深く頭を下げた。
「四十年、この時をお待ちしておりました」
「……え?」
「私の一族は代々、神託の食器の『管理者』を務めてまいりました。お嬢様のお母様——先代の奥様にお仕えすることで、神器をお守りしてきたのです」
顔を上げたマルガレーテの目には、深い慈愛があった。
「奥様は、お嬢様が神器の継承者であると確信しておいででした。しかし神器が目覚めるには、継承者自身が『決別』を選ぶ必要があった」
決別。
与えられた運命を受け入れるのではなく、自らの意志で断ち切ること。
(そういうことか……)
五年間、私は耐えていただけだった。諦めていただけだった。
今夜、初めて私は「承知いたしました」を諦めではなく、決断として口にした。だから神器が目覚めた。
「お嬢様。神器は問いかけております」
マルガレーテが静かに告げる。
「その力を、何のためにお使いになりますか?」
私はフォークを見つめた。
前世の記憶が蘇った今、分かることがある。
料理とは、人を生かすもの。癒すもの。幸せにするもの。
(私を必要としてくれなかった人たちのために、この力を使う義理はない)
「マルガレーテ」
「はい」
「私、この屋敷を出るわ」
老侍女は一瞬だけ目を見開き、そして深く頷いた。
「畏まりました。つきましては、先代奥様が遺された地図がございます」
差し出されたのは、古い羊皮紙。
「辺境の領地に、神器が示す場所がございます。そこで、お嬢様は真の力を発揮なさるでしょう」
私は地図を受け取った。
「マルガレーテは……」
「この老いぼれは、こちらに残ります。旦那様と奥様の目を欺く役目がございますゆえ」
厳格な老侍女が、初めて微笑んだように見えた。
「どうかお健やかに。いつか、お嬢様の料理を——この老いぼれにも、一度だけ」
その目に、涙が光っていた。
「……ええ。必ず」
私は彼女の手を握った。
「必ず、また会いましょう」
◇ ◇ ◇
翌朝。
私は最小限の荷物だけを持ち、公爵家を後にした。
誰にも告げず、静かに。
手の中のフォークが、微かに温かく脈打っている。まるで道を示すように。
(さて、新しい人生の始まりね)
前世の料理研究家としての知識と、今世の神器。
この二つがあれば、きっと——
「待たれよ」
背後から声がかかった。
振り返ると、粗末な外套を纏った青年が立っていた。
漆黒の髪に、深い翠緑の瞳。端正だが険のある顔立ち。頬には古傷がある。
一見、傭兵か何かに見える。しかし——
(この所作。隠しきれてないわね、高貴さが)
私は無言で彼を観察した。
「お前が、神器の継承者か」
青年は翠緑の瞳を細めた。
「昨夜の光、遠くからでも見えた。長い間、探していた」
「……あなたは?」
「レオンハルト。今は傭兵をしている」
嘘だ、と直感が告げる。この男は傭兵などではない。
「神器に関する古文書を研究している。お前に、取引を持ちかけたい」
「取引?」
「俺が護衛と情報を提供する。代わりに、お前の料理を食わせろ」
(料理を?)
予想外の要求に、私は目を瞬かせた。
「神器の料理には興味がある。だが、それ以上に——」
レオンハルトは言葉を切り、どこか遠い目をした。
「昔、一度だけ食べた味がある。ずっと探していた」
「……それ、私の料理だったの?」
「さあな。確かめたい」
素っ気ない口調。しかし、その瞳には切実なものがあった。
(変な人。でも、悪い人ではなさそう)
前世の経験上、食にこだわる人間に悪人は少ない。
「いいわ。ついてきたければどうぞ」
私が歩き出すと、レオンハルトは黙ってついてきた。
「行き先は?」
「辺境の領地。そこで食堂を開くつもり」
「食堂? 神器の継承者が、か」
「ええ。私を必要としてくれる人のために、料理を作りたいの」
レオンハルトは少し黙り、それから小さく呟いた。
「……悪くない」
(何その反応。照れてるの?)
