演技
1光年先を気にしたってしょうがないじゃないか、5m先に車が迫っているというのに。本当に? それならば5m先を気にしたってしょうがないじゃないか、1光年先に何かがあるというのに。屁理屈? そうかもしれないが問題は何があるかではない。どこに重きを置くかだ。重心。分布。確率。波。近ければ近いほど良いわけでもなく、遠ければ遠いほど良いわけでもない。絶妙に手が届きそうで届かない微妙な距離感が、ふわふわと漂う我々を辛うじて引き留める。馬の鼻先に人参。得てして我々は近さに親しみを覚える。親しみは好意につながり、好意は愛情へ、愛情は幸福へと変化すると信じている。近さへの固執、遠さへの疎外こそが我々の幸福の秘訣だとそう錯覚するのだ。もしそうならばそれは間違いないだろう。あなたがそれを確信しているのならば。唯一無二、万古不易の事実なんてありやしないのだ。ただ……。
人生をn回追体験してみればすぐに分かるだろう。こんな愚かな例えでしかあれを表せないのが残念でならないが。誰でもいい。こう言っては失礼だが。でもそうだ。本当に誰でもいい。そして愚直に模倣するのだ。死力を尽くして。仮面をかなぐり捨てて。何かに取り憑かれたかのように。拙くてもいいが精一杯やることだ。何となく分かるだろう。あのぼやっとした感覚が。乗り移って一体化する恍惚が。難しかったら身近な人を、それを足がかりに少し遠くへ、それを足がかりにもう少し遠くへ、地道に繰り返すのだ。ローマは一日にして成らず。気付けば思いもよらないぐらいに遠くに来ているのが分かるだろう。
蛇足だが貴方ではなり得なかった貴方、貴方以外の貴方、貴方ではない貴方、彼ではない彼、彼女ではない彼女、私ではない私に敬意を表することを忘れないで欲しいのだ。くれぐれも。私ではない私? ふりでもいい。そう見えるような演技で構わない。とにかく演技をすることだ。
近さとは仮初の身体。そして遠さも実はそうなのだ。全て見えていることは何も見えていないのと同じこと。問題はどのようにして見るかだ。誰が見てもそうと分かるような完璧な演技を。
「君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神のために演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神の俳優になることだ。それより美しいことがあるだろうか?」
(フラニーとズーイより
著者:サリンジャー, p.285-286)