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マスク  作者: ジョー
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マスク~後編~

 4月7日、金曜日。気付いたら、病院のベッドの上で仰向けになっていた。目に映るのは、天井のくすんだシミと切れかけた電球の明かりだけだ。天井の隅には、蜘蛛の巣も張っている。きっと古い病院なのだろう。そして、経営がうまくいっていない、失礼な言い方が許されるならば、ボロい病院でもあるだろう。幽霊なんかも出たりして。

 慶将は首を右に捻って、視線を窓の外に逃がす。レースのカーテンが小さく揺れているので、微かに窓が開いているのだろう。誰が開けたのかは、知らない。でも、僅かに流れ込んでくる風は春に相応しい心地良さをもたらし、日差しの強さも丁度良い。少なくとも、天井から吊るされた電球の明かりよりは、何倍も気持ち良い。窓を開けてくれた誰かに感謝したい。

 フラットになったベッドの背を起こそうと、慶将は手探りでリモコンを探した。右手付近には、無い。左手付近にも、無い。枕元にも、無い。ベッド柵の外に掛かっているのかと、柵の方を見ても、無い。「マジかよ」と腹立たしさが、思わず声になってしまった。

仕方なく、自力で起き上がろうとすると、全身に鋭い痛みが走った。特に、左の脇腹の辺り。顔を歪めて痛みをやり過ごすと、ベッドの左側に仰々しい器械がある事に気付いた。その器械からは、直径2センチほどの水色のチューブが伸びている。そのチューブの先を辿っていくと、掛布団の中に消えてしまった。そこからは確かめるように左手でチューブを触っていると、先程痛みを感じた左の脇腹の少し上、肺の先端辺りにくっついていた。

驚きを隠しきれず、二度目の「マジかよ」が口からこぼれた。こんなものを繋がれていたら、痛いはずだ。すぐに外してもらえるのか。退院するまでずっと?いや、退院した後もずっと?

軽いパニックに陥り、思考は悪い方へと転がっていく。だが、しばらく入院生活が続く事になるのは間違いないだろう。冷静に考えてみても、その予想は覆せない。35年生きてきて、入院など初めてだ。わざと大きなため息をついたとき、その尻尾に「マジかよ」と言葉が乗った。「マジかよ」三連発である。二度ある事は、三度あるのだ。岡田、バース、掛布のアーチ三連発とは比べ物にならない、いや、比べるのも烏滸がましいのだが。

軽く目を閉じる。自分と繋がっているチューブを見たくなかったのか、それとも、現実から目を背けたかったのか。おそらく、両方なのだろう。不思議なことに、事故の記憶は全く無い。それでも、こんなチューブに繋がれるぐらいなのだから、よほどの事故になってしまったのだろう。生きているだけでも、感謝しないといけないのかもしれない。

「大塚さーん、お目覚めですか?」

女性の声が聞こえた。低く、素っ気ない声だ。

「はい」と答えると、口の中に激痛が走った。「はい」の一言だけでも喋りにくさを感じたし、血が滲んでいるのだろう、錆びた鉄の味もする。事故の衝撃で、舌を噛んだのかもしれない。

 痛みに顔をしかめていると、ベージュのカーテンが勢いよく開けられた。「失礼します」ぐらい言えよ、と、しかめ面の眉間にさらに皺を寄せながら振り向くと、中年の女性が立っていた。血圧計や聴診器を持っているので、看護師なのだろう。それでも、でっぷりと太った体型を見ていると、可愛らしいはずの薄ピンクのスクラブも台無しである。

 「大塚さん、体調はどうですか?」

良いわけないだろう、と心の中で思いながらも、できるだけ愛想よく、

「脇腹が痛いのと、あと、口の中が切れてるみたいで少し痛いです」

と答えた。すると、太った看護師は、カルテに何か記載しながら、

「分かりました。とりあえず、体温と血圧を測らせてくださいね」

と言った。本当に、素っ気ない声だ。体温計を腋窩に挟み、軽く息をつくと、不意に手首を掴まれた。思わず飛び上がりそうになってしまったが、太った看護師は何食わぬ顔で慶将の脈を測り始めた。だから一声掛けてからにしろよ、とまた心の中で吐き捨てる。それにしても、女性とは思えない握力だ。もしも血圧や脈拍が異常値を示したら、この看護師が原因だと思う。

 幸いにもバイタルに問題はなく、慶将の手首も解放された。カルテに数値を書き入れながら看護師は、

「口の中が痛いのは、ベロ噛んじゃったからかもしれないわね。ガーゼでも当てときましょうか。はい、ちょっとベロ出して」

と言って、早速処置を施そうとした。素早い対応は有難いが、乱雑な手つきには不安を覚えてしまう。いかにも、とってつけたような仕草だ。

 言われるがままに舌を出してみたが、案の定、処置の間は口の中が再び激痛に襲われた。ガーゼの優しさを微塵も感じられない。本当は何も当てずに、ただ舌を痛めつけているだけなんじゃないかとさえ思ってしまう。

「はい、終了。ご飯の時はまた外しますからね。何かあったら、枕元のナースコールで呼んでください」

では、と言いながらそのまま立ち去ろうとする看護師を引き留めて、慶将はベッドの脇にある器械を指差して恐る恐る訊ねた。

「あの・・・この器械は一体なんですか?」

太った看護師は、「なるほどね」と言わんばかりの表情になって答えた。

「肺に穴が開いてたので、空気がちゃんと循環するようにこの器械で空気を送りこんでるの。もっと大きな穴だったら、即死だったかもね」

さらりと、恐ろしい事を言う。思わず、生唾をゴクンと飲み込み、重ねて訊いてみた。

「いつかチューブは抜けるんですか?それとも、一生このままですか?」

すると看護師は、初めて柔らかい笑顔になって教えてくれた。

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。二週間後に検査して、穴がきれいに塞がっていればチューブも外れるし、すぐに退院もできるから」

ホッとした。大した怪我ではないことと、太った看護師が意外と良い人だったことに。

「それにしても、あなた丈夫な体してるのね。こういうのは天性の素質だから、ご両親に感謝しなさいよ」

そう言って、太った看護師は巨体を揺らしながらカーテンを後ろ手に閉めて、部屋を出て行った。両親の話が出て、慶将の胸が一瞬ズキッとした。この痛みは、事故とは無関係のはずだ。だとすれば、一体何が原因なのだろう。一体いつからなのだろう。答えを見つけてしまうと、泣いてしまいそうな気がして、慶将は考えるのをやめた。

無茶な人生を送ってきたと思う。それでも、無茶苦茶な人生だとは思わない。誰に、何と言われようと、それだけは胸を張って言える。そのまま全身のスイッチが切れてしまったみたいに、再び眠りに落ちていった。


 妙な夢を見た。白い靄の中を、慶将はひたすら走っていた。前も後ろも、右も左も分からない。もちろん、どこに向かっているのかも。しかも、進んでいる感覚が全く無い。ルームランナーにでも乗っているかのように、ただ足だけがせわしなく動いているのだった。

 次第に、息が苦しくなってきた。呼吸が浅くなる。靄が喉の奥に侵入してきて、激しくむせた。その場にうずくまる。咳は止まるどころか、激しさを増す一方だ。咳と一緒に、心臓が口から飛び出してきそうなほどに。

 キーンと耳鳴りがする。膝をついているのに、立ち眩みがする。回転系絶叫マシンに乗っているかのような揺れに襲われ、天地がひっくり返り、また元に戻る。それが何度も繰り返される。やがて脳内にもグラグラとした揺れが伝染し、鈍い頭痛に変わる。とうとう慶将は、コテン、と倒れてしまった。

 頭元に、人の気配を感じた。見上げると、濃い靄に包まれて顔は見えなかったが、小さな手が差し伸べられた。親切な誰かが、助けに来てくれたのだろうか。慶将がその手を掴むと、フワッと身体が浮き上がる感覚とともに、立ち上がる事ができた。腕力で引き上げられたというより、まるで魔法をかけられたような不思議な力だった。先程まで慶将を苦しめていた咳や頭痛も、ピタリと治まっていた。

 「ありがとうございます」と頭を下げた慶将が顔を上げると、靄が晴れてきて、手を差し伸べてくれた人の正体が分かった。なんと、あのマスクをくれた老婆だった。慶将は、初めて老婆と出会った時のように、「うわっ」と声を漏らし、一歩後ずさってしまった。

「そんなに驚かなくたっていいじゃないか。久しぶりの再会なんだ、またビールでも飲むかい?ケヒヒヒ」

相変わらず、陽気な笑い声だ。老婆の問いかけには応えず、慶将は

「ど、どうしてここにいるんですか?」

と、率直な疑問をぶつけた。すると老婆は、

「あたしがどこにいようと、あたしの勝手だろ!」

と、数秒前の笑い声が嘘のような、怒気をはらんだ凄みのある声で答えた。慶将が、また一歩後ずさると、老婆は距離を詰めるように一歩足を前に出しながら、

「それにあんた、あたしに会いたかったんじゃないのかい?」

と、下から顔を覗き込むように訊いてきた。

 確かにその通りだった。虹の都病院の近くの峠で事故さえ起こさなければ、老婆にマスクを叩き返し、文句の一つでもぶつけてやろうと思っていたのだ。いざ本人を目の前にすると、本当にそんな事ができたのかどうか自信がなくなってしまうのだけれど。だが結果的に、老婆と再会することができた。

 でも、一体なぜ?向こうから、会いに来てくれた?

口を開いたのは、またしても老婆だった。

「ずっとあんたの事を見てたからね。それぐらいの事は簡単に分かるんだよ!」

胸の内を見透かすように、慶将の疑問に見事に答える。やはり、分かりやすい顔をしているのだろうか。

「見てた・・・ってどういうことですか!尾行してたってことですか?」

慶将が不安を隠しきれずに訊くと、老婆はニヤリと笑いながら、

「そんな面倒くさいことしないよ!でもあたしには、あんたの行動が手に取るように分かるのさ」

と答えた。老婆の言葉に恐怖を感じるようになった。それでも不思議と、老婆が嘘をついているとは、思わなかった。

「な、なんでそんな事ができるんですか?」

慶将が唇を震わせながら訊くと、老婆は考える様子もなく、

「さぁね、あたしにも分かんないよ」

と、サバサバ答える。そして、

「ただ、あたしが人を覗くことができるのは、あたしからマスクを受け取ったヤツだけだがね、ケヒヒヒ」

と笑いながら、とても大事なことを、もっとサバサバと言う。

「マスクって・・・」

言葉を続けようとしたが、「マスク」という言葉で、老婆に会いたかった本来の目的を思い出した。

「あのマスク貰ってから、嫌な事ばっかり起きるんですよ!一体どうなってるんですか!」

勢い込んで慶将が訊ねると、その強い口調をいなすように老婆は、

「そりゃ、そうかもしれないねぇ。あたしは『嫌な事は起こらない』とは言ってないよ。『幸せがやってくる』って言っただけさ」

と軽く、悪びれる様子もなく言った。屁理屈だ、と思った。すかさず、

「そんな・・・でも、幸せがやってくるって言われたら、良い事ばっかり起こるって思うじゃないですか!」

と、慶将が反論すると、その言葉を予測していたように老婆は、

「そりゃ、アンタの勝手な思い込みだよ。あたしに文句をつけるのは筋違いってもんさ」

と、言い返す。確かに、その通りだった。きれいなカウンターパンチを喰らった。慶将は、ぐうの音も出なくなってしまった。

 慶将が俯いて黙り込んでしまうと、見かねた老婆が口を開いた。

「ただね、まだマスクを渡してから一週間経ってないんだよ。文句を言うなら、期限が過ぎてからにしな!」

フォローしてくれているのか、先程よりも声が柔らかくなったような気がする。

「それにね、嫌な事の後に幸せな事が起こった方が、喜びは倍増するもんだよ!オチの前にはフリが必要だろ?何でも下ごしらえが重要なのさ!ケヒヒヒ」

いつの間にか、老婆の言葉に納得している自分がいることに気付いた。

「この六日間、怒ってる顔、悲しんでる顔、驚いた顔、落ち込んだ顔、苦しそうな顔、呆れた顔・・・アンタの色んな表情見てきたけど、あとひとつ、『本気の笑顔』が浮かべられたら、アンタの顔に『七色の虹』がかかるかもしれないねぇ」

そんなオシャレな事を言えるのか、と感心しながらも、改めてここ数日は心の底から笑えるような出来事は無かったなと、ふと思う。老婆の言う通り、大笑いする日を迎えるための準備期間なのだろうか。嵐の前の静けさ、にはなってほしくない。

 慶将の胸の内を読み取ったのか、それとも、伝えるべき事を伝え終えたからなのか、老婆の姿がどんどん薄くなっていく。そして、あっという間に慶将の視界から消えてしまった。

 人は、弱いから何かを信じ、何かに縋るのかもしれない。慶将は、自分の弱さを知った。いや、すでに気付いていたのかもしれない。ずっと前から・・・


 目が覚めた。老婆とのやり取りも、夢だとは思えない程くっきりと覚えている。もし、夢と現実の狭間に空間が存在するのなら、慶将はわずかの時間そこに身を置いていたのかもしれない。

 記憶が鮮明だからだろうか、目覚めもスッキリしたものだった。時計を確認すると、時刻はもうすぐ18時になろうとしていた。昼間は全く感じなかったが、食欲も湧いていた。この病院の夕食は何時なのだろう。今夜の献立は何だろう。味付けはどうだろう。

 そんな事を考えていると、ちょうど、昼間の太った看護師が配膳のため慶将の病室を訪れた。大きな身体のせいか、トレイや器が小さく見える。いや、病院食というのはこれぐらいの量なのだろうか。

献立は、肉じゃが、ほうれん草のお浸し、豆腐とワカメの味噌汁、フルーツゼリー。そして、米飯・・・ではなく、お粥。いかにも病院での食事、といったメニューである。おそらく、塩分控えめの薄味なのだろう。

 すると、表情から慶将の考えを見抜いたのか、太った看護師はトレイをサイドテーブルに置きながら、

「口の中が切れてると固形物は食べづらいと思うから、ご飯はお粥に変更してあるからね。あと、お味噌汁も少しぬるめにしてあるから、先に飲んだ方が良いと思うわ」

と、教えてくれた。とても気が利く人だ。「太った看護師」なんて呼んでごめんなさい。慶将は心の中で詫びて、猛省した。そして、今度からは「優しい看護師さん」と呼ばせていただきます、と誰にともなく誓った。

帰り際、優しい看護師さんが

「ベロのガーゼも取っておくわね。お口、開けてくれる?」

と、処置を申し出てくれたので、慶将は軽く会釈を返し、言われた通りに口を開け、舌を出した。その時・・・

「大塚さーん、失礼しまーす」

と、別の女性がカーテンを開けて入室してきた。慶将は「アッカンベー」の顔のまま、まともに女性を見てしまった。女性は、一瞬ポカンとした表情を浮かべたが、すぐにプッと吹き出し、声を上げて笑い出した。それが、慶将と奈美の出会いだった。そしてそれは、慶将が未だ味わったことのない「幸せ」の始まりでもあった。「あの」マスクのタイムリミットまで六時間。滑り込みセーフ、だった。


 入室してきた女性は、杉本奈美、と名乗った。マスクをしているので、はっきりとは分からなかったが、慶将と同年代に見える。この病院に勤める理学療法士で、慶将のリハビリ担当になったので挨拶に来たのだと言う。ショートヘアがよく似合い、笑うと八重歯を覗かせる、何と言うか、その・・・可愛らしい人だった。

「しばらくは動けないと思うので、最初はベッドの上でストレッチとか軽い筋トレから始めて、体力が落ちないようにしていきましょうね」

と言う声は、実に爽やかなトーンだった。よく晴れた春の日の朝に、こんな声で起こしてもらえたら、きっと清々しいだろうな、と思った。

 ガーゼを外してもらい、夕食を頬張る。食べやすくなったはずなのに、なぜか食べた気がしない。味付けが薄いせいなのか、それ以外に原因があるのか。慶将も、何となく勘付いてはいるのだが、あまり認めたくはない。もう傷付くのはゴメンだ、と思ったばかりなのだ。

