マスク~前編~
その老婆に出会ったのは、雨の夜だった。日中の晴れ間が嘘のように、夜になってドシャ降りの雨が降り出した、3月31日の金曜日だった。
「聞いてないぞ、おい」
舌打ち交じりに呟いた慶将は、バイパス沿いの歩道をビショ濡れになりながら走る。雨宿りできそうな建物を探すものの、横浜市郊外の山に近い場所だ。もうすぐ日付が変わろうとしている時間帯に、開いているビルや商店は無い。近くにはコンビニすら無いのだ。病床数80の療養型慢性期病院で理学療法士として働く慶将には残業など皆無に等しいのだが、年度末と月末が重なるこの時期だけは、溜まった書類を仕上げる事務仕事や保険請求業務に追われる。普段のツケが回ってきたんだよ、と言われれば何も言い返せないのだが、こんな日に雨に降られるとは、まったく運が悪い。
仕方なく、バイパスから一本入った通りに折れ、碁盤の目のような小路をでたらめに進む。街灯も乏しくなり、今自分がどこにいるのか分からない。かれこれ3分以上走り続けている慶将の脚と心臓も、限界が近い。こんなに走るのは、学生の頃以来だ。日頃の不摂生を嘆きたくなる。今の自分の体力では、カップラーメンすら作れないのか。こういう時に、あと3ヶ月で35歳になりアラフォーに突入する自分のオジサン具合を実感、いや、痛感する。
慶将のイライラは募るばかりだった。
「天気予報じゃ、雨降るなんて言ってなかっただろ!当てになんねーな、ちゃんと仕事しろよな!気象予報士も大した事ねーな、ハハハ」
最後には怒りを通り越して、笑いまで込み上げてくる。ここまでくると、もはや雨が降っている事も全身ビショ濡れである事も忘れてしまう。いや、どうでもよくなる、と言った方が正しいだろうか。そもそも、なぜ自分が走っているのかさえ慶将の頭からは消え去っていた。
もういいや、と足を止め、「あー、せこい」と両手を膝について乱れる呼吸を整える。
せこい‐慶将のふるさとの言葉で「息苦しい」という意味。感情が昂った時や、咄嗟の時には方言が出てしまう。もうすぐ、ふるさとで過ごした年月とふるさとを離れてからの年月がちょうど半分ずつになるというのに。
ふるさとをはっきりと嫌っているわけではないが、決して好きなわけではない。それほど強い思い入れがあるわけでもない。帰省は、お盆と年末年始の2回だけ。それも大学生の4年間だけで、社会人になってから12年間では、数えるぐらいしか帰っていない。ただ、だからこそ心の奥底や身体の芯の部分には、ふるさとで過ごした時間がどっしりと居座っているんだろうなとも思うのだ。
「ごっつい、エライわ」
ごっつい‐とても
エライ‐きつい、大変
また、自然と方言が出てしまう。どうやら口だけでなく、本当に身体に堪えたようだ。
ようやく息が整い、屈めていた上体を起こすと、少し先に灯りが見えた。
「今更遅いんだよ」
と悪態をつきつつも、本音では少しホッとしてその灯りの元へと足を進める。願わくば、綺麗な女将に酌をしてもらえる小料理屋であれ、などと淡い期待を胸に抱きながら。
しかし、慶将の願いは儚く散ってしまった。小料理屋以前に、その灯りは建物から漏れるものではなかった。
「何これ・・・?」
驚く慶将の目の前に姿を現したものは、1台の軽トラックだった。なぜこんな狭い路地に軽トラックが停まっているのかは疑問だったが、それどころではない。小料理屋でなかったことに落胆しつつも、持ち主にお願いをすれば車内で雨をやり過ごす事もできるのではないかと思った。運転席側に回り、失礼ながら中を覗き込んでみる。誰もいない。ヘッドライトは点いているが、軽トラック特有の身体の奥まで響くエンジン音は聞こえない。雨音のせいだろうかと納得しかけたが、そもそもこの軽トラックに人の気配というか、存在感が感じられない。ヘッドライトが消えてしまえば、車体ごとフッと姿を消してしまいそうだ。
雨をしのげると踏んでいた慶将は、
「誰もいないのか?」
と、思わず運転席の窓をドンドンと叩いた。すると、
「うるさいねぇ、誰だい?」
と声が返って来た。
「うわっ、おぶけった!」
おぶける‐びっくりする。あまりにも驚きすぎて、思わず方言が出てしまう。しかし、この状況なら仕方ないだろう。軽トラックの存在感すらほとんど感じられないのだ、人がいるとは思わないではないか。
「何か用かい!」
再び声が聞こえる。先程よりは冷静さを取り戻し、耳に届いたその声から情報を処理する余裕も生まれた。声の主は、女性だ。それも高齢の。ハスキーな声質からすると、酒や煙草を長年嗜んできたようだ。いや、しゃがれ具合を聞くと「嗜む」ではなく、「耽る」と表現すべきかもしれない。若い頃は水商売をしていたのだろうか。
探偵気取りの思考を巡らせていると、第3声が発せられた。
「何とか言ったらどうなんだい!」
と同時に、荷台から何かが動くのが見えた。
「うわっ・・・ちょっ・・・まっ・・・」
今度は方言も出ない程驚いた。まさに、言葉を失う、というやつだ。
最初は、動いた物の正体が分からなかったが、暗闇に目が慣れてくると、声の主と思しき高齢女性の上半身がぼんやりと浮かび上がってきた。さらに、手で目元を擦っている様子も見える。どうやら、荷台で寝ていたところを慶将が起こしてしまったようだ。なぜ雨の中荷台で、と慶将が怪訝に思うと、徐々に視界がくっきりとしてきて、荷台の淵のあちこちに開けた傘を結わえてある事に気付いた。幌の代わり、ということなのだろう。
思わず頷きながら「なるほどな」と心の中で呟くと、その女性は荷台から降りて、慶将の元にトコトコと近寄ってきた。小柄であるにも関わらず、異様な存在感がある。軽トラックとは正反対だ。その佇まいは、「おばあちゃん」ではなく「老婆」と呼ぶ方が似合う。そして何よりも、その老婆の頭に慶将の視線は釘付けになっていた。
髪の毛が無いのだ。1本たりとも。つまりスキンヘッド。尼さんなのか。それとも、ガンを患いその抗がん剤治療の影響なのか。いやでも、そんな身体ならトラックの荷台で横になるなんて有り得ないだろう。いや、ガンだろうが健康体だろうが、そもそもこんな雨の中で・・・などとあれこれ思考を巡らせているうちに、その老婆は慶将の目の前までやって来た。
両手を後ろで組み、慶将を見上げる。小顔の割に目が大きく、彫りが深い。目玉も真ん丸で、動く度にギョロッ、ギョロッと音がしそうなほどである。決して睨んでいるわけではないが、目が合うと気圧されてしまう。しかし、そんな迫力の中にも、瞳の奥に光を宿し、慶将の視線を惹き付ける蠱惑的な魅力があることも確かだった。
「お客さんかい?」
老婆に訊かれた。しかし、慶将の口はポカンと開いたまま声は出ない。
客?
何か売っているのだろうか?
こんな薄暗い路地裏で?
まさか、娼婦?
さすがにそれは・・・と悪い想像を吹き飛ばすように首を左右に振ろうとしたら、すかさず、
「違うのかい!用が無いんなら帰りな!」
と踵を返して荷台の方へ戻ってしまう。気の強い婆さんだなぁ、と思いつつ、ようやくここに来た本来の目的を思い出した。
「この軽トラックはお婆さんのですか?」
さすがに、面と向かって「老婆」とは言えない。
「そうだよ。なかなかイカしてるだろ?ケケケケ」
意外とファンキーな言葉を遣う。若い頃はヤンチャをしていたのかもしれない。
「・・・そうですね。オシャレというか個性的というか・・・」
「欲しくてもあげないよ!」
「いや、そうではなくて・・・」
「どっか送ってってほしいのかい?あたしゃ免許持ってないから運転は無理だよ!」
それでは一体この軽トラックは誰がここへ持ってきたのだろうか?
「そうでもなくて・・・」
「はっきりしない小僧だね!何が言いたいんだい!」
アンタが喋らせてくれないんだよ、と心の中でツッコミを入れて、
「ご迷惑でなければ、雨宿りさせてもらいたいのですが」
と、ストレートに伝えた。
半分は、いや9割は諦めている。こんなに気の強い老婆のことだ、即答で「否」を突き付けられるのがオチだろう。自然と顔も俯いてしまう。ところが老婆は、
「構わんよ。荷台でも前の席でも、好きな所で好きなだけくつろいでいきな」
と、あっさり了承してくれたのだ。虚をつかれた慶将の口は、再びポカンと開いたままになってしまった。お礼を言いそびれていると、
「何だい!嫌なのかい!」
優しいのか、優しくないのか、よく分からない。それでも慌てて、
「あっ、ありがとうございます。じゃあ、助手席の方にお邪魔させてもらいます」
と言うと、満足そうな微笑みを浮かべる。皺くちゃの顔が一層皺くちゃになり、もはや顔のパーツが見分けられなくなっていたが、不思議と醜いものではなく、むしろ温かく包み込んでくれるような笑顔に見えた。
老婆に一礼して、助手席に乗り込む。軽トラックに乗るのは、生まれて初めてだ。思っていたよりも、狭い。足は交差させないとグローブボックスにぶつけてしまうし、天井も低いので背中を伸ばす事ができない。何より、座席が固い。おしりが痛い。これで運転は無理だな、と思いながらも、贅沢は言っていられない。雨をしのげるだけで感謝しないと。
すると、運転席のドアが開き、老婆が乗り込んできた。
「狭くて悪かったね!軽トラってのはこんなモンなんだよ!」
胸の内を見透かされたことに、慶将は驚いた。心で思った事が口をついて出ていたのだろうか。それにしても、車外に聞こえるはずはない。もしかしてこの老婆、超能力者なのか。
「そういう顔してるよ!分かりやすい小僧だね」
なるほど、そういうことか。
幼い頃は、同じような事をよく言われていた。厳しい父親と控えめな母親。絵に描いたような昭和の夫婦の下で育ったせいか、慶将は真面目ではあるものの、何をしても要領が悪く、テスト勉強や学校内での人間関係には大いに苦労した。真面目ゆえ、嘘をつく事も下手で、思考や感情はすべて表情に出てしまうのだった。
分かりやすい子・・・幼少期には、それを誉め言葉として受け止め、誇らしくさえ思っていた。えへへ、と後頭部をさすりながら照れ笑いを浮かべる事も度々あった。しかし、中学や高校に進むと、捉え方が変わっていった。嫌味、皮肉、中傷、当てつけ・・・。いつしかそれは、言葉の棘として、慶将の心に痛々しく突き刺さり、深い傷となっていた。他人の言葉をそんな風に感じてしまう自分が嫌になり、高校卒業と同時に、慶将はふるさとを離れる決断をしたのだった。
運転席に座った老婆は、少し屈んで足元に手を伸ばした。何かを探しているようだ。慶将が老婆の手の先を目で追うと、そこには小型のクーラーボックスが置いてある。何を取り出すのかと怪訝に思いながら様子を眺めていると、出てきた物は缶ビールだった。そしてステイオンタブを開けて、ゴクッ、ゴクッと喉を鳴らしながら飲んでく。豪快な飲みっぷりで、実に美味そうに飲む。まるでテレビのCMを観ているようだ。
缶を口から離した老婆はプハーッと息をつき、大きなゲップを1つ挟んで、
「あんたも飲むかい?」
と、慶将にもビールを勧めてきた。やっぱり良い人だな、と頷きながら老婆に視線を向けると、たった今自分が飲んでいたビールを慶将に差し出してきた。仲間内で回し飲みすらできない慶将に、出会って5分も経たない見ず知らずの老婆の飲みかけのビールを飲むことなど、到底できるわけがない。やっぱり変な人かも、と先程の老婆に対する評価があっさり覆ってしまう。
新しいビールを受け取る気でいた慶将は、咄嗟に右手を引っ込めて、
「あっ、いえ、大丈夫です。お気持ちだけ頂きます」
と、丁重にお断りした。大人の対応ができた・・・つもりでいたが、老婆は、
「そうかい、そうかい。こんなババアの飲みくさしは飲めねぇかい。ケケケケ」
と笑いながら、残りのビールを自分で飲み干してしまった。
「いや、そういうわけじゃ・・・」
と慶将が言い訳を並べ立てる間もなく、老婆は空になった缶の腹をベコッと潰して、
「顔に書いてあるよ。ホントに分かりやすい小僧だよ、マヌケなくらいにね」
ケケケケと笑いながら言う老婆は、しかしすぐに、
「でも、マヌケだけど面白い小僧だね。あたしゃ気に入ったよ!特別にこれ、やるよ!」
と言って、クーラーボックスから新しいビールを取り出し、慶将に放り投げた。慌てた慶将は自分に向かってくるビール缶を上手くキャッチする事ができず、お手玉のように掌で跳ねさせてしまった。その様子を見て、老婆は「ケケケケ」と更に笑うのだった。
まいったなぁ、と苦笑いを浮かべながらも、
「ありがとうございます。頂きます」
と缶を軽く掲げて乾杯の仕草をとり、老婆のようにゴクッ、ゴクッと喉を鳴らしながら一気に半分ほどのビールを飲み下した。その様子を見ていた老婆は、
「良い飲みっぷりだね!そんなに美味いかい!」
と声を掛けてきた。しかし、雨の中を走ってきた身体の隅々までビールが浸っていくのを感じる慶将は、すぐに言葉を返す事ができない。「五臓六腑に染み渡る」とは、まさにこの事だ。
掌を老婆に見せて、「チョット待ってください」のサインを送ると、老婆は、
「いいよいいよ、言わなくったって。顔見りゃ分かる!ケケケケ」
分かりやすい事は、悪い事ばかりではないみたいだ。そして、この老婆の口にする「分かりやすい子」は、不思議と棘にならない。むしろ、慶将の心に刺さった棘を優しく引き抜いてくれるような響きがあり、幼少期に戻ったような気分になる。
「やっぱりアンタ最高だね!特別の特別に、もっとイイ物やるよ!」
そう言って老婆は、提げていたポシェットから白いマスクを取り出した。しっかりと封がしてあるので、老婆の使用済みのものではなく新品なのだろう。そして、それを慶将に手渡しながら、
「コイツを使ってると、幸せになれるんだよ」
と、「イイ物」の正体を説明してくれた。
いつもの慶将なら、そんな物あるわけがないと一笑に付す事ができるのだが、ビールのほろ酔いも手伝ってか、妙に食いついてしまった。
「幸せって、どういう・・・」
「そんなの知らないよ!とにかくアンタに幸せがやってくるんだよ!」
「はぁ・・・」
「ただし、一週間以内だよ。それを過ぎると、ただの布切れになっちまうからね。まぁ、たっぷりと楽しみな!ケケケケ」
ふと、手元に目をやると、掌に乗せたマスクが貰った時よりも白の度合いが強まり、神々しく光っているように見えた。眠気と酔いのせいなのか、あるいは、車内が薄暗かったからなのか。どちらにしても、慶将は不自然なほど真っ白いマスクから視線を逸らす事が出来なかった。
4月1日、土曜日。この日は大学時代の友人達と、千葉県の桜の名所・亥鼻公園に向かい、お花見を開催した。昨夜の雨が嘘のように天候にも恵まれ、桜もそれほど散っておらず、目の前に聳える千葉城とのコラボレーションも見事だった。どうやら横浜とは違い、千葉の方はそれほど雨が酷くなかったようだ。慶将たちは、よく食べ、よく呑み、よく話し、そしてよく笑った。レンタカーの返却時間もあり、夜桜までは楽しめなかったが、最高のひと時を過ごした。
東京のレンタカー屋で車の返却を済ませると、時刻は夜9時を少し回ったところだった。明日は日曜日で仕事も休みだし、今夜はとことん呑み明かそう・・・とはならなかった。いよいよアラフォーに突入するのだ。若さと勢いだけで無茶ができた10年前とは、訳が違う。普段の会話も、健康診断の数値や親の介護の話が増えてきて、その話題だけで2時間の飲み会が成立する事もある。ただ、それ以上に今夜はこの幸せな気分のままベッドにダイブしたい、と全員が思っていた。それ程に、昼間のお花見が良かったのだ。週明けからの仕事のエネルギーをお釣りがくるほどチャージして、それぞれの帰路に就いた。ただ一人を除いて。
慶将は真っ直ぐ家には帰らなかった。確かにお花見は楽しかった。100点満点の大満足だ。それは間違いない。それでも、それで終わりにしたくなかった。むしろ、最高の気分だからこそ、もっと良い気分に浸れるのではないかと思うのだ。いつもそう。飲み会でも、仕事の進め方でも、周囲が「この辺でいいんじゃない?」と切り上げようとすると、慶将だけは「いや、まだ大丈夫。まだいける」と深追いしてしまう。「二兎追う者は一兎をも得ず」という諺があるが、慶将の場合は「二兎追う者しか、二兎を得ず」になるのだ。良く言えば、向上心が高い。悪く言えば、欲深い。二兎追った末にこれまで一兎も得た事がないのなら、考えを改める気にもなるのだが、二兎追って二兎得る事もあるので、一向に反省はしない。その確率がフィフティ・フィフティなだけに、タチが悪い。
今夜も、その本領が発揮されようとしている。東京駅で解散した後、山手線に乗り込んで乗り換えの渋谷駅で下車した。ホームから地下に向かい、通路を進むと構内の案内板が見えてくる。左に曲がれば、自宅の最寄り駅がある東急東横線の乗り換え口。右に曲がれば、出口。電車を降りた時は、自宅に向かうつもりだった。本当に、絶対に、神に誓って。それが、「出口」という文字を見た途端、気持ちが揺らいだ。揺れて、曲がって、折れた。無意識のまま、気付いたら右に曲がり、ハチ公前へと続く階段を一段飛ばしで駆け上がっていた。
土曜日の夜という事もあって、ハチ公前はいつも以上に人でごった返していた。渋谷に来ると、自動販売機や街路灯に集まってくる蛾を思い出してしまう。人間には、賑やかな所や人がたくさんいる所に魅力を感じるのだろう。「群れる」というヤツだ。子供の頃は「群れる」ことが苦手で、嫌いだったのだが、いつしか気にならなくなった。気にしていないフリをしているだけなのかもしれないが。
慶将は、一人で退屈そうにしている女性を探す。できれば一緒にお酒を呑んでくれて、明るくノリが良くて、カラオケで大塚愛の『さくらんぼ』を歌ってくれて、顔も可愛くて性格も良くて、一夜を共に過ごしてくれそうな・・・ゲスの極みとは、まさにこの男のためにある言葉である。
しかし残念ながら、暇を持て余していそうな女性は見つからなかった。それでも、ここで引き下がらないのが慶将の粘り強さ、いや、諦めの悪さと言った方が正しいか。
