復讐
僕は僕から全てを奪った親友をこの手で殺すことに決めた。それは生きるための誓いであった。完璧な計画を立てて殺意を持って殺し自分事終わらそうと思う。
高校二年の春、彼女ができたとき、世界は踊り出した。名前を呼ばれると胸の奥がきゅうと揺れて、目の前にあるものすべてが、ふいに柔らかくなる。彼女はそういう存在だった。笑うと八重歯がこぼれるような人だった。僕はそれを「全部」にした。青春という大きな台風の中心で、彼女が僕の目に映る世界そのものになった。
窪田は僕たちの交際を心から祝ってくれた。三人で歩く放課後の帰り道、彼はいつも少し離れて足並みを合わせてくれた。けれどそれは足並みを合わせていた訳ではなく全てを隠すためだった。ある夜、教室の隅で見た彼女と窪田の影が、耳に届くはずのない音を出していた。影は交差して、静かに重なり合い、そして離れた。僕はそこで目を閉じた。見なかった振りをすることは、痛みを小さくするための僕の唯一の策略だった。知ってしまったら壊れてしまうと思ったのだ。だから僕は知らないふりをして、彼女とは別れた。卒業証書を手にしたとき、僕の手には何も残っていなかった。彼は僕から全てを奪った。
大学に進学して、復讐の思想は鞄の底で固くなっていった。授業の合間、講義ノートの隙間に計画が忍び込む。簡単な方法を考えた。誘って、飯を食わせて、平然とした顔で最後の一撃を加える。映画で見たような完璧な演出を夢見た。実際の感覚はもっと鈍く、もっと冷たかった。計画を練るほど、心は深い瘡蓋を探るように爪を立てた。
ある日、窪田に会うチャンスが訪れた。連絡先を手繰り寄せ、短いメッセージを送ると彼はすぐに応じた。「久しぶり、飯でもどう?」。返事は軽く、でも確かにあった。指定したのは駅前のファミリーレストラン。僕はその選択をわざと安全な場所にした。人が多ければ、計画は目立たない。だが僕は、人の多さにより安らぎを与えることを計算していた。
当日、彼は以前と変わらない笑顔で現れた。
「元気そうじゃん」
彼は昔と変わらないままそういった。
その変わらない笑顔に苛立ちを覚えた。乾杯をして、最初は当たり障りのない会話をした。大学はどうだ、サークルは何をやってるか、昔の同級生は今どうしているか。僕は返事をしながら、潜めた刃を突き出す絶好のチャンスを伺った。
ふと窪田が口にした。
「そういえばさ、俺、結婚したんだよ」
その言葉は、氷を落としたグラスの音よりも大きく響いた。
「……は?」
思わず問い返すと、彼はスマホを取り出して画面を見せた。そこには、花束を抱えて笑う女性と、その肩に手を置いた彼が写っていた。
「去年。大学の先輩なんだけどさ、すごくいい人でさ、この間子供も妊娠してることがわかって。」
彼は照れくさそうに笑った。あの頃と同じ笑顔で。僕の手のひらはじっとりと汗ばんでいた。喉が焼けるように乾いた。今、ここで殺したらどうなる。
ニュースになり、彼は消える。だが、その先には泣き崩れる妻がいて残される子供がいる。僕が刃を振り下ろせば、その未来を奪うのは僕だ。
復讐は正義ではなかった。
ただのわがまま、ただの自己満足。
「お前も変わらないな」
彼は笑ってそう言った。僕は笑い返せなかった。
時間だけがすぎていく。僕の世界はナイフ一つと彼の言葉で狭くなっていた。
「……そっか。おめでとう」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
僕の中で用意していたシナリオは一行ずつ剥がされていく。殺す行為は、映画のワンシーンのように単独で存在するものではない。誰かの「普通」を削り取るということは、無垢な日常を奪うということだ。僕が想像していた復讐の「相手」ではなかった。
でも怒りは消えない。むしろ、怒りは形を変えた。詰め寄るべき相手は昔の彼で、今の彼らに向けるべきではないという矛盾。僕の中で復讐は自己矛盾を孕んだ怪物になっていた。計画を綴ったノートのページを指で撫でると、そこには血の匂いではなく、鉛筆の芯の匂いが残っていた。思えば、僕は復讐によって自分も終わらせるつもりだった。冷静に見れば、相手を消すことは、自分の怒りを証明するために他人の人生を犠牲にすることに等しい。
食事を終え、立ち上がろうとした時僕の指先に震えが走った。それは恐怖でも、決意でもなかった。ただ、底から湧き上がる底知れぬ疲労だった。復讐は誰のための癒しなのか。自分の心の穴を満たすために他人を切り崩すことが、本当に傷を癒す方法なのか。
会計を済ませ、立ち去る瞬間、彼の影は午後の光の中で長く伸びていった。僕はその伸びた影の端を指で摘まむことも、引き裂くこともできなかった。僕が望んでいたのは彼の生命ではなく、自分の証明だった。それは残酷な虚栄だと気づいたとき、手から力が抜けた。
外に出ると、夕立が帰り道のアスファルトを洗っていた。雨は匂いもなく、ただ世界を薄くしていく。僕は傘を持っていなかった。濡れたシャツが肩に張り付く感触が、目の前の感情を少しずつ削っていく。復讐の欲望が、雨に溶けていくようだったわけではない。むしろ、その重さが体に残り、ただ進むしかないことを教えた。
生きていくことを選んだのは、英雄的な選択ではない。ただ、僕は知っている。誰かを殺すことで過去を消すことはできない。むしろ、死は新しい罪を生む。僕が復讐で得るものは一瞬の優越感かもしれないが、その代償に永遠の孤独を背負う。それは彼らにとっても、僕自身にとっても残酷すぎた。
帰り道、風に混じる商店街の焼き鳥の匂いが、かつての夏休みを思い出させた。笑い声、汗、青い空。僕はそこで初めて、別れたあの日の自分と卒業の自分と、今日の自分が同じ一本の線上にあることを受け入れた。線は折れ曲がり、濡れて、ずっと見失っていた「僕らしさ」を取り戻すための時間を要するだろう。だが殺してはいけない理由が他にもあった。残された時間を、僕は自分のために使いたかった。復讐で埋める空白ではなく、自分で穴を掘り、土を入れて草を生やすような営みをしたかった。
家に着くと、ノートを開き、白いページに細い文字で書いた。「復讐はやめた。生きる。」それは勝利でも清算でもなく、ただの誓いだった。明日も僕は憎しみを思い出すだろう。ふとした瞬間に胸が締め付けられるだろう。しかし今夜は、窓の外で雨がまだ音を立てる。濡れた世界は光を反射している。僕は深呼吸をして、壊れたものを数えるのをやめ、夜の中で小さな未来を数え始めた。復讐をやめた瞬間、僕の心に新しい重さが生まれた。それはひどく孤独で、ひどく生きている重さだった。