 それでも、そんな慶将の思いとは裏腹に、胸はザワザワとざわめいている。これまで抱いた事のない感情が、湧き上がってくる。この気持ちを表す言葉は、きっと広辞苑にも載っていないだろう。どんな偉大な言語学者でも、言い当てられないだろう。もちろん、この時点で慶将は何も気付いていない。その胸のざわめきは「ときめき」で、湧き上がってくる感情は「好き」という気持ちであることなど。

翌日、杉本先生は朝9時に慶将の病室を訪れた。

「大塚さん、おはようございます!今からリハビリさせてもらおうと思うんですけど、体調はいかがですか?」

「はい、大丈夫です」

と答える声は、少し上ずってしまった。緊張しているのだろうか。本当は、昨日の胸のざわめきが残っていて、朝食も半分ほどしか喉を通らなかった。

 ふと、小学生時代のことを思い出す。慶将の小学校では、出欠確認の際に担任の先生が一人ずつ名前を呼び、呼ばれた生徒は「はい、元気です」と答える習慣があった。当時は何の疑問もなく、その応答を六年間続けていた。

でも、今になって思う。もし元気じゃない場合はどう言えばよかったのだろう。「はい、お腹が痛いです」など聞いたことがないし、慶将自身も言った事がない。「はい」と「元気です」はセットだったし、そもそもそれ以外の返答は先生から教えてもらっていなかったのだ。

 似たような場面には、大人になってからもしばしば遭遇する。美容院でシャンプーをしてもらう時、「洗い足りないところはないですか?」という質問に対して、「はい、大丈夫です」の一択しかない。「後頭部が痒いので。もう少し洗ってください」と言う人はいるのだろうか。

 今も、そうだ。「実は、ゆうべから胸がドキドキして苦しいんです」という言葉を、頭に浮かべる事はできるのだが、決して声にはならない。恥ずかしいからなのか、見栄を張っているだけなのかは、慶将にも分からない。

 「じゃあ、今日はベッドの上で関節を動かしたり、筋肉ほぐしたりしていきますね。食後の軽い運動と思って、頑張りましょう!」

それから杉本先生は、慶将の肺に繋がったチューブに気を付けながら、四肢の他動的関節可動域訓練とリラクセーションを行ってくれた。いつも患者にしていた事を、慶将が受ける形になる。

 臥床期間が長くなると、関節が固まって手足の曲げ伸ばしができなくなる。「拘縮」という。虹の都病院では、足首が足裏の方に曲がったまま固まってしまい、歩く時につま先が上がらずに躓いたり、最悪の場合は転倒してしまうという患者が多かった。

 褥瘡も怖い。身体の同じ部位に長時間体重がかかりすぎると、血流が滞り、皮膚の一部が赤くなり、ただれたり傷ができたりする。いわゆる「床ずれ」である。そのため、定期的に身体の向きを変えたり、除圧のためのクッションを使用する。慶将の両膝の裏にも、膝が軽く曲がるような形でクッションが置かれている。

 病室でのリハビリを一週間続けた後、プログラムは起き上がりや立ち上がりといった動作訓練に移った。慶将の場合、幸いにも重症度合いは低かったので、それほど苦痛を伴うことはなかった。それでも、寝返りや起き上がり動作の際には左の脇腹が鋭く痛むので、杉本先生が脇腹に負担が掛からない動作を指導してくれた。

寝ている時間の方が長いので、起き上がってベッドの縁に座ると、じっとしていても何だか身体が疲れたように感じる。座っているのに立ち眩みのように視界がグラグラと揺れ、息遣いも荒くなる。たった一週間で、こんなにも体力が低下してしまうのか。廃用症候群の恐ろしさを、身をもって学んだ。

 動作訓練を一週間ほど続けた頃には、座位保持も安定してきた。杉本先生は、

「若いから回復も早いし、リハビリの進みも速いですね。来週には肺のチューブも抜けると思うので、リハビリ室に行って歩く練習とか階段の上り下りの練習をしていきましょう」

と言ってくれた。慶将も素直に、

「はい!よろしくお願いします」

と、頭を下げることができた。僅かに開けた窓から入ってくるそよ風に乗って漂う春の匂いと、杉本先生の香りが混じり合って心地良い気分が半分、もう半分はまたドキドキしてしまうのだった。

「順調にいけば、ゴールデンウィーク前には退院できると思いますよ」

とも言ってくれたが、正直複雑な気分だった。リハビリを始めてからは、入院生活が楽しくなっていたから。その理由はもちろん・・・。

「まぁでも、焦らずにシワシワいきましょうね」

危うく聞き逃すところだった。杉本先生は、確かに「シワシワ」と言った。「ゆっくり」という意味の、慶将のふるさとの方言だ。思わず、「えっ?」と顔を上げて聞き返してしまった。

「あっ、ごめんなさい。私、今方言で喋っちゃいましたね。シワシワっていうのは・・・」

と杉本先生が説明しようとするのを遮って、慶将は、

「ゆっくりいきましょう、ってことですよね?」

と悪戯っぽく笑いながら、先回りして答えた。今度は杉本先生が「えっ?」と目を真ん丸に見開いて聞き返してきた。

「大塚さん、なんで分かったんですか?」

「分かったというか、知ってたんですよ。僕も子供の頃はよく使ってましたから」

「大塚さんってもしかして・・・」

「はい、出身は徳島です」

慶将が答えると、杉本先生の表情は一気に明るくなった。方言を理解してもらえた嬉しさと、出身地が同じだという偶然への喜び、きっとその両方だろう。慶将がそうであるように。

 それからは、一層リハビリの時間が楽しみになった。これまでは、リハビリ中に会話を交わすことはほとんどなかった。半分は、一生懸命リハビリを実施してくれる杉本先生の邪魔をしてはいけないという気持ちで、もう半分は緊張のあまり話し掛けることなど到底できなかったのだ。

それが、共通の話題ができたことで距離が縮まった・・・気がする。少なくとも慶将はそう思っている。その証拠に、杉本先生から世間話を振ってくれることが次第に増えていった。言葉遣いも、「です・ます」調の敬語から、親しみのある崩れた喋り方に変わっていった。杉本先生も、パーソナルな情報を話してくれるようになった。

初対面で慶将が予想した通り、慶将と同じ35歳。平成2年2月22日生まれのうお座。だから好きな数字は「2」で、コインロッカーやATMの暗証番号も「2222」。   

18歳までは徳島で過ごし、高校卒業を機に上京。横浜の専門学校に入学し、理学療法士の資格を取得。以降、そのまま横浜の病院に勤めている。

仕事が何よりも大好きで、これといった趣味も無いのだが、高校時代に始めた徳島の伝統芸能「阿波おどり」は今も続けていて、『青獅子連』という徳島県人会横浜支部が構成する連に所属している。毎年お盆の時期には帰省して徳島で踊りを披露し、八月末に行われる東京・高円寺の阿波おどりにも参加している。

お酒は弱いが、呑むことは好きで、毎日の晩酌は欠かせない。今ハマっているのは韓国のチャミスル(ライチ味)。でも甘いものにも目がなく、特に生クリームはホイップ絞り器から直接でも飲めるほどらしい。煙草アイコスを吸うが、一日に二,三本程度で、吸わなくてもイライラしたりはしない。暇な時にスマートフォンを見てしまう感覚で、なかなか止められないらしい。自宅はペット可のマンションで、ウサギを一羽飼っている。飼い始めた頃にカフェラテにハマっていたことから、名前は「ラテ」。

24歳の時に一度結婚をしたが、今は離婚してこの四月に小学五年生になったばかりの娘と二人で生活している。前夫は家事や育児に非協力的で、家に帰らず遊び歩くことも多かった。挙句の果てに浮気が発覚し、結婚生活は一年半あまりで幕を閉じた。出産後すぐに離婚したため娘に父親の記憶は全く無いが、杉本先生はそれ以来、男性に対する恐怖心や不信感を抱くようになってしまった。自身に再婚の願望は無かったが、最近娘が「弟か妹が欲しい」的な発言を繰り返しているらしく、少し戸惑っていると言う。

中学・高校時代は、元w-indsの橘慶太くんの大ファンで、今は俳優の佐藤健くんがお気に入り。自他共に認める、無類のイケメン好きなのだ。

 その中で、慶将は自分も理学療法士として働いていることをカミングアウトした。すると、杉本先生はまた嬉しそうなリアクションをとりながら、

「そうなんじゃ。ほなけんリハビリのペースが速かったんやなー」

と、納得した様子で頷いていた。その流れで、どこの病院で働いているのかを訊かれたので、慶将は「虹の都病院」と答え、正直に退職した事とその原因を話した。杉本先生は、まるで自分が職を失ってしまったような表情を浮かべ、

「そんな事があったんやなぁ・・・」

と相槌を打ってくれた。そんな重い空気を振り払いたくて、わざと冗談めかした口調で、

「ホンマにアホな事やってしもたわ。過去のこと全部消せる消しゴムがあったらなー」

と両手を後頭部に当てて天井を仰ぎ見ながら言うと、杉本先生は一瞬キョトンとした顔をして、すぐさま笑いながら、

「そう?派手な蛍光ペンで塗り潰した方がおもろいんちゃう?」

と返してくれた。なるほど。その発想はなかった。そっちの方が、良い。絶対に、良い。

 また、ある日の会話では、杉本先生も通勤に東急東横線を利用しており、自宅も妙蓮寺駅から徒歩十分の場所にあるということが判明した。慶将の最寄り駅の日吉駅とは四駅しか離れていない。その上、妙蓮寺駅には激安スーパー「OKストア」があり、慶将も週に一度は通うヘビーユーザーなのだ。もしかしたら、店内ですれ違った事があったかもしれない。

 肺のチューブを抜いてからは、杉本先生の予告通りリハビリ室に出向いて歩行訓練や階段昇降、さらには屋外歩行といった日常生活復帰に備えたプログラムが実施された。入院してからほとんどの時間を病室で過ごしていたので、病室以外の場所が新鮮に感じられた。

特に、屋外歩行訓練では病院の周りだけでなく、敷地外に出て歩くこともあった。杉本先生とデートをしているような気分になって、なんだか入院する前よりも足取りが軽やかになったような気がした。時々、わざと躓いて杉本先生にしがみついてみようか、などと不謹慎な事を考えてしまうこともあった。まあまあ・・・結構・・・割と・・・本気で・・・

 怪我の回復もリハビリも順調に進み、4月24日の月曜日。いよいよ、退院の日がやってきた。朝食を済ませ、帰り支度を整えていると、太った、もとい、優しい看護師さんが慶将の病室に入って来た。

「大塚さん、退院おめでとう!肺も問題無いから特に通院の必要はないみたいだけど、何かあったらいつでも来てくださいね。車の運転には、くれぐれも気を付けてね」

片眼をつぶって、親指を立てたこぶしをグッと突き出した。元々頬が盛り上がって目が細まっているので、あまりウィンクには見えなかったが、気持ちは有難く受け取っておくことにした。

「それにしても、寂しくなるわね、大塚さんが退院しちゃうと。ここは若い患者さん他にいないし、大塚さんは男前だし」

上目遣いで慶将の顔を覗き込む優しい看護師さんの顎は二重、いや三重にたるんでいた。優しい看護師さんは、最後まで太った看護師さんでもあった。

「いえ、そんな事ないです」

と、謙遜して答えると優しい看護師さんは続けて、

「私があと二十歳若かったら、アタックしたのになぁ」

と、嬉しそうに、チョット寂しそうに言う。

アタックって、久しぶりに聞きました!あなたは一体おいくつなんですか!

心の中で、ツッコミを入れて、

「いやいや・・・ハハハ」

と、苦笑いで流し、思い切って訊いてみた。

「あの・・・杉本先生は今日は出勤されてますか?」

すると優しい看護師さんは、特に怪しむ様子もなく、

「あー、奈美ちゃんね、来てるわよ。リハビリでお世話になったもんね。まだ準備してると思うから、呼んでくるわ。チョット待ってて」

と言って、その場を離れようとした。ホッとして思わず息をつくと、優しい看護師さんが慶将を振り向いて、立ち止まった。そして、

「頑張りなさいよ!」

と、ニヤリと笑いながら、再び親指を立てたこぶしを突き出した。

「ち、違いますよ!そ、そんなんじゃないですから!」

と、慶将が慌てて否定すると、優しい看護師さんは、

「そんなに焦らなくてもいいわよ。顔見たら分かるのよ。大塚さんって分かりやすい人ね」

と言い残して、病室を出て行った。

 なんだ、全部見透かされていたのか。そう思うと、急に全身から力が抜け落ちた。頬も自然と緩む。ベッドの縁に腰掛けて、天井を見上げて「ふー」と長い息をついた。入院初日の天井は薄汚れて見えたが、今は不思議と悪い感じはしない。そういう模様の天井なんだ、と思えた。心情の変化だろうか。それとも考え方が変わったのか。どちらにしても、きっかけが杉本先生との出会いだということは、間違いない。

 目を閉じて感慨に耽っていると、廊下を駈ける足音が聞こえてきた。杉本先生が、わざわざ走って来てくれたのだ。

「はぁはぁ・・・大塚さん、遅くなってごめんなさい!月曜日は朝礼とかあってバタバタしとって・・・」

息を切らせ、頭を下げながら言ってくれた。慶将は、恐縮しきった様子で、

「とんでもない。忙しいのに、わざわざ来てくれたことが嬉しいよ。杉本先生も、身体に気を付けて仕事頑張ってな!」

と、返す。杉本先生は顔を上げて、額の汗を手の甲で拭いながら、

「うん!ありがとう!」

と笑いながら応えてくれた。

 その笑顔を見た瞬間、慶将は言うつもりのなかった言葉を口にした。

「杉本先生・・・退院しても・・・会ってもらえるかな」

俯きがちに言った慶将が恐る恐る視線を上げると、杉本先生は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻って、

「うん!いいよ!」

と、快諾してくれた。その笑顔は、先程よりもキラキラと輝いて見えた。

 電話番号とLINEを交換して、杉本先生はリハビリ室へ戻って行った。張り詰めていたものが一気に緩み、慶将はベッドに倒れ込むように腰掛けた。これで良かったのだろうか。また女性を傷付けてしまうのではないだろうか。いや、そんな建前ではなく、自分自身が傷付きはしないだろうか。

 担当医の元を訪れ、お礼と挨拶を済ませると、慶将はそのまま病院の外に出た。横浜市の中心部に位置しているのだろう。高架になった高速道路を行き交う車や、何本もの路線が入り組み合った電車が駆け抜ける音が、どこか懐かしく感じる。堂々と正面に立つ桜の木には青々とした若葉が生い茂っている。三週間前には綺麗なピンクの花を咲かせていたのに、と長かったような短かったような入院生活を噛みしめる。

こうやって春から夏に変わっていくのか、と、柄にもなく季節の移ろいを感じながら、ふと見上げてみると、一輪だけ残花が咲いていた。満開時の華やかな感じとは、また違った趣がある。他の花は散ってしまったのに、粘り強く咲き続けるその花を見て、慶将は「ヨシッ」と声を出して自分に喝を入れた。これまでの女性とは縁が切れた。職も失った。それでも、新たな出会いがあり、嫌な過去を受け止めることができた。

胸を張って歩き出すと、再び残花が目に入った。春が終わって、初夏が訪れる。


 5月2日、火曜日。慶将は奈美ちゃんと一緒に、横浜駅前の大衆居酒屋で酒を呑んだ。慶将が誘って、奈美ちゃんが店をチョイスした。以前から気にはなっていたが、同僚や友人たちとの都合がなかなか合わず、かといってカウンターで一人呑みを楽しめるほどの肝は据わっていないらしい。

