眼鏡にはまだ慣れない
はじめまして。
「最近目が悪くなった気がするんですよ」
「なんや、老眼か?」
今まさに熱々の旨そうなナポリタンに口をつけようとした、その瞬間にクソほど興味もない話題を吹っ掛けられた。
そんなんだから、俺はなるべく相手を不快にさせる台詞を吐き出さなくてはと、ある種の強迫観念に囚われていたのかもしれなかった。
熱々の茜色のパスタをぐるぐるに巻き付けたフォークを片手に、とっさに考えたのがあの返事というわけである。
「そうかもしれませんね」
しかし残念ながら俺の友人はこの程度で折れるような柔なおしゃべり根性を有してはいなかったようだった。
「これはもう、明日から秒を刻むごとに白髪が1本また1本と増え続ける人生を送ることになるんですね」
しまいにはやたらとスケールのでかい言い回しで当たり前のことをぬかす。
仕方ないので俺はナポリタンと友人とのマルチタスクで貴重なランチタイムを消費する運びとなった。
「だから眼鏡を買ったんですよ」
「へえ、そうやったん?」
「はい」
それは初耳である。
スタバの新作ぐらいには驚ける情報である。
いや、今の気分的にはドトールかな? 仕事現場の位置関係的にはコメダが一番使いやすい。
「僕って目が悪いじゃないですか」
友人が個人的な問題についてあまりにも真剣に相談してくるものだから、俺はパスタをモグモグと咀嚼しながら困惑してしまう。
「じゃないですか? 言われてもな。目の悪さなんて当人にしか分からん世界観やろ。視線を共有する訳にもいかんのやし」
「いえ、視力ではなく目力の方です」
「目が悪いって、目付きの話しかい」
俺の勘違いもそこそこに友人は話題を進める。
「目付きの悪さを誤魔化すためにも、やはり眼鏡というアイウェアを身に付けるべきであって」
「アイウェア! なんやずいぶんとしゃらくさいなあ。眼鏡って本来医療器具やろ」
「良いじゃないですか。ものもらい用の眼帯をおしゃれで身につける方もいらっしゃるのですし」
「そのおしゃれは中学二年生にしか許されへんよ……」
というより。
「っつうか、老眼うんぬんの話しは? ちゃんと視力の方も問題があるんやろ?」
「ええ。目付きの問題に書き加えて視力の解決の目どころも視野にいれる、というわけで」
「やたら目についてのワードが多いな……」
それはそれとして。何でも友人はこの間、車の運転中にトラブったらしい。
「なんや、人身事故で賠償金にあたふた、どうにもならんくなって身売りでもするんか?」
「いえ、誰かを傷つけてはいません」
「それはよかった」
「傷ついたのは僕の心だけです」
「それは何より」
俺とは別の友人、俺にとっても共通の知り合いである彼を乗せたさいにイザコザ、程度のことらしい。
下らないな、と思えるのは問題の程度の軽さへの安心感の証明でもあった。
「重箱の隅をつつくような指摘ばかりにウンザリです」
「そない気にすることあらへんよ」
「運転免許取り直してこいって怒られました」
いったいどんな運転をしたのだろうか?
いずれにしてもその場に居合わせなくてよかったと思う。
他人の不機嫌を世話するのはどうにも苦手で仕方がない。
「また教習所に備えて祈祷するのは疲れますよ」
友人は友人で明後日の方向に心配をしているし。
……ん?
「教習所で祈祷することなんかあるか?」
俺の問いに友人は平然と答える。
「視力検査を山勘で当てるために神に祈るんですよ」
「重箱ど真ん中?!」
一転、俺は彼に同情したくなる。
友人は不服そうだ。
「そんなに気にすることないじゃないですか」
「気にするわ! おせち料理の車エビ並みに目立つ大問題だわ!」
人身事故をマジで犯すのも時間問題か……?
「とにかく、そんなわけで眼鏡を買ってみたのです」
色々と手遅れなような気がするが、改善策は見受けられるのか。
「それは良かったな」
俺はすっかり冷めてしまったナポリタンをぐみぐみと、炎天下に放置された冷凍蜜柑のような心持ちで咀嚼する。
何はともあれ味は美味しい。
そしてさくっと話題を終えて文庫本(岩波)を読んでいる友人の運転する車には相席しないということで。
結論付けようとしたところで。
「なあ」
「はい?」
「その手に持っているのは?」
「ハズキルーペです」
「眼鏡じゃないんかい」
ありがとうございます。