内心でツッコミつつ、私は辺境への道を歩き始めた。
新しい人生が、今始まる。
◇ ◇ ◇
辺境の村に着いたのは、旅立ちから二週間後のことだった。
「……ここ?」
荒れ果てた土地。枯れた畑。やせ細った村人たち。
私は思わず立ち尽くした。
「数年前の干ばつと疫病で、この地域は壊滅状態だ」
レオンハルトが淡々と説明する。
「王都からの援助もなく、見捨てられた村だな」
(見捨てられた村……)
前世の記憶が疼く。災害支援で被災地を回った経験。炊き出しで、人々の顔に光が戻る瞬間。
「ここにするわ」
「何?」
「食堂を開くの。ここで」
レオンハルトは眉を顰めた。
「客がいないぞ。金もない村だ」
「最初はお金なんていらない。まず、食べさせるの」
私はフォークを握りしめた。神器が微かに温かく脈打つ。
「神器の力がどこまで使えるか、試してみたい。それに——」
見捨てられた村。見捨てられた私。
「同じ境遇の人を、放っておけないでしょう」
レオンハルトは何か言いかけ、口を閉じた。
そして、ふいに外套を脱いだ。
「……好きにしろ」
「あら、手伝ってくれるの?」
「食堂には厨房がいる。建物の修繕も必要だ。お前一人じゃ無理だろう」
素っ気ない口調だが、すでに袖をまくっている。
(本当に変な人)
でも、悪くない。
三日後。
村の廃屋を改装し、小さな食堂が完成した。
「『銀のフォーク亭』……安直だな」
「分かりやすいでしょう?」
レオンハルトの呆れ顔を無視して、私は厨房に立った。
食材は乏しい。枯れかけた野菜と、痩せた鶏が数羽。
(でも、これだけあれば十分)
前世の知識が囁く。栄養バランス。旨味の引き出し方。限られた食材で最大限の効果を出す方法。
私はフォークを調理台に置き、料理を始めた。
野菜を刻む。水を沸かす。鶏ガラで出汁を取る。
神器が淡く光を放ち、私の手元を照らす。
「いい匂いだ」
レオンハルトが厨房を覗き込んだ。
「味見する?」
差し出したスープを一口飲んだ瞬間、彼の表情が変わった。
「これは……」
翠緑の瞳が大きく見開かれる。
「この味だ。ずっと、探していた——」
「昔食べたっていう?」
「ああ。幼い頃、迷子になった俺を助けてくれた少女がいた。彼女が作ってくれたスープの味」
レオンハルトは私を真っ直ぐに見つめた。
「お前だったのか」
(私? 幼い頃に迷子を……)
記憶を探る。幼少期、母と一緒に辺境の領地を訪れたことがあった。確かに、泣いている男の子に野菜スープを作った覚えが——
「まさか、あの時の男の子?」
「……ああ」
レオンハルトは視線を逸らした。耳が赤い。
「あの味を、ずっと探していた。だから古文書を漁り、神器の継承者を追った」
(つまり、私の料理を食べたくて追いかけてきたってこと?)
なんだそれ。ロマンチックなのか、食い意地が張ってるだけなのか。
「じゃあ、たくさん食べてもらわないとね」
私は笑って、スープを器によそった。
食堂を開いて一週間。
最初は恐る恐るだった村人たちが、今では毎日訪れるようになっていた。
「奥さん、今日もスープを……」
「ああ、待っていたよ。このパンを食べると、体の調子がいいんだ」
「うちの子の咳が止まったんです。あのスープのおかげで……」
神器の力を込めた料理は、病を癒し、体に活力を与えるようだった。
それだけではない。
食堂から出た残飯や野菜くずを畑に撒くと、枯れかけていた土地に緑が戻り始めた。
「これは……神の奇跡だ」
村長が涙を流して、私の手を握った。
「あなた様は、女神様の使いですか」
「いいえ、ただの料理人ですよ」
私は微笑んで答えた。
(でも、悪くない気分ね)
人に必要とされること。感謝されること。
五年間、一度も得られなかったものが、ここにはあった。
「噂が広がっている」
その夜、レオンハルトが言った。
「辺境に奇跡の食堂がある、とな。病を癒し、土地を蘇らせる聖女がいると」
「聖女って……大げさね」
「大げさかどうかは、これから分かる」
レオンハルトは窓の外を見つめた。
「噂は、いずれ王都にも届く。あの王太子の耳にもな」
「……そうね」