 連絡先を交換して、一週間。お互いを「慶将くん」「奈美ちゃん」と、下の名前で呼ぶようになった。慶将がゴールデンウィークの予定を尋ねると、後半、三日から六日は神奈川県内のあちこちで阿波おどりの演舞があると言う。

忙しいだろうな、とデートに誘うのは諦めかけていたら、奈美ちゃんは「5月2日の仕事終わりだったら、いけるよ」と言ってくれた。もちろん、二つ返事でОKした。虹の都病院を退職して、しばらく失業保険と貯金の切り崩しで生活しているニートの慶将にとっては、毎日がゴールデンウィークみたいなものだから。

 カウンター席に並んで座り、慶将は生ビール、奈美ちゃんはカシスオレンジを注文した。 

「慶将くんの退院に、乾杯!」

高々とグラスを掲げながら、心底嬉しそうに言ってくれた。そして、その勢いのままゴクッ、ゴクッ、ゴクッと喉を鳴らしながらグラスの三分の一ほどを空けた。その豪快な呑みっぷりに、なぜだか慶将も嬉しくなってしまった。

「エエ呑みっぷりやなぁ」

と掛ける声は、少し照れて、揺れてしまった。

「ほら、ほうよ!やっぱ労働の後のお酒は格別じゃわ!外で呑むんも、えっとぶりやしなぁ」えっとぶり‐久しぶり、という意味の徳島弁だ。方言で話しながら呑む酒も、意外と悪くない。奈美ちゃんに負けじと、慶将もジョッキ半分ほどのビールを一息で空けた。そして、

「今日は、咲良ちゃんは?」

と訊いた。

 咲良ちゃん‐奈美ちゃんの一人娘。

「今夜は友達の家に泊まりに行っとる」

「なんか、申し訳ないなぁ・・・」

「かんまんよ!明日から休みやし、家でおるより友達と遊ぶ方が楽しいだろうし」

「最近の五年生は、もうほとんど大人やもんなぁ。今頃は女子会しよるかもしれんな」

「ほうなんよ。しっかりしてくれとんは嬉しいんやけど、ほのぶん生意気でなぁ。ついガミガミ言うてまうわ!」

「仲良い証拠じゃよ!すぐに親離れしてまうだろうし、ガミガミ言えるうちに、いっぱい言うてあげ!」

 いつか咲良ちゃんにも会える日がくればいいなぁ、と思う。昔から、子供は大好きだ。しかし、好きな分、甘やかしてしまう。泣き止まない子供には、お菓子やおもちゃを与えてご機嫌をとる。もし父親になったら、ダメな親父になってしまうだろう。だからこそ、結婚相手には、「子供をしっかり躾けられること」を望んでいた。奈美ちゃんは、まさにピッタリの人だった。

 そんな事をぼんやりと考えていると、奈美ちゃんが別の話題を振ってきた。

「てか、退院したばっかりやのに、酒呑んでいけるん?」

心配しているようにも、呆れているようにも見える表情で奈美ちゃんが訊いてきたので、慶将は笑いながら、

「二、三杯だったらいけるよ。先生にも『アルコール禁止』とは言われてないしな。まぁ、薬みたいなもんよ!」

と答えた。すると、奈美ちゃんは、

「でも、すぐに退院できて良かったなぁ。今は身体の調子はどんなで?」

と、今度は眉をひそめて心配100%の顔で訊いてきた。

「チューブ挿しとったところがたまに痛むけど、奈美ちゃんが教えてくれた起き上がり方だったら痛くないし、他の日常生活にも支障はないけん大丈夫!奈美ちゃんのリハビリのおかげやわ、ホンマにありがとう!」

慶将は、少し身体の向きを奈美ちゃんの方に傾けて、深々とお辞儀をしながら答えた。奈美ちゃんは恐縮して顔の前で手を横に振りながら、

「いやいや、当たり前の事しただけよ。ほれに、慶将くんもリハ職で専門用語分かってくれるけん楽だったわ!」

と言った。

「確かに!知識がない、特に高齢者に説明するんて難しいよな。でも、まさか自分がリハビリ受ける事になるとか、思ってもみんかったわ!」

慶将が笑いながら言うと、奈美ちゃんも

「人生、何があるか分からんなぁ。私も気を付けなアカンなぁ」

と、表情を緩めながら相槌を打った。

 そんな他愛もない話をしながら酒を呑み、あっという間に日付を跨ぎそうな時刻になっていた。奈美ちゃんは、計三杯のカクテルを飲み干した。「過去最高新記録!」と、謎のガッツポーズまで見せた。二杯目を注文したあたりからすでに顔を赤く染め始め、陽気になり饒舌になった一方で、呂律は次第に怪しくなっていった。途中、少しウトウトする場面もあったのだが、それは奈美ちゃんには内緒にしておいてあげよう。現に今も、カウンターに突っ伏して「うーん」と寝言を呟いている。

 お酒にだらしない女性は、慶将は苦手だ。「ほろ酔い」程度なら許せるが、「酔っぱらい」のレベルまで呑まれると、こっちの酔いが醒めて、気持ちも冷めてしまう。今の奈美ちゃんは、間違いなく「酔っぱらい」だ。頬杖をついて、苛立たし気なため息をついて、早々にお開きにしたい気分になる・・・今までの慶将なら。

 でも不思議なことに、奈美ちゃんの酔った姿に嫌悪感は抱かなかった。むしろ反対に、いとおしいような、愛くるしいような。上手く言えないが、とにかく悪くないのだ。

 外見や普段の性格も、奈美ちゃんは慶将の理想とは真逆のタイプだった。元々ロングヘアの女性が好きな慶将だが、奈美ちゃんはアスリートを思わせるようなさっぱりとしたショートヘア。性格も、優しくて気立ての良い女性が好みの慶将に対して、奈美ちゃんは、向こう気が強い鉄火肌で、「肝っ玉母さん」といった感じの女性だ。飲み友達としては付き合えても、異性として、ましてや恋愛対象として見ることはないはずだった。

 それが、奈美ちゃんと出会ってからことごとく価値観が変わっていく。世界観が変わっていく。何事にも拘りの強い慶将にとっては、とても新鮮な気分だった。

 カウンターの向こうで、大将が「大丈夫ですか?」と心配そうな視線を送ってきた。優しい人だ。鶏の唐揚げや出汁巻き卵など、料理も全て美味しかった。絶対に、また来よう。

 「大丈夫です」と頷きながら、奈美ちゃんの肩を軽く揺すった。起きるかなぁ、と少し心配ではあったものの、その心配をよそに奈美ちゃんは、全身をビクッと跳ねさせて飛び起きた。奈美ちゃんの肩に手を当てていた慶将の方が驚くほどの勢いだった。

「あー、マジで寝よった・・・ゴメン・・・」

「ううん、全然いけるよ。仕事の後やし、日頃の疲れも溜まっとんじゃよ」

「ほうなんかなぁ。でも、スッキリしたわ!」

「はな良かった!」

慶将が笑いながら言うと、大将もホッとしたように微笑んで、お冷をスッと差し出してくれた。慶将が軽くお辞儀しながら無言で大将にお礼を伝えると、横から「ありがとうございまーす!」という元気な声とともに右手が伸びてきて、お冷の入ったコップをがっしりと掴んだ。そしてそのまま口元に持っていき、乾杯の時と同じようにゴクッ、ゴクッ、ゴクッと飲んでいく。コップは一瞬で空になってしまった。

「ぷはー。水、美味しっ!」

肝っ玉母さんは、豪快でもあった。慶将と大将は目を見合わせて、どちらからともなく肩をすくめて笑うのだった。

 すると、奈美ちゃんは不意に慶将を振り返り、

「そう言えば慶将くん、次の職場はどないするん?」

と訊いてきた。ほんの数秒前までうたた寝をしていた人間の発言とは思えない。

突然の質問に驚いたのと、そもそも答えを用意していなかったという二重の意味で慶将は言葉に詰まった。考えなければいけない事だとは分かっていても、退院直後だというのを口実に目を背けていた。それでも、失業保険はいつまでも貰えるわけではないし、貯金もニートのまま暮らしていけるほど貯まってはいない。身の丈を超えた生活を送ってきたツケが、今になって回ってきている。

 いつもの慶将なら、強がって、見栄を張って、決して困っている様子は見せずに、「何とかなるよ」と答えていただろう。もしかしたら、「知り合いに良い求人紹介してもらったんよ」と嘘をついたかもしれない。しかし、奈美ちゃんにはそんな演技はしたくなかった。する必要がないと感じた。理由は、よく分からないけれど。

そんな慶将の胸の中に、ある思いが湧いてきた。本当に、突然。そして、顎を両手で支えながら少し顔を傾けて、上目遣いでこちらをじっと見つめる奈美ちゃんの瞳を見ていると、その思いは瞬く間に言葉となって口まで上がり、こぼれ落ちた。

「・・・奈美ちゃんの病院で・・・働いてみたいなぁ・・・」

言った後で、感情が追い付いてきて、急に恥ずかしくなった。奈美ちゃんも呆気にとられて、言葉を失っている。慶将は慌てて、

「いや、あの、こんな事奈美ちゃんに言っても困るんは分かっとるけど、何て言うか、リハ室の雰囲気も良かったし、ほれに大学病院とも連携しとって勉強になる事も多そうやし、ほれに横浜駅から近いけん通勤も便利やし、ほれに飲み会の店もようけあるし・・・」

自分でも、何を言っているのか分からなくなってしまった。最後の言葉は、ほとんど仕事とは無関係だ。それでも、根っこにある伝えたい気持ちはしっかり固まっている。恥ずかしさに襲われた後も、揺れたり消えたりすることなく、慶将の中にどっしりと構えている。伝えたい事は、ただひとつ。

「ずっと奈美ちゃんの傍にいたい」

そんな思いとは裏腹に、相変わらず軽いパニックに陥っている慶将が「ほれに・・・」とさらに話を続けようとした時、固まっていた奈美ちゃんの表情がフワッと緩んだ。そして、

「分かった!主任に聞いてみるわ。私も慶将くんと一緒に仕事できたらなぁって思っとったんよ」

と言った。本気なのか、お世辞なのかは分からない。それでも、言って良かった、と思えた。本当に伝えたい事が伝わったかどうか、それも分からないけれど。

 会計を済ませて店の外に出ると、吹き渡る風に心地良さを感じた。いつもは人の多さに嫌気が差し、空気の悪さに胸がムカムカすることもある横浜駅前なのに、こんなにスッキリとした気分は初めてだ。ビールを少し控えたせいなのか、奈美ちゃんが隣にいるおかげなのか。答えは、言わずもがな、である。

 まだ終電に間に合いそうだったので、人混みの中を並んで横浜駅に向かった。手が触れるか触れないかの絶妙な位置を保ちながら、それでも慶将はグッと拳を握り、前だけを見て歩き続けた。

 もし隣にいるのが奈美ちゃんでなければ、カラオケに誘って口説いたことだろう。もしくは、そのままラブホテルに直行かもしれない。本当に、慶将とはそういう人間だったのだ。

 でも、奈美ちゃんに対しては、嘘のようにそういう気は起きなかった。枕を交わしたいという気持ちよりも、眩しすぎて崇めている、という状態に近いかもしれない。少しはまともな大人になった・・・のだろうか。

 各駅停車に乗り込み、四つ目が奈美ちゃんの降りる妙蓮寺駅だ。横浜駅を出て、十分とかからない。

「今日はありがとう。楽しかったわ」

「こちらこそ、仕事終わりに来てくれてありがとう。明日からの阿波踊り、頑張ってな!」

という短い会話を交わしていると、あっという間に妙蓮寺駅に到着した。

 「バイバイ」と手を振りながら、奈美ちゃんはドアに向かう。寂しさを必死に隠して、「おやすみ」と笑いながら慶将も手を振り返すと、奈美ちゃんが急に立ち止まった。そして、踵を返して慶将の元に駆け寄ってきた。それも、吐息が届くぐらいの至近距離まで。慶将はドキッとしながらも、

「ど、どしたん?」と訊いてみた。すると奈美ちゃんはいたずらっぽくウィンクをしながら、

「次は、咲良も連れて来るね」

と言って、慶将の反応を確かめる前に、小走りで車両を降りて行った。取り残された慶将は、吊革を握ったままポカンとするしかなかった。

 ドアが閉まり、再び電車が走り出す。ホームに佇む奈美ちゃんは、満面の笑みを浮かべながら、大きく手を振ってくれた。電車が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも。


 5月12日、金曜日。慶将は妙蓮寺駅の改札前に立っていた。激安スーパー「ОKストア」に買い物にきたわけではない。奈美ちゃんと、そして娘の咲良ちゃんの三人で夕飯を食べるのだ。今日も18時まで仕事だという奈美ちゃんは、

「一回帰って着替えたりしたいけん、妙蓮寺駅に19時待ち合わせで良い?」

と、お店の選定までしてくれていた。ちなみにお店は、庶民的な街の洋食屋さんで咲良ちゃんの一番のお気に入りらしい。

 今、時刻は18時30分。ずいぶん早く来てしまった。相変わらず暇を持て余しているのに加えて、咲良ちゃんに会う事を考えると緊張が高まって、自宅でじっとしていられなくなったのだ。

 時間をつぶすために、付近を散策してみることにした。奈美ちゃんがどんな街に暮らしているのか、知りたくなった。

 駅の周辺は閑静な住宅街で、駅のすぐ脇には踏切がある。名前のとおり、「妙蓮寺」というお寺が敷地を提供したことにより駅が作られ、お寺の敷地内を電車が走るという構図になっている。

駅の南側では、JR東日本・東海道本線の貨物支線が東急東横線をアンダークロスしている。駅前の道路は旧・綱島街道で、一方通行の狭い道だ。バスターミナルや駅前広場はなく、路線バスは駅のすぐ前にやって来るようだ。

駅の西側には「妙蓮寺商店街」が伸び、食料品店や喫茶店をはじめ、様々なお店が軒を連ねている。仕事帰りの人が立ち寄るのだろう、日が沈みかけたこの時間になっても、商店街は賑わっている。

 商店街を抜けると、大きな公園が姿を現す。公園内には大きな池があり、プールまで設置されている。公園の向こうには、高校野球の強豪校である武相中学・高等学校が見える。野球部が放課後練習に汗を流している中、一般の生徒は彼氏や彼女とこの公園を散歩したりするのだろう。慶将が味わった事のない、まさに青春だ。

駅を挟んだ東側には、武相に比べると小さな校舎が見える。横浜市立港北小学校だ。咲良ちゃんが通っている小学校だろう。その先には国道2号線が通っており、通り沿いにはファミレス、コンビニ、スーパーマーケットなど、暮らしに便利なお店が立ち並んでいる。学生街の日吉駅前には無い雰囲気がある。日吉も住みやすいが、ここもきっと住みやすいだろう。  

奈美ちゃんと咲良ちゃん、エエ街に住んどるなぁ・・・。駅前まで戻って来た慶将がそんな事を思っていると、不意に目頭が熱くなった。人が大勢行き交う駅前で涙を流すわけにはいかないと、右手の親指と人差し指で瞼を押さえつけた。

 街の素晴らしさに感動したわけではない。日吉が負けているかも、という悔しさでも、もちろんない。ただ、嬉しかった。女手ひとつで子供を育てるというのは、並大抵のことではないはずだ。咲良ちゃんも小学校で辛い目に遭った事もあるかもしれない。まさに、山あり谷ありの人生だろう。本人から聞いたわけではない。それでも、あの無邪気な笑顔の裏には、人知れず重ねてきた苦労があるはずだ。それを思うと、胸がキュッと締め付けられる。そこで絞られた感情が、涙となって押し寄せてくるのだ。