作戦を変更して、慶将は「ある場所」を目指した。井の頭通りを進み、宇田川交番で二股に分かれる道を右に折れ、100m程進んだ先の左手に見えるビルの2階。毎週必ず一度は訪れる、慶将の行きつけのお店だ。シラフなら、渋谷駅から目を瞑った状態でも辿り着くことが出来るかもしれない。そこで出されるそば粉のクレープ、ガレットが美味いのだ。一枚の生地の中に、カリッとした部分とモチッとした部分があり、両方の食感を楽しめる、他では味わえない究極の一品だ。
これほどの料理を出すお店とは、一体どんなお店なのか。だがそこは、ミシュランの星が付くようなレストランでもなければ、渋いマスターが一人で営むオシャレなバーでもない。女性とのお喋りを楽しむお店、いわゆる「ラウンジ」である。そこに、慶将の推しメンがいるのだ。
お店の名前は『なご美』。和風なネーミングだが、嬢は全員ドレス姿で接客にあたる。店名の由来は、ママの本名だろうか。何にしても、慶将の心が「なごむ」のは間違いない。ただし、慶将を癒すのはママではない。20人以上在籍する嬢の中の一人、「キララ」である。「美輝星」と書いて、「キララ」。近頃話題のキラキラネームとやらである。年齢も慶将より一回り以上若い。本人曰く、「21歳」。夜の仕事は『なご美』が初めてらしい。
確かに、初めて席についてくれた時も接客はイマイチだったし、あまりお喋りも上手な娘ではなかった。だがその分、一生懸命さが伝わってきた。「仕事感」がなく、「自然体」で接してくれた。話し上手でない代わりに、聞き上手だった。愛嬌もあり、顔立ちも綺麗に整っており、笑う時に覗かせる八重歯が魅力的だった。だが、慶将の心を鷲掴みにしたのは、彼女の生い立ちだった。
幼い頃に両親が離婚。母親に引き取られたが、その母親からも十分な愛情は注いでもらえなかった。母親が時々家に連れてくる知らない男からは、暴言を浴びせられたり暴力を振るわれる事も度々あった。そんな環境で育ったせいか、他人に心を開く事が苦手になり、学校でも周囲と馴染めず、友達もできなかった。高校には進学したものの、やはりそこに居場所はなく、1年生の夏休み明けに退学届けを提出した。以来母親の元を離れ、一人で暮らしている。
そんな暗い過去の事でさえ、キララは笑顔で明るく話すのだ。それも、皮肉や自嘲めいた語り口ではなく、「今は幸せだから」と心の底から思っているように。
なんて健気な娘なんだ。21歳の娘がこんなに前向きに、こんなに一生懸命生きているのか。仕事中、若手が口にする中途半端な敬語や仕事に対する熱量の無さに、「最近の若い奴は・・・」というオヤジ定番の愚痴がこぼれる事が増えてきたが、キララの話を聞いて考えを改めた。こんなに頑張っている若者がいるなら、日本の未来も捨てたものではない。慶将の母性は大いに擽られた。
この娘を応援したい、と思えた。この娘のために何かしてあげたい、と思えた。
でも、一体何ができる?考えを巡らせるうちに、慶将の頭にある言葉が浮かんだ。30年前に大流行したテレビドラマの有名なセリフ、「同情するなら、カネをくれ」。
同情はしたくない。キララもきっと喜ばないはずだ。残念ながら共感もできない。慶将にはキララほど波乱万丈な過去は無い。ならば、共有しよう。過去の辛い経験はもちろん、今彼女が背負っている重荷や抱えている悩みを、少しでも減らし、薄めたい。
そのためにはどうすればいいか。キララに会えるのは、『なご美』だけだ。ならば、何回も、何十回でもこのお店に来れば良い。大学時代、会いに行けるアイドルの握手会に何度も足を運び、メンバーに顔と名前を覚えてもらった慶将なのだ。決断は早かった。
会計を済ませると、キララはビルのエレベーターに一緒に乗って表の通りまで見送りに来てくれた。そして別れ際に、
「また来てね」
と満面の笑みを浮かべて言ったのだ。純粋で心の綺麗なキララは、他の嬢のように「ネックレスが欲しい」や「お寿司が食べたい」など露骨なおねだりはしない。可愛い。可愛すぎる。たった90分の滞在で、慶将はキララの虜になっていた。
「来週、また来るよ」
慶将はそう答えて、フワフワと天にも昇りそうな気持ちで渋谷駅に向かった。しかし、女性にだらしなく、まして夢うつつな慶将は、その時まったく気付いていなかった。「また来てね」とは、「お店に来て、いっぱいお金を落としていってね」という悪魔の囁きと同義である事に。
それから早一年。一向に、進展はない。キララに会う時はいつも同伴になるので、お店での料金に食事代が加わる。誕生日やクリスマスなど、イベント時には毎回プレゼントも贈った。話もいつも盛り上がるし、共感してくれる事も多い。LINEのメッセージには可愛らしい♥が添えられる事も頻繁にあった。それでも、そこまでなのだ。同伴には乗ってくるけど、アフターには応えない。♥が散りばめられたLINEの返信も、早くて2日後、ひどい時は1週間後に届く事もある。それだけ間が空くと、自分がどんな内容のLINEを送ったのかも忘れてしまう。
所詮、客の一人なのか。ワンオブゼムなのか。
今夜もいつもと変わらず、何もなく終わってしまうのかと深いため息をつく。と、その時ふと、昨夜の老婆から貰ったマスクを思い出した。「イイ事が起こる」と老婆は言っていた。一夜明け、日中のお花見の酔いもほとんど醒めた慶将の胸には笑い話として残っていたが、何故か気になって一応、念のため、万が一に備えて、花見に出掛ける直前にズボンのポケットに忍ばせておいたのだ。藁にも縋る思いで、新品のマスクの封を切り、真っ白いマスクを口元に当てる。そして、半信半疑ながらも、心の中で「頼む」と念じながら、『なご美』の店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥に座っていたママが振り向きながら立ち上がり、入り口に向かって歩いてくる。職業柄、他人の歩き方がついつい目についてしまうのだが、ママは本当に優雅に歩く。
「あらー、慶ちゃん、いらっしゃい。今日は同伴じゃないのね」
「どうも。たまには、ね。キララちゃん、空いてます?」
歓迎会のシーズンで、しかも土曜日。店内をざっと見渡すだけで満席なのが分かる。さすがに今日は会えないかな、と半ば諦めながら訊いてみると、
「いるわよ。すぐに呼んでくるから、カウンターで待ってて」
予想外の返答だった。心の中で「ラッキー」と呟くと、思わずガッツポーズまで出そうになる。早くも、マスクの効果が現れているのだろうか。
ボーイさんに案内されるがまま、カウンターの一番端の席に腰を下ろす。手渡された温かいおしぼりで顔を拭きながら、ふーっと長い息をつく。そう言えば、カウンターに座るのは初めてだ。なんだか、落ち着かない。アポ無しで来てしまったが、いつものように会話は盛り上がるだろうか。急に不安に襲われた慶将は、とりあえず呑んで落ち着こうと、ボーイさんが運んできたビールのグラスに手を伸ばした。その時、
「慶ちゃん、いらっしゃい。いきなりでビックリしたよ」
キララ登場、である。先週まではロングドレス姿が多かったが、寒さも穏やかになってきたせいか、今夜はミニスカートを履いている。昼間の桜を遥かに凌駕する絶景だ。まさかこんなところで季節の移ろいを感じるとは思わなかったが、視線をあまり脚の方には向けられない。冷静さを取り戻すために、軽く咳払いをする。
「さっきまで花見に行ってたんだけど、もうちょっと呑みたいなと思って」
「えー、嬉しい!キララもちょうど慶ちゃんに会いたいなーって思ってたところなの」
あざとい。しかし、こんなセリフを口にしてもわざとらしく感じさせないのが、キララなのだ。
来店時に胸にあった慶将の不安は、いつの間にか消えていた。キララはいつも通り、旨そうに酒を呑み、楽しそうに話を聞いてくれる。これ以上の発展は望めなくても、今のままで十分幸せか、と思い始めた矢先、突然キララがカウンターから出てきて慶将の隣の席に腰を下ろした。
「今日はこっちで呑みたいなー。横に座っても良い?」
こんな事は、今まで一度もなかった。ボックス席でも、いつもテーブルを挟んで向き合う形でお喋りに耽っていた。
必死に動揺を隠しながら、
「う、うん。いいよ」
と答える。
「やったー。じゃあ、もう一回乾杯しよ!」
しかも、異様に近い。吐息が触れてしまいそうな距離だ。加えて、優しい微笑みを浮かべながら上目遣いで慶将の目をマジマジと見つめてくる。お笑い芸人のネタではないが、「惚れてまうやろー」と叫びたくなるではないか。
ボディタッチも、やたら多い。肘をつついてくる。太ももを軽く叩かれる。肩にもたれ掛かってくる。手の甲を指で撫でてくる。
酔っているのだろうか。いや、確かキララは酒豪のはずだ。どんなに呑んでも、一切様子は変わらない。酔った勢いで、と何度かアフターに誘った事もあるが、ことごとく跳ね返されてきた。慶将は身をもってその事を知っているのだ。
「大丈夫?呑みすぎじゃないの?」
嬉しさと心配する気持ちが半分ずつ混ざった言葉を掛けてみる。すると、
「全然大丈夫だよ。それよりさ、慶ちゃん明日朝早いの?」
と、逆に訊かれた。
「いや、明日は休みだし、特に予定は無いよ」
「そうなの?じゃあ、この後カラオケ行こうよ!」
一瞬、慶将は自分の耳を疑った。キララが口にしたのは、慶将のいつもの誘い文句だったのだ。聞き間違いか。それとも、己の願望が幻聴となって耳に響いているのか。普段とは逆の展開に驚きながら、
「俺は大丈夫だけど、キララはホントに良いの?」
とバカ正直に確認する。こういう時に、ふるさとで過ごしていた真面目な慶将が姿を現す。
「だって、いつも誘ってくれるし、慶ちゃんの歌聞いてみたい!」
ずっと断られていたが、諦めずに誘い続けて良かった。これまでの努力が報われた気がした。ラウンジ嬢を誘う事を「努力」と呼んでいいのかどうかは分からないが。とにかく、『なご美』に通い始めて1年。ついにキララちゃんとのアフターが実現するのだ。
日付が変わって午前1時。閉店となり、慶将は一旦店の外へ出る。こんなにワクワクするカラオケは初めてだ。まるで、遠足前夜の小学生の気分である。
閉店作業が終わり、私服に着替えた嬢たちが次々に帰っていく。チラチラとこちらに視線を向けてくる嬢もいたが、一切気に留めず、むしろ誇らしげに胸を張ってキララが出てくるのを待った。
そして、最後にキララとママが一緒に出てきた。ママはラフなセットアップ姿で、キララは薄ピンクのワンピースに着替えていた。ミニスカートも良かったが、裾をヒラリとひるがえすワンピースも、よく似合っている。
戸締りをしながら、ママが声を掛けてきた。
「慶ちゃん、この子、アフターは初めてだから、あんまり悪い事しちゃダメよ」
初めて・・・なのか。慶将はゴクリ、と唾を飲み込み、
「わ、分かってますよ。カラオケに行くだけですから」
「大丈夫だよ、ママ。慶ちゃんはそんな人じゃないから。ねぇ?慶ちゃん?」
「オフコース!」
サムズアップと共に、精一杯の冗談を返す慶将だが、フォローしてくれるキララの優しさが胸に染みる。いや、胸が痛い。ゴメン、キララ。俺は、「そんな人」なんだよ。
慶将にとって女性と行くカラオケは、ただ単に歌う場所というだけではない。女性に心を開かせる、つまり口説く場所なのだ。選曲も当然バラードが多くなり、相手に合わせて昔懐かしい曲から、最新曲まで幅広くレパートリーを揃えている。キララは、若い割に昭和の歌謡曲が好きらしいので、今宵は浜田省吾の『もうひとつの土曜日』か、T-BОLANの『離したくはない』で攻めてみよう。
ムードが良くなってくると、徐々に座る位置を女性の方に近づけていく。もちろん、女性に引かれないように、ゆっくりと。そして、女性との距離がゼロになった時、顔を少し傾けて女性の瞳をじっと見つめる。恥ずかしがって目を背けられても、「何ですかぁ」と笑われても、視線は逸らさない。再び目が合うと、そこからゆっくりと顔を近づけていく。ここで明らかな拒絶があった場合は、そこで試合終了。慶将の「負け」である。しかし、二人きりでカラオケの暗い個室に来る時点で、慶将は「勝ち」を確信している。
その揺るぎない自信を胸に宿し、徐々に顔を近づける。途中、チラリと唇に視線を投げる。「キスするよ」と、目でサインを送るのだ。再び視線を瞳に戻すと、女性は目をゆっくりと閉じ、少し顎を前方に突き出す。その顎にそっと手を添えて、唇を重ね合わせる。最初は緊張のあまり、震えている女性の身体から、やがて力が抜けていくのが伝わってくる。その時、相手が心を開いてくれた事を実感する。
「まつ毛に何か付いてるよ」
「えー、どこどこ?」
「違うよ、もっと左」
「自分では分かんないよ」
「仕方ないから、俺が取ってあげる」
「お願い!」
そう言って目を閉じ、顔をこちらに突き出してきた一瞬で、唇を重ねる。ノリが良く、陽気な女性の場合、稀にこういった「技」を使うのだが、これはあくまで慶将にとって「裏技」であり「邪道」である。キララのような清楚でピュアな女性には、正攻法を貫きたい。
エレベーターで地上に降り、ビルの外でママと別れる。
「夜はまだ寒いね」
両手に息を吹きかけながら、キララが言う。
「昼間との気温差が激しいから、風邪引かないように気を付けないとね」
慶将が返すと、
「慶ちゃんはホントに優しいね」
と、キララがクスッと笑いながら言う。当たり前だ。ふるさとを離れてからは、女性に優しくする事を生きがいにしてきた。優しさならバファリンにも負けない、と慶将は思っている。
不意に、キララが慶将の右腕にしがみついてきた。
「寒いから、くっついても良い?」
下から覗き込むような、悪戯っぽい笑みを浮かべて訊いてくる。
「うん、良いよ。転ばないように気を付けてね」
「はーい」
こんな事があっても良いのか。ずっと想い描いていた、まさに理想の展開である。もしかしたら、これは夢か?花見で酔いつぶれて夢を見ているのだろうか。もしくは、4月1日エイプリルフールに因んだドッキリ企画かもしれない。
芸人じゃないんだから、と心の中で自分にツッコミを入れて、高鳴る胸を沈めつつ二人は最寄りのカラオケ店に向かうのだった。
5分程歩くと、慶将がよく行くカラオケ店に到着した。自動ドアが開き、店内に足を踏み入れると、受付前には数組のアベックがいた。アベック、もう死語になっているだろうか。少なくとも、キララには通じまい。
どのペアも、女性は派手なメイク、豪華な衣装を纏っている。男性側は、40代から50代の中年ばかりだ。おそらく皆、慶将たちと同じようにアフターに興じているのだろう。そして、女性はカネ目当てに、男性はカネにモノを言わせて、付き合っているに違いない。慶将は心の中で彼らを軽蔑した。カネを介した繋がりなど、それはもはや「愛」ではない。
自分のような若輩者でも、足繁くお店に通い、口説き続ければ、嬢のハートを射止める事ができるのだ。順番を待つ中年男たちを一笑に付しながら、誇らし気に胸を張り、キララの肩を抱き寄せる。
先客が次々と個室へ消えていき、いよいよ慶将たちの受付の番が回ってきた。利用時間を申告し、飲み物を注文する。キララは楽しそうに、受付横にサービスで置いてあるタンバリンを2つ手に取る。伝票を受け取り、いざ、決戦の場へと向かおうと踵を返した、その時。自動ドアが開き、5,6人の若い男のグループが入店してきた。金髪、ピアス、煙草、乱れた服装・・・。いかにもガラの悪そうな連中だ。慶将は、彼らの視界からキララを隠すようにポジションを変え、視線を少し下げてエレベーターに向かう。すると、1人の男が、
「あれ?キララじゃね?」
慶将の足が、ピタッと止まる。背中を、冷たいものが滑り落ちる。
「昨日は楽しかったな!今日も俺らと一緒に盛り上がろーぜ!」
別の男が言う。今日も、だと?キララは普段、こんな連中と遊んでいるのか?
顔から血の気が引いていくのを、慶将は感じた。そしてその顔を、ゆっくりとキララの方に向ける。キララは俯いたまま、何も言わず、何の反応も見せない。その瞬間、慶将は「そうか、人違いだ。清楚で純粋なキララが、こんなヤンキー崩れ共と友達なわけがない」と、思った。いや、願った。頼む!そうであってくれ、と誰ともつかない誰かに懇願するように。
身体が硬直して、足を前にも後ろにも出せない慶将の背中に、また別の男が声を掛けてくる。
「ねぇねぇ、オジサン。ちょっとキララに馴れ馴れし過ぎじゃね?」
さらに別の男が、
「そういうのセクハラって言うんじゃねーの?もしかしたら、婦女暴行?お巡りさんに見つかったら、ヤバいんじゃないの?」
男たちの嘲るような笑い声が、フロアに響き渡る。
違う!そんなのじゃない!俺とキララはちゃんと・・・・
反論の言葉は喉元まできているものの、決して声に乗って出てきてはくれなかった。しかし、ここで揉めても仕方がない。余計なトラブルに巻き込まれるのも、ゴメンだ。せめてもの意思表示として、精一杯怒りを目に込めて彼らを振り向き、睨み付けてやった。
行こう、とキララに声を掛け、その場を立ち去ろうと足を一歩前に踏み出した、次の瞬間。後ろから、肩を掴まれた。と同時に、強い力で後ろに引き戻される。転びそうになり、バランスを取るために身体を反転させ、入り口の方を振り返る。刹那、最初に声を掛けてきた男の顔が目に映ったが、左から飛んでくる男の右フックが綺麗に顎を捉え、慶将は膝から崩れ落ちた。視界は真っ暗になり、無数の星が瞬いた。
すぐさま意識を取り戻したものの、反撃する体力と気力は湧いてこなかった。床にうずくまる慶将に、男たちの拳や蹴りが飛んでくる。下品な馬鹿笑いの声やこれまで浴びた事のない暴言も一緒に降りかかる。いざという時の護身術を身に付けるため、大学時代はボクシング部に所属していた慶将だが、不意打ちには抗う術もない。しかも、ここまで一方的にやられてしまっては、もう手遅れだ。
店員が止めに入ったからか、それとも殴り飽きたからか、男たちの暴力の嵐は止んだ。
「やっと終わった」と胸を撫で下ろすと、ハッと気付いた。
キララはどうした?キララは無事か?