分かっている。いつかエドワードは、私を取り戻そうとするだろう。
神器の価値に気づいた時、彼は必ず来る。
「その時は——」
レオンハルトが私を見た。翠緑の瞳が、静かな決意を湛えている。
「俺がお前を守る」
「……ありがとう」
素直に答えると、彼は慌てて視線を逸らした。
「礼を言われることじゃない。お前の料理を食うために、ここにいるだけだ」
(はいはい、素直じゃないんだから)
内心で笑いながら、私は明日の仕込みに取りかかった。
どんな嵐が来ても、もう逃げない。
私には、守りたい場所ができたのだから。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王都では異変が起きていた。
「また倒れただと!?」
王宮の大広間で、エドワードは蒼白な顔で報告を聞いていた。
「はい。先の宴に出席されたゲラルド侯爵が、三日前から床に伏しておいでです。胃の腑を病んでいるとか」
「侯爵だけではありません。ヴェルナー伯爵夫人、カールシュタイン子爵も……」
宴の出席者が、次々と体調を崩している。
共通点は一つ。全員が王宮の料理を口にしていた。
「毒か!? 誰かが毒を盛ったのか!?」
「調べましたが、毒物は検出されませんでした。ただ……」
「ただ?」
侍従が言いにくそうに続けた。
「古い記録によりますと、王家の宴には代々『浄化の神器』が用いられてきたとか。その神器が、毒素を取り除き、食に祝福を与えていたと」
「神器……?」
エドワードの顔が引きつった。
あのフォークだ。リーゼロッテが持ち去った、古びた銀のフォーク。
「まさか、あれが……」
「殿下」
別の侍従が駆け込んできた。
「陛下が……国王陛下が、お倒れになりました!」
国王の寝室には、重苦しい空気が立ち込めていた。
「父上……」
エドワードは青ざめた顔で、病床の父を見下ろしていた。
国王の顔色は土気色で、呼吸も浅い。医師たちが懸命に治療を施しているが、一向に回復の兆しがない。
「これは……呪いの類では」
医師の一人が首を振った。
「いいえ。長年蓄積された微量の毒素が、一気に噴き出したようです。今までは何かが毒を浄化していたのでしょうが、その『何か』が失われた途端——」
神器だ。
リーゼロッテと共に去った、あのフォーク。
「殿下!」
アメリアが駆け寄ってきた。蜂蜜色の髪を揺らし、大きな瞳を潤ませて。
「私が……私がお救いいたします!」
「アメリア?」
「私には聖女の力があるのです! お義姉様が使っていた神器なんて、古臭いものは必要ありません!」
アメリアは自信満々に国王の枕元に立った。
両手を組み、目を閉じ、祈りの言葉を唱える。
「聖なる光よ、この方の病を癒したまえ——」
何も起きなかった。
「……聖なる……光……」
再び祈る。しかし、何の反応もない。
アメリアの額に汗が滲んだ。
「私が……私が聖女ですの! あの古いフォークなんて関係ありませんわ!」
叫びながら、何度も何度も祈りを繰り返す。
だが、奇跡は起きない。
「アメリア……お前、まさか……」
エドワードの目に、初めて疑念の色が浮かんだ。
「嘘……だったのか? 聖女の力があると言っていたのは」
「ち、違いますわ! 今日はたまたま調子が悪いだけで——」
「たまたま? 父上が死にかけているのに?」
エドワードは頭を抱えた。
初めて、事の重大さに気づいたのだ。
あのフォークが、どれほど重要なものだったか。
リーゼロッテが、どれほど貴重な存在だったか。
「連れ戻せ……」
「殿下?」
「リーゼロッテを連れ戻せ! 今すぐにだ!」
◇ ◇ ◇
数日後。
辺境の「銀のフォーク亭」に、二人の来訪者があった。
「リーゼロッテ」
エドワードが立っていた。
豪奢な衣装はそのままだが、顔色は悪く、目の下には隈がある。隣にはアメリアがいた。以前の愛らしさは消え、どこか追い詰められた表情をしている。
「……何の御用でしょうか、殿下」
私は穏やかに尋ねた。
「戻ってきてくれ」
エドワードは単刀直入に言った。
「父上が倒れた。貴族たちも次々と病に伏している。お前の持っている神器が必要なんだ」