 それでも、この街の雰囲気は温かい。本格的に歩いたのは初めてだった慶将ですら、それを感じ取れた。住んでいる本人たちはもっとはっきり感じているだろう。険しい山や深い谷が続く中、道端に綺麗な花が一輪咲いているのを見つけた時のような、ホッとする安心感が、確かにある。

 瞼から指を外すと、商店街を歩いて来る奈美ちゃんと咲良ちゃんが見えた。強く押さえすぎていたせいで、視界はぼやけてはっきりとは見えなかったが、仲良く手を繋いでいるのは分かった。一段と緊張が高まってくる。どんな顔をして二人を迎えればいいのだろう。咲良ちゃんへの第一声は、何と言えばいいのだろう。

 そんな事をあれこれ考えているうちに、奈美ちゃんと咲良ちゃんは商店街を抜けて、慶将のそばまでやって来た。

「ごめーん!結構待っとった?」

と奈美ちゃんが訊いてきたので、慶将は、

「いや、俺もさっき着いたとこ」

と答える。大丈夫、この辺の気配りができる程度には落ち着いている。

「ほれに、まだ五分前やし、俺が早う来すぎただけよ」

優しくフォローもできた。

「だったらエエけど。ほら、ちゃんと挨拶しなさい!」

そう言って、後ろに隠れるように立っていた咲良ちゃんの背中に手を回し、押し出すように慶将と対峙させた。「ちょっとー、やめてよー」と小声で言いながら身体をくねらせて、奈美ちゃんにしがみつく。お転婆だと聞いていたが、咲良ちゃんも緊張しているのだろうか。

 二人の様子を見ていると、心がほっこりと温められる気がした。その温もりで、緊張がやんわりと解けてくれた。両膝を軽く曲げて咲良ちゃんと視線の高さを揃えて、

「はじめまして。お母さんにリハビリでお世話になった大塚慶将です。今日は来てくれてありがとう」

と慶将は声を掛けた。幼い子供に向けるような、柔らかい笑顔も添えて。すると、咲良ちゃんはモジモジしながらも慶将の方に向き直り、

「杉本咲良です・・・よろしくお願いします」

と、ペコリとお辞儀をしながら応えてくれた。先程よりもずっと小さい声だったが、慶将の耳、いや、胸にははっきりと届いた。

「普段はうるさいぐらいなんやけど、今日はさすがに緊張しとるみたい」

奈美ちゃんが笑いながらフォローすると、すぐさま振り向いて「もうっ!」と腕に軽いパンチを繰り出す。奈美ちゃんに似て、明るく元気な子だ。そして、気の強いところも受け継いでいるだろう。だからこそ、間違いなく良い子だ。会ったばかりだが、慶将は咲良ちゃんからそんな印象を受けたのだった。

 食事中は、黙々とハンバーグを食べ進めていた咲良ちゃんだったが、デザートのチョコレートパフェを待つ頃にはいつもの調子を取り戻してくれたのか、自分から積極的に話すようになった。新しいクラスの担任が体育会系の熱血漢であり、早くも嫌気が差していること。先月末に行われた運動会のかけっこで一番になったこと。そんな咲良ちゃんの勇姿を奈美ちゃんが動画で撮り損ねてしまって本気で腹を立てたこと・・・

ほとんどは奈美ちゃんに投げ掛ける言葉だったが、時折、慶将にも質問をしてくれた。例えばこんな風に。

「慶将さんは、ママと結婚するの?」

どストレートな質問にドキッとした。隣にいた奈美ちゃんも、「ちょっと!いきなり何言い出すんよ!」というギョッとした顔で咲良ちゃんを睨み付けた。小学五年生というのは、愛やら恋やら、彼氏やら彼女やらに興味を持ち始める年頃なのだろう。

変に濁したり躱したりするのもズルい気がして、慶将は正直に答えた。

「いつかそうなればエエなぁ、って思っとるよ。奈美ちゃんと咲良ちゃんに好きになってもらえるように頑張る!咲良ちゃんは、俺がお父さんになっても良い?」

最後の質問は少し意地悪だったかな、と思った。案の定、咲良ちゃんは手元にあった紙ナプキンを何重にも折り畳んだ末にプイッと横を向いてしまい、

「まだ、分からん」

と素っ気なく答えた。徳島弁も喋れるんだ、と嬉しくなった。そして、大人びて見える咲良ちゃんにも子供っぽいところがあって、思わず頬も緩んでしまった。

 こんな質問も飛んできた。

「慶将さんは、今まで何人彼女できたことあるん?」

さっきとは違う意味でドキッとする。奈美ちゃんにもしたことがない話だ。一瞬チラリと奈美ちゃんに視線を向けると、咲良ちゃん以上に興味津々の様子でこちらを見ていた。

「高校生までは暗い子供だったし、横浜に来てからは勉強とか仕事で忙しかったけん、彼女ってできたことないんよなぁ」

と答えた。

必要最低限の事実だけを伝えた。嘘は付いていないが、胸の中に苦いものが込み上げてくる。本当は言わなければならない事を端折った罪悪感のせいだろうか。それでも、全てを包み隠さず話すには、咲良ちゃんは幼過ぎる。いつか、奈美ちゃんと二人きりの時にゆっくり話そう。

約二時間の食事会は、あっという間に終わりの時を迎えた。自宅でダラダラ過ごす二時間と同じ二時間とは思えない。一週間以上楽しみにしていた分、余計に早く感じてしまうのかもしれない。

「今日もありがとう!わざわざ来てもらったのに、お金も全部出してもらって・・・」

奈美ちゃんが恐縮したように言うと、咲良ちゃんも、

「ごちそうさまでした」

と、ぴょこんと頭を下げながら言ってくれた。食事の前後も、「いただきます」「ごちそうさまでした」を合掌付きで言っていた。

“母子家庭で育った子供は躾けが行き届いていない”

何かのテレビで教育の専門家がそんな事を言っていたが、それは間違いだ。たとえ裏付けに十分なデータが揃っていたとしても、目の前の杉本親子を信じる。

 お店の前で解散するつもりだったが、二人は駅まで付き添ってくれた。線路沿いの道を、慶将と奈美ちゃんが咲良ちゃんを挟む形で歩いて行く。街行く人たちの目には、この三人はどんな風に映っているのだろう。両親と一人娘、と思ってくれるだろうか。

慶将がそんな事を考えながら歩いていると、思わず咲良ちゃんと手を繋ぎたくなった。さすがに時期尚早だなと拳を握りしめ、グッと堪えた。咲良ちゃん自身は、奈美ちゃんの方にかなり身体を寄せて歩いていたのだけれど。

 駅に着くと、慶将は改めて二人に向き直った。

「わざわざ駅まで一緒に来てくれてありがとう!ご飯も美味しかったし、咲良ちゃんにも会えて嬉しかった!」

と、奈美ちゃんに言い、続けて咲良ちゃんにも視線を向け、

「咲良ちゃんも、今日はありがとうな!色んな話してくれて楽しかったわ!」

と声を掛けた。すると咲良ちゃんは奈美ちゃんの耳元に口を当て、ひそひそ話を始めた。何事だろう。何かマズい事でも言ってしまったか?と、慶将が怪訝に思っていると、奈美ちゃんが、

「そんなん自分で言いなさい!」

と、笑いながら応えた。少し、呆れた様子でもあった。ほら、ほら、と奈美ちゃんに背中をつつかれた咲良ちゃんは、俯きながらも慶将の正面に立ち、

「・・・今度は・・・家に遊びに来てください」

と、呟くように言った。

「えっ・・・」

思わず短い声を漏らしてしまった慶将が顔を上げて奈美ちゃんを見ると、優しい微笑みを浮かべながら頷いてくれた。それで、慶将も素直に答えることができた。

「オッケー!ほな、今度は咲良ちゃんの家でタコパでもしようか!」

それを聞いて、咲良ちゃんはパッと顔を上げ、今日イチの笑顔を見せてくれた。そして、小指を立てた右手を差し出し、

「指切り!」

と言ってきた。慶将も同じように右手の小指を出す。

「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーらはーりせーんぼーん、のーます!ゆーびきったっ!」

二人の声が、綺麗に揃った。良いパパになれるかもしれない。ほんのチョットだけ、そんな自信が湧いてきた。渋谷方面への各駅停車がもうすぐやって来るというアナウンスが流れたが、二人とも絡んだ小指を離そうとはしなかった。

 杉本家でのタコ焼きパーティーは、咲良ちゃんの提案によって5月20日の土曜日に決まった。

「土曜日だったらママの仕事も昼までやし、次の日も休みで夜更かしできるけん」

いつも頑張ってくれているママへの気遣いなのか、単純に咲良ちゃん自身が夜遅くまで楽しみたいだけなのか。どちらにしても、慶将に異論など無かった。

 当日、15時に妙蓮寺駅に待ち合わせをして、そのまま駅前にある「ОKストア」へ食材の調達に向かった。たこ焼き粉、卵、天かす、紅ショウガ、青のり、鰹節。そして中身はタコに加えて、鶏肉、魚肉ソーセージ、コンビーフ、カニカマ、ベビーホタテ、お餅、チーズなど飽きずにいくらでも食べられるように、生地に合いそうなものを揃えた。デザートバージョンとして、チョコレート、バナナ、あんこも購入。少し冒険して、納豆、梅干し、沢庵。そして咲良ちゃんが「ロシアンゲームしよう」と言って、嬉しそうに買い物カゴに入れたワサビ。36歳を目前にした慶将も奈美ちゃんも味覚がお子ちゃまなので、香辛料系の辛い物だけでなく、ワサビや辛子といった薬味もNGなのだが。

 買い物を終えて、杉本家に向かう。先週の夕食会の時とは違って、今日は三人横一列では歩いていない。慶将と奈美ちゃんが並んで歩き、「慶将さん、こっち!」と咲良ちゃんが少し前を先導してくれる。

「前見て歩かんと、こけるじょ!」

と、奈美ちゃんが声を掛けても

「いけるいける!ママと違って、私どんくさくないけん!」

と、咲良ちゃんにしか口に出せない嫌味を込めて返す。奈美ちゃんは、

「もうっ・・・ホンマに生意気なんやけん・・・」

と呆れた様子で呟いたが、その横顔は、嬉しそうで誇らしそうでもあった。

 駅から十分ほど歩くと、アパートが見えてきた。咲良ちゃんが

「慶将さん、着いたよ!アレが私ん家!201号室!」

と、アパートを指差しながら、顔だけ後ろを振り向いて叫ぶ。壁面には「ひまわり荘」と、昭和を彷彿とさせる名前が重厚感のある行書体で書かれている。二階建ての、小さなアパートだ。一世帯ごとの間取りは広そうだが、築年数は軽く見積もっても十五年は超えていそうだ。実際、中に入ってみると、壁の隅には煤汚れが見えたり、奈美ちゃん曰く、「台風の日には雨漏りがする」らしい。慶将が大学生時代に住んでいたアパートの方が綺麗で、住環境的にも整っているかもしれない。

 それでも、咲良ちゃんに案内されてリビングに入り、クッションのような分厚い座布団に腰を下ろすと、ホッとした気分になった。初めて訪れるはずなのに、懐かしい空気に包まれた。慶将のマンションでは感じられない。ふるさとの実家に似ている。

 奈美ちゃんが、たこ焼き器を持ってきた。久しぶりにたこ焼き器を見た慶将は、

「わざわざ買うてくれたん?」

と訊くと、奈美ちゃんは

「ちゃうちゃう、実家から持って来とったんよ。いつか家でタコ焼き作れたらエエなぁと思って。まぁ、今日初めて使うんやけどな」

と、笑いながら答えた。

徳島を含む関西圏の家庭には、だいたいタコ焼き器がある。月に一回、多い家庭なら毎週日曜日は自宅でタコ焼きパーティーを開くことも珍しくはない。慶将にも幼い頃に家族でタコ焼きを作った記憶がある。でもそれは、四人家族だからできたんだと、今なら分かる。

たぶん二人では、作って食べる楽しさよりも、後片付けの手間と寂しさが勝ってしまうだろう。奈美ちゃんの笑顔に、心がジクジクと痛む。それでも、何気なく「タコ焼きパーティーをしよう」と提案したことで、杉本家にとって「初めて」をもたらすことができたのなら、慶将も少し嬉しくなる。

 タコ焼きパーティーは大いに盛り上がった。奈美ちゃんには、「せっかくの休日だから」と食べる専門にまわってもらい、慶将と咲良ちゃんで生地作りから焼き上げるまでをこなした。最初は、

「慶将さん、下手くそー」

と、咲良ちゃんに焼き方をこきおろされ、奈美ちゃんにも、

「もんじゃ焼きみたい」

と揶揄されていた慶将だが、だんだん慣れてきた後半には、

「慶将さん、やるでぇー」「焼き方も丁度エエわ!」

と、褒めてもらえるようになった。理学療法士としての再就職先が見つからなければ、屋台のタコ焼き屋さんになろうかな、なんて。

 咲良ちゃんはいつの間にか食べる専門に変わってしまった。だが、楽しそうにお喋りをしながら口いっぱいにタコ焼きを頬張る二人の姿を見ていると、不意に目頭が熱くなった。タコ焼きパーティーができて良かったなぁという思いなのか、家族ってエエなぁという感慨深さなのか、よく分からない。それでも、目尻から溢れる涙を止めることはできずに、ボールに入った生地の素の中に滴り落ちてしまった。次に作るタコ焼きは、少し塩辛いかもしれない。

デザート系のタコ焼きで締めた後は、UNOやトランプゲームに移った。負けたら「ワサビ入りたこ焼き」を食べる・・・いや、もはやタコは入っていないから、「ワサビ焼き」と言うべきだろう。ロシアンゲームは、あっという間に罰ゲームに変貌してしまった。

さすがに咲良ちゃんに大量のワサビを食べさせるわけにはいかないと、わざと負けるつもりでいた慶将だが、それを察したのか、咲良ちゃんに、

「手加減なしやけんな!二人とも、ちゃんとやってよ!」

と警告されてしまった。仕方なく慶将は、

「よっしゃ!ほなけど、負けてもしらんけんな!」

と返した。

ところが、いざゲームを始めてみると咲良ちゃんの強いこと強いこと。カードの当たりの運が良いのか、何か攻略法があるのかは分からないが、とにかく奈美ちゃんも慶将も一度も勝てない。結局最後まで咲良ちゃんが負けることはなく、奈美ちゃんと慶将が顔をしかめながら、発狂しながら、涙を浮かべながら大量のワサビを食べ続けたのだった。それを眺める咲良ちゃんは、腹を抱えて笑っていた。バラエティ番組のお笑い芸人の気持ちが、ほんのチョットだけ分かった。

深夜0時過ぎ。慶将と奈美ちゃんがチャミスルで乾杯を始めた頃、さすがに疲れたのだろう、リビングの床に横になった咲良ちゃんは寝息を立て始めた。奈美ちゃんが寝室からタオルケットを持って来て、咲良ちゃんの身体に掛けながら、

「昼からずーっとテンション高かったもんなぁ。そりゃ疲れるわ」

と呆れたように笑い、続けて、

「こんな咲良見たん、久しぶりよ」

と、慶将を振り向いて言う。

「普段はもっとおとなしいん?」

慶将が訊くと、かぶりを振りながら

「いつもやかましいんやけどな。でも、もっと大人びとるというか、こまっしゃくれとる感じなんよ。ほんでも、今日は心の底から楽しんどったし、小学五年生らしいはしゃぎ方だった気がする。母親の勘やけどな」