身体のあちこちに激痛が走り、全身が鉛のように重い。視界も、まるでジェットコースターに乗っているかのようにグラグラと揺れている。それでも、必死に焦点を合わせ、視線を入り口に向けてみると、男たちが出ていくところだった。それも、慌てて逃げるのではなく、ストレスを発散してどこかスッキリとした様子で帰っていくといった感じだ。
そんな男たちの中に、キララがいた。せめて、無理矢理連れて行こうとする男たちに抵抗して自分の元に戻って来てくれ、と願ったが、その願いは呆気なく砕け散った。男たちと共に店を出て行くキララの姿は、慶将の目から見ても、見事に馴染んでいた。さも、先程まで一緒に過ごしていたのは慶将ではなく、あの連中だったかのように。
「なんだ。結局俺は眼中になかったのか・・・」
声にならない呟きを飲み込み、それと入れ替えるように深いため息をつく。
男たちが外に出て、自動ドアが閉まる直前、一瞬キララがこちらを振り向いた。その顔に、感情は一切なかった。確かに目は合ったのだが、その目は慶将を捉えてはいなかった。そして、後ろによじった身体を元に戻しながら口元をフッと緩めたのだった。
笑った?
いや、笑われた?
急に自分が哀れに思えてきた。全身を襲っていた痛みが嘘のように消え去り、すべての力が抜けていく。慶将は仰向けになり、手足を伸ばして大の字になった。天国から地獄とは、まさにこの事だ。最低最悪の気分のはずなのに、慶将は笑っていた。途中からは、声を出して。その声がだんだんと大きくなり、「アハハハ」とフロアに響き渡った時、目尻からキラリと光る雫が流れ落ちた。
4月2日、日曜日。いったいどれぐらい眠っていたのだろう、慶将は目を覚ました。時刻を確認しようと、枕元のスマートフォンに手を伸ばそうと身体をよじった時、全身に鋭い痛みが走った。思わず、うめき声が漏れてしまう。それで思い出した。昨夜の、悪夢のような出来事を。
正直、どうやって帰ったのかは覚えていない。思い出せるのは、「救急車、呼びましょうか」と声を掛けてきたカラオケ店のスタッフの、困ったような、あるいは、迷惑そうな表情、そして、差し伸べられた手を、バランスが崩れてふらつく程強く振り払う悪態だけだった。それが、昨夜の最後の記憶である。
と同時に、キララとの最後の思い出にもなるだろう。まだ完全に覚めきっていない頭の中でも、その事だけはくっきりと思い浮かべる事ができる。そして、後悔ばかりが押し寄せてくる。
もし‐告白していたら、どんな返事を貰えただろう。
もし‐カラオケルームに入り、二人きりになれていたら。
もし‐嬢と客という関係を超える事ができていれば。
もし・・・
一体、いつからだろう。「もしも」の話をする時に、過去を振り返るようになってしまったのは。しかもそれは、消し去りたい記憶を呼び起こしてしまう事が多い。ふるさとで過ごしていた頃は、そうではなかった。
「もし、空が飛べたら世界一周の旅に出たい」
「もし、プロ野球選手になれたらジャイアンツに入団して4番を打ちたい」
未来の、夢のある世界を描いていたものだ。都会の空気のせいだろうか。それとも、これが「大人になる」という事なのだろうか。
信じていたのだ、キララの事も、自分自身の事も。横浜で暮らし始めて、もう17年目になる。ふるさとで過ごした時間と、もうすぐ肩を並べる。大学時代も、社会人になってからも、たくさんの女性と関係を築いてきた。それこそ、食事に出掛ける程度のプラトニックなガールフレンドから、ベッドを共にするだけの関係の女性まで、幅広く。
だから、女性を見極める目は持ち合わせているつもりだった。少なくとも、昨夜のようなトラブルに遭遇した事はない。惨めな思いをした事はない。もしかしたら、田舎から都会に出てきた人間というのは年齢がリセットされ、慶将は今17歳の青春真っ只中にいるのかもしれない。ならば、ラウンジ嬢に騙される程ピュアであっても不思議ではないのだが。
そんな有り得ない妄想に縋ってしまうほど、慶将は傷付いていた。いつものように「まぁ、いいか。次いこう、次」とは、なれない。髪を掻きむしり、ベッドの上を転げ回りたい気分だが、全身を襲う痛みのせいで、思うように身体を動かせず、次第に悲しみは怒りへと変わっていく。でも、一体何に怒ればいいのか。
キララに?
あのチンピラ連中に?
それとも、自分に?
その時、ふと、あの老婆から貰った白いマスクを思い出した。確かに、カラオケ店に入るまでは幸せな展開だったが、結果的には散々な目に遭ったのだ。「そうだ、あのマスクのせいに違いない」と、八つ当たりに近い感情が込み上げてくる。あんなマスク捨ててやろう、と痛みに顔をしかめながら身体を起こすと、昨日着ていたままのシャツの襟や袖のあちこちに血痕が付いている事に気付いた。今はもう製造されていない、バーバリーのお気に入りのシャツだった。
慶将の怒りのバロメーターは、ますます上がっていく。捨てるだけでは、この気持ちは収まらない。あの老婆の所へ行って、文句を言ってやろう。そんな事まで考えていると、部屋の中央にあるテーブルの上で何かがキラッと光るのが見えた。ベッドから足を下ろし、這いつくばってテーブルに向かうと、そこにはあのマスクがあった。怒りが最高潮に達した慶将が、マスクを掴もうと手を伸ばした時、再びマスクが光った。今度は、思わず目を背けてしまう程、強く。
そこでようやく少し冷静さを取り戻した。部屋の電気は点いていないのに、なぜマスクが光るのだろうか。怪訝に思いながら、恐る恐るマスクを覗き込んでみる。血で汚れた袖の先にあるマスクは、皮肉にも一滴のシミも付いておらず、まるで新品のように純白のままだった。それに気付いた時、慶将の怒りは一瞬にしてゼロになり、薄紫色に腫れ上がった口元には呆れたような薄笑いまで浮かぶのだった。
全身から力が抜け落ちた慶将は、下りた時よりもさらにノロノロとベッドに戻る。何とか横になり、再びぼんやりと天井を見つめる。今日はもうこのままダラダラ過ごそう、と瞼をゆっくりと閉じた直後、スマートフォンがピコンと短い通知音を鳴らした。一瞬、そのまま放っておこうかと考えたが、性格的に通知をすぐに確認したい慶将は、舌打ち交じりにスマートフォンを手に取った。
通知は、LINEのメッセージだった。送信者には「由佳」と表示されている。大学時代の後輩の女の子だ。慶将が4年生でボクシング部の主将を務めていた時に、1年生のマネージャーとして入部してきた。ボクシング部のマネージャーは歴代、容姿端麗な女性ばかりだった。3学年上のマネージャーは、テレビ朝日のアナウンサーになり、今はフリーアナウンサー兼タレントとして芸能界で活躍している。何を隠そう、その人に声を掛けられて、慶将は大して興味のないボクシング部への入部を決めたのだ。
大学卒業後、由佳との繋がりは途絶えたものの、五年前に開かれた大学の百周年記念パーティーの席で偶然出くわした。学生の頃から明るく陽気で、歴代の先輩マネージャーに負けずとも劣らない美貌を有していた。部のアイドル的存在だったため、決して一線を越える事はなかったが、それでも他のどの部員よりも仲は深かったように思う。
当時の印象が互いに残っていたせいか、突然の再会にも関わらず、二人は大学時代にタイムスリップしたような気分に陥った。
「慶将さん、またチャラくなったんじゃないですかぁ?」
と、無邪気にイジッてくる由佳に対して慶将も、
「由佳はチョット太ったんじゃない?」
と、嫌味を返す。すると由佳は、「もぉ」と頬を膨らませ、軽く慶将の肩を叩いてくる。その顔を見て、今度は本心で、
「でも、顔は全然変わらないね。大学時代と変わらず可愛いよ。いや、大人になってもっと綺麗になったかな」
と言うと、
「えー、そんな事ないですよぉ」
と、身体をくねらせ、急にモジモジしながら照れ始めるのだった。
八年ぶりの再会にも関わらず、すっかり意気投合した二人は、それ以来頻繁に会うようになった。
デートの場所は、二人の思い出が詰まった東急東横線沿いである事が多かった。代官山のオシャレなお店で、お互いの服をコーディネートし合った。横浜の映画館で、当時話題になった『実写版・アラジン』を観た。元住吉駅前の商店街で、食べ歩きをした。
お互いに恋人がいない事が分かると、2人の距離はさらに縮まった。手を繋ぐようになり、それぞれの家に遊びに行くようになり、関東近辺の温泉宿に泊りがけの旅行に行くようにもなった。傍から見れば、まるで本当の恋人同士に見えたかもしれない。慶将も、「こんな子と結婚できたら楽しいだろうな」と思う事は度々あった。実際、二人でいる時間は他の何にも替えられないぐらい癒しの時間だった。
それでも慶将は、告白はしなかった。勇気が無かったわけではない。おそらく由佳は、慶将の申し入れを快諾してくれていただろう。慶将の向上心、いや、いつもの悪い「欲」が顔を覗かせたのだ。「もっと素敵な女性が現れたらどうしよう」「ここで恋人になると、他の女性と遊べなくなる」といった考えが脳内を占領し、曖昧な関係のままズルズルと付き合っている。一途なのか、気が多いだけなのか、分からない。
由佳の方からも、特に真剣な交際の申し入れはなかった。いつも楽しそうに笑っていた。その笑顔を見ると、きっと由佳も今の関係に満足しているのだと思っていた。正確に言うなら、無理矢理そう思うようにしていた。
そんな由佳から、LINEが届いた。普段から、何気ないやり取りをしているので、特段考える事もなく、無意識のうちにメッセージを開いた。
<話したい事があるんですけど、今日会えますか?>
絵文字も顔文字もない、シンプルなメッセージだった。素っ気ないメッセージでもある。
いつもの由佳なら、文末に絵文字を少なくとも2つは添えてくる。それだけでも、このメッセージの重みが感じ取れる。
何となく、気が進まなかった。全身の痛みや、腫れ上がった口元を見られたくないという理由もあるが、それ以上に、嫌な予感がする。胸の内を、ゾワゾワと何かが蠢く。だが、こんな場面で断ったり余計な問答を挟むと、相手の不信感を生み、事態は悪い方へと転がっていく。自身の経験から導いた、慶将の持論だ。ため息をグッと呑み込んで、
<大丈夫だよ!迎えに行こうか?>
精一杯、明るく。精一杯、優しく。こういう時に、LINEは便利だと実感する。すぐに既読が付いて、
<今、日吉駅にいるんですけど、家に行っても良いですか?>
もうそこまで動いているのか。それは、由佳の思い切りの良さであると同時に、覚悟の表れでもあった。
目を丸く見開いたまま思考が停止してしまった慶将だが、即座に我に返り、
<大丈夫だよ!>
と返信し、断られるかもしれないと思いつつ、
<迎えに行くから、改札で待ってて!>
と、2通目を送信する。
痛みに悲鳴を上げる身体に鞭を打って、慶将は大急ぎで身支度を整える。血で汚れたシャツを脱ぎ捨て漂白剤も付けずに洗濯機に放り込み、去年の誕生日に由佳がプレゼントしてくれたTシャツを着る。洗面台の前に立ち、ワックスとスプレーで髪型をセットする。こんな緊急事態にも、身だしなみには気を配る。と言うよりも、「見た目を気にする」という表現の方がしっくりくる。「女性はカッコいい男が好き」と信じている慶将なのだ。仕方あるまい。
髪のセットを終えた時、慶将はハッとした。鏡に映る自分の口元が醜く腫れ上がっている。突然の展開に驚き、すっかり忘れていた。こんな顔で会うわけにはいかない。由佳に余計な心配をかけさせたくないし、それ以上に、慶将のプライドが許さない。どうしようか、と対処の仕方を思案していると、テーブルの上の「あの」マスクが目に入った。このマスクのせいで、昨夜は悲惨な目に遭った。先程までは、こんなマスク捨ててやると思っていた。ドラッグストアで購入した、少し高級な薄ピンクのマスクもある。だが、もう1度マスクの効力を試したくなった。信じたくなった。気付いた時には、純白の「あの」マスクを手にしていた。
何とか5分で用意を済ませ、由佳の待つ日吉駅へと走る。慶将の住むマンションは、駅から徒歩20分の場所にある。駅から徒歩10分圏内は、安手のアパートや定食屋が密集する学生街なのだが、そこを抜けると一転、高級住宅街へと姿を変える。慶将も大学時代は学生街のアパート暮らしだったが、卒業と同時にセレブエリアに引っ越した。
社会人1年目の若造には、不釣り合いな住まいだった。名前も「スカイプリンス日吉台」という、口にするだけで赤面してしまうようなマンションだ。給料も特別高いわけでなく、貯金もほとんど無い。他人からは見えないところで、節約に節約を重ねギリギリの生活を送っていた。それでも、今のマンションに拘った。多少の苦労を味わっても、羨ましがられたかった。体面だけ繕って、見栄を張りたかった。
ふるさとを離れてからは、いつもつま先立って背伸びをして生きてきた。踵を下ろせば楽になることは分かっていたが、絶対にしたくなかった。見える景色に、大した違いはないかもしれない。もしかすると、思春期や反抗期に近い心理なのかもしれない。
この歳になって思春期?
何に対しての反抗?