「そうですか。それは大変ですわね」
「戻れば許してやる。婚約破棄は取り消しだ。お前を王太子妃として迎えよう」
(許してやる、ですって)
内心で笑いが込み上げた。
この期に及んで、まだ上から目線。全く反省していない。
「申し訳ありませんが」
私は静かに微笑んだ。
「このフォークは『私を必要としてくれる方』のために使うと決めましたの」
「何……?」
「五年間、殿下は一度も私を必要となさらなかった。退屈な女と仰いましたよね。私の料理も、言葉も、何一つ受け入れてくださらなかった」
「それは——」
「今更必要だと言われましても、もう遅いのですわ」
私の傍らに、レオンハルトが立った。
「リーゼロッテは俺たちの仲間だ。お前たちに渡す理由はない」
エドワードの目が見開かれた。
「お前は……隣国の……」
「ゼーゲンライヒ王国第一王子、レオンハルト・アウレリウス・ゼーゲンライヒだ」
隠していた身分を、あっさりと明かすレオンハルト。
「俺はリーゼロッテを我が国に迎えるつもりだ。彼女が望むなら、の話だがな」
「望みますわ」
私は即答した。
「私を必要としてくださる方の傍にいたいのです」
レオンハルトの耳が、また赤くなった。
「バカな……」
エドワードは呆然と呟いた。
「たかがフォーク一本で、これほどのことに……」
「たかがフォーク一本、でしたか」
私は静かに繰り返した。
「殿下ご自身が仰った言葉ですよ。お忘れですか?」
言葉を失うエドワード。
その隣で、アメリアが叫んだ。
「あの女さえいなければ……! あの女さえ……!」
泣き喚く義妹。しかし、もう誰も彼女を庇護しようとはしない。
「お引き取りください、殿下」
私は穏やかに、しかし揺るぎない声で告げた。
「私には、お客様をお待たせしている料理がありますので」
振り返り、厨房へ戻る。
背後で何か叫ぶエドワードの声が聞こえたが、もう振り返らなかった。
◇ ◇ ◇
それから一月後。
辺境の村には、かつての荒廃した面影はなかった。
緑豊かな畑。活気ある市場。笑顔の村人たち。
「銀のフォーク亭」は、今や王国中から人々が訪れる名店になっていた。
「リーゼロッテ」
レオンハルトが厨房に入ってきた。
「客だ。王都から」
「また殿下?」
「いや、今度は使者だ。正式なやつだ」
私は手を止め、エプロンを外した。
食堂には、王家の紋章を付けた騎士が立っていた。
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプト嬢」
騎士は恭しく頭を下げた。
「国王陛下より、召喚状をお届けに参りました」
「召喚状?」
「神器の正統性を審判する儀式を執り行うとのことです。嬢には神器と共にご出席いただきたい、と」
(神器の審判……)
古い文献で読んだことがある。神器は所有者の正統性を示すもの。王家の血を引く者にのみ反応し、不実の者の前では黒く変色するという。
「出席しますわ」
私は頷いた。
「いいのか?」
レオンハルトが眉を顰めた。
「罠かもしれないぞ」
「かもしれないわね。でも——」
私はフォークを見つめた。
「決着をつける時が来たのよ」
王宮の大広間。
数百の貴族たちが見守る中、私は中央に立っていた。
病から回復した国王が玉座に座り、その傍らにはエドワードとアメリアがいる。
エドワードの顔色は、以前にも増して悪かった。この一月で、さらに多くの貴族が病に倒れたと聞く。
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスハウプト」
国王が口を開いた。
「そなたが持つフォークが、神託の食器であるか否か。本日、審判を行う」
「畏まりました」
私は静かに頷いた。
「まず、そなたの神器が本物であることを証明せよ」
私はフォークを掲げた。
瞬間、黄金の光が広間を満たした。
「おお……」
貴族たちがどよめく。
「次に、王家の血を審判する」
国王が告げた。
「神器は、王家の正統な継承者にのみ反応する。エドワード、前へ」
エドワードが進み出た。
「俺が王家の継承者であることを——」
