学園と論科のあれこれ4
素早い動きに、夏瑚は何が何だかわからず、ぽかんと見ているだけだ。
碧旋に握られた拳を取り戻そうとして、顧敬が唸る。
「血流の悪い手だ」碧旋は顔をしかめて、手を開く。
「なんだと!」顧敬の顔に血が上っていく。碧旋は向きを変えて、顧敬をまっすぐに見る。「運動不足だ。なるべく体を動かしたほうがいい」「うるさい!」顧敬の怒鳴り声が響いて、頭が痛くなりそうだ。
夏瑚の視界の端で、昇陽王子が傍らの関路に目配せをする。関路はすぐさま顧敬の背後に移動し、その両肩をつかんだ。「お静かに」
顧敬がびくりと体を揺らす。「こちらへ」
見た目にはわからないが、かなりの力が加わっているのだろう、顧敬は抱きかかえられるようにして露台から連れ去られた。
「これは、俺が謝るべきですか?」碧旋が戸惑った口調で言う。大抵の人は、その少し幼い見た目と、疲れた様子を見るに叱りつける気をなくすだろう。
「あれは君の側近だろう?だったら君が謝りたまえ。まあ、あれを怒らせたことを謝る必要はないが」昇陽王子の言葉はため息交じりだ。
碧旋は黙っていた。腹を立てたという雰囲気ではない。何か考えているようだ。
「まあいいじゃないか。俺は盛容だ。よろしく。俺の手はどうだ?」盛容が笑って手を差し出した。「こちらこそ」碧旋はその手を握り、「戦闘狂の手だな」と言った。
「当たってる」盛容は笑い声をあげ、傍らの盛墨の肩を軽く叩いた。「こっちが正学生の盛墨だ」盛墨が恐る恐る手を伸ばす。碧旋はにこりとして、その手を握る。「確かに勉強家の手だ。だけどもう少し運動をする必要があるよ」
「顧侯子の時と同じことを言っているな」扶奏がぼそりと言う。「貴族や文官に多い」「それは六感か?」と尋ねながら、扶奏が手を差し出した。
「乗月殿下の側近の扶奏だ。貴殿の物言いに合わせたが、構わんだろうな?」「いいよ、そっちの方が助かる」碧旋がその手を握る。「六感じゃない。習ったんだ。何でもわかるわけじゃないし。ただ、どんな風に手を使っているかわかるだけだ。完璧主義の手だな」「ほう。なぜそう思う?」扶奏がその判定が気に入ったのか、表情を緩めながら聞く。
「剣も握るし、筆も持つ。皮膚の堅さや筋肉の付き方でわかる。労働で使いこまれた手ではない。傷もないし、手入れもされているから」「なるほど」
乗月王子は短く「乗月だ」と名乗り、手を出した。目は相変わらず碧旋を見つめている。あそこまで見られたら、私なら気まずさを感じそうだが、碧旋は一向に気にした様子がない。いとも容易く王子の手を取り、「芸術家の手だね」と楽しそうに言った。
「自己紹介は終わったな」昇陽王子は手は出さなかった。いつの間にか戻っていた関路が腰を下ろす。「はい、皆さんの名前を覚えました」と碧旋は頷き、表情を改めた。拳を握って胸に当て、片膝を床につき、周囲の人々を見回した。「先刻のご無礼、謝罪いたします」
「謝罪を受けよう。今後、注意してもらいたい。貴殿も含め、学びの妨げとならぬように」昇陽王子の言葉が騒動の締めくくりとなった。
「で?」姫祥が夏瑚の頭を揉みながら、先を促す。「で?って…何を聞きたいの?」
「夏瑚様は、誰と結婚することになりそうですか?」「いやそれはわからんよ」
その後、自室に戻って、劉慎とも話をした。情報のすり合わせと、整理をするためだ。
「碧旋殿は、夏瑚の競争相手になるかと思っていたが」劉慎は首を傾げていた。
夏瑚たちの護衛たちが、剣術の授業で碧旋と会ったのだと言う。碧旋は小柄な方だし、体も細身だが、身軽なうえにかなりの手練れだったらしい。
「女性的ではないな。話し方も、どちらかと言うと男性的に思えたな」「けれど、それが不利とは限りません。乗月王子は関心がおありのようでしたし」「ああ、そうだな」劉慎の返事はため息交じりだ。
現王の子供は現在五人存在する。第一王子は既に成人しているが、あまり勉強熱心ではなく、学園にも入学していない。王位にもあまり関心を示していないようだ。生母は王宮の女官だったので、後ろ盾もない。四子、五子はまだ幼く、資質についてはわからないものの、第一王子と同じく、生母の身分は高くない。
次子の昇陽王子、三子の乗月王子は優秀なうえに生母の身分も高いので、周りからの期待が集まっている。
昇陽王子の生母は公爵令嬢で、血統で言えば一番だ。だが、身分は高いものの、公爵は実権を持てないように定められているので、権力基盤となるとやや弱い。しかも昇陽王子の生母は亡くなっており、実家の公爵家も代替わりしているうえに、積極的に昇陽王子を推挙しようという態度を見せていない。
対して乗月王子の後ろ盾である宇州侯は妹である貴妃共々、乗月王子の立太子に乗り気になっている。宇州侯は内務関係の役職を歴任しており、現在の政府の中心人物の一人だ。
そのために乗月王子が一番有力であると見られがちなのだが、どういう基準で王位が継承されているのか判然としていないために、様々な見方があった。時代の王に近づきたいと思っても、どちらが擁立されるのか今の時点では確信は持てない。
どちらにせよ、夏瑚がこの時期の学園に入学すれば、二人の王子とのつながりを持てる。羅州侯が、それを養子の条件としたのには、そう言う訳があった。