学生街エリアに入ると遠くに駅が姿を見せ、その構内に、午後の強い日差しを浴びてギラギラと光る物体が見える。日吉駅の名物で、銀色の球体オブジェクト、通称「銀玉」である。一歩間違えると、下ネタになってしまうが、待ち合わせの定番スポットとなっており、学生だけでなく、住民全員がその愛称で呼んでいる。由佳も、その「銀玉」の横に立っていた。少し俯き加減に。
全力疾走でここまで来た慶将は、少し速度を落とし、弾む息を整える。ハンカチで額の汗を拭い、ショウウィンドウに向かって髪の乱れをチェックする。あくまで爽やかに。あくまでクールに。あくまでカッコよく。
視線を上げた由佳と目が合う。慶将はニッコリと笑いながら、大きく手を振る。由佳は胸の前で、小さく手を振り返す。その顔には、優しい笑みが浮かんでいた。それは、全てを包み込んでくれる観音様のようにも見えたし、刑事ドラマの取調室で最後に全てを諦め投げやりになった犯人のようにも、見えた。
二人で並んで歩き、慶将のマンションに向かった。向かい合って話すよりも、同じ景色を見ながらの方が話しやすいだろうと思っていたが、由佳は一言も言葉を発さなかった。いつもなら、盛り上げるための軽口や冗談を口にする慶将だが、さすがに今はそんな雰囲気ではない。気まずい沈黙が続く。
ようやく慶将の部屋に到着し、慶将は二人掛けのソファに腰を下ろし、由佳に隣に座るよう促したが、その前に由佳はフローリングにペタンと座り込んでいた。これは余計な前置きを挟まない方が良いかな、と考え、慶将は単刀直入に訊いてみた。
「話って、何?」
俯いている由佳に、反応はない。長い間をおいて、ようやく由佳は口を開いた。
「慶将さんは、私のこと好きですか?」
こちらもストレートな質問に、慶将は由佳を見つめたまま動けなくなってしまう。二人ともボクシング部出身なだけあって、カウンターパンチを喰らった気分だ。
「そ、そんな事、当たり前だろ。そうじゃなきゃ、こんなに仲良くしてないよ」
慶将の声は僅かに震え、妙に早口になってしまう。
「それは女としてですか?それとも後輩としてですか?」
由佳の問いかけは、再び核心を突いてくる。いや、痛い所を突いてくる。慶将にとっても、長年モヤモヤしていた問いなのだ。
「両方だよ」
咄嗟に出た言葉だったが、自分でも「ズルい答えだな」と思った。由佳も、慶将の逃げかわすような返答に感情が昂ったのか、身を乗り出して慶将をキッと睨み付ける。
「慶将さん、私と結婚できますか?」
質問というよりも、問い詰めるような言い方で。そしてその声は、慶将の耳ではなく胸に直接ぶつけられるような響きであった。
さすがに、これには即答できなかった。好きかどうかを尋ねられているのではなく、慶将の「覚悟」を問われている気がした。何と答えるのがベストなんだろう。いや、そんな造った答えよりも、自分の本心を伝えた方が良い。覚悟なら、今、決めれば良い。
「いいよ」と答えようとして、口を横に開こうとしたその時、由佳が先に口を開いた。
「やっぱり、できないですよね」
沈黙が答えになってしまった。違う、由佳、違うんだ。俺はYESを伝えようとしたんだよ。伝えたい言葉は頭に浮かんでいるのに、それは声になってくれない。慶将は口をアワアワと動かすだけだった。
「慶将さんって優しそうに見えるけど、ホントは全然優しくないですよね」
由佳の言葉はまた、慶将の胸に直接届く。
「チャラいのに、全然女心分かってないですし」
由佳の口数が増える。ずっと思っていた事なのだろうか。我慢してきたものが、今溢れ出しているのだろうか。すると、由佳は前のめりだった姿勢を元に戻し、何かを決心するように深くため息をついた。そして、目を赤く潤ませながら、静かに口を開く。
「私、一ヶ月ぐらい前からお見合いの話がきてるんです。でも、ずっと迷ってて・・・私は、慶将さんが好きだから」
言われると一番嬉しい言葉の筈なのに、今は「好き」という言葉が棘になって慶将の胸に突き刺さる。胸が高鳴るのではなく、締め付けられる。
「今日、慶将さんが私との結婚に前向きでいてくれてる事が分かったら、縁談はキッパリ断るつもりでした。でも、慶将さんにその気が無い事が、よく分かりました。私は、慶将さんにとって都合の良い女、セフレだったんですね」
違う、そんな事はない。俺は一度もそんな関係だと思った事はない。想いは、やっぱり声にならない。
「私、お見合い受ける事にします。慶将さんに叶えてもらえなかった私の夢を、その人に叶えてもらいます。慶将さんには出来なかったけど、その人なら出来るって、私信じてます。幸せになります。だから、もう連絡してこないでくださいね。さようなら」
一息にそう言って、由佳は頬を伝う雫を指先で拭いながら立ち上がり、慶将の座るソファの脇をすり抜けて、部屋を出て行った。
最後まで、慶将は動けなった。何も言えなかった。由佳は、ずっとあんな事を思いながら俺と一緒に過ごしていたのか。幸せだと思っていたのは、俺だけだったのか。ふと、ビートルズの『ジ・エンド』という曲のエンディングのフレーズが思い浮かんだ。
<結局のところ、お前が手にする愛は、お前が生み出す愛なのだ>
由佳が座っていたフローリングの一点をぼんやりと見つめていると、不意に視界がぼやけて、揺れた。と、思う間もなく、熱いものが目から零れ落ちる。先程まで鳴りを潜めていた想いの言葉が、涙に変わって溢れているのかもしれない。でも、それが悲しみの涙なのか、悔し涙なのかは、慶将には分からない。ただ、だんだんと感情が込み上げてきて、いつの間にか肩を震わせ、嗚咽が漏れるほど激しい泣き方になっていた。
どのくらいの間、泣き続けていただろう。ようやく涙が止まりかけた頃、慶将は何気なくスマートフォンに手を伸ばす。すると、LINEのメッセージ通知のランプが点滅していた。送信者は、由佳だった。まだ何か言い足りない事があるのだろうかと、恐る恐るメッセージを開くと、画面には
‐ありがとう
の一言が、表示されていた。
メッセージ送信時間は、約30分前になっている。おそらく、駅まで迎えに行くと伝えた事に対するお礼だろう。しかし、由佳との短くも重い話し合いを経た今の慶将には、「今までありがとう」という最後の別れの言葉に思えてならなかった。そう思うと、止まった筈の慶将の涙は、再び流れ出すのだった。
4月3日、月曜日。暖かい春の風に吹かれながら、慶将は職場へ続く上り坂を歩く。
勤務先は『虹の都病院』という名の医療施設だ。慶将は、そこで理学療法士としてリハビリテーション職に就いている。療養型慢性期の病院ということもあり、患者はほぼ全員が80歳を超える後期高齢者である。そのため、リハビリの内容も積極的な運動や、苦痛に耐えながら行うといったものではなく、拘縮予防のための関節可動域訓練や筋肉をほぐすリラクセーションがメインとなる。そして、できるだけ穏やかな時間を過ごしてもらい、最期の瞬間を迎えてもらう、そういう病院だ。
理学療法士という職を選んだことも、最初は大した理由ではなかった。父親がふるさとで病院を経営していたので、漠然と医療職に憧れは持っていた。だが、どんなに勉強しても医学部に進学できるほどの学力には至らなかった。両親が慶将に寄せる期待が薄まっていったのは、その頃からだ。失望に近かったかもしれない。それは言い換えれば、慶将がふるさとを嫌いになる時期でもあるのだ。
医者以外の道を探していた時に知ったのが、理学療法士だった。基本的に夜勤や宿直などの不規則な勤務はなく、看護師のように注射や浣腸などの器具を使う業務もない。何を隠そう、慶将は血が苦手なのだ。さらに医師や看護師と同じく国家資格にあたるので、免許を取得すれば、一生有する事ができる。こんな良い職業はない、と安易な動機で進路を決定したのだ。
それでも、今では天職だったと思う。ふるさとを離れてほどなく、幼少期にとても可愛がってくれた4人の祖父母が、相次いで他界してしまった。大学進学の直前、「就職したら絶対に孝行しよう」と心に決めた矢先の出来事だったので、慶将が受けたショックは計り知れないものだった。だが、その事で逆に慶将の中で目標が明確になった。
「返せなかった恩は、同じように病気や怪我で苦しむ他の高齢者に尽くす事で返そう」
大学時代、ボクシングと合コンとアルバイトに明け暮れた慶将が、留年することなく免許を取得できたのは、この目標をずっと胸の内に秘めていられたからだろう。
卒業後は、病院実習でもお世話になった虹の都病院に声を掛けてもらい、迷わず就職先を決めた。教授からは、自分の母校の大学病院や最先端の技術を誇る医療施設を紹介されたのだが、横浜市のはずれ、ほとんど逗子や鎌倉に近い個人病院を選んだ。「実習の時に雰囲気が良かったから」というのが表向きの理由だが、本当のところは慶将自身にも分からない。ただ、義理や人情ではない。直感、とも少し違う。慶将が選んだというよりも、病院に慶将を惹き付ける何かがあった、というニュアンスに近いかもしれない。
そんな経緯で働き始めて、今年で13年目になる。プライベートでは異性との付き合い方に難があるが、仕事中は人が変わったように誰よりも熱心に働いている自負がある。そんな姿勢が評価され、昨年から「リハビリテーション部長」の役職を与えられている。地位や肩書に拘る慶将にとって、この昇進は何よりも喜ばしく、まさに水を得た魚のように仕事に邁進する日々を送っている。
しかし、今日は一週間の始まりというのにヤル気が湧いてこない。いつもなら軽々と登る坂道も、今日は勾配がきつく感じ、心なしか病院の建物も遠くにあるように見える。
原因ははっきりとしている。週末、慶将の身に起きた悪夢のような出来事だ。口元の腫れは若干残っているものの、全身の痛みはほぼ消失した。しかし、身体の痛みと入れ替わるように、心の傷が痛みを増している。それも、胸の奥深く、決して届かない場所に傷は居座っている。
月曜日の午前中は毎週、訪問リハビリに出掛けることになっている。通院でのリハビリが困難で、かつ、自宅での生活に困り事を抱えている患者の自宅を訪れ、1回40分のリハビリを実施するのだ。病院のリハビリ室のような、安全で広々としたスペースがあるわけではないので、各家庭の住環境に応じてプログラムを考えないといけない。あちこちに小さな段差がある家もあれば、足の踏み場もない程に散らかった家もある。道具や器具などの備品も揃っていないので、その家にある物を代用する。急変した際に、すぐに診てもらえる医師もいないので、体調の変化にはいつも以上に敏感にならなければならない。それでも、限られた環境の中で行う訪問リハビリに、慶将はやりがいを感じているのだ。だが、そんな訪問リハビリの最中にも、慶将の頭の中は週末の出来事でいっぱいだった。
このままでは仕事に支障が出る、と危機感を抱いた慶将は、昼休みに病院に戻ると、真っ先に薬局に向かった。入職以来仲良くしてくれている、薬剤師の三河さんに話を聞いてもらおうと考えたのだ。三河さんは博識なうえ、患者への対応も親切丁寧な人格者で、仕事の領域こそ違うものの、見習うべき点が多い。プライベートでもよく呑みに行く仲で、公私ともにお世話になっている。
薬局に入室すると、三河さんはちょうど事務仕事を終えてパソコンを閉じるところだった、こちらを振り向き、「おう、お疲れ」と声を掛けてくれた。
「お疲れ様です。チョット聞いて欲しい話があるんですけど・・・」
慶将が切り出すと、その暗い表情から話の重さを察したのか、
「今日は結構暑いな。麦のジュースでも飲みながらの方が良いんじゃない?」
と、イタズラっぽい笑顔になって、口元で手首を傾ける仕草を見せる。こういう気を利かせられるところも、慶将は大好きだ。
「是非是非!急ですけど、今夜大丈夫ですか?」
「モチのロンよ!実は俺も慶ちゃんと呑みに行きたいなーって思ってたところ」
さすがにこれは嘘だと分かったが、わざとらしく聞こえないところが三河さんの良い人たる由縁なのだろう。
「楠本さんも誘っていいですか?」
「おっ、いいね!じゃあ、三人で語り合うか!」
楠本さん。慶将が、もうひとり尊敬する職場の先輩だ。ケアマネージャーと看護師の資格を有し、病院に併設されているデイサービスの主任を務めている。年齢は慶将よりも一回り上だが、20代の頃は女性との交遊が派手だったらしく、その武勇伝に慶将は一瞬で心を奪われたのだ。
その顔立ちには、ヤンチャ時代の名残が見えるが、体重は当時より30㎏も増えたのだと言う。健康の事も考え、今年からダイエットに励んでいるのだが、先日、憧れの皇居周りを走っていると、後ろから軽快に走って来るランニングクラブの集団に「歩く人は道路の左端でお願いしますね」と爽やかに言われたらしい。
「その優しさで、余計に惨めになったよ」
と、かなりヘコんでいたが、それでも毎朝無添加のトマトジュースを飲み、健気にも健康志向の生活を続けている。
そんな楠本さんを今夜の飲み会に誘ってみると、快くOKしてくれた。飲み会が待ち遠しくなり、沈んでいた慶将の気分も徐々に晴れていき、午後からは普段と変わらない熱量で仕事に取り組めたのだった。
19時から始まった宴は、あっという間にラストオーダーの21時を迎えた。ダイエット中の楠本さんも、「今日は特別だ、ガハハハッ」と豪快に笑いながら、生ビールから始まり、日本酒、焼酎、ワイン、そして締めのハイボールとあらゆるアルコールを楽しんでいた。それでも、明日の朝は出勤前にジョギングをして、恒例のトマトジュースを飲むのだろう。自分に甘いのかストイックなのか、分からなくなる。ただ、今夜のアルコール解禁は慶将に付き合ってくれている優しさだという事だけは分かるから、慶将の胸はほっこりと温かくなる。
序盤の話題は、それぞれの最近の仕事に関するものだったが、大半は慶将の週末の出来事についてだった。奇妙な、「あの」マスクのことも話した。仕事中は病院支給のマスクを着用していたが、もしもに備えて自宅を出る間際に鞄の中に忍ばせておいたので、現物を見せる事もできた。
二人は真剣に話を聞いてくれたが、さすがにマスクの件は笑って流された。
「慶ちゃんの考え過ぎだよ」
「今までいっぱい女泣かせてきたから、その罰が当たったんだよ」
尊敬する二人にそう言われると、慶将も徐々に自分の気にし過ぎのようにも思えてきた。結局これといった結論は出ず、いつもの楽しい飲み会となった。
河岸を変えよう、という話になり、慶将たちは二軒目を探して横浜駅周辺をうろついた。
「慶ちゃんの厄払いも兼ねて、女っ気のある店にしようか」
楠本さんがそう提案すると、すかさず三河さんが、
「楠本さんが行きたいだけでしょ」
と、ツッコむ。まるでお笑い芸人のような流れるやり取りだ。こういうところにも、仲の良さが垣間見える。慶将もいつもの明るさを取り戻して、
「まぁ、楠本さんには逆らえないからなー。仕方なし、ですよ」
と、軽口を返す。楠本さんもそのノリに合わせて、
「ホントは慶ちゃんが一番行きたいくせに!」
と、肘でつついてくるので、慶将は
「バレましたか」
と、右手で後頭部をさすりながら舌をペロッと出してみせる。その仕草を見た二人は大口を開けて笑う。本当に良い人たちだなぁ、と改めて思う。今日、二人を呑みに誘って良かったと心から思う。
横浜ビブレを通り過ぎ、さらに西に向かって歩を進めていくと、やがてピンクや紫といった蠱惑的なネオンに彩られた一角に出た。
「楠本さん、行きつけの店とかあるんですか?」
三河さんが尋ねると、楠本さんは、
「いや、今日は慶ちゃんに決めてもらおう!」
と、慶将に振ってきた。
ここ2,3年は、『なご美』にしか通っていなかったので、正直、夜のお店の見極めには自信はない。しかも、つい2日前にはそこのお気に入りの嬢に裏切られたばかりなのだ。慶将の足はピタリと止まる。急に湧き出てきた生唾を、ゴクン、と飲み込む。
少し先を歩いていた楠本さんと三河さんも、慶将の異変に気付いて立ち止まる。すると楠本さんが、やれやれ、といった表情で戻って来た。そして、慶将の肩をポンッと叩きながら、
「何となくで良いよ!看板の雰囲気とか、店名の音の響きとか。チョットずつ乗り越えていこうぜ!これも、一種の【リハビリ】だ!」
と、励ますように言う。
「慶ちゃんは変なところで真面目だなぁ、おい!」
今度は、少し呆れながら。それでも、慶将の心はほぐれた。嫌な記憶を捨て去れそうな気がした。
「そうですね、分かりました!じゃあ、僕に付いて来てください!」
慶将は胸を張り、止まっていた足を大きく前に踏み出そうとした。
と、その時。前方を一組の男女が横切っていくのが視界に入った。二人の行く先には、安っぽいラブホテルがある。
「週の始まりだってのに、お盛んだねぇ」
と、三河さんがぼやく。ホントだよなぁ、と心の中で相槌を打った慶将は、ぼんやりとその男女を眺める。すると不意に、女性が男性の腕にしがみつき、下から顔を覗き込むような仕草を見せた。慶将の足が、再び止まる。先程よりも大きな衝撃が、慶将を襲う。
今度は何なんだ、と怪訝な表情を浮かべながら楠本さんと三河さんは慶将の元に戻って来た。
「どうした、慶ちゃん?あのカップルが羨ましくなったか?」
楠本さんの冗談は、慶将の耳をすり抜ける。
「知ってる人?」
と、三河さんが尋ねながら男女の方を振り向くと、三河さんの肩がビクッと跳ね上がった。どうやら、三河さんも気付いたらしい。
「三河くんまでどうしたの?」
と、楠本さんも振り返ると、冗談ばかり言っていた楠本さんの口から一切言葉が出てこなくなった。楠本さんも、前方の男女が何者なのか分かったようだ。正確には、女性の方。慶将にとって「友達以上、恋人未満」の関係、それも、ほとんど「恋人」に近い間柄の女性であった。
金城友子、45歳。慶将たちの勤める、虹の都病院内に設けられている託児所で働く保育士だ。普段の業務中は、それほど接点はないのだが、二年前に職場の忘年会で出会った。あまりにも派手な出で立ちだったので、初めはコンパニオンかと思っていたのだが、話を聞いている内に、どうやら同僚であることが分かった。バツイチで22歳と17歳の二人の娘がおり、両親を含めた五人暮らし。
華麗な外見とノリの良さに、慶将は「本当に自分より一回り年上なのか」と驚愕したものだが、それを上回る友子のコミュニケーション能力の高さに、次第に惹かれていった。そして、その日のうちに一夜を共に過ごす関係になったのだった。
その後も、二人は定期的に会うようになった。慶将は決して、女性との関係を「ワンナイト」で終わらせない。ベッドインがゴールなのではなく、そこから関係をスタートさせるのが慶将流だ。綺麗に表現し過ぎだろうか。
少なくとも週に一度は食事に出掛け、その際は決まって朝まで過ごす。最初は繁華街のラブホテルでの宿泊だったが、いつしかその場所は慶将の自宅へと変わっていた。あまり他人を自宅には上げない慶将だが、なぜか友子には「うちに泊まる?」と自ら誘う事ができたのだ。
友子が慶将のマンションに通うようになって、新たな発見があった。友子は、とても家庭的な女性だった。
まず、料理がとても上手だった。味付けはもちろん、作業中の手際も良い。盛り付けも非常に食欲をそそる見栄えで、慶将は毎回スマートフォンで料理の写真を撮影する程だった。
掃除も完璧にこなしてくれた。「とりあえず目に見える場所だけ」の慶将とは違い、テレビの裏やソファの下まで、本当に隅々まで綺麗にしてくれていた。さすがは、二人の娘を育て上げた女性だと、心の底から感心したものだった。
そして、沈黙が続いても気まずくない。傍にいるだけで、気持ちが落ち着く。慶将が誘えば、絶対に応えてくれる。そんなことから、いつしか慶将に甘えが生まれ、呼べば来てくれる「都合の良い女」、家事をこなしてくれる「家政婦」という認識が心の中に生じていたかもしれない。
そんな友子が今、慶将の目の前で知らない男に肩を抱かれてホテルに入っていく。男は、慶将の父親ほどの年齢で、見るからに金持ち然とした雰囲気だった。
「嘘だろう・・・」
慶将は唇を震わせながら呟くのがやっとだった。三河さんと楠本さんも、言葉を失っていた。友子と男の姿が視界から消え、しばしの時が流れた。最初に口を開いたのは、慶将だった。
「今夜はやっぱりもう帰ります。僕から誘ったのに、すみません」
三河さんと楠本さんの反応を確かめる事もなく、慶将は俯き加減に来た道を引き返していく。二人は小さく丸まった慶将の背中を、黙って見つめるだけだった。時刻は、21時30分。飲み会の日に慶将がこんな時間に帰るのは、初めての事だった。
帰宅した慶将は、まずシャワーを浴びた。熱々のお湯を頭からかぶり、先程の光景を洗い流したかった。しかし、脳裏に焼き付いてしまった友子の姿は、なかなか消えてくれない。まるで、こびりついた頑固な油汚れのように。掃除の上手な友子なら、こんな嫌な記憶も綺麗に片付けられるだろうか。
浴室から出た慶将は、冷蔵庫の扉を開き、ビールに手を伸ばす。しかし、ふと「今夜はもう呑む気分じゃないな」と思い、伸ばした手の行く先をミネラルウォーターのペットボトルへと変えた。500㎖を一気に飲み干し、そのまま寝室に向かう。時刻は22時30分。時計の針が、なんだか「お気の毒様に」とお辞儀しているように見える。そして、一人暮らしにしては大きすぎるダブルサイズのベッドが、いつもより大きく見えてしまう。
「よし、寝よう」わざと声に出して呟き、幼い子供のようにベッドに大の字になってダイブする。ギシギシと軋むバネの音が、無性に耳に障る。しばらく続く微かな揺れも、気分が悪くなる。きっと酔いのせいだけではないだろう。仰向けになり腕を目の上に乗せ、慶将は暗闇の世界に逃げ込んだ。このまま眠りに落ちて、朝を迎えてすべてを忘れたい。そんな事を願えば願うほど、自分が情けなく思えてくる。考えれば考えるほど、目は冴えてくる。
居てもたってもいられなくなった慶将は、ガバッと身体を起こし、その勢いのまま電話を掛けた。スマートフォンの画面には、「金城友子」と表示されていた。
電話は、意外にもすぐに繋がった。留守番電話に転送される事も覚悟していた慶将は、肩透かしを喰らった気分になったが、気を取り直して「もしもし、俺だけど」と第一声を発した。いつもと変わらないトーンのつもりだったが、友子にそう聞こえたかどうかは、分からない。
「あっ、慶くん?どうしたの?」
友子の声もいつも通り、のはずだ。
「飲み会が終わって、今家でひとりなんだけど、来る?」
思い切って、カマをかけてみた。
「行く行く!15分ぐらいで着くと思うから、待っててね!」
来るのか。オッサンと一緒じゃないのか。今、友子はどんな状況にいるんだ。
嬉しいはずの返答なのに、慶将は一瞬慌ててしまい、その動揺を隠しきれないまま、
「了解。急がなくていいから気を付けて来てね」
と、精一杯の優しさを溶かした声を掛け、通話を終えた。
予告通り、友子は15分後にやって来た。友子が到着するまでに、どういう話を、どういう流れでするか考えを巡らせたが、結局、何も思い付かなかった。何事にも計画を立て、準備万端で臨む慶将にとっては不安この上ない状況だったが、呼んだのは自分自身なのだ。今更嘆いても、もう遅い。むしろ、こんな急な呼び出しにも応じてくれた友子に感謝しなければならないだろう。今までは、そんな事を考えた事もなかったけれど。
「お邪魔しまーす」
屈託のない、友子の明るい声が部屋に響く。服装は、横浜駅前で見かけた時と同じものだ。いくつも疑問が浮かんできたが、すべて飲み込み、無難な言葉を選んだ。
「早かったね」
「チョットでも早く会いたかったから、タクシーで来ちゃった」
ソファに座る慶将の肩に頭をもたれ掛けながら答える。嬉しい事を言ってくれるが、今日はその喜びに浸っているわけにはいかない。
「・・・家から来たの?」
よく考えると不自然な質問だが、サラリと訊けた・・・と思う。
「そうだよ。でもお酒飲んじゃってたから、自分で運転できなかったの。だから、タクシー」
その瞬間、慶将の胸がざわついた。嘘を付いている。酔いは醒めていたが、代わりに腹の底から怒りと悲しみと悔しさが混じった複雑な感情が湧き上がってきた。もう、演技をする余裕は無くなった。
「実はさっき、横浜駅の前で見かけたんだよ、男の人に肩を抱かれて歩く友子を。アレは誰だったの?」
顔は友子の方に向けず、視線はただ目の前のテーブルの一点を捉え続ける。口調も、きわめて穏やかに。すると友子は、いつもと変わらない明るさで、
「そうなんだ、慶くんも駅前にいたんだね。さっきのはゴルフ仲間の社長さん。よく呑みに連れて行ってくれたり、お小遣いくれたりするんだよ」
「・・・どういう事?」
「アレ?慶くん知らなかったっけ?私、結構いっぱいオジサンの友達がいるの。向こうから言い寄ってくるんだけど、皆そこそこお金持ちだから、生活の面倒とかみてもらってるんだよね。病院の給料だけじゃ足りないし。まぁ、フリーのキャバ嬢と言うか、ハッキリ言えば『パパ活』かな」
「・・・俺もその内のひとりってわけ?