と答えた。最後は嬉しそうな笑顔になっていた。その笑顔の深い意味に気付かない慶将は、

「たこ焼き器使えたんが、よっぽど嬉しかったんやなぁ」

と的外れな答えしか返せなかった。

 リビングに、しばしの静寂が訪れる。二人は黙って、それぞれのグラスに注いだチャミスルをちびちびと呑んでいく。沈黙を破ったのは、奈美ちゃんだった。

「あっ!そう言えば就職の件やけど、主任が院長に相談したら、『一度面接に来てもらおうか』って言よったらしいよ!ほなけん病院に電話して、日にちとか時間聞いてみて!」

「マジ?良かったー、ありがとう!奈美ちゃんのおかげでやっとニート脱出できる!」

「面接頑張ってよ!落ちたら、咲良と爆笑やけん!」

「リクルートスーツ準備しとかなアカンなぁ。スーツ着るとか久しぶりじゃ」

面接をしてもらえる安堵感よりも、照れ臭さが上回ってしまい、グラスに半分以上残っていたチャミスルを一息で呑み干した。

ふーっと長い息をつくと、覚悟が決まった。よし、全部話そう。

「おかわり、作って来ようか?」

と腰を浮かせかけた奈美ちゃんに、慶将は首を横に振って応えた。少しキョトンとしていた奈美ちゃんだったが、慶将から発せられるただならぬ雰囲気を感じ取ってくれたのか、何も言わずに腰を下ろし、まっすぐに慶将の目を見つめる。

 慶将は、徳島を離れてからの自身の過去の女性遍歴を全て話した。大学時代は毎週合コンに参加していた事、ラウンジに通い詰めてお気に入りの嬢に貢いでいた事、そして、特定の恋人をつくらないのは不特定多数の女性と遊びたかったからだという事。

 話しながら、だんだん慶将の背中は丸まっていき、声もか細く沈みがちになっていった。それでも、奈美ちゃんは言葉を挟まずに最後までちゃんと聞いてくれた。

 話し終えた慶将が最後に、

「また・・・遊びに来てもエエかな?」

と、俯き加減の視線を少し上げながら訊いた。奈美ちゃんは、何も答えない。床の一点を見つめたまま、動かない。ショックを受けさせてしまっただろうか。それとも、怒っているのだろうか。「ゴメン、やっぱりこんな男は嫌じゃよな」と笑いながら自分の言葉を取り消そうとしたら、その前に奈美ちゃんがようやく口を開いてくれた。

「ちょっと・・・考えさせて・・・」

やはり驚かせて、混乱させてしまったのかもしれない。もしかすると、別れた元旦那のトラウマが蘇ってしまったかもしれない。様々な思いを込めて、

「・・・ゴメン・・・」

と慶将が謝ると、少しだけ表情を崩してかぶりを振りながら、

「ううん。ビックリしたけど、でも正直に話してくれて良かった」

と言ってくれた。それでも、さすがに気まずい。

「ほな、今日はこれで帰るわな。また話したい事が整理できたら、いつでも連絡して。転職の事もありがとう!面接も頑張るわ!」

と言って慶将が立ち上がろうとすると、奈美ちゃんが無言で首を横に振った。何度も、何度も。子供がイヤイヤをするように。心配になった慶将が、

「どしたん?」

と訊くと、消え入りそうな声で、

「今夜は・・・泊って」

と言った。思わず慶将が「えっ?」と聞き返すと、パッと顔を上げて笑いながら、

「明日、咲良が起きた時に慶将くんがおらんかったら怒ると思うけん」

と説明し、間髪入れずに、

「布団は別々やけどな!」

と、いたずらっぽく舌を出して言った。慶将は戸惑いつつも、

「エエん?」

と確認すると、奈美ちゃんは頷きながら、

「私はここで咲良と一緒に寝るけん、隣の部屋のベッド使ってくれてエエよ」

と、リビングと一続きになった寝室を右手で指差した。

「ありがとう」と頭を下げると、不意に奈美ちゃんの両足が見えた。膝に乗せた左手は、小刻みに震えていた。

 「おやすみ」とお互いに声を掛け合い、慶将は寝室に移った。上着を脱いで、ゆっくりとベッドに腰掛ける。やっぱり言わん方が良かったかな、と今になって後悔の念が押し寄せてきた。いや、でも「話してくれて良かった」と言ってくれたのだから、やはり話して正解だったのだ。いや、でも、その言葉は奈美ちゃんが気を遣っただけかもしれないし、強がりの可能性もある。考えれば考えるほど、思考は堂々巡りをするだけだった。

 虚しくなって、慶将は倒れるように横になった。そのまま仰向けになり、目を閉じる。頭も体もスイッチは切れているはずなのに、心だけがドキドキなのかソワソワなのか、落ち着きなく揺れている。今夜は寝られそうにないな、と再び目を開けてぼんやりと天井を眺める。実家の自分の部屋によく似た天井を見つめていると、久しぶりに、本当に久しぶりに、徳島の両親の顔が頭に浮かぶのだった。

 翌日は、三人で午前中から横浜中華街に出掛けた。ぐっすり眠って体力がリセットされた咲良ちゃんは、肉まんや月餅などワンハンドで食べられる物を食べ歩いていく。タコ焼きの食べ過ぎによる胸やけか、ワサビの大量摂取による胃痛か、残念ながら慶将には食べ歩きに付き合う余裕はなかった。優しい咲良ちゃんが、

「慶将さん、一口食べる?」

と、肉まんを差し出してくれても、

「俺はいけるけん、咲良ちゃんが全部食べてエエよ」

と返すのが精一杯だった。

 奈美ちゃんにも、いつもの明るさは見られなかった。咲良ちゃんとの会話で笑顔は浮かべるものの、その笑顔はすぐにしぼんでしまうし、口数も少なかった。慶将と同じように、胃の調子が良くないのか、それとも他に原因があるのか。答えが分かるから、慶将は奈美ちゃんに声を掛けられなかった。

 「梅蘭焼きそば」で有名な『梅蘭』で遅めの昼食を取り終えると、空は分厚い雲に覆われ始めた。天気予報での降水確率は20%だったが、もしかしたら降り出すかもしれない。念のための折り畳み傘は持っていたが、何だかひどく疲れを感じて慶将は、

「天気悪くなってきたし、今日はもう帰ろうか」

と提案した。奈美ちゃんもそう思っていたのだろう、すぐさま、

「そうやな。またいつでも来れるしな」

と受け容れた。咲良ちゃんも、若干不満そうではあったが、「分かった」と頷いてくれた。もしかしたら、朝からのお母さんの空元気に気付いていたのかもしれない。

 みなとみらい線の元町・中華街駅から電車に乗り、横浜駅で東急東横線に乗り変える。乗り換えと言っても、みなとみらい線と東急東横線は直通なので、電車を降りる必要はない。普段はそれをありがたく感じていたが、今日はただじっとしている事が無性に腹立たしく思えた。電車を降りて、全力で走り出したい。家に向かうのではなく、意味もなく駆け回りたい。土砂降りの雨に打たれながらだと、尚良い。こんな衝動に駆られたのは、初めてだ。

 電車が妙蓮寺駅に着くと、奈美ちゃんと咲良ちゃんは電車を降りた。慶将もドアまで付き添い、

「家まで気を付けて帰ってな」

と声を掛けた。咲良ちゃんは人懐っこい笑顔を浮かべて、

「慶将さん、バイバイ!また遊びに行こうな!」

と言ってくれたが、奈美ちゃんは俯いたまま、

「ありがとう」

と呟くだけだった。

 扉が閉まり、電車が走り出す。慶将がドア越しに手を振ると、咲良ちゃんは大きく手を振り返してくれた。いつかの奈美ちゃんのように。その奈美ちゃんは、ドアが閉まった時にスッと視線を横に逃がして、慶将が振った手には応えなかった。最後まで、慶将と奈美ちゃんの視線は合わなかった。

 それからしばらく、奈美ちゃんからの連絡は途絶えた。慶将から電話やLINEのメッセージを送ることもしなかった。じっくり考えてくれているのだろう、と信じて待っている半面、もう無理だろう、と諦めているのも確かだった。

 その間に、慶将は奈美ちゃんの勤務する病院と直接コンタクトをとり、面接を実施してもらった。そして、面接の翌日には「是非うちで働いてください」という院長直々の電話を貰ったのだった。

「キリが良いから」という理由で、下半期が始まる7月1日から雇用してもらうことになった。だが、転職先が決まったというのに、慶将の中に喜びや嬉しさは湧いてこない。それもそのはずだ。奈美ちゃんがいるから選んだ転職先なのに、その奈美ちゃんとの関係が気まずいままでは楽しく仕事ができないし、そもそも長くは続かないだろう。一刻も早く奈美ちゃんに認めてもらい、杉本家に馴染んでいきたい。それでも慶将には、ただ待つことしかできなかった。

 6月になってようやく、奈美ちゃんからLINEのメッセージが送られてきた。最初の日曜日のことだった。次の日曜日に話したい事があると言う。メッセージには、

<横浜市営地下鉄・ブルーラインの戸塚駅に、17時待ち合わせでお願いします>

と記載されていた。

 戸塚。聞いたことはあるが、訪れたことはない。戸塚に、一体何があるのだろう。しかも、朝や昼ではなく17時?モヤモヤ、そして、ソワソワしながら一週間を過ごした。

 6月11日、日曜日。朝のうちは晴れていたが、午後から天気は下り坂になり、慶将が自宅を出る頃にはポツポツと雨粒が落ちてきた。どんな内容にせよ、綺麗な夕焼けを見つめながら話を聞きたかった。夕陽が沈んだ後は、夜空に瞬く星を見上げたかった。おおよその話の流れは予想、いや、覚悟している分、せめて目には綺麗なものを焼きつけたかった。

約束の時刻より少し早く、慶将は戸塚駅に到着した。改札を抜けると、奈美ちゃんがすでに待っていた。柱にもたれかかったまま脚をクロスさせ、ぼんやりと空を眺めていた。女性との待ち合わせで相手を待たせたのは、初めてだった。

「ゴメン、待った?」

と、慶将が声を掛けると、

「うわっ!ビックリした!ボーっとしとった」

と、慌てて振り向いた。演技ではなさそうだ。驚いて目を真ん丸に見開いた後に覗かせた表情に、翳りは見えない。慶将は少しホッとして、ホッとする自分が情けなくなるのだった。

 「チョット歩くけど、かんまんで?」

と、奈美ちゃんが訊いてきたとおり、駅から20分ほど歩いた。国道一号線・原宿交差点を直進してからは、小さな公園や平屋の一戸建てが目立ってきた。ちらほらと、個人商店もある。なんだか、虹の都病院に勤めていた頃の通勤路に似ている。お互いに一本ずつ傘を差して歩いていたので、道路の三分の一ほどを占領する形になってしまったが、幸い、車は一台も通らなかった。そんな先に、一体何があるというのだろうか。

 古びた掲示板の前で、奈美ちゃんが立ち止まった。「バイク・自転車乗り入れ禁止」と書かれた立て札もあり、その隣には、「小雀公園」と彫られた1m四方の石碑がある。公園内を覗いてみると、ベンチや水飲み場があり、ブランコや滑り台、ジャングルジム、シーソーなどの遊具一式も設えられていた。ベンチに並んで座って話すのだろうか。それとも、ブランコに揺られながら話すのだろうか。頭の中でブランコを思い描くと、同時に思い出したくない記憶が蘇ってきてしまい、あわてて首を横に振り、頭の中の映像を消し飛ばした。

 そんな慶将の動きに気付いていたかどうか、奈美ちゃんがボソッと口を開いた。

「ここ、蛍が綺麗に見えるんよ。私のお気に入りの場所で毎年来よんやけど、今日は雨やけん蛍飛んどらんかもしれんなぁ」

寂しそうにも、諦めて開き直っているようにも見える。そんな横顔だった。

 園内は、思っていたよりもずっと広かった。遊具のあるスペースの奥に、サッカーや野球ができるグラウンドやテニスコートといった施設があり、さらにその奥には竹林、スギ林、大きな溜池、湿地地帯など自然豊かな空間も整備されていた。これなら蛍が住みつくのも納得がいく。

 二人並んで小路を進み、蛍の鑑賞スポットに辿り着いた。「ホタルの里」と呼ばれているらしい。頭上には、ナツツバキやヒメシャラが花を咲かせていた。薄暗くなってきた空に、鮮やかな白が見事なコントラストになっている。足元にはノアザミやユウゲショウの花も咲いていたが、あいにく紫色の花は今の時間帯には闇に紛れてしまっていた。

 屋根の付いたデッキに設置された木製のベンチに座った。道中、二人は押し黙ったままだった。先に言葉を発したのは、沈黙の気まずさに耐えかねた慶将だった。

「いつもここに座って見るん?」

奈美ちゃんは真っ直ぐに正面の溜池を見つめたまま、

「うん。いつもはもっと人いっぱいで座れんのやけどな」

と答えた。確かに、これだけ施設や自然が充実した公園なら、老若男女問わずに訪れたくなるだろう。雨のおかげで、ゆったりとベンチに腰掛けることができた。でも、そもそも雨で蛍が飛んでいなければベンチに座れても意味が無い。本末転倒とはこの事だ。

「蛍、好きなん?」

慶将が重ねて訊くと、

「メッチャ好きってわけじゃないんやけど、この時期になったら見たくなるんよなぁ。徳島におった時も、毎年見に行っきょった。鳴門の大谷川とか、美郷とか」

と答える。懐かしいふるさとの地名に、思わず頬が緩みそうになったが、そんな思い出話をしている場合ではないんだと気持ちを引き締めて、本題に一歩踏み込んだ質問を投げ掛けた。

「咲良ちゃんは、今日どないしよん?」

すると奈美ちゃんは、背筋をスッと伸ばし、大きく息を吸い込んでから答えた。

「今日は家で留守番しとる。友達ん家に泊まりに行ってもエエよって言うたんやけど、『家でおる』って。あの子なりに、私と慶将くんがどうなるか気になるんちゃうで?」

 胸が痛くなる。何も悪いことはしていないはずだが、罪悪感に襲われる。

「咲良、結構慶将くんの事気に入っとるみたい。家でおる時も、しょっちゅう慶将くんの話するし、『次はいつ慶将さんと遊ぶん?』とか訊いてくるしな」

知らなかった。でも、子供好きな慶将にとってはありがたく、嬉しい話だった。

「私は咲良を第一に考えたいけん、もし咲良が心の底から懐いて『パパ』って呼べる人が現れたら、結婚も見据えて付き合ってもエエかなって思っとったんよ。それが、慶将くんかなって思ったし、今でもそう思っとる」

胸がまた痛くなる。今度は、さっきとは違う意味で。

「ほなけど、この前の慶将くんの話聞いて、前の旦那のこと思い出してしもたんよな。頭では『慶将くんはそんな人じゃない』っていうんは分かっとんやけど、心が追い付いてないっていうか、受け容れ切れてないっていうか・・・また裏切られるんちゃうかって考えてまうんよ。しかも、今度はもしかしたら咲良も傷付けてまうかもしれんって考えたら、なかなか一歩踏み出せんのよな。キツイ言い方やけど、信用できんっていうんが正直な気持ち」

奈美ちゃんは、ゆっくりと言った。これが、今の奈美ちゃんの本音なのだろう。それでも、本心ではないはずだ。なぜなら、言葉の後半は微妙に震え、少し伏せた目が赤くなっていたから。大丈夫。まだ、希望はある。

「分かるよ。俺も、男と遊びまくっとる女の人には不信感抱いてしまうと思う。ほなけん、いきなり『付き合って』って言うつもりはない。LINEのやり取りしてくれるだけでもエエし、時々一緒に呑みに行ってくれるだけでもエエ。あっ!奈美ちゃんからの連絡待っとる間に面接してもらって、採用も決まったんよ。ほなけん一緒の職場で働けるだけでも俺は満足。どんだけか細くても奈美ちゃんとの繋がりがあったら嬉しいし、ただの同僚としてでも奈美ちゃんの姿が見えるだけで幸せな気持ちになる。俺も結婚願望って無かったんやけど、奈美ちゃんと出会って『結婚したいな』って初めて思った。結婚の事だけでなくて、他にも色んな考え方とか価値観が変わったんよ。自分のことずっと頑固でこだわりが強い人間と思っとったけん、俺が一番ビックリしたけど、それぐらい俺の中で奈美ちゃんの存在は大きいんよ。いつかは奈美ちゃんの旦那になって、咲良ちゃんのお父さんになりたいなって思っとるし、その覚悟もちゃんとある!ほなけん、そのスタートラインにだけは立たせてほしい!奈美ちゃんに認めてもらうまで、ずっと、いつまでも持っとるけん!」

