夏瑚の踊り2
劉慎は優しい兄であった。
突然養女となった夏瑚の面倒をよく見てくれた。養女になる前は入試のために必死で勉強していたために、座学については自信があったが、貴族としての教養はまだまだ足りない。
それは日常から習得していくものだ。一朝一夕で身につくものではない。それはわかっていたが、そう言って突き放したりせずに、夏瑚の希望を一つ一つ検討してくれた。もちろん、妥当で可能な方法は実行してもくれた。
舞の講師も付けてくれた。
礼儀作法などの講師もそうだ。それらはいくら富豪でも平民であっては雇えなかった人たちだ。
踊りは前々から好きではあったが、所詮素人のものだった。正しい基礎を学べたことは、幸運だったと思っている。
それでも、夏瑚の踊りの本質は、実の母親から習った「オユウギ」なのだ。
夏瑚の母親は奴隷だった。
偉華の生まれではない。「ニホン」という国だと聞いている。偉華は外の国とは国交がないので、外の国の名前など、一般の人間は知らない。
母親によると、「ニホン」はかなり遠方で、しかも地続きではない国だと言う。そもそもはその国の人間だったのだが、父親の仕事の都合で、「ミャンマー」という国に住んでいたそうだ。その国のことも偉華では知られていない。しかし、母親によると樹海の東側に存在する国らしい。
その国で攫われた経緯は、母親自身にもわかっていないことが多く、記憶にも残っていない部分があるらしい。「ニホン」は平和で子供が一人で歩いていても何の問題もなかったらしいが、その感覚で慣れない異国で独り歩きなど危険極まりないと思う。
母親は特別美人というわけではなかった。ただ、肌が綺麗で白かった。華奢で大人しい容姿で、守ってやりたいと思った、とは父の夏財の科白だ。
偉華に連れ込まれた母親は、競売に掛けられて売り飛ばされるところを、乗り込んできた治安部隊に救い出された。奴隷商人たちは残らず捕らえられた。
救い出された奴隷たちは孤児院に預けられ、希望に沿って養子に出されたり、就職を斡旋された。
母親は帰国を望んだが、それは叶わなかった。偉華はどこの国とも国交がなかったし、自国以外の地理をほとんど把握していない。いくら攫われた異国の子供が気の毒であっても、未知の遠国に人員を派遣することなど有り得なかった。
母親とともに救い出された奴隷の中に、姫祥の父親がいた。二人は同じ孤児院に預けられた。それが夏瑚と姫祥を繋ぐ寺院が管理しているところだった。姫祥の父親も、樹海の側の国から攫われてきたようだが、母親と違ってその国の住民で、容姿も偉華の住民に近い印象だった。
年齢は姫祥の父親のほうが幼い。恐らくもう少し年上だったら、男児である姫祥の父親は誘拐されなかっただろう。
夏瑚の母親はもう十歳になっていた。
物心は当然ついているし、教育もある程度は受けていた。状況判断も姫祥の父親よりはできていた。特に可愛がって育てられていたらしい母親は、偉華の環境に馴染むことに抵抗していた。
孤児院にいた頃、夏財と知り合った頃、そして結婚したころを夏瑚は知るはずもないが、少なくとも夏瑚の前でも、母親は偉華の現状に逆らい続けていたと思う。
舞が神への捧げものであること、神や王族以外に捧げるのは不謹慎とされていること。だからこそ、捧げられたい男が女に強要することがあること。
踊りは大勢で楽しむものであること。祭り以外では踊るものではないこと。それもやはり神の目の届くところで行われるべきという暗黙の了解があること。
母親にとっては、舞も踊りもまったくそんなものではなかった。
ヨーチエンの先生になりたかったと言う母親に、いろんな踊りを習った。一緒にくるくると回り、力強く足踏みして、大声で笑いながら跳び撥ねた。夏瑚は楽しんだ。母親と一緒に笑えるのが嬉しかった。同じ振りをし、同じ手拍子で体を思い切り動かした。
母親が死んでも、その思い出は消えない。
夏瑚にとっては踊りは楽しむもの、誰かと一緒に、自分の体を使って自分の思いを表すものだ。
神に祈る気持ちは夏瑚にもある。誰かを敬う気持ちもあるから、神や王族に捧げる舞も理解できる。大勢で楽しみ、それも神に捧げる意味合いがある踊りもあっていい。
だが、自分の踊りは、きっと変わらない。
劉慎には説明したことはないので、いずれ話してみることもできる。劉慎は生まれついての貴族であり、偉華の文化によって育っているので、理解するのは簡単ではない。
劉慎は貴族令嬢としてははしたない行動、宴会で踊った夏瑚を咎めたい。しかしそれを口にせず考え込んでいるのは、夏瑚がそれを承知の上で行動したのがわかっているからだ。
表立って昇陽王子、乗月王子がそれに関して言及せず、態度も変えていないせいもある。あの宴は一応、二人の主催となっている。もちろん私的なものであるが、それに華を添えたと考えれば、必ずしも咎められるような行動とはならない。
夏瑚は主に周のために踊った。彼女の思い、十年の歩みを、沈に伝えたかったのだ。沈がわかっていないとは思っていないが、周には沈がわかっていること、周の思いが伝わっていることを理解してほしかった。
夏瑚のお節介が、あの踊りだった。