「いやいや、慶くんはまだ若いし、そんなつもりじゃなかったよ。普通に友達だと思ってたけど?」
浮気がばれて、泣きながら謝る友子の姿を想像していたのだが、雲行きが怪しくなってきた。むしろ、主導権が友子の方に移りつつある。
「だって、私たち付き合ってるわけじゃないし、お互い誰と遊ぼうと自由だよね?」
何も答えられない。
「そもそも慶くんだって、いっぱい女の子と遊んでるじゃん!知らないと思ってた?」
鼻を鳴らして笑うような言い方に、聞こえた。
「慶くんも自分の都合の良い時だけ私を呼んでたんでしょ?」
答えないのが、答えになる。
「私のこと大事に想ってくれてないのがバレバレ。もっとちゃんと女心分かってあげないと、ダメだよ」
問い詰めるような言い方に聞こえてしまうのは、後ろめたさのせいだろうか。慶将の中でプツンと何かが切れる音がした。全身から力が抜けていき、そのままズブズブとソファに沈み込んでしまいそうだった。
「分かった。もういいや。今まで、ありがとう」
強がりなのか、見栄を張りたいのか、格好をつけたまま別れたかった。しかし、最後まで友子のペースで幕は降ろされた。
「私は慶くんの事好きだったけどね。私も今までありがとう。幸せになってね」
思わず立ち上がって振り向くと、部屋を出て行く友子と一瞬だけ目が合った。蛍光灯の光をはじくように、その瞳は赤く潤んでいた。
玄関のドアがガチャン、と音を立てて閉まる。音の余韻が消えると、部屋は静寂に包まれた。ソファに倒れこむように、慶将は仰向けになる。
友子は泣いていた・・・のだろうか。
最後の一言が、本音だった・・・のだろうか。
何が嘘で、何が真実なのか。何も分からない。もう、考える気力さえ湧いてこない。
怒ったまま出て行ってくれた方が、まだマシだ。キッパリと「アンタなんか最低!」とビンタの一発でも喰らわされた方が、案外すっきりしたかもしれない。最後の友子の一言は、綺麗な別れを演出しようとした慶将にとってはカウンターパンチのようだった。しかも、ボディブローのように、後からじわじわと効いてくる、そんな一言だった。
友子にひどい事をしたんだと、今になって気付く。ひどい事ばかりしてきたんだと、全てが終わってから、分かる。
「実は俺も好きだったんだよ」
目尻から溢れそうになる涙を掌で押さえつけながら、わざと声に出して呟いてみた。そういえば、直接そんなセリフを口にした事は一度も無かったな。伝えたら、友子はどんな表情になっただろうか。
もう現実に起こり得る事のない、悲しい「もしも」の世界を想像する。すると今度は、友子との懐かしい思い出が走馬灯のように慶将の頭の中を駆け巡る。押さえつけていた涙は、もう限界だった。もう誰もまっすぐには愛せない。そんな気がしてならなかった。
ハンカチで涙を拭き取ろうと、右ポケットに手を突っ込んで取り出すと、そこには丁寧に折りたたまれた、真っ白に輝くマスクがあった。
4月4日、火曜日。慶将の気分を映すかのように、空は一面鉛色の雲に覆われていた。天気予報によると、午後からは雨も降るらしい。
昨晩の出来事を思い出すと、職場に向かう足取りは重くなる。背中も、自然と丸まってしまう。それでも、今夜はデートの予定が入っている。仕事をサボって女性と遊びに出掛ける程の図太い神経は、慶将は持ち合わせていない。
駅から職場に向かっている途中、気分を切り替えようと今夜のデートに考えを巡らせていると、ふと、ある事を思い出した。今日は火曜日だ。毎週火曜日、慶将は自宅には帰らない。どこに行くのかといえば、もちろん女性宅である。
女性の名は、由衣さんという。慶将よりも2歳上で、小学3年生の男の子を育てるシングルマザー。火曜日は、近所に暮らす両親の家に息子が泊まりに出掛けるそうで、「家でひとりでいるのは寂しい」ということで、一年ほど前から関係が始まった。虹の都病院が運営するデイサービスセンターで介護職として働く由衣さんとは、元々仕事の話を頻繁にする仲で、プライベートでも仲良くなるのにそう時間は掛からなかった。
毎週火曜日は、心身ともに由衣さんに癒されている慶将だが、今夜の予定は外せない。一ヶ月前に三河さんが開いてくれた合コンで知り合った、加奈子さんという女性と、初めて二人で食事に行く事になったのだ。今夜の「でき」次第で、今後の関係が左右されると言っても過言ではない。一方、由衣さんとのお泊りの機会は、毎週必ず訪れる。どちらを優先させるか。慶将に迷いはなかった。ビジネスマン風に言えば、既存の顧客も大事だが新規開拓を第一に掲げる、そんなところだろうか。
ここ数日は慌ただしい日々を過ごしていたので、今朝になってようやくダブルブッキングに気付いた。急いでスマートフォンを取り出し、由衣さんにLINEのメッセージを送る。
<おはよう。急用で、今夜行けなくなった。連絡遅くなってゴメン!>
すぐに既読が付いて、<了解!来週楽しみにしてるね!>と返信が来た。後ろめたい気持ちも無いわけではなかったが、とにかく無事に連絡がついてホッとした。
いつも通り職場に着き、更衣室でユニフォームに着替えていると、少し遅れて楠本さんがやって来た。だがその顔に、いつもの人懐っこい笑顔は浮かんでいない。
「おはようございます。昨日はすみませんでした」
と慶将が声を掛けると、
「お、おはよう」
と返す声は、少し揺れていた。視線も、伏し目がちになる。
昨夜、途中で帰ってしまった事に怒っているのだろうか。慶将は会話の接ぎ穂を失ってしまい、しばし気まずい沈黙が更衣室を支配した。
着替えを終えて慶将が廊下に出ようとすると、やっと楠本さんが声を掛けてきた。
「金城先生、病院辞めるらしいよ」
出入り口のドアに伸びた手はドアノブを掴んだまま動かず、足も前へは進まない。冷静に考えれば、気まずい思いをしなくて済むので安堵するところだが、なぜかスッキリしない後味の悪さがせり上がってくる。先に更衣室を出て行ったのは、楠本さんの方だった。
友子が退職願を提出したことは、すでに病院中に広まっていた。慶将と友子の関係を知る人たちは、チラチラと好奇心に満ちた視線を慶将に向けてくる。それらの視線は、どれも冷ややかなものだった。
「俺が悪いのか・・・こんなに傷付いたのに・・・」
自分を被害者だと思っていた慶将は、急に不安に襲われた。交際している男が実は悪者で、女が正義の制裁を加える。そういうあらすじのドラマって無かったっけ?
無理矢理、現実逃避を試みるも、すぐにまた新たな不安が浮かんでくる。
「悪い噂が広まるだろうな・・・」不安というよりも、予感に近い。
就職して、12年。仕事中に肩身の狭い思いをしたのは、この日が初めてだった。
17時30分。ようやく1日の業務を終えた。これほど1日が長く感じたのも、今までになかった。加奈子さんとのデートが待ち遠しかったのか、あるいは、悪い噂の主役になってしまった気まずさから一刻も早く逃げ出したかったのか。どちらも間違いではないが、おそらく後者の方が上回っているだろう。
普段、慶将が定時に仕事を切り上げる事はない。事務仕事や入院患者の食事観察など、就業時間内には手が回らない業務を行い、早くても18時を過ぎないと病院を出る事はない。
だが、今夜は定時ぴったりに「お疲れ様でした」と同僚に声を掛け、誰よりも早く更衣室に向かう。服装も、普段のカジュアルな出で立ちではなく、シャツにジャケットという、いかにも「出来る男」感を前面に押し出した格好だ。仕上げに、ブルーのカラーコンタクト着用。どこまでも見た目に拘る男なのだ。
食事場所も、少し背伸びをした。「ウェスティンホテル横浜」の最上階にある、フレンチのお店を予約した。芸能人も度々訪れる名店で、料理が美味しいだけでなく、壁一面のガラス窓から眺める夜景も人気の理由の一つだ。
自宅を出る直前まで持って行くかどうか悩んだ「あの」マスクは・・・今日もポケットに忍ばせてある。三日連続で不幸な目に遭っているが、ここで諦めてしまえば、ただの「損」でしかない。老婆の告げた一週間という期日まで、まだ四日ある。マスクの効力を信じているのではなく、やられっ放しでは済まさないという負けず嫌いな性格が、慶将を意固地にさせていた。それに加えて、ここまで不幸を呼び寄せるマスクに興味が湧いてきて、次は何を起こしてくれるのだろうというワクワク感まで抱くようになっていた。
タイムカードを切り、早足で最寄りの港南台駅に向かう。駅までは、徒歩10分。そこから、JR京浜東北・根岸線で横浜駅に向かい、横浜駅でみなとみらい線に乗り換えて目的地のみなとみらい駅で下車する。待ち合わせ時刻の19時には、十分に間に合う。
約束の時間より、10分早く到着した。加奈子さんには
<お店の中で待ってるね。雨が降ってるから、気を付けて来てね>
とLINEのメッセージを送り、一足先にお店に向かった。
シェフとコース料理の確認を行い、ウェイターから本日おススメのワインを聞き出す。今夜のデートを成功に結び付けるための「下準備」はバッチリだ。
ふぅ、と一息ついて、案内された個室のテーブルに着席すると、眼前に巨大な観覧車が飛び込んで来た。みなとみらいの観光名所の一つ、よこはまコスモワールドの名物・コスモクロック21である。全高112.5m、定員480名の世界最大の時計機能付き大観覧車だ。ゴンドラの一つ一つが異なるネオンに彩られ、まるで動くオーロラを見ているような気分になる。あいにくの雨だが、それを差し引いても惚れ惚れする絶景だ。
完璧だ、と思った。勝った、とデートの成功を確信した。何が勝ちで、何が負けなのかよく分からないが、あまりにも計画が順調に進んでいるので、自然と頬も緩んでしまう。
19時10分。加奈子さんからの連絡が来ていないかスマートフォンを確認する。連絡は、無し。LINEのメッセージにも、既読は付いていない。「まぁ、待つのもデートの内だから」と、伸ばしていた背筋から少し力を抜き、浅く座り直した。
19時45分。未だに連絡は無く、LINEのメッセージも未読のまま。「仕事が長引いているんだろうな」と、強引な憶測で自分を納得させた。
20時30分。マナーモードにしたスマートフォンが緑色のランプを点滅させながらテーブルの上で震えた。LINEを開くと、加奈子さんからの返信だった。
<今夜行けなくなりました。ごめんなさい>
慶将は自分の目を疑った。開いた口が塞がらなかった。
こんなに待っていたのに・・・完璧なプランを用意していたのに・・・
もっと早く連絡する事はできなかったのだろうか。なぜ来れなくなったのか、メッセージに記載するべきではないだろうか。女性としてではなく、ひとりの大人として。
加奈子さんに電話を掛けてみた。今日は無理でも、せめて次の約束を取り交わしておきたかった。3回ほどコール音が鳴った後、電波に乗って「お電話をお繋ぎすることができません」という平べったい女性の音声が聞こえた。慶将は目を閉じて、深く、長いため息をつく。「電話に出る事ができない」でもなく、「電波の届かない所にいるため」でもない。機械的なアナウンスは、確かに「お繋ぎできない」と言った。つまり、着信拒否されているということだ。
それにしても、一体なぜ?俺が何をしたっていうのだ。これも「あの」マスクの力なのだろうか。不思議と、怒りや悲しみは湧いてこない。ただ、フフッと自分を嘲るような薄笑いが浮かぶだけだ。あまりにも絶望的な体験をすると、人は笑うのだと、慶将は初めて知った。
仕方なく帰宅しようと席を立った時、ふと、あるアイディアが浮かんだ。個室を出て、ウェイターの立つレジに向かう。
「すみません。連れが来れなくなったので、簡単な料理だけドギーバッグに詰めて持ち帰りたいんですけど、可能ですか?」
ダメ元で尋ねてみると、
「少々お待ちください」
と言って、ウェイターは厨房の方に歩いて行った。すぐに戻って来たウェイターは、
「シェフも、ぜひご自宅で召し上がっていただきたいと申しております。ただ、20分ほどお時間が掛かりますが、よろしいでしょうか?」
と申し訳なさそうな顔で伝える。
「大丈夫ですよ。無理を言ってすみません。宜しくお願い致します」
「かしこまりました。ではまた、先程のお部屋でお待ちください」
パッと明るい笑顔を取り戻しながらウェイターはそう言って、再びシェフの元に向かった。「さすが一流店だな」と感心しながら、慶将は美しい夜景の見える個室に戻った。
料理を待っている間、慶将は由衣さんに電話を掛けた。持ち帰った料理を、由衣さんと一緒に食べよう。それが、慶将の頭に閃いたアイディアだった。転んでも、タダでは起き上がらないのが慶将なのだ。
さすがにもう夕飯は終えているだろうが、酒肴ぐらいなら食べられるだろう。このレストランで上等なワインを買って帰ろう。そんな事を考えながら、電話が繋がるのを待っていたが、由衣さんは電話に出ない。「まさか、由衣さんも着信拒否?」という嫌な展開を想像してしまったが、さすがにそこまでの悲劇は起こらなかった。ただ、どれだけ待っても、電話は繋がらない。「風呂にでも入っているのだろう」と自分に言い聞かせ、代わりにLINEのメッセージで
<予定が早く終わったから、今から行ってもイイ?ワインとお土産も持って行きます!>
と送った。
料理を受け取り、1本3万円のワインを購入してレストランを後にした。ホテルの外に出ると、まだ雨が降っていた。振り向いて、ホテルを見上げる。
「またいつか来るからな」
誰にともなく呟いて、踵を返してみなとみらい駅に向かった。
由衣さんの自宅は、虹の都病院の近くにある。つまり、もう一度病院に戻るような形になるのだ。横浜駅で乗り換えの電車を待っている間、「ホントに運が悪いよなぁ」と思いながら、スマートフォンでLINEを開く。由衣さんからの返信は無く、既読も付いていない。
時刻は、21時20分。電車がホームに到着し、大量の乗客が下車してくる。脇によけてそれをやりすごした慶将は、ガラ空きになった車両に乗り込む。ロングシートの一番端の席に腰を下ろすと、急に瞼が重く感じ、自然と目が閉じてくる。そう言えば、由衣さんは長風呂だったっけ。郊外に向かう電車に揺られながら、そんな事をふと、考えるのだった。
港南台駅には、約30分後に到着した。由衣さんの自宅までは、歩いて10分と掛からないので22時には着くだろう。相変わらずLINEの返信がないので、心配になって、いや、不安になって再度電話を掛けてみた。やはり、繋がらない。右手で傘を差して、左手にワインとドギーバッグを持ったまま、慶将の足は自然と小走りになった。
走ったおかげで、予想よりも早く着いた。ただその代償として、料理が崩れないよう左腕に不自然な力を入れていたので、左肩から首の付け根にかけて鈍い痛みを感じる。全身を、疲労感が襲う。疲労の原因は、もしかすると別にあるのかもしれないが。
由衣さんの自宅は、母と息子の二人暮らしにはあまり向いていない庭付きの一戸建てだ。両親の援助もあり中古物件を購入したらしいのだが、「いつか再婚して新しい家庭を」という願いも込められているのだろう。その相手として、慶将が第一候補なのかどうかは、分からない。
玄関に立ち、チャイムを押そうとすると、庭の方から明かりが漏れている事に気付いた。
カーテンが開いているのだろう。いつも、隙間なくピッタリ閉じるほど几帳面なのに、珍しい。少し違和感を覚えたが、すぐに別の事を思った。
「庭から顔を出して、驚かせてやろう」
この余計なサプライズで、数分後に絶望のどん底に突き落とされる事になろうとは、慶将自身まったく予想していなかった。
傘を畳みながら、芝生を敷き詰めた小さな庭の方に回る。レンガで区画した花壇には、由衣さんが好きなハーブが数種類植えてあり、それが夜気のなかに爽やかな香りを放っていた。由衣さんは時々その葉を摘んで、香り高いハーブティーをいれてくれる。
縁側があり、そこから上がるとすぐにリビングになる。中からは視界の届かない物陰から、慎重に部屋の様子を窺う。由衣さんが、いた。ドレープカーテンは開いていたものの、レースのカーテンは閉まっていたため、はっきりとは見えないが、両手を頭に乗せて動かしている。どうやらバスタオルで髪の毛を拭いているようだ。やはり、風呂に入っていたのだ。「一人で倒れていたら」という最悪の事態は避けられた。
安堵の息をついて足を一歩前に送ろうとした、その時。由衣さんとは別の人影が現れた。誰か、いるのか?最初は両親が来ているのかと思ったが、そもそも今夜はひとり息子が泊まりに行っているので、有り得ないな、と自分の考えを打ち消した。
「じゃあ、一体誰なんだ」と思案を巡らせていると、不意に人影は由衣さんに近付き、正面から抱きしめた。「えっ・・・」思わず声が漏れそうになる。暗闇の中、心臓がまるで自分のものとは思えないほど荒っぽく拍動し、喉の奥でドクドクと脈打つ。
蛍光灯の明かりを浴びて、由衣さんを抱きしめる人影の姿がはっきりと浮かび上がってきた。まだ若そうな、20代前半ぐらいだろうか。それでいて、体格のよい男だ。Tシャツにジーンズを穿き、少し長めの髪の毛には緩いウェーブがかかっている。慶将の知らないその男は、まるで自分の家でくつろいでいるかのような穏やかな表情をしていた。