予め決めていたわけではなかったが、セリフは意外なほどくっきりと頭に浮かび、滑らかに口から出た。奈美ちゃんは俯いた顔を両手で隠した。肩が震えている。微かに嗚咽も漏れ聞こえる。しばらくは喋れそうにないかなと感じ、顔を奈美ちゃんから正面の溜池に向け直した時、何かが聞こえた。

「・・・ん・・・で?」

最初は虫の羽音かと思い、辺りをキョロキョロする慶将だったが、次に聞こえてきた音でその正体に気付いた。

「なんで?私のどこがイイん?ようけ女友達おるのに、なんで私なん?」

頬を上気させ、顔を上げて慶将に眼差しを向けながら奈美ちゃんが言った。キッと睨み付けるような視線だったし、口調も慶将を責め立てるように強かった。それでも、怒っているわけではないんだと、伝わってくる。ただ、一生懸命なだけなのだ。

 奈美ちゃんの視線をしっかりと受け止めて、慶将は答えた。

「俺にも、はっきりした理由は分からん。ほなけど、奈美ちゃんに出会ってから今まで感じた事ない気持ちが生まれたんよ。ほれはずっと、今も、ここにある!」

自分の左胸を拳で軽く叩きながら、慶将は続ける。

「今まで仲良くしよった女の人には、確かに『可愛いね』とか『綺麗だね』とか、ようけ言うてきた。嘘ついたわけではないけど、本気で思っとったわけでもないと思う。朝起きた時に『おはよう』って言うたり、寝る前に『おやすみ』って言うんと同じで、無意識に言葉が出る感じに近いかな。でも、奈美ちゃんには違う!軽々しくそんな事言えんし、口に出す一言一句を真剣に考えよる。ほなけん疲れるし、緊張もする。胸が苦しくなって、息できんようになる時もある。今までどんな女の人にも言った事ない言葉やし、感じた事のない気持ちだったけん最初は気付かんかったけど、やっと分かった。俺は・・・奈美ちゃんが好き。ほれを教えてくれたんは、間違いなく奈美ちゃんなんよ」

 奈美ちゃんの目からは、また新しい涙が溢れてきたが、もう顔を手で覆うことはなかった。強かった眼差しもいつの間にか和らぎ、顔をしわくちゃにした泣き顔になっていた。そして、鼻を啜りながら、

「・・・ホンマに私でイイん?」

と呟いた。声は小さくなったが、震えは少し収まっていた。慶将は大きく頷きながら、

「もちろん!」

と応える。

「私、バツイチで子供もおって、料理も上手くないし、掃除も丁寧にできんし、服も脱ぎっ放しにしてまうし、裁縫も全然できんし、ワガママで“かまってちゃん”やし、メッチャ重い女と思うけど・・・ほれでもイイん?」

早口に奈美ちゃんが言う。慶将は微笑み、再び大きく頷きながら、

「全部含めて、奈美ちゃんが好き。『奈美ちゃんがイイ』じゃなくて、『奈美ちゃんじゃないとアカン』のよ」

と応えた。最後のセリフはクサかったかな、と微笑みが照れ笑いに変わる。奈美ちゃんも同じ事を思ったのだろう、泣き笑いの顔で、

「何ほれ!現実でそんなん言う人、初めて!」

と言った。目が合って、しばらく見つめ合う。堪えきれず、フフッと笑みが漏れ、あっという間にアッハッハッハという大笑いに変わった。どちらが先に笑い出したのかは・・・もう忘れてしまった。

 笑う時には、口元を手で隠しながら上品に笑う女性がタイプだったが、これも、奈美ちゃんに出会って考え方が変わった。いつか、本人に教えてあげようかな。


 その後も、慶将と杉本家は変わらぬ距離で付き合いを続けている。月に二、三度、一緒に外食に行ったり、杉本家に招かれて手料理を振る舞ってもらったり。

奈美ちゃんの作る料理は、見た目はお世辞にも『インスタ映えする』とは言えなかったが、味は本人が気にするほど悪くはなかった。むしろ、慶将の味覚にはとてもマッチしていた。奈美ちゃんへの想いが強すぎて、公平なジャッジができていないだけかもしれないが。

 あの日、小雀公園からの帰り道も、急に仲直りをして楽しくお喋りしながら歩いたわけではない。行きと同じように、重い沈黙に包まれ、重い足取りで戸塚駅に向かった。ただ、奈美ちゃんは自分のビニール傘を開かなかった。慶将の差す傘に、スッと入ってきた。「入ってもイイ?」とは訊かれなかった。さも、そうする事が当たり前であるように、無言で慶将の隣に身を寄せてきた。言葉にしなくても伝わるものは、確かにある。

 途中で奈美ちゃんに、

「疲れただろ?傘持ったげるよ!」

と言われた。特に手が疲れたわけではなかったし、女性に傘を差してもらうのは気が引けたのだが、ここで甘えるのも「好き」のうちなのかな、と好意を素直に受けることにした。最初は違和感があったが、歩くうちにだんだんと慣れていった。しまいには、少なくとも慶将には、ずっとこういう歩き方をしてきた、という錯覚に陥るほどだった。

 雨の日も悪くないなぁ、と呑気に考えながら歩いていると急に、傘を叩く雨音が消えた。「止んだのかな?」と空を見上げると、雨は変わらず降っていた。瞬く間に慶将の服が濡れていく。セットした髪の毛はワックスが落ちて、だらしなく前髪が垂れ下がる。何が起こっているのか分からない慶将は、慌てて奈美ちゃんを振り向いた。雨に濡れる原因は分からないままだったが、「奈美ちゃんが濡れないようにしないと!」と思ったのだ。オスの、いや、慶将特有の本能だったのかもしれない。

 だが、隣にいるはずの奈美ちゃんの姿が見えない。

消えた?-そんなわけない。

瞬間移動?-慶将はたまに発想が幼稚になる。

UFOに攫われた?-パニックになると、ヒトの思考は正常でなくなる。

辺りを見回すと、5mほど後ろに奈美ちゃんが立っていた。俯いて、傘で顔が隠れているので、表情は分からない。気分でも悪くなったのか、と心配になって奈美ちゃんの元に駆け寄った。少し屈んで、奈美ちゃんの顔を覗き込みながら、

「奈美ちゃん、いける?」

と、声を掛けた。すると、目が合うやいなや、奈美ちゃんは「アーハッハッハ」とお腹を抱えて大笑いした。

 屈んだ姿勢のままキョトン、とする慶将を見て奈美ちゃんは笑いながら、

「何でもないよ。チョット意地悪しただけ!慶将くん全然気付かんけん、こっちが焦ったわ!」

と言って、舌をペロッと出した。ホッとして肩の力を抜くと、今度は急に恥ずかしくなってきた。安堵と悔しさの入り混じった複雑な口調で、

「もー、ビックリしたでぇ!」

と言うと、奈美ちゃんに、

「慶将くんのリアクション最高!イジリ甲斐があるわ!」

と言われた。そして、少し不安そうな表情になって、

「怒っとる?」

と訊かれた。

「全然!」

言葉だけでは足りない気がして、左右に首を何度も大きく振って答えた。すると、慶将の髪を濡らしていた雨粒が奈美ちゃんに掛かってしまった。思わず「キャッ」と短い悲鳴を上げる奈美ちゃんを見て、慶将は、

「あっ、ゴメン!」

と、ポケットからハンカチを出し、奈美ちゃんに掛かった雨粒を拭き取った。奈美ちゃんは少し呆れたように、

「ほんなに掛かってないけん、そこまでせんでもいけるよ。ホンマに優しいなぁ」

と言いながら、ニコッと笑ってくれた。

優しさとは弱さだ、と慶将は思っていた。弱いから優しいのか、優しいから弱いのか。あるいは、弱いくせに優しいのか、優しいくせに弱いのか。でも本当は逆で、強さと優しさは比例しているのかもしれない。そんな風に思うようになってきた。何にせよ、改めて言われると照れてしまい、幼い子供が拗ねた時のようにプイッと横を向き、

「ほんなことないよ」

と、言い返した。すると、今度は奈美ちゃんが少し拗ねたように、

「他の女の子にも優しいんだろ?」

と言ってきた。慶将も、奈美ちゃんのノリに合わせて、

「どうだったかなぁ。過去は振り返らん性格やけん」

と、冗談交じりに答えた。奈美ちゃんも、待ってました、と言わんばかりに、

「よう言うわ!クビになった時、こっぱ凹んどったでぇ!」

こっぱ‐「とても」を表す徳島の言葉だ。懐かしさに思わず頬が緩むと、勘違いした奈美ちゃんに、

「笑ってごまかさんとってよ!」

と、肩を軽く小突かれた。

本当に、気が強くて、乱暴な人だ。ワンピースのナミみたいだな、と思うと、そういえば名前が同じだなと気付いた。「ワンピースのナミにそっくりやなぁ」と伝えると、奈美ちゃんは喜ぶだろうか。それとも目くじらを立てて怒り出すだろうか。それでも、慶将はロビンよりナミ派だし、そんな奈美ちゃんの事が大好きなのだ。

 相合傘で歩く帰り道は、驚くほど短く感じた。そして、どこまでも歩いて行けそうな気がした。


 目まぐるしく季節は移り変わる。

夏・・・杉本家と一緒に、川崎市にある向日葵の穴場スポット「黒川ひまわり畑」に行った。草丈が約40㎝と低い場所に花を咲かせる「スマイルラッシュ」や、中心部まで花びらになっている「レモネード」、定番の品種「ハイブリッドサンフラワー」など様々な品種が植えられていた。慶将は、夏の象徴のような向日葵の花が好きではなかった。見ているだけで、暑苦しさを感じてしまう。しかしこの日を境に、慶将の好きな花ランキング一位は向日葵になった。向日葵を見て連想するものが、燦燦と照る太陽ではなく、奈美ちゃんの笑顔に変わった。

お盆には、奈美ちゃんと咲良ちゃんは徳島に帰り、本場の阿波おどりに参加した。慶将も観覧を誘われたが、断った。まだ、ふるさとには帰りたくなかった。正直、徳島のことはあまり好きではない。良い思い出は、ほとんど無い。それでも、杉本家に出会って少しずつ気持ちに変化が生じている。何を依怙地になっていたのだろう。そもそも、どうして徳島を疎ましく思うようになったのだろう。そんな理由すらも、忘れてしまった。奈美ちゃんと咲良ちゃんを両親に紹介できるようになったら、帰郷しよう。来年には、帰れるかな。

帰省する代わりに、高円寺の阿波おどりに応援に出掛けた。

肘を軽く曲げて肩よりも高く上げた両腕が、天に向かってピンっと伸びている。膝は軽く曲げ、腰を軽く落とし、両足は内股気味のつま先立ちになる。この姿勢がキツイのだ、本当に。手首は曲げずに指先を上に向け、掌はやや内側に向ける。正面からみて軽く「八の字」になる様に開く。上体を右に向けながら、右腕を前方に伸ばす。掌はやや内側に向けたまま、肘を伸ばし真っ直ぐ前に出す。同時に、右足は地面を蹴り上げる様に太ももを上げる。踵はお尻に付く様に、爪先は下に向ける。この時、膝を擦る様に内側に向け、足を上げる。右足を左足の爪先の前に出す。内股で右足を爪先から左足の前に下ろし、腰を落としたまま重心を右足に移動させる。これを左右交互に、リズミカルに、どんなに暑くても笑顔を絶やさずに、一時間近く続けるのだ。

それでも、奈美ちゃんはおろか、小学生の咲良ちゃんもその姿勢をキープして、華麗な女踊りを披露する。母娘というよりも、姉妹に見える。汗だくになって踊り続ける二人は本当に美しく、心の底から拍手を送った。

秋・・・慶将は車を買って、三人でドライブに出掛けた。事故でペシャンコになってしまったスカイラインの代わりだ。入院当初、次はBMWのセダン、もしくはクーペを乗り回そうと決めていたが、実際に購入したのは国産のワンボックスカーだった。幼い頃から外国車に乗る事に憧れを抱き、夢でもあった。そんな夢よりも叶えたい何かが、確かに慶将の中に芽生えてきている。具体的な形はまだ見えないが、そのヒントになる存在は、今とても身近にいる。

ドライブの行き先は、奥多摩湖にした。関東近辺では、日光の「いろは坂」が最も有名な紅葉スポットなのだが、来年の修学旅行で咲良ちゃんが訪れる予定になっていたので、敢えて候補から外した。修学旅行で友達と初めて見る方が、きっと素敵な思い出になるはずだ。

奥多摩湖は、多摩川を小河内ダムによって堰き止めて造られた貯水池だ。周囲の山々の紅葉が湖面に映り、奥多摩湖畔や奥多摩周遊道路の紅葉など、それぞれ違った表情の紅葉を楽しむことができる。ダムサイトの遊歩道である「見はらしの丘」や「奥多摩湖いこいの路」も紅葉の中を進むようにハイキングを楽しめる。慶将たちが訪れた時期には、ちょうどカエデやコナラ、イチョウなどが色付き始めていた。

また、奥多摩湖には二つの浮橋が架けられていた。そのうちの一つ、麦山浮橋は小河内神社のすぐ近くにあり、通称「ドラム缶橋」と呼ばれている。昔はドラム缶で作られていたそうが、現在はドラム缶状の樹脂と金属の素材が用いられているという。グラグラと揺れる浮橋を渡る時には、咲良ちゃんも「キャー」と幼い声を上げて大興奮だった。もっとも、それ以上にビビっていたのは他の誰でもない、慶将だった。それでも、湖面に吹く風を全身で感じながら歩く橋の上は、とても気持ち良かった。

湖畔のレストランで食べた「やまめ」も絶品だった。ヤマメは、姿・形の美しさや味の良さから「渓流の女王」と呼ばれて人気の高い魚だが、生まれて二年で産卵して死んでしまうため、塩焼きでの利用がほとんどだった。そこで1998年に、食用としての利用範囲を広げるため先端技術を応用して、二年以上も生き残って成長する「奥多摩やまめ」が開発された。サイズの大型化も伴って、燻製や干物などの加工品も商品化されている。また、通常のヤマメに比べてタンパク質や脂肪が多く含まれており、成分の季節的変化が少なく肉質が安定しており、産卵期の腹部の厚みが落ちることがなく、一年中美味しく食べられるのだという。

レストラン自体も、アットホームで和やかな雰囲気で、それでいて観光客の活気に満ち溢れていた。テラス席も設置されており、そのすぐ先には湖が一望でき、湖面を滑るように吹いてくる風が、何とも言えず心地良かった。そんな中で食べる奥多摩やまめなのだ、「美味い」以外の感想が出てくるわけがない。塩焼きはもちろん、刺身やお寿司、さらにはムニエルなど多様な料理を平らげた。まさに、奥多摩やまめのフルコースだった。

こういったお店で食事をするのは、久しぶりだった。少なくとも、横浜で暮らすようになってからは初めてだ。慶将にとって誰かと食事をする店は、ミシュランの星がいくつ付いているか、個室があるかどうか、有名人御用達か、ワインの品揃えが豊富かどうか、といった条件を満たしているかが決め手になっていた。

確かに、そういうお店の料理は味も美味しいし、接客やサービスも良い。同席した相手も喜んでくれる。ただ、最近はグルメ雑誌やテレビ番組で取り上げられていないようなお店の良さに気付き始めてきた。老夫婦二人が営む小さな食堂、床が油でギトギトになった町中華屋さん、燻製になってしまいそうなほど店内に煙が立ち込めているカウンター席のみの焼き鳥屋さん。初めて訪れる店なのに、どこか懐かしさを感じさせてくれる、そんなお店ばかりだ。そして、インターネット検索で探すのではなく、自らの足で街を歩いて見つけるのが、また良いのだ。隣を歩いてくれる人が二人もいるので、寂しさなど微塵も感じない。