彼が私のフォークに手を伸ばした瞬間。
神器が、漆黒に変色した。
「な……っ」
「これは——」
広間が騒然となった。
黒く変色したフォークは、エドワードの手を避けるように震えている。
「不実……」
国王が呻いた。
「神器が、そなたの不実を示しておる……」
「嘘だ! 俺は王家の血を引いている! 何かの間違いだ!」
「間違いではありませんわ」
私は静かに告げた。
「神器は真実しか示しません。殿下、あなたは王家の正統な血を引いていない」
「馬鹿な!」
「いいえ」
別の声が響いた。
国王だった。その顔は蒼白で、唇が震えている。
「……神器は、正しい」
「父上?」
「エドワードは、私の実子ではない」
広間が凍りついた。
「昔、王妃との間に子ができなかった。跡継ぎを焦った私は、臣下の子を——」
国王は顔を覆った。
「偽りの王子だったのだ。最初から」
エドワードの顔から、完全に血の気が引いた。
「そんな……俺が……偽物……」
「待ってください!」
アメリアが叫んだ。
「私は聖女です! 私がいれば神器なんて——」
「アメリア・スターリング」
私はフォークを彼女に向けた。
神器が、再び黒く輝いた。
「あなたには聖女の力などない。最初から、嘘だったのよ」
「嘘じゃない! 嘘じゃ——」
「神器は嘘をつきません」
私は穏やかに微笑んだ。
「因果応報、という言葉をご存知?」
アメリアは崩れ落ちた。
「あの女さえ……あの女さえいなければ……」
泣き喚く声が、広間に虚しく響いた。
◇ ◇ ◇
審判の後。
国王は私に謁見を求めた。
「リーゼロッテ嬢。そなたこそが、失われた古王家の末裔であった」
「そのようです」
「本来なら、そなたが王位を継ぐべきなのだが——」
「お断りいたします」
私は即答した。
「私にはすでに、行くべき場所がありますので」
傍らに立つレオンハルトを見上げる。
「ゼーゲンライヒ王国で、私を待ってくださる方がいます」
国王は長い沈黙の後、深く頭を下げた。
「……すまなかった。五年間、そなたを蔑ろにしたことを」
「過去のことです」
私は微笑んだ。
「ただ、一つだけお願いがあります」
「何でも言うがよい」
「公爵家の筆頭侍女、マルガレーテ・ホルンを解放してください。彼女を、私の傍に」
「承知した」
数ヶ月後。
ゼーゲンライヒ王国の王宮で、盛大な結婚式が執り行われた。
花嫁は、蜂蜜色の光沢を持つ髪と、澄んだ空色の瞳を持つ女性。
花婿は、漆黒の髪と翠緑の瞳を持つ王子。
「リーゼロッテ」
レオンハルトが、ぎこちなく囁いた。
「俺が欲しいのは神器でも王家の血でもない」
「知ってるわ」
「お前が笑って料理を作れる場所を、守りたかっただけだ」
「それも知ってる」
私は微笑んで、彼の手を握った。
「だから、ここにいるのよ」
傍らには、銀髪の老侍女が涙を流しながら立っている。
「お嬢様……いえ、王妃様……お幸せに……」
「マルガレーテ。約束したでしょう?」
私は老侍女の手を取った。
「今夜、私の料理を振る舞うわ。あなたのために」
一方、残された王国では——
凶作と疫病が蔓延していた。
神器を失った王宮は浄化の力を失い、貴族たちは次々と病に倒れた。
エドワードは廃嫡され、偽王子の汚名を着せられて追放。
アメリアは偽聖女として断罪され、修道院に幽閉。
フェリクス公爵は、実娘を蔑ろにした罪で爵位を剥奪された。
「リーゼロッテを……戻せば……許してやると言ったのに……」
荒野を彷徨うエドワードの呟きは、誰の耳にも届かなかった。
遠く離れたゼーゲンライヒ王国の厨房で、私は新しいレシピを試していた。
「何を作っている?」
レオンハルトが覗き込む。
「新しいスープよ。あなたが好きな野菜スープのアレンジ」
「……楽しみにしている」
素っ気なく言いながら、彼の目は優しかった。
私は笑顔で答えた。
「私を必要としてくださる方のために、この手は使うと決めましたの」
もう二度と、「承知いたしました」を諦めの言葉にはしない。
これからは、愛する人への誓いの言葉として。
黄金のフォークが、祝福の光を放っていた。