由衣さんも両手を男の腰に回し、応えている。
「嘘だろ・・・」
慶将がごくん、と唾を飲み込んだ刹那、男は上半身を屈めて、その顔を由衣さんに近付けた。
「・・・・・・」
長いキスだった。濃密で、情熱的なキスだった。怒りも、悲しみも、ある。しかしなぜだろう、それらの感情には現実感がまるで無い。もしもこのまま、「お邪魔します」と言ってリビングに上がると、その瞬間、男の姿はフッと消えてしまいそうな、そんな気さえする。
しかし、いざそうしようとしても、ガタガタと震える膝はいう事を聞いてくれない。心は現実を拒絶していても、身体はそれを受け入れて正直に反応しているのだ。そもそも、二人の前に立ち、一体何ができるのか。何を言えるのか。
せめて・・・せめて由衣さんは抵抗してくれ・・・
そう祈るのとほぼ同時に、由衣さんの両腕はゆっくりと男の首に巻き付いていく。それも、「いつものとおり」とでもいうような、自然で滑らかな動作で。
不意に、二人の姿がぐにゃりと歪んだ。あれ?と思い瞬きをすると、左右の頬に熱い雫が伝っていた。
「なんで俺が泣かないといけないんだよ」
胸裡で呟くと、涙はさらに溢れるのだった。
もう、この家には来れないな・・・
慶将はリビングの二人から視線を背け、そのまま踵を返し歩き始める。足音を立てないように細心の注意を払いながら、家の脇をぐるりと周り、門を出る。駅に向かって、来た道を引き返していると、雨脚が強くなってきた。慶将の涙が、天にも届いたかのように。
傘を差す事も忘れ、よろけそうになる頼りない足取りで駅に向かっていると、小さな公園を見つけた。今までは気に留める事もなかった。こんな所に公園なんてあったのか、と思いながら、無意識のうちに慶将はその公園に足を踏み入れた。一つだけポツンと佇む街灯の下にベンチとゴミ箱が並んでいた。慶将は真っ直ぐ街灯に近付き、持っていた料理をドギーバッグごとゴミ箱に放り込んだ。少し迷い、躊躇いながら、ワインも。
ゴミ箱の脇から聞こえてくるクビキリギスの「ジーッ」という鳴き声に耳を傾けながら、慶将は由衣さんの自宅の方角を眺めた。見慣れたはずのその風景は、なんだか急に作り物めいて見えた。
ベンチに腰を下ろすと、全身から力が抜けていくのが分かった。もう二度と立ち上がれないのではないか、と思うほどに。慶将は両肘を太ももに乗せ、頭を抱えて俯く。地面に落ちる水滴が雨なのか、未だ流れる涙なのか見分けられない。
どれだけ泣いただろう。ようやく止まった涙の名残を左手で拭うと、入れ替わるように今度は切なさが込み上げてきた。それも、先程の曖昧な怒りや悲しみとは違い、はっきりと輪郭を帯びた形となって。22時45分。シーンと静まり返る夜の住宅街に、慶将の慟哭だけが響き渡るのだった。
4月4日、水曜日。慶将はセットしてあった目覚まし時計よりも、30分以上早く目を覚ました。二度寝できるか微妙な時間ではあったが、思いのほかスッキリとした目覚めだったので、思い切って起きることにした。
昨晩はずぶ濡れのまま、終電に揺られ自宅まで帰った。車内では、周りの乗客の視線を一身に浴びたものだが、慶将にはそれらを気にする余裕は全くなかった。もしかしたら、他の乗客が気に掛かっていたのは慶将がずぶ濡れである事に対してではなく、慶将に漂うただならぬ悲壮感だったかもしれない。
それもそのはずだ。昨日は、悲劇が連続して起こったのだ。デートのドタキャン、着信拒否、そして浮気現場目撃。いや、由衣さんの自宅で見た光景は、由衣さんにとっては「日常の一部」だったのかもしれない。慶将の方が、「浮気相手」になっていたのかもしれない。思い出せば思い出すほど、思考はネガティブな方へと転がっていく。昨晩の事だけでなくこの4日間の出来事が、自信家の慶将をここまで弱気にさせてしまうのだった。まるで、ふるさとで過ごしていた時のように。
せっかく早起きをしたのだから、久しぶりにコーヒーでも淹れて飲もうと思い、キッチンに立った。お湯を沸かしながら、コーヒー豆を入れるマグカップを取り出そうと食器棚に目をやると、青とピンクのマグカップが並んでいる。青は、慶将のもの。そしてピンクは・・・。
考えるのはやめよう。せっかく瘡蓋になりかけた傷を、自分からエグることはない。
そう言えば、この部屋には友子が使っていたものがたくさんある。マグカップを始め、歯ブラシ、タオル、パジャマ。さらには、男の一人暮らしの部屋には存在しえない化粧品やメイク道具などもある。早く処分してしまわないと、忘れられるものも忘れられなくなる。かと言って、すぐに捨てられるほど友子との付き合いは浅くなかった。少なくとも、慶将にとっては。
「ひとつにまとめて、押し入れの中にでも入れておこう」
とりあえずの対症療法しか考えられない自分が情けなくなり、ついため息をついてしまうのだった。
朝の目覚めの良さをそのままに、この日は仕事の手応えも十分に感じられた。昨晩の春雨に打たれた影響で、「熱が出たらどうしよう」と案じていたのだが、その心配は無用だった。午前中は二件の訪問リハビリに回り、帰院してからはデイケアでの個別リハビリと集団体操を行った。午後も二件の訪問リハビリに出掛け、戻ってからは入院患者のリハビリを行い、あっという間に一日の業務が終了した。
病棟の看護師や介護士の腫れ物を見るような視線も、前日よりは落ち着いていた。というより、慶将自身があまり気にならなくなったのかもしれない。「案外、俺も図太いじゃん」と一人で軽口をたたく余裕すらあったのだ。
「やっぱりリハビリの仕事は良いなぁ」と、改めて思った。自分の腕一本で患者の機能回復を図るやりがい、患者から「ありがとう」と言ってもらえる喜び。そして、これだけ夢中になって打ち込めるからこそ、仕事中は嫌な事を忘れられるのだ。
そうだ、俺には仕事があるんだ、と久しぶりに前向きな、良い気分に胸が満たされた。「今日はこのまま真っ直ぐに帰って、チョット贅沢な晩餐でも楽しもうかな」と心を躍らせながら、最後の事務仕事をこなそうと二階のナースステーションに立ち寄った。患者のカルテに、その日実施したリハビリ内容を記入するのだ。
空いているスツールに座り、勢いよくカルテに記載していると、後ろから「先生」と声を掛けられた。理学療法士は他の医療職や患者から「先生」と呼ばれることが多い。リハビリをすることで病気や怪我が治る、との考えが浸透して、医者と同等に見られているのかもしれない。実際、理学療法士の役割はまさにそこにあるのだが、慶将は「先生」と呼ばれることがあまり好きではない。背中がこそばゆくなり、ついつい背筋が伸びてしまう。今も、「先生」と声を掛けられたのが自分だとは気付かなかった。
声の主はもう一度、「先生」と呼びながら、今度は慶将の肩をトントンと叩いてきた。それでやっと、慶将は自分が呼ばれたことに気が付いた。カルテの上を滑らかに走る右手を止め、ボールペンをテーブルに置いて振り向くと、慶将がよく知っている看護師がいた。
水田麻里ちゃん。勤めてまだ三年目の、若い看護師だ。虹の都病院にはベテラン看護師が多い。経験とスキルは、他の病院にも引けを取らないだろう。しかし、それと引き換えるように、仕事に対する情熱や誠実さを失ってしまった人が多いのも、また事実だった。
そんな中、真理ちゃんの働きぶりは真面目で一生懸命だった。多職種の慶将から見ても、それは一目瞭然だったし、「自分が患者だったら、こんな人に看護してもらいたい」とお世辞抜きで思えた。年齢は慶将よりも十歳近く下だったが、医療人として、またその人間性に、次第に尊敬の念を抱くようになった。もっと違う感情も、もしかしたら胸の奥に潜んでいたかもしれない。
ある日、偶然にも同じ患者の居室で麻里ちゃんと鉢合わせた慶将は、思い切ってLINEの交換を懇願してみた。すると麻里ちゃんは優しい笑みを浮かべながら、「良いですよ」と言ってくれた。思わず、「マジで?」と聞き返してしまったのだが、すぐさまポケットに入っていたメモ帳とボールペンを取り出し、自分のIDと電話番号を殴り書きし、手渡した。随分と古典的な方法ではあるのだが。
その日の夜、早速麻里ちゃんからLINEのメッセージが届き、そこから徐々に仲を深めていった。仕事の話から始まり、お互いの趣味や好きな食べ物の話になり、一週間も経たないうちに、デートに出掛ける事になった。職場での麻里ちゃんは「真面目、寡黙、大人しい」というイメージだったが、実際に話してみると、「明るくてよく笑う」慶将好みの女性だった。
それから頻繁に会うようになり、会話の内容も広く、そして深くなっていった。数回目のデートの折、二人で横浜港から海を眺めていた時、慶将はある事に気付いた。どうやら麻里ちゃんは今の仕事に悩みを抱えているようだった。職場の人間関係だったり、福利厚生の面だったり。しまいには、看護師になってよかったのかという話まで飛び出した。もはや悩みの域を超えて、卑屈になってしまっていた。
ただ、話を聞いていくうちに、麻里ちゃんのネガティブな思考の原因が何となく分かっていった。彼女は幼少期に、自分の名前の事で友達にからかわれていたらしい。
水田麻里。
水たまり。
子供の純粋ゆえの残酷さを切なく感じる一方で、「上手い事言うなぁ」と感心もしてしまう慶将だった。その事が関係あるのかないのか、小学校に入学しても周りとうまく交われず、中学生になる頃には、はっきりとしたイジメを受けていたそうだ。
さらに、「プライベートでも困っている事がある」と言って、話を続けた。麻里ちゃんには、付き合って一年半の彼氏がいるのだという。突然のカミングアウトに落胆を隠せず、思わず「えっ」と麻里ちゃんの顔を覗き込んでしまったが、「でも・・・」と悲しそうな顔のまま、困っている事の正体を打ち明けてくれた。
その彼氏は、麻里ちゃんに対して日常的に暴言を吐いたり暴力を振るったりする、いわゆる「DV男」だったのだ。話しながら慶将を振り向いて、フワッと前髪を掻き上げると、麻里ちゃんの額には痛々しい赤紫の痣ができていた。それを見た慶将は、言葉を失ってしまった。ドラマや映画でそういう男性を見たことはあったが、実際にそういう人の話を聞くのは初めてだった。まして、その被害に遭っている女性が目の前にいるなんて。
そして、彼氏は暴力だけでなく、複数の友人から借金をしていたり、麻里ちゃんという恋人がいるにも関わらず出会い系サイトで知り合った女性と遊びに行ったりもしているのだという。
「ダメ男の3条件を全部満たしているじゃないか」と、心の中で慶将は呟き、「だったら別れたらいいんじゃない?」とやんわり伝える言葉を探していたら、その様子に察しよく気付いた麻里ちゃんは、
「別れられないんです・・・」
と、さらに悲しそうな表情で慶将の言葉を先回りして答えた。その声は、微かに震えてもいた。
「学生の頃はずっとイジメられてて、友達なんて一人もできませんでした。誰にも心を開く事ができませんでした。そんな時に声を掛けてくれたのが、彼だったんです。初めて自分の『素』を見せることができた人なんです。今はヒドイ事ばっかりしてるんですけど、最初はすごく優しかったんです。だから、いつかまた優しい彼に戻ってくれるんじゃないかなって、期待してしまうんです」
「でも、それって・・・」
「私の考えが甘いのは分かってます。それでも、彼を失う事が怖いんです。もう、一人ぼっちにはなりたくないから・・・」
最後は両手で顔を覆ってしまい、声の震えは肩にまで伝わっていた。指の隙間からは、キラキラと光るものが幾筋も見えた。
話を聞き終えた慶将は、ふと、ふるさとで過ごしていた頃の自分を思い出した。麻里ちゃんほどではないにしろ、慶将も決して幸せな人生を歩んできたわけではない。勉強ばかりの毎日だったので、友達もほとんどいなかった。にも関わらず大した成果は挙げられず、期待に応えられなかったために、家族との関係まで冷え切ってしまった。
懐かしい、とは思わない。できれば思い出したくない過去だ。では、一体なぜこのタイミングで頭に浮かんだのだろう。麻里ちゃんの話に共感したのか。理由を探し当てる前に、慶将の目からも涙が零れるのだった。麻里ちゃんがそれに気付いたかどうかは分からないが、一瞬チラッと慶将の方に視線を移し、何も発さないまま再び俯いて、二人で静かに涙を流し続けたのだ。
先に涙が止まったのは、慶将だった。そして、止まった涙と入れ替えるように、ある決意を心に誓った。
「俺が麻里ちゃんの支えになろう」
自分自身に言い聞かせたところで、慶将は麻里ちゃんの背後に回り、優しく抱きしめた。麻里ちゃんは一瞬、ビクッと全身に力が入れたが、拒絶することなく、そっと慶将の手に自分の手を重ねてきた。今しかない、と思った。
「俺はずっと麻里ちゃんの味方だから。麻里ちゃんが彼氏と別れなくてもいい。二番目の男でもいい。ただ、麻里ちゃんが幸せになれるよう応援したい。力になりたい。麻里ちゃんの笑う顔、もっと見ていたいから。だから、辛い時はいつでも頼っておいで。絶対に、守ってあげるから」
こういう時バックハグは便利だな、と思った。正面切って言うにはクサすぎて赤面してしまうようなセリフでも、このポジションなら口にしやすい。
止まりかけていた麻里ちゃんの涙が、再び光の筋となって頬を伝い始めた。慶将は慌てて、「ゴメン!俺、余計な事言っちゃったかな?」
すると、麻里ちゃんは
「先生のせいで、また泣いちゃったじゃないですか!せっかくお化粧したのに!」
と目元を指で拭いながら言った。その声から震えは消え、覇気を取り戻していた。そして振り向きながら、
「でも、先生の優しい言葉、嬉しかったです!」
と続けた表情には、涙の痕が残る何とも言えない眩しい笑顔に変わっていた。
その顔を見た途端、慶将は無意識のうちに顔を近付け、そっと口づけをした。麻里ちゃんも目を閉じて、それを受け容れてくれた。恋人のいる女性と関係を持ったのは、初めてだった。道徳的にも許される行為ではない事は、分かっている。それでも、この衝動は抑えられない。麻里ちゃんが幸せになるためなら、俺は悪魔にだって魂を売ってやる。そんな事を考えながら長いキスを続けていると、まるで二人の未来を祝うように、停泊していた船が「ポー」と汽笛を鳴らしたのだった。
そんな出会いから、間もなく一年が過ぎようとしている。相変わらず彼氏との縁は切れていないようだが、少なくとも慶将の前では以前よりも明るくなり、発言も前向きなものが増えていた。慶将自身も麻里ちゃんと過ごす時間を心地良く思うようになっていった。
その麻里ちゃんが、今慶将に声を掛けてきたのだ。夜勤が多く、元々職場で顔を合わす事が少なかったので、白衣姿の麻里ちゃんと喋るのは新鮮味がある一方で、いつもよりドキドキしてしまう。
「お疲れ様。今日は日勤なんだね」
「そうなんですよ。明日はまた夜勤なんですけどね」
「両方してたら生活リズム狂っちゃうんじゃない?」
「ホントにその通りです。夜勤してたら夜中にお菓子とか食べちゃうし、すぐ太っちゃいます」
「麻里ちゃんスリムだから大丈夫だよ。もうチョット太ってもいいぐらい」
「絶対思ってないでしょ!先生は嘘つくの上手だから」
「今のはセクハラになるかな?」
「言われた本人が嫌な気分になってないので、問題ありません!」
普段、慶将が職場で他の職員と話すことは少ないのだが、麻里ちゃんとの会話は楽しく、盛り上がる。そして何よりも、波長が合う気がするのだ。
「そう言えば、何か用事だったのかな?」
慶将が本題を切り出すと、麻里ちゃんは少し表情を引き締めて、
「・・・今夜って何か予定ありますか?」
と訊ねてきた。厄払いも兼ねた豪華な晩餐を頭の中から振り払って、
「いや、今日は何もないよ」
と爽やかに答えた。年を重ねるにつれて、この程度のポーカーフェイスは自然に振る舞えるようになった。
「どうしたの?」
と続きを促すと、麻里ちゃんはモジモジと身体をくねらせながら、
「一緒に呑みに行きたいなぁっと思って・・・」
と、急に声のトーンを落として答える。周りの職員に聞かれないように気を遣ったのか、それとも、単純に自分から誘うのが恥ずかしかったのか。どちらも麻里ちゃんらしい。
「いいよ!何か食べたい物ある?」
と慶将が訊ねると、表情と声を一気に明るくさせて、
「焼き肉が良いです!」
と屈託なく答える。こういう時に遠慮せず答えてくれるのも、麻里ちゃんの可愛らしいところのひとつだ。
同僚に怪しまれないよう、少し時間差をつけて慶将と麻里ちゃんは病院の外に出た。看護師や介護士が多い病院という職場では、女性従業員の割合が増え、それに比例するように噂話が広まるのも速くなる。特に、男女関係のスキャンダルなどは、格好の餌食となる。そのため、院内での態度や会話にも細心の注意が必要になるのだが、慶将はそのスリルも結構楽しんでいる。麻里ちゃんの方も、自らの立場を理解し周囲への警戒を怠らないものの、「バレたらヤバいですね」などと、いたずらっぽい笑顔で冗談を言うのだった。