冬・・・奈美ちゃんの強い希望で、クリスマス・イヴにイルミネーションを観に行った。関東近辺には、有名なイルミネーション・スポットがいくつもある。その中から杉本家が選んだのは、さがみ湖MОRI MОRIで催されているイベント「さがみ湖イルミリオン」だった。「リラックマ」や「すみっコぐらし」などの人気キャラクターとコラボレーションしているらしい。咲良ちゃんは、「すみっコぐらし」が大好きなのだ。

入園口を抜けると目の前がイルミリオン会場で、斜面を中心に約600万球の光に出迎えられた。イルミリオンは歩いて回れるように順路が設けられており、時計回りに会場を歩いて進むようになっていた。ゆっくり歩いて一周一時間ほどの時間を要したが、見応えのあるスポットが次々と出現するので、時間の流れがあっという間に感じられた。中でも、高さ15mのシンボルツリーと宮殿風イルミネーションウォールが複合する没入型イルミネーションは圧巻だった。森の仲間たちが演奏する音楽会をテーマに、様々な楽器が奏でるクリスマスショーに合わせて約三分間のオリジナルショーを堪能した。

咲良ちゃんはもちろん、奈美ちゃんも終始大はしゃぎだった。咲良ちゃんよりも大きな声で快哉を叫び、咲良ちゃんの腕を引きながらできるだけ間近でイルミネーションを観るためにダッシュを繰り返し、時には咲良ちゃんそっちのけでスマートフォンのカメラをかまえる。おそらく、慶将の存在など完全に頭から消え去っているだろう。寂しくないと言えば強がりになってしまうが、それ以上に、楽しそうな奈美ちゃんの姿を見て嬉しくなった。

普段は気鋭で姉御肌な奈美ちゃんだが、こんな無邪気な一面もあるんだと、慶将は初めて知った。僕はまだ、奈美ちゃんの事をほとんど知らないのだろう。たぶん、奈美ちゃんも慶将の全てを知っているわけではない。時々、全てを見透かされているような言動や仕草が見られるのだが。

でもきっと、それで良いんだと思う。お互いを完全に分かり合えているカップルや夫婦は、世界に何組いるのだろう。限りなくゼロに近いはずだ。もしも、お互いの事を全て分かり合えていないと結婚できないのなら、一生独身でいい。むしろ、一人の方が何倍もマシだ。奈美ちゃんも同じ考えだと思う。根拠はない。けれど自信はある。それくらいは分かるレベルに、二人の距離は近付いているのだった。

 そして、木々の主役が梅から桜へと変わった4月。奈美ちゃんと出会って、一年が過ぎようとしていた。


 六年生になって早々に、咲良ちゃんが一泊二日の修学旅行に出掛けた。初日は栃木県に向かい、華厳の滝、日光東照宮、いろは坂を巡り、二日目は千葉県に移動して丸一日ディズニーランドで過ごす、という行程らしい。

「二日間、寂しくなるなぁ」

慶将が言うと、奈美ちゃんは

「家が静かになってエエわ!」

と、笑いながら憎まれ口をたたく。こんなところでも負けず嫌いなんだなぁと思うと、慶将の頬もつい緩んでしまう。慶将は、話題を修学旅行に戻し、

「ほなけど、やっぱり徳島の小学校とは行き先が違うんやなぁ」

と、感心するような、懐かしむような口調で呟いた。

「慶将くんは、小学校の修学旅行どこ行ったん?」

奈美ちゃんが訊いてきたので、

「大阪城行ってお城の中見学して、奈良の大仏見て、奈良公園で鹿と戯れて、京都は金閣寺と銀閣寺と太秦映画村に行ったかな」

と答えた。二十年以上も昔の事なのに、思い出すという意識もなく次々と当時の様子が頭に浮かんだ。ふるさとでの、数少ない楽しい思い出なのかもしれない。

 慶将が答えると、奈美ちゃんは、

「えー!私も一緒じゃぁ!」

と驚いて、そして、嬉しそうに丸く見開いた目をキラキラと輝かせていた。

「慶将くん、小学校どこ?」

「俺は応神小学校。奈美ちゃんは?」

「私は国府小学校。同じ市内でぇ!」

徳島を東西に貫く吉野川を隔てて、北側に応神町、南側に国府町がある。隣町と言っても過言ではない。

「四国三郎橋渡って、よぉ『フジグラン』に買い物行ったわ!昔は映画館もあの中にしかなかったし。もしかしたら、どっかですれ違った事もあったかもしれんなぁ」

懐かしい橋やショッピングモールの名前が出てきて、慶将の心もじんわりと温もってきた。頷きながら目を閉じると、久しく会っていない人たちの顔が浮かんだ。徳島で暮らしている、家族だ。事故で入院して以来、時々思い出す。

奈美ちゃんと咲良ちゃんを見ていると特に、家族って良いな、と素直に思う。慶将も、中学生の頃までは家族が大好きだった。何をするにしても家族と一緒だったし、楽しい思い出はいつも家族と共にあった。

厳しくて怖かった父親だが、そのおかげで言葉遣いや礼儀作法など、人前に出ても恥ずかしくない躾を施してくれた。開業医としての姿に、密かに憧れを抱いていたものだ。

専業主婦でずっと家にいた母親の存在が、鬱陶しく感じた時期もあった。それでも、毎日美味しいご飯を作ってくれたし、試験前に徹夜で勉強していた時に作ってくれた夜食の雑炊の味は、今でも忘れられない。人生の最後に食べたい物をひとつだけ挙げるならば、あの雑炊と決めている。

一歳下の弟は、常に学年トップ5に入るほど成績優秀で、部活のサッカー部ではエースストライカーとして活躍し、市の選抜チームにも選出されるプレイヤーだった。まさに、文武両道を地で行くような奴だった。自分とは真逆の、華々しい学生生活を送る弟を妬みながらも、「兄ちゃん、兄ちゃん」と言いながら慶将の服の裾を掴んで離さない幼い頃の弟の愛くるしさは、ずっと消えてはいなかった。

尊敬しているのに、心のどこかで嫉妬してしまう。信頼しているのに、疑いの目を向けてしまう。愛情を注いでくれているのに、それを拒んでしまう。感情がバラバラに動き回って落ち着かない。感情が動くと、「感動」になるはずなのに。

ちょうど咲良ちゃんが不在の日に、みなとみらいで小さなお祭りが開催された。花火も打ち上げられるということで、久しぶりの二人きりのデートも兼ねて出掛けることにした。赤レンガ倉庫の前には、美味しそうな食べ物やオシャレな飲み物を販売しているキッチンカーが十台ほど並んでいた。黒毛和牛のサーロインステーキ串、黒トリュフの素揚げ、フォアグラのハンバーガー。これまで見てきたお祭りの屋台とは漂わせる雰囲気が、ひと味もふた味も違う。これが、みなとみらいクオリティなのだろう。

以前の慶将は、そんなみなとみらいが大好きだった。憧れてもいたし、こういう街に気軽に出掛けられる自分を誇りにも思っていた。でも、不思議と今はそんな感情は湧いてこない。キッチンカーに長蛇の列をつくって並ぶ人々の姿に、違和感すら覚える。奈美ちゃんも同じだったのだろう。「何か・・・なぁ」「ちょっと違うよなぁ」と、お互いにため息をついて頷き合いながら、結局何も買わなかった。

近くのコンビニで缶ビールと肉まんやフライドチキンといったホットスナックを買い、つまみながら花火を観賞することにした。赤レンガ倉庫を背に、慶将と奈美ちゃんは、フェンスに乗せた両肘に体重を預けるような姿勢でぼんやりと海を眺めていた。花火の打ち上げ五分前のアナウンスが流れた時、奈美ちゃんがポツリと呟いた。

「咲良の泊まっとるホテルからも、花火見えるかな?」

「栃木やっけ?さすがに無理かもなぁ」

「じゃよなぁ・・・」

ちらりと盗み見た横顔には、寂しさが滲んでいる。慶将は励ますように、

「夏になったら色んな花火大会もあるし、今度は三人で行けばエエよ」

と声を掛けた。だが、奈美ちゃんは、

「でも夏は阿波踊りが忙しいなるけん、なかなかお祭りとか行けんのよなぁ」

と、ため息交じりに肩を落としながら言う。

 そうだった。踊り子たちは6月の梅雨入り頃から、早い連だと5月のうちから練習を開始する。そして、お祭りや花火大会がピークを迎える7月や8月には、あちこちのイベントで踊りを披露するのだ。たとえその会場で花火が打ち上げられても、それをゆっくりと観賞することは難しいだろう。

 「私は・・・あの子を幸せにしてあげれとんかなぁ・・・」

再び、奈美ちゃんがポツリと呟く。先程よりも、深く、重く。慶将は言葉に詰まってしまう。仕事の愚痴や不満を聞いた事は何度もあったが、家庭の悩みや弱音を聞いたのは初めてだった。奈美ちゃんにとって、咲良ちゃんが心の拠り所なのだと思っていた。もちろん、それは間違いないのだろうが、やはりそこにも楽しさや喜びだけでは埋め尽くせない何かがあるのだろう。親になったことのない慶将には、想像すらつかない。

 なんと声を掛ければいいのかと思案していると、奈美ちゃんが慶将の胸の内を読み取ったように、

「ゴメンゴメン。こんなん慶将くんに言うてもしゃーないのになぁ。まぁ、家で手持ち花火でもするわ!ほの時は、慶将くんも来てよ!」

と、沈んでいた場の空気をふわっと持ち上げるような明るい口調で言った。笑っていた。でも、目には光るモノが見えた。考えるより先に、慶将の口から言葉が飛び出した。

「咲良ちゃんは幸せじゃよ」

奈美ちゃんが「えっ」と振り返る。

「もし阿波踊りがキツくて、しんどくて、嫌だったとしても、ほれも含めて幸せじゃよ。ほなって、咲良ちゃんにとって一番大好きな奈美ちゃんがいつも一緒におるんやけん」

奈美ちゃんは何も言わない。俯いて、肩を震わせる。慶将はそれに気付いたが、そのまま続けた。

「幸せって、人それぞれ形が違うと思うんよ。お金がいっぱいあったら幸せって言う人もおれば、友達がようけおったら幸せって言う人もおる。俺は自分の両親とあんまり仲が良くないけん、母と娘で仲良い杉本家は幸せに見えるよ。ほなけん、奈美ちゃんは今まで通りで良いと思う。奈美ちゃんが信じるやり方で咲良ちゃんと接していったら、想いは絶対に伝わる!ほれでも不安になったり怖くなったりしたら、俺が全力で支える!支えさせてほしい!奈美ちゃんの事も、咲良ちゃんの事も」

 その時、一発目の花火が打ち上がった。周りにいた観客から「おーっ」という歓声も上がる。奈美ちゃんが少し顔を上げて、

「・・・信じていいん?」

と、鼻を啜りながら訊いてきた。慶将は奈美ちゃんの方を向き、大きく頷いた。奈美ちゃんにその動きは見えなかったはずだが、慶将の手をそっと握り、頭を傾けて慶将の肩に預けてきた。慶将も、奈美ちゃんの手を握り返す。もう、この手は離さない。「今しかない!」と思った。

 「奈美ちゃん・・・結婚しよう」

奈美ちゃんがキョトンとした表情を浮かべて振り向く。唐突すぎたかなと思っていると、奈美ちゃんが口を大きく動かした。周囲の賑わいに紛れてしまったのか、そもそも声には出さなかったのか、声は慶将の耳に届かなかったのだが、口の動きでなんとかメッセージは読み取れた。

「な・ん・て?」

奈美ちゃんも、花火の音や観客の声で聞こえなかったのかもしれない。慶将はもう一度、先程よりも大きな声で、

「結婚しよう!」

と、言った。でも奈美ちゃんは再び、

「な・ん・て?」

と、口の動きだけで訊き返してくる。まだ聞こえないのかな?この距離なのに?

 怪訝に思いながらも、慶将は少しセリフを長めて、改めて気持ちを伝えた。

「奈美ちゃんの事が好きです!結婚してください!!」

もはやそれは、叫び声になっていた。周りにいた観客の視線が一斉に慶将たちに向けられた。慶将はそれに気付くと辺りをキョロキョロと見回して、背中を丸める。もっと静かな場所で、ロマンチックなムードの中で言うべきだったと、遅ればせながら気付いた。

恥ずかしさと悔いが同時に押し寄せてきた時、繋いでいた奈美ちゃんの手が震えていることに気付いた。どうしたのだろう、と慶将が奈美ちゃんの顔を覗き込むと、「クックック」と嗚咽を漏らしている。まだ泣いているのだろうかと心配になったが、次の瞬間、その心配は杞憂に終わった。

奈美ちゃんは「アーハッハッハ」と豪快に笑い出した。今度は、慶将がキョトンとする番だった。

「やっぱ慶将くんイジるんおもっしょいわぁ。ほんな大声で言わんでも聞こえとるよ」

恥ずかしさが更に募り、耳が真っ赤になるのが分かる。頬も熱く火照ってきた。

「でも嬉しかったよ。ありがと」

こんな所で言ってしまってゴメン、と言おうとしたが、それは叶わなかった。顔を上げた慶将の口は、奈美ちゃんの唇で塞がれてしまったから。

一瞬の出来事だった。

夢でも見ているかのようだった。

一年越しの想いが、ようやく実った。

 唇を離した奈美ちゃんは、イタズラっぽく微笑んだまま、

「もう一回する?」

と訊いてきた。ようやく正気を取り戻した慶将は、コクンと頷き、今度は慶将の方から唇を寄せた。奈美ちゃんは、目を閉じて受け容れてくれた。今度のキスは、長いキスになった。まるで、二人以外の全ての時が止まってしまったかのようだった。花火が「ヒュー」と打ち上げられ、「ドーン」という開花の音に続いて、「パラパラパラ」と散っていく音が聞こえる。三発、いや五発、いやいや十連発。花火も祝福してくれているのかもしれない。

花火の余韻が消えると、今度は「パチパチパチパチ」という音が聞こえてきた。慶将も奈美ちゃんも目を閉じているので、音の正体は分からない。周りにいた観客が気を遣って拍手をしてくれているのかもしれないし、フェンスの下で小魚が水面を跳ねているのかもしれないし、そもそもまったく別の音なのかもしれない。でも、目を開けて確認するつもりはない。音の正体が何であれ、確かな事はたったひとつ。二人が今、幸せに包まれているということだけだった。

その夜、二人はひとつになった。どちらから誘ったというわけではなく、自然な流れだった。奈美ちゃんのアパートで抱き合った。熱く、熱く抱き合った。安普請の壁なので、お隣さんに声が漏れ聞こえないよう必死に声を噛み殺す奈美ちゃんの表情が、慶将をさらに昂らせた。インサートの瞬間、これまで感じた事のない感覚に襲われた。女性を抱くのは初めてではない。なのに、この下腹が内側からめくれ上がるような感じは一体何だろう。波になって押し寄せてくるような、この感じ。これが本当の快楽なのだろうか。いや、これこそが「幸せ」というものなのだろう。翌日の仕事の事も忘れ、二人は一晩中、何度も抱き合った。

翌々日の夜、咲良ちゃんが修学旅行から帰って来た。二日目に行ったディズニーランドで、揃いの茶碗をお土産に買ってきてくれた。ミッキーマウスのお茶碗は慶将に、ミニーマウスのお茶碗は奈美ちゃんに、ということだった。