病院前の坂を下った所で二人は合流し、そのまま近くの焼き肉店に向かった。こじんまりとしたお店だが、横浜郊外では異彩を放つ高級感のある佇まいで、上質なA5ランクの肉を揃えている。店内入り口の壁面には、サッカーや野球、バスケットボールなどのプロスポーツ選手のサインがズラリと並んでいる。全席個室であることも、慶将が気に入っている理由のひとつで、月に二度か三度は来店している。誰と行くのかは・・・神のみぞ知る。
突然のお誘いだったので、何か重大な話でもあるのかと身構えていた慶将だが、麻里ちゃんから深刻な話を切り出す事はなかった。むしろ、今までで一番と言ってもいいほどよく笑い、よく喋り、よく食べて、よく呑んでいた。麻里ちゃんはお酒が好きだが、あまり強くはない。缶チューハイ一本で酔い始め、声は丸みを帯びた猫なで声になる。いつもよりも饒舌になり、陽気にもなる。決して悪い酔い方ではないし、慶将も「少し酔った麻里ちゃん」の方が気を許してくれているみたいで嬉しくなる。
気付けば、時刻は22時を少し回ったところだった。慶将が、
「もうこんな時間か。お腹いっぱいになった?」
と訊くと、麻里ちゃんは、
「大満足です!」
とピースサイン付きで答えてくる。
結局、麻里ちゃんはチューハイをジョッキで三杯飲んだ。途中、少し心配にもなったのだが、よく喋っているせいで喉が渇くのかもしれないし、溜まっていたストレスを発散させたいのかもしれないと思い、嗜めることはしなかった。
会計を済ませ、店の外に出た。空を見上げると、綺麗な三日月が出ていた。昼間の晴天を引き継いだように、夜になっても雲一つなく、輪郭までくっきりと見てとれた。
今日は無事に一日が終わりそうだな、と思うと、自然と頬が緩んでしまう。やはり、「あの」マスクの力は慶将の思い込みに過ぎなかったのだろう。そう思える程、今日は充実した一日だったし、日付が変わろうとする今に至っても、まだ幸せな気分でいられた。慶将はもう一度夜空を見上げて、「明日も一日無事に過ごせますように」と祈りながら、大きく深呼吸をするのだった。
空から視線を戻し、「この時間が終わるのがもったいないなぁ」と思いながら、
「まだ終電間に合いそうだけど、駅まで歩ける?もしキツかったらタクシー・・・」
拾おうか?と訊き終わる前に、後ろから左手の袖を引っ張られた。振り向くと、思っていたよりも近いところに、俯く麻里ちゃんがいた。
「どうしたの?気分悪い?」
と心配になって声を掛けると、麻里ちゃんは蚊の鳴くような声で、
「・・・先生、もう帰るんですか?」
と呟いた。ドキッとした。これまでも何回かお泊りしたことはあったのだが、いつも慶将が言葉巧みに、いや、彼氏の暴力から避難させるために誘っていたのだ。麻里ちゃんの発言自体にも驚いたし、何よりもその言い方と仕草に、思わずゴクンッと生唾を飲み込まずにはいられなかった。落ち着きを取り戻すため、咳払いを挟んで、
「帰ろうと思ってたけど、麻里ちゃんが大丈夫なら、まだ付き合うよ」
と答えると、麻里ちゃんは俯いたまま、
「・・・先生とお泊りしたいです・・・」
と言った。先程よりもさらに小さな声で。
きっと、かなりの勇気を振り絞ってくれたのだろう。ご飯に誘ってくれた時からそのつもりだったのか。だからお酒をいつもよりたくさん飲んでいたのか。何か、家に帰りたくない事情があるのかもしれない。それを本人に確かめるのは、野暮というものだ。
麻里ちゃんの想いをしっかりと受け止めた慶将は、
「ОK!じゃあ、タクシーで横浜駅の方まで行こうか」
と答え、続けて、
「誘ってくれて、ありがとうね」
と麻里ちゃんの頭をポンポンと軽く叩いた。すると、麻里ちゃんは俯いていた顔を上げ、満面の笑みを浮かべながら、
「人生で一番恥ずかしかったです」
と言った。その表情は、とても眩しかった。それは、店の入り口に備え付けられたサーチライトの灯りのせいだけではないだろう。
横浜駅に着いて、駅から少し離れたホテルに入った。駅に近すぎると、誰に見られるか分からない。慶将の知り合いに見られるのは構わないが、万が一、麻里ちゃんの、特に彼氏の知り合いにでも目撃されれば、被害を被るのは麻里ちゃんなのだ。いくら深夜だと言っても、慎重に行動しなければならない。
入室すると、天蓋付きのキングサイズベッドの傍らにある木製のブランコが目に入った。ラブホテルで目にするのは初めてだった。単純に遊具として楽しむのか、それとも、何か特別な用途があるのか。経験豊富な慶将にも、正解が分からない。
それでも、どこか懐かしさを感じる。ブランコをじかに眺めるのは久しぶりだった。少なくとも、ふるさとを離れてから見た記憶は無い。麻里ちゃんと一緒に乗るのも、悪くない。
そんな慶将の胸の内を見抜いたかのように、ブランコを見た麻里ちゃんは、
「うわー、ブランコなんてあるんですね。先生、一緒に乗りましょうよ」
と幼い子供のようにはしゃいでいた。腕をグイグイ引っ張られ、二人でブランコに腰を下ろした。シートは1mほどの長さのファルカタ合板で出来ており、二人で並んで座っても狭さは感じなかったが、木材の固さと冷たさがお尻に直接伝わってきた。乗り心地は決して良いとは言えないが、麻里ちゃんの隣でブランコに揺られる居心地は最高だった。
「ブランコなんか乗ったの、久しぶりです」
と麻里ちゃんが言うので、
「俺もだよ。懐かしいね」
と、慶将も答える。
何往復か漕いでいるうちに、麻里ちゃんの長い髪が慶将の頬をサラリと撫でた。風に乗って、シャンプーの良い香りも漂ってきた。理性を抑えるのは、もう限界だった。
両足で強引にブランコを止めた。怪訝そうに振り向き、何か言おうとした麻里ちゃんの口を、慶将は自らの唇で塞いだ。最初は慶将の服をギュッと掴み、全身をこわばらせていた麻里ちゃんだったが、次第にその力は弱まり、最後には慶将の首に両手をまわしてきた。舌を絡ませてきたのも、麻里ちゃんの方からだった。
慶将の気持ちも昂ってくる。腹の底から波が押し寄せてくるような感覚も、久しぶりだ。あの老婆に出会ってから、本当にロクな事がなかった。しかしそれも、今この幸せな瞬間のためだったのなら、笑って許してやろう。
隣のベッドに移ろうと、ブランコから腰を浮かせかけた、その時。「ドンドンッ」という音が聞こえた。
屋外の物音?
上の階からの振動?
それとも空耳だろうか?
何が何だか分からないままに慶将が目を開けると、眼前の麻里ちゃんも似たような表情を浮かべていた。
「何の音だろうね?」「聞き間違いですかね?」
目線だけで会話を交わすと、再び「ドンドンッ」と、今度は入り口のドアをノックする音がハッキリと聞こえた。先程よりも強く、ノックとは思えない、まるで太鼓のように身体の芯にまで響くような音だった。怪訝に思いながら、慶将はドアの傍まで近づき、
「どちら様ですか?」
と声を掛けた。返事は、ない。ドアスコープが付いていないので、廊下の様子を伺うことはできなかった。
仕方なくドアを薄く開けると、外からドアノブが乱暴に回され、強引にドアを全開にされてしまった。
「何ですか、一体!失礼じゃないですか!」
と、慶将が憤りを隠しきれないまま顔を上げると、見知らぬ男が立っていた。ドアノブを回した力強さが嘘のような、小柄な男性、いや、男子と呼ぶ方がしっくりくる若い男だった。
「何か用ですか?」
慶将が重ねて訊いても、その男は何の反応も示さない。視線を遠くにやって、まるで感情のない人形のようにぼんやりとしている。いや、違う。男は、ある一点を見つめていた。男の視線を追って慶将が振り向くと、麻里ちゃんが唖然とした表情を浮かべて佇んでいた。先程まで慶将が口づけを交わしていた唇は、ワナワナと震えていた。
「麻里ちゃん、知り合い?」
怪訝に思った慶将が訊ねると、麻里ちゃんは両手で頭を抱えながら、
「・・・彼氏です・・・」
と答えた。唇の震えは、全身にまで広がっていた。
ハッとした慶将は再び男を振り返り、出て行くよう改めて伝えようと口を開こうとしたが、言葉は喉元で止まってしまい、目も大きく見開いたまま瞬きすらできなくなってしまった。男は、キッチン包丁を両手に握りしめていたのだ。そして、ゆっくりとその包丁を自らの喉に突き立てたのだ。慶将は慌てて、
「ちょ、ちょっと待って!話せば分かるから、一旦落ち着いて!」
と、必死になだめてみたが、男は慶将には一瞥もよこさず、足を一歩前に踏み出す。それに合わせて、慶将も仕方なく一歩後ろに下がる。相変わらず、男は無表情のままだ。目は深い穴ぼこのようで、気を抜けば吸い込まれてしまいそうな、異様な迫力があった。何よりも、その冷酷な眼差しに慶将は気圧されてしまった。
二歩、三歩と進んでくる男が、ようやく口を開いた。
「麻里、一緒に帰ろう」
冷めきった目のまま、表情を変えず、静かな口調だった。さらに、
「麻里が傍にいてくれないと、僕は死んじゃうよ」
DV男だと聞いていたので、てっきり粗暴で野蛮な男をイメージしていたのだが、実際は正反対の様子だった。むしろ、何を考えているのか分からないので、こっちの方がタチが悪い。
しばらく黙っていた麻里ちゃんが、ようやく口を開いた。
「・・・なんでここが分かったの?」
確かにそうだ。偶然、見られてしまったのだろうか。すると男は、
「簡単な事だよ。麻里のスマホにGPS機能付けてあるから、いつでも僕には麻里がどこにいるのか分かるんだよね」
DV男は、ストーカー男でもあったのか。恐怖を感じながらも慶将は勇気を出して、
「俺が誘ったんだ!麻里ちゃんに彼氏がいるのは知ってたし、それは悪いと思ってる。でも、麻里ちゃんは君の事でいつも悩んでたんだ!はっきり言って、もう君では麻里ちゃんを幸せにはできないと思う!」
と、一息に言った。が、またしても男は慶将の言葉を意に介さず、一歩前に進み、麻里ちゃんに声を掛ける。
「麻里はもう僕からは離れられないんだよ。だから、一緒に帰ろう」
唇の端を少し歪めながら、男が言う。微笑んでいる、のだろうか。その表情は、さらに不気味に感じられる。それでも、こんな男の元に麻里ちゃんを帰してはならない。本能が、そう叫んでいる。
さらに説得しようと口を開きかけた時、背後で何かが動く気配を感じた。麻里ちゃんが、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
「麻里ちゃん、大丈夫だから。話せば彼もきっと分かってくれるから!」
と声を掛ける慶将の脇を、麻里ちゃんはスーッと通り過ぎて行った。その顔は、男と同じように表情が無く、目の焦点は合っていなかった。
「えっ」
と、思わず振り向いた慶将は、自分の目を疑った。つい五分程前まで慶将と抱き合っていた麻里ちゃんが、彼氏を優しく抱きしめたのだ。包丁を持った、ストーカーまがいの、DV男を、である。
慶将は言葉を失い、ただ茫然と目の前の光景を眺める事しかできなかった。やがて、二人の姿を目にするのが辛くなり、顔が自然と俯いてしまう。何だか、悪い事をしてしまった子供みたいに。いや、確かに倫理的に非があるのは慶将の方なのだが、麻里ちゃんを幸せにできるのは自分しかいないという絶対的な自信があった分、ショックは大きい。
どれくらいの時間が過ぎただろう。「ギィ」というドアが開く音で我に返った慶将が顔を上げると、麻里ちゃんが出て行くところだった。
「待って!」「行かないで!」
口に出したい言葉はいくつも浮かんできたが、どれも情けなく、みっともないものばかりだった。麻里ちゃんは、一度も慶将に目を向けることなく、ただ一言、「ごめんなさい」と呟いて、ドアの向こうへと姿を消してしまった。
謝るなよ・・・
こういう状況で耳にする「ごめんなさい」は、ひどく残酷だ。音は耳で受け取っても、その意味は心に直接飛び込んでくる。いや、突き刺さる。そしてその傷口から一気に広がるように、慶将は惨めな気分に陥るのだった。
麻里ちゃんを見送った男は、ようやく慶将と向き合った。そして、
「いい歳して、恥ずかしくないんですか?」
先程と同じ静かな口調だったが、強い意志のこもった言葉だった。目も、しっかりと慶将を捉えていた。穴ぼこのような目で見られた時とは違う種類の迫力があった。そして、トドメの一撃と言わんばかりに、
「もう、麻里とは会わないでください」
と言った。
完敗だ。しかも、勝っていると思い込んでいた分、敗北感が強い。どんなに相談に乗っても、どんなに優しく接しても、所詮、二番目の男だったのだと悟った。
そんな事は初めから分かっていたのに。それでもかまわないと覚悟していたのに。そんな思いは、無残にも砕け散ってしまった。もしかしたら、元々脆かったのかもしれない。分かったつもりでいて、実は何も分かっていなかった。胸に抱いた覚悟は、フワフワと軽く甘い、綿菓子のようなものだった。
立っているのも辛くなり、そのまま仰向けでベッドに倒れこんだ。両手を広げても、ベッドの縁には届かない。しかし、見た目の豪華さとは裏腹にスプリングの質は悪く、意外と翌朝腰痛に襲われそうだ。
「所詮ラブホテルの安物、か・・・」
と、呟くと、不意に窓の外からの明かりに気付いた。身体ごと窓の方に向けると、焼き肉屋の前で見上げた三日月が見えた。あれからまだ一時間程しか経っていないのに、目に映る三日月は、まるで自分に向かって襲ってくるブーメランのように尖って見え、痛々しささえ感じられた。
急に、悲しくなった。慶将は、煌々と照る月から目を背けた。その輝き方が、老婆から貰った「あの」マスクとそっくりだったから。
4月6日、木曜日。目を覚ました慶将の目に飛び込んできたのは、豪華なシャンデリアだった。童話やディズニー映画に出てくるお城に飾られているのは見た事があったが、直にじっくりと見たのは、初めてだった。
見慣れない景色に不安を覚える慶将だったが、寝返りを打ち木製のブランコが視界に入ると、寝ぼけていた頭もシャンッとした。全てを、思い出した。思い出したくない事までも。
はぁ、と短いため息をつき、起き上がろうとすると、腰に鈍い痛みが走った。昨晩思い描いた悪い予想が、見事に当たってしまった。今日はツイてない日になるのかもしれない。
一度自宅に帰るのも面倒に感じ、そのまま職場へ向かうことにした。準備を整えて、廊下に出る間際に、何気なく部屋を見渡してみた。視線は、木製のブランコに吸い寄せられてしまう。
最後にもう一度、乗ってみよう。
荷物を置き、ゆっくりと歩みを進め、ブランコに腰掛ける。シートのちょうど真ん中にお尻を乗せ、「さぁ、漕ぐぞ」と思った時、気付いた。シートの幅が広すぎて、吊り下げられたザイルロープに手が届かない。これでは、ブランコを動かすことはできない。足で床を蹴ってみたが、多少は動くものの、その動きは不安定で、シートから転げ落ちそうになった。
ブランコを止めて、ぼんやりとベッドを眺める。今の自分には、一人でブランコを漕ぐこともできないのか。昨晩乗った時には、「ブランコってこんなに楽しかったっけ」と思えるほど心地良い揺れを味わえた。もしかしたら、その心地良さは隣に座ってくれる相手がいたからこそのものだったのかもしれない。
そんな事を考えているうちに、胸の中に切なさが湧いてきた。そしてそれは、徐々に胸を満たしていく。でもそれは、どこにも出ていく先を見つけられないまま積もっていく一方だった。
やがて胸が張り裂けそうになり、「あ、これヤバイな」と思う間もなく、溢れた切なさが涙となって目から流れるのだった。皮肉にも、涙で濡れた目で見上げるシャンデリアは、寝起きに見たのとは比べ物にならないほどキラキラと輝いていた。
朝から泣いたおかげか、はたまた、相変わらず仕事中は嫌な事も忘れられるからなのか、前日に続いて慶将の身体はよく動いた。階段を駆け上がる足取りも、軽い。リハビリ助手の倉本さんに、「何か良い事あったの?」と訊かれる程だった。
普段なら、訪問リハビリの予定が無い木曜日は、終日院内での業務になるので、集中力が切れたり時間が長く感じたりするのだが、今日はそんな事が頭をよぎることすらなかった。
終業間際の17時過ぎ。リハビリ室のパソコンで事務仕事をしていた慶将が、ふと顔を上げると、綺麗な夕日が出ていた。その眩しさに思わず目を背けそうになったが、駐車場を歩く人影が視界の隅に映った。夜勤入りする、麻里ちゃんだった。先程とは別の意味で目を背けたくなったが、思いとは裏腹に視線は麻里ちゃんに釘付けになってしまった。元気が無さそうに見えるのは、気のせいだろうか。
「お疲れ様です」
後ろから声を掛けられた。振り向くと、後輩の上井くんだった。上井くんは隣の席に腰掛け、両手を上げて伸びをしながら、
「今日も一日終わりッスねぇ」
と清々しそうに言う。上井くんは誠実かつ真面目な男で、熱心に仕事に取り組む姿は、慶将も一目置くほどなのだ。
「あれ、水田さんじゃないッスか?今日は夜勤なんスね」
上井くんは、何も知らない。慶将と麻里ちゃんの関係を。
「何か、水田さん、元気無さそうじゃないッスか?」
さすが理学療法士だ。小さな歩幅、速歩き、不自然にすぼめた両肩、項垂れたように前傾した首。一瞬の動作観察で、麻里ちゃんの心理を見抜いてしまった。いや、そんな理屈めいた根拠ではなく、本能で感じ取ったのかもしれない。慶将が先程感じたように。