「いつか夫婦になるんだろ?ほな、夫婦茶碗が要るでぇ!」

本当に、大人っぽい子だ。奈美ちゃんも

「何を生意気な事言よん!」

と呆れていたが、その顔はどこか嬉しそうでもあった。

 せっかく「夫婦」というワードが出てきたので、このタイミングで慶将は奈美ちゃんにプロポーズした話を咲良ちゃんに聞かせることにした。奈美ちゃんはその時の事を思い出したのか、笑いながら、

「まだ付き合ってもないのに、いきなり『結婚してくれ』って、気ぃ早すぎだろー!」

と言う。ところが咲良ちゃんは、

「ほうなん?私は、てっきりもう付き合っとんかと思っとったけど」

と、さして驚いた様子もなく言う。

 結局、この一年はどんな一年だったんだろうなぁ、と慶将もふと思った。「友達以上恋人未満」なんて言葉もあるが、そういう関係だったのだろうか。まぁ、何でもいいか。通ってきた道がたとえ険しい獣道でも、複雑に入り組んだ迷路でも、今が幸せならそれらは全て「思い出」という綺麗な一本道になるのだから。

 「ほなけど良かったなぁ、ママ!あのマスク捨てんと持っとって!」

咲良ちゃんが不意に言った。

マスク?慶将の眉が、ピクリと動く。もしかして・・・と、何か予感がする。咲良ちゃんに応えるように奈美ちゃんも、

「ホンマやなぁ。絶対騙されたと思っとったけど、あのお婆さんに感謝やなぁ」

と言う。お婆さん?間違いない。予感は、確信に変わった。

「そ、そのお婆さんって、小柄でスキンヘッドだった?」

たまらず慶将が訊くと、咲良ちゃんと奈美ちゃんは目を丸く見開き、口もポカンと開けたまま、お互いの顔を見つめ合う。先に我に返った奈美ちゃんが、

「そうじゃよ。ちょっと不気味なお婆さんだったんやけど、なんで慶将くんが知っとん?」

咲良ちゃんも、声にはならなかったが「そうそう」と、何度も首を縦に振って相槌を打つ。

「実は、俺もその婆ちゃんにマスク貰ったんよ。一週間以内に幸せになるって言われたけど、しばらくは嫌な事ばっかり起きたんよ。何回も捨てたろかって思ったし、最後の頃には期限のことも、そもそもマスクの存在も忘れてしもとったんやけどな。ほなけど、ちょうど一週間後、入院した日の夕方に、奈美ちゃんに出会ったんよ!」

話していくうちに、言葉に熱がこもってきた。普段はクールな慶将も、この偶然には興奮を隠しきれない。すると奈美ちゃんは、さらに信じられない事があるかのような驚いた表情で、

「チョット待って!私もマスク貰って一週間後に、慶将くんの病室に挨拶に行ったんよ!

ってことは、同じ日に貰ったってこと?」

と訊いてくる。『考えるヒト』のポーズをとって話す奈美ちゃんの姿は、犯人捜しに推理を重ねる探偵や刑事のようだ。

「そういう事になるなぁ。奈美ちゃんはどこでその婆ちゃんに遭ったん?ちなみに、俺は前の職場の近くでJRの港南台駅の近くなんやけど・・・」

慶将がおそるおそる訊いてみると、奈美ちゃんは柏手をひとつ打ち、

「私も!その日、港南台に住んどる友達の家に咲良も連れて遊びに行っとったんやけど、帰りが遅くなってしもてなぁ。急に雨も降ってきたし、雨しのげる所探っしょったら、お婆ちゃんの軽トラを見かけたんよ!」

慶将は興奮を通り越して、再び思考停止に陥りかけた。時間帯も同じなだけでなく、状況もまったく同じなのだ。これはただの偶然では済まない。こういうのを、「運命」と呼ぶのではないだろうか。

ようやく、いつものロマンチスト・慶将に戻った。さすがに、そのまま口に出すのは躊躇われた。奈美ちゃんだけでなく、咲良ちゃんにまで笑われるのが目に見えている。

「俺もまったく一緒じゃ!こんな事あるんやなぁ。なんていうか・・・ホンマごっつい偶然っていうか・・・ホンマになぁ・・・」

視線を忙しなく動かし、口をモゴモゴさせながら、最後は独り言のような口調で慶将が呟くと、奈美ちゃんの口から思いがけない言葉が飛び出した。

「これって絶対『運命』じゃよなぁ!」

先程とは別の意味で驚いた。いつも慶将の演出するロマンチックな雰囲気や、口にする甘い言葉を「フッ」と鼻で笑うようにあしらっていた奈美ちゃんが、まさかロマンチックの代名詞とも言える「運命」などという言葉を発するなんて。咲良ちゃんも、「うんめー」と声を張り上げる。「運命」ではなく、「美ん味ぇ」の方が似合いそうな言い方で。

平静を装いながらも、

「お、俺もそう思った!」

と言う慶将の声は上ずってしまったが、嘘ではなく紛れもない本心だった。すると、奈美ちゃんは、

「だろうなぁ。慶将くんだったら絶対そう言うだろなぁと思って、先に言うたった!」

舌をペロッと出して、イタズラっぽくウィンクしながら言った。咲良ちゃんも、ニコニコと笑いながら二人の様子を見ている。慶将が言葉に詰まっていると、奈美ちゃんが、

「ロマンチックなんはあんまり好かんけど、『運命』っていうんはチョット好きになったかも」

と言った。

お世辞でも、慶将に気を遣ったのでもなさそうだ。視線はまっすぐに慶将に向けられているし、茶化すような笑みも消えていた。何よりも、上下の唇を巻き込むように固く結んでいる。本音を言って照れている時の、奈美ちゃんの癖だ。本人が気付いているかどうかは、分からない。これからも、教えてあげるつもりはない。ひとつぐらい、秘密を握っていてもいいだろう。だって、もうすぐ夫婦になるのだから。

 咲良ちゃんの提案で、あのマスクをくれた老婆に会いに行くことになった。

「ほなって、マスクのおかげで『うんめー』的な出会いをしたわけでぇ!言うたら、仲人みたいなもんやん!お礼ぐらい言っといた方がエエんちゃうん?」

「仲人」なんて言葉、慶将が小学六年生の頃は知らなかった。子供とお喋りをしているというよりも、職場の同僚と世間話を交わしているという感覚に近い。

「そうやなぁ。何か手土産でも買って行って、ついでに近くの公園でピクニックでもしよう!」

奈美ちゃんが言うと、すかさず咲良ちゃんも、

「さんせー!」 

と、右手を高々と挙げて応える。こういうところには、小学校低学年の幼さや無邪気さを覗かせる。そのギャップがまた絶妙のバランスで、咲良ちゃんの魅力の一つになっているのだけれど。

 右手を降ろした咲良ちゃんが慶将を振り向き、「どうする?」と無言で訊いてきた。奈美ちゃんほどではないにしろ、咲良ちゃんとの付き合いも長くなった。これくらいのアイコンタクトは取れるのだ。慶将はニコッと笑いながら、頭上に両手で大きな輪を作る。初めからその答えを期待して、いや、確信していたのだろう。咲良ちゃんは食い気味に、親指をピッと立てたサムズアップで応えたのだった。

 週末、慶将の運転する車で老婆の元へと向かった。あの日とは違い、雲一つない快晴だ。空はどこまでも高く、どこまでも青い。絶好のピクニック日和でもある。

「あのお婆ちゃん、あの辺に住んどんかなぁ?」

リアシートに座った咲良ちゃんが、身を乗り出しながら声を掛けてきた。

 そういえば、あの老婆に関する情報を慶将は何も持っていない。住まいの事だけでない。普段は何をして暮らしているのだろう。一人暮らしなのか、それとも家族と同居なのか。年齢はいくつだろう。あの軽トラックはどうやって・・・

 疑問は次々に浮かんでくる。考えてもキリがなさそうだ。奈美ちゃんも同じなのだろう。

「そうなんちゃうで?わざわざマスク配るために遠くまで出掛けたりはせぇへんだろ!」

と、窓の外を見つめたまま、素っ気なく答えた。母親の様子を察したのか、それっきり咲良ちゃんは黙り込んでしまった。もしかしたら、奈美ちゃんは緊張しているのかもしれない。慶将自身がそうであるように。

 重苦しい空気に包まれたまま、車は港南台駅を通り過ぎた。虹の都病院を退職して一年以上が経つ。思い出すことはほとんどなかったが、付近を通るとさすがに懐かしい。

 三河さんや楠本さんは元気だろうか。あれから連絡は途絶えてしまったが、久しぶりに呑みに誘ってみようかな。「ねぇねぇ、ちょっと聞いてくださいよ!僕、今度結婚するんですよ!」なんて言ったら、二人はどんな顔をするだろう。三河さんは、「ハイハイ、冗談はヨシコさん」と古臭いギャグで一笑に付すだろうか。楠本さんは、「おー、慶ちゃんおめでとう!」と目に涙を浮かべながら両手で握手を求めてきそうだ。いずれにしても、自分の事のように喜んで、心の底から祝福してくれるはずだ。 

 駅前のコインパーキングに駐車して、そこからは歩いて向かうことにした。老婆に出会ったのは、狭い路地裏だったので、慶将のワンボックスカーでは目的地まで辿り着けそうにない。本当に、老婆はどうやってあの軽トラックをあの一角まで運び込んだのだろう。

バイパスの一本奥の裏通りに入った。あの日の記憶を頼りに、碁盤の目状の小路を進む。だが、一年以上の月日が経ち、しかもあの時は真夜中に近い時間帯で、周辺はほとんど暗闇に近かった。おまけに雨で視界も悪かったのだ、道順を思い出すことは至難の業である。案の定、三人は見事に迷ってしまった。

「もー、慶将くんについて行っきょったのにー!」

奈美ちゃんが唇を尖らせて言う。「俺の責任?」と、心の中で呟く。

「慶将さん、方向音痴!」

咲良ちゃんも頬を膨らませて言う。「母娘揃って容赦ないなー」と、再び心の中で呟く。

 その時、目の前を一匹の黒猫が横切った。瞳の内側が緑、外側が茶色のグラデーションになっている。ヘーゼルだ。首輪をしていないので野良のようだが、毛並みは綺麗に整っていて、どこか気品を漂わせている。

 何か不吉な事が起きそうで、慶将は顔を強張らせて黒猫を見つめた。そのまま走り去ってくれる事を願っていたが、黒猫は通りの真ん中で足を止めて、じっと慶将たちの方を見つめている。何事だろうかと慶将が怪訝に思っていると、不意に黒猫が「ニャー」と鳴いた。そして、そのまま慶将たちに尻尾を向けて通りの先へと歩き出した。「自分の後について来い!」と言わんばかりにゆっくりと、そして堂々と歩いて行くその姿は、まるで花魁道中のようだった。

 仕方なく慶将が黒猫の後を追うように歩きだすと、奈美ちゃんと咲良ちゃんも無言でついて来てくれた。歩きだした黒猫は、途中で一度もこちらを振り向くことなく、角を右に曲がったり左に曲がったりを繰り返し、どんどん進んで行く。あまりにも自信たっぷりに歩くものだから、慶将たちも何も言えずにただただ後を追いかける。いや、追いかけるという意識すらなく、不思議な引力に導かれるような感覚だった。

五分も歩かないうちに、幌の代わりに何本もの傘を立てた軽トラックが眼前に現れた。辺りを見回しても、あの日の記憶は蘇ってこない。奈美ちゃんも同じなのだろう、キョロキョロと忙しなく目と首を動かし続けている。逆に咲良ちゃんは異様な雰囲気に圧倒されてしまったのか、全身が硬直したみたいに身動きひとつとらず、いつもの軽口も鳴りを潜めていた。

「あの軽トラ・・・やっぱりそうじゃよなぁ?奈美ちゃん、見覚えない?」

慶将が訊くと、奈美ちゃんは頷きながら、

「覚えとるよ。あんなに傘立てたトラ、他に見たことないもん。絶対あのお婆さんのじゃよ!」

と答えた。

 三人はゆっくりと軽トラックに近付いて行った。また老婆が荷台で眠っているかもしれない、と考えると自然と息は潜まり、足取りは「抜き足・差し足・忍び足」になってしまう。運転席の横を通り過ぎる時、チラリと車内を盗み見た。誰もいない。あの時、足元に置いてあったクーラーボックスも無かった。

 荷台に回り込んで幌の中も覗いてみたが、そこにも老婆はいなかった。そこでようやく緊張が解けたのか、肩をストンと落としながら慶将は「フーッ」と大きく息をつく。それに合わせるように奈美ちゃんが、

「おらんなぁ。どっか別の場所でマスク配りよんかなぁ?」

と呟く。その口調は、安堵しているようにも、残念がっているようにも聞こえた。

「チョットこの辺探してみようか?」

慶将が言うと、奈美ちゃんも、

「うん。軽トラあるし、近くにおるかも」

と同意してくれた。

「咲良!おいで!行くよ!」

と、奈美ちゃんが声を掛けながら咲良ちゃんの方を振り向くと、咲良ちゃんは軽トラックの左前方を見つめていた。奈美ちゃんが、

「早よ、おいで!おいて行くじょ!」

と、少し口調を強めて言うと、視線はそのままに人差し指を前方に向けて、

「何か・・・ある・・・」

と、弱々しい声で呟いた。どうしたんだろう、と怪訝に思いながら慶将と奈美ちゃんは目を見合わせて、咲良ちゃんの元に近寄って行った。咲良ちゃんの背後に立ち、突き出された人差し指の先を目で追うと、そこには薄汚れたマスクを付けた、小さなお地蔵様がチョコンと佇んでいた。

「これ、さっきまであったっけ?」

奈美ちゃんが誰にともなく訊く。慶将は、

「いや・・・なかったと思う」

と、曖昧に首を捻りながら答える。たった数分前の事なのに、記憶は靄がかかったようにぼんやりとしている。

顎に手を当てて考え込んでいると、咲良ちゃんが、

「アレッ?さっきのネコちゃんは?」

と声を上げた。言われてみれば、慶将たちを先導してくれたあの黒猫の姿が見えなくなっていた。三人で軽トラックの周りや車体の下などを探してみたが、どこにもいなかった。

「もしかしたら、あのお婆さんは実はこのお地蔵様で、迷子になった俺たちのためにこのお地蔵様がさっきの黒猫に姿を変えて、この場所に導いてくれたんちゃうかな?」

茫然と立ち尽くす奈美ちゃんと咲良ちゃんに、慶将が声を掛けた。有り得ない奇妙な話だし、慶将自身も話しながら何が何だか分からなくなってしまった。それでも、理屈の「リ」の字にも及ばない、ほとんど妄想にも近い推理だったが、「そうであってほしいな」という思いは確かにあったし、なんとなく「そうなんじゃないかな」という確信めいた思いも胸の奥深くにある。

きっと杉本母娘にはバカにされるだろうな、と慶将が肩の力を抜き、短いため息をひとつつくと、奈美ちゃんが、

「・・・私もそんな気がする」

と、頷きながら応えた。続いて咲良ちゃんも、

「もー、慶将さん!私が先に言おうと思っとったのに、言わんといてよ!」

と、頬を膨らませながら言う。そして、二人で目を見合わせて「ウフフ」と笑う。

珍しく意見が一致したと一瞬喜びかけたが、なんとなくやっぱりバカにされてたんだなぁと思った。これからも、こういう二対一の構図は何回も訪れるだろう。でも、決して悪い気分ではない。むしろ、それもひとつの「幸せ」なんだよなぁ、と思う。

慶将は身体を大きく後ろに反らしながら腰を伸ばす。視界いっぱいに広がる綺麗な青空が、優しく包み込んでくれているような気がした。改めて今の幸せを噛みしめると、どこかから、

「相変わらず分かりやすい子だねぇ」

という、意地悪そうな声が聞こえた。それは見上げた空から降ってきたような気もしたし、目の前のお地蔵様が囁いたような気もした。そしてその声は、いつまでも慶将の耳の奥で響き渡っていた。                        


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