上井くんの言葉を聞いて、自分の思い違いじゃなかった事に安堵した。やっぱり麻里ちゃんもショックだったのだ。そしてその原因は、きっと慶将と同じはずだ。そう思うと、なぜか少し嬉しくなった。しかし、その嬉しさを押し隠して、
「そうか?眩しくて下向いてるだけじゃないの?」
と返した。納得していない様子の上井くんは、
「そうッスかねぇ」
と、首を傾げて考え込む仕草をとった。
と、その時。内線電話が鳴った。組んだ腕を解いて上井くんが受話器を取った。急に声色が変わり、相手に見えるわけでもないのに、ペコペコとお辞儀をしながら話す。真面目ゆえ、気も小さいのだ。慶将は、昔の自分を見ているような気分に陥った。
「隣にいますけど、変わりましょうか」
そのセリフで我に返った慶将が振り向くと、チラりとこちらを見る上井くんと目が合った。
「そうですか、分かりました。伝えておきます」
そう言って、上井くんは電話を切った。
「誰から?俺に用事だったの?」
慶将が訊くと、
「院長先生からでした。帰る前に、院長室に来て欲しい、とのことです。隣にいるから変わりましょうかって言ったんですけどね」
と、怪訝な表情を浮かべて答えた。
「長い話かなぁ。最近、院長も歳とって話がクドくなってきたからなぁ、困ったもんだよ。ハハハハ!」
わざと明るく冗談の口調で返す慶将だったが、本当は嫌な予感しか無かった。そして、こんな時に限って悪い予感というものは当たってしまうのだ。上井くんは、愛想笑いで話を打ち切り、そのままリハビリ室から出て行った。
終業時刻の17時30分になると、「お疲れ様でした」の声と共に、皆一斉に帰って行く。院長室に入るところを誰かに見られるのは気が引けるので、少し時間をずらして向かうことにした。
手持無沙汰になった慶将は、リハビリ室を眺め渡しながら、院長の話の内容を予想してみた。訪問リハビリの事業拡大の件だろうか。それとも、月末から虹の都病院に来るリハビリ実習生の件だろうか。少なくとも、叱られたり注意されるような事はないはずだ。多少の不安は胸にあるものの、廊下のざわめきが落ち着いたのを確かめて、慶将は院長室に向かった。
「コンコン」とノックをして部屋に入ると、院長は入り口に背を向けて窓の外を眺めていた。その背中に、
「失礼します。大塚です。何かお話があると伺いましたが・・・」
と声を掛けると、大きなひじ掛け椅子を回転させながら、
「わざわざ申し訳ないね」
と振り向いた。言葉ほど、申し訳なさを感じている様子ではなかった。表情も、いつもの穏やかな院長の顔ではなかった。怒っているようにも、悲しんでいるようにも、見える。
怪訝に思いながらも院長の前まで足を運び、「気を付け」の姿勢をとる。不安は、一層強くなる。院長は背もたれに深く体重を預け、口を開いた。
「最近、訪問リハビリの方はどうですか?」
「はい、利用者さんからも特に不満の声は聞かれませんし、皆さん自宅での生活も問題なく送れているようです」
答えながら慶将は、「やっぱり、その事か」と安堵し、胸を撫で下ろした。
「院内の業務量とのバランスは大丈夫ですか?」
重ねて訊かれたので、
「はい、今のところ問題ありません」
と、答えた。急に、話の行方が見えなくなった。ただの個人面談なのだろうか。それとも、やはり訪問リハビリの事業拡大の話になるのだろうか。
「大塚先生以外に、訪問リハビリに向いてそうな先生はいますか?」
事業拡大するにあたって、二人体制にするつもりなのだろうか。咄嗟に頭の中を整理して、
「そうですね。上井先生は勤務態度も真面目で、患者さんからの信頼も厚いですし、仕事に対する意欲も高いので、訪問リハビリでも十分にやっていけると思います」
と、率直な意見を口にした。
「そうですか・・・」
呟くように答えた院長は、背もたれから身体を離し、両肘をテーブルについて頭を抱えながら俯いた。次に発する言葉を考えているのではなく、口に出すことを躊躇っているような仕草だった。慶将の方から話を促すことはできず、院長室は静けさに包まれていた。
数十秒の沈黙を破って、ようやく院長が顔を上げ、口を開いた。
「一昨日、金城さんが退職されたのはご存じですか?」
不意を突かれた。思わず声を詰まらせた慶将は、
「えっ・・・はぁ、まぁ・・・一応・・・」
と、曖昧に答えるのが精一杯だった。
「その理由は聞いていますか?」
下から覗き込むような院長の視線に怯んでしまい、おおよその見当はついていたが、
「いえ、そこまでは存じ上げておりません」
と答えた。送別会でも開くのだろうか。それにしても、なぜ自分に言うのだろうか。さらに頭が混乱する慶将に、院長は追い打ちをかけるように続けた。
「金城さんは、大塚先生からセクハラを受けていた、と言ってるんですが、どうなんですか?
慶将は自分の耳を疑った。最近色んなところで、色んな種類の「ハラスメント」を聞くようになったが、まさか自分がその当事者になるとは思わなかった。
「いえ、そんな事はありません!食事に出掛けたり、仲良くさせてもらってはいましたが、セクハラに該当するような行為は一切ありませんでした!」
つい強い口調になってしまった。それでも、決して主観的な意見ではなく、事実を述べたつもりだ。身体の関係をもったのは確かでも、無理矢理誘ったわけではない。一方的な気持ちの押し付けでもなかった。友子もあんなに楽しそうに、幸せそうにしていたのに。
興奮する慶将とは逆に、院長は冷静な口調で、静かに続けた。
「でも、金城さんは『酷い事をされた』と言ってるんですよねぇ。大塚先生にそのつもりはなくても、被害者がそう感じたなら、それは立派なセクハラですよ」
被害者?友子が?ならば、自分は加害者?
「まぁ、大塚先生も長い間うちの病院に貢献してくれてるので心苦しいんですけどね。金城さんは『条件を呑んでくれないと、病院を告訴することも辞さない』と言ってるんですよ」
嫌な予感がした。その予感が外れることを願って、慶将は訊いた。
「条件って・・・何ですか」
「大塚先生に辞めてもらうことです」
間髪入れずに、ハッキリと、院長はそう言った。
「大塚先生が辞めちゃうのは、うちのリハビリ部門にとっても大打撃なのは分かってるんですが・・・。やはり病院全体を訴えられると他の職員や患者を巻き込んでしまうので・・・。察してください」
頭を深々と下げながら、院長は言った。その姿を見て、反論する気力は一気に萎えてしまった。院長に同情したわけではない。事情を納得して受け容れたわけでもない。ただ、無性に虚しくなった。
その場にへたり込んでしまいそうになった慶将は、最後の力を振り絞って、
「分かりました。ご迷惑をお掛けして、大変申し訳ございませんでした。今までお世話になりました」
と、頭を下げた。何の感情もこめられていない、平べったい声になった。
それを聞いた院長は、再び背もたれに身体を預けながら、
「そうですか、ありがとうございます。いえいえ、こちらこそお世話になりました」
と言った。少し、嬉しそうに。
「自己都合での退職という形にはなるんですけど、退職金には少し『色』を付けさせてもらいますので・・・」
いらねーよ、そんなカネ・・・心の中で毒づきながら軽く一礼して、慶将は踵を返して部屋を出て行った。それが、せめてもの意地だった。
後から知った。友子は院長とも関係を持っていたらしい。最初はゴルフ仲間として一緒にラウンドする程度だったが、次第に食事に誘われるようになった。それも、慶将が予約していたお店よりも1ランク、いや2ランクは上の寿司屋や高級フレンチの店だった。やがて食事だけでは収まらなくなり、トヨタのヴェルファイアを買い与えられたり、神戸に住む娘の仕送り費用まで賄うようになった。自動車に関しては、給油し放題のクレジットカード付きだったらしい。
聞いた時、慶将は「そりゃ、勝てねーわ」と思った。ため息と一緒に、口からこぼれ落ちそうになった。いくら「見栄え」を良くしても「カネ」の前には無力であるという事を痛感させられた。これが、現実というやつなのだろうか。
慶将の耳に届いた情報は、そこまでだった。虹の都病院を退職した慶将には、十分すぎるほどだ。有難いのか、余計なお世話なのかは、分からない。ただ、もううんざりだった。何も考えたくなかった。ましてや、友子と院長に肉体関係があったかどうかなんて・・・。
廊下に出て、更衣室に向かう。ユニフォームから私服に着替え終えた頃ようやく、考える余裕が生まれたが、浮かんでくるのはどうでもいい事ばかりだった。夕飯は何を食べよう。明日は何をして過ごそう。そもそも、何でこんな事になってしまったんだ。なぜ俺がこんな目に遭わなければならないんだ。
これが、友子を傷付けてしまった報いなのだろうか。それほどまで、友子に辛い思いをさせていたのだろうか。慶将には、分からない。
夜中の二時だろうが三時だろうが、こちらの都合も聞かずにしょっちゅう電話を掛けてきた。つまらない愚痴を朝まで聞かされることもあれば、酔っぱらって帰る「アシ」がないと言って車で迎えに行くことも度々あった。我ながらよく尽くすよなぁ、と自分の優しさを誇りに思ったりもしていたのだ。
それでも、友子の仕返しだ、とは思いたくない。
すべては、あの雨の夜に始まった。老婆の「良い事が起こる」という甘言を信じてしまったおかげで、立て続けに不幸が訪れている。女性が離れていくのは百歩譲って許せても、今日の、この仕打ちはあまりにもヒドイではないか。まさか職を失う事になるなんて。「運」が悪いだけなのか。それともこれが「運命」なのか。
悲痛な面持ちのまま、靴を履き替えようと下駄箱を開けると、中に何か入っているのに気付いた。手探りで取り出してみると、一通の手紙だった。水色の生地に薄ピンクの桜が散りばめられた、可愛らしい封筒だ。それほど厚さは感じられないので、中の便箋は一枚か二枚程度だろう。
封筒には「大塚先生へ」と書かれていた。封筒に負けない、可愛らしい文字だ。女性からの手紙だろうか。差出人を確認しようと、裏返してみたが、何も記載されていない。手紙のやり取りをするような同僚はいないし、そもそもこのデジタル時代に手紙というアナログかつ古風な手段でメッセージを伝えてくるような知り合いは、慶将にはいないはずだ。すぐに読みたい思いを必死に抑え、不本意にも最後の出勤日となった病院の外に出た。一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
帰宅すると、シャワーも着替えも後回しにして、早速手紙を読むことにした。丁寧に封筒を開け、ゆっくりと便箋を取り出す。
<先生へ
突然こんな手紙を書いてごめんなさい。先生に海で彼の話をした時、力になる、助ける、と言ってくれた事、本当に嬉しかったです。今まで人に頼れない性格で、弱いところを見せるのが苦手でした。でも先生には、最初から自分の嫌なところを話したり、彼氏の相談をさせてもらったり、頼らせてもらいたいって思いました。年明けぐらいから、彼の暴力が酷くなって、もう逃げられないのかなって諦めモードになっていました。
そんな時の私の唯一の救いは、先生と会える時間でした。先生の顔見るだけで安心して、勝手に助けられていました。諦めずに行動しようと思えました。先生の事、好きになっていました。
一方で、先生といると罪悪感も感じていました。このままじゃダメだと思っていました。「会ったり話したりするだけで幸せ」と先生が言ってくれたのを覚えていますか?こんな状況の私にも、そう言ってくれた先生に甘えてしまいました。まだ別れられていないけど、幸せって思ってくれてるなら、このままでもイイのかな、って思ってしまうようになりました。お泊りするようになって、先生が私とどうなりたいのか、今の関係のままでイイのか、私も分からなくなってしまいました。
昨日は本当にすみませんでした。彼とは最近よく別れ話をしていたのですが、まさかあんな行動をとるとは思っていませんでした。先生の事は信頼しているし、甘えたい気持ちは今でも変わりません。でも、もしかしたら昨日みたいな事はこれから何度もあると思います。私が先生と一緒にいることで、先生に被害が及んでしまうのが、一番怖くて、辛いです。だから、もう会えません。
迷惑かけたくないのに、会うと先生の事しか考えられないから嬉しかったです。他の事は何も考えずに、先生の事だけ考える時間が幸せでした。彼との関係が切れるまで、気持ちを抑えないといけなかったのに、会う度に好きになっていってました。頑張って先生の嫌いなところ探したけど、全然見つかりませーん。。。泣
直接顔見て、謝ってお別れしたかったけど、会うと「好き」が勝ってしまいそうな気がして、ヘタクソな文章で手紙にさせてもらいました。職場でも、仕事以外の用事で話し掛けることはやめるので、先生は気まずく感じたりしないでください。
短い期間でしたが、先生と過ごした時間を私は一生忘れません。私を幸せな気分にしてくれてありがとうございました。私みたいな最低女の事は忘れて、可愛い彼女を作ってくださいね。先生なら、きっとすぐ見つかるでしょう。
本当に、今までありがとうございました。先生の幸せを、遠くから祈っています。
P.S.新しいアパートが見つかりました。スマホも替えました。私も幸せになります。>
僅かに胸に抱いていた希望は、完全に消え去ってしまった。彼氏と話し合った末に、キレイに別れて、自分の元に帰って来てくれる。そんな展開を微かに、いや、真剣に期待していたのだ。慶将には直接関係のない、追伸部分が一番胸に刺さった。結局、自分は麻里ちゃんに何をしてやれたのだろう。そもそも、「幸せにしてあげる」という発想自体が、おこがましかったのだろうか。
読み終えると、涙が一筋目尻から零れ、頬を伝い落ちた。無意識のうちに、「読み切るまでは泣くまい」と我慢していたのだろうか。そして、一度溢れた涙は堰を切ったように次々と流れるのだった。
よく見ると、所々インクが滲んで読みにくい箇所がある。きっと麻里ちゃんも泣きながら書いてくれたのだろう。そう、信じたい。
途方に暮れていると、寂しさは次第に怒りへと変わっていった。事の発端となった「あの」マスクをポケットから乱暴に取り出し、テーブルに叩きつけた。続けて、脳裏にあの老婆の顔が浮かんだ。と同時に、慶将は勢いよく駆け出して、家を飛び出した。とりあえず、スマートフォンと財布、車のキー、それからテーブルに叩きつけたマスクを手に取って。
老婆に会いに行く。それ以外は、何も考えていなかった。会ってどんな行動をとるのか、どんな言葉を口にするのかも分からない。それでも、じっとしているのは耐えられなかった。何かせずにはいられなかった。本当に怒りをぶつけたい相手は、自分自身なんだと分かっていても。
愛車のスカイラインGT-Rをフルスピードで飛ばし、老婆と出会った港南台駅付近の路地を目指す。普段、慶将が車に乗る事はほとんどない。通勤には電車を利用するし、飲み会の帰りはタクシーを使う。慶将がハンドルを握るのは、酒に酔ってアシがなくなった友子を迎えに行く時か、夜中に泣きながら電話を掛けてくる麻里ちゃんを慰めに行く時だけだった。思い出したくない記憶に限って、鮮明に蘇ってくる。残酷な思い出というのも、確かにあるのだ。
そんな記憶を、フロントガラスから猛スピードで流れていく風景と一緒に消し去りたかった。自然と、アクセルを踏む右足に力が入る。バイパスを折れて古い県道を走り、山道に入る。この峠を越えると、虹の都病院が姿を現す。つまり、老婆と出会った「あの場所」が近付いてくる。
あれから、まだ一週間も経っていないんだな。あの軽トラックは、まだ停まっているだろうか。そんな事をふと思いながら、ほんの一瞬、ガードレールの向こうに見える横浜港の夜景に視線を奪われた。刹那、けたたましいクラクションが耳に突き刺さり、咄嗟に顔を正面に戻すと、大型トラックのライトが眼前に迫っていた。夜景に見入った一瞬の間に、慶将のスカイラインがセンターラインを大きく越えてしまっていたのだ。
慌ててハンドルを切り、何とか衝突を免れた。と思ったのも束の間、今度は道路脇に聳える電柱が視界に飛び込んできた。トラックをかわして安心しきってしまったのか、慶将にもう一度ハンドルを切り直すことは、できなかった。脳内を走馬灯が駆け巡る・・・こともなく、瞼の裏で閃光が瞬いた。
「ファン、ファン、ファン」という、甲高い車の警告音で意識が戻った。それでも、自分がどんな状況にいるのかは分からない。ただ、寒気だけが慶将を襲う。これが、死に直面した人間の感覚なのだろうか。黄泉の国の冷気に誘われているのだろうか。
全身の気だるさが瞼にも伝播し、目を開けているのも億劫になってきた時、助手席から何かの気配を感じた。薄暗い車内で、白狐の尾のごとく輝いていたのは、「あの」マスクだった。スマートフォンや財布は衝撃で足元に飛ばされていたのに、何事もなかったかのようにポツン、とシートに乗っていた。まるで、お行儀よく座る子供のように。
「またかよ・・・」息だけの声で呟く。
「勘弁してくれよ・・・」薄笑いさえ、浮かんでくる。
「じゃらくれんなよ」(ふざけるなよ)
最後の呟きだけ、ふるさとの言葉になった。その訛りを、耳から胸に染み渡らせながら、深い眠りに落ちるように再び目を閉じるのだった。