学園と論科のあれこれ3
夏瑚は自分の前に置かれた硝子の茶碗に注がれた冷やしたお茶に一瞬気を取られて振り返らなかった。残る正学生は、孔州侯の養子のはずだ。
「これはこれは、乗月殿下、昇陽殿下、両殿下をお待たせしてしまうとは!申し訳もございません」
妙に甲高い声が叫んだ。夏瑚が顔を上げると、乗月王子が目を見開いて、固まっていた。
昇陽王子はちらりと隣を見て、乗月王子が固まったまま動かないのを確認すると、「謝罪は要らん。座ってくれ。これで全員揃ったな」とあっさり言った。
「や、すごい美形だな!」と盛容が言った。「兄上…」横で盛墨が再び袖を引く。「あ、まずかったか、すまん」盛容は眉を下げ、軽く頭を下げた。
「お気になさらず、盛容様。これの数少ない長所ゆえ、むしろ褒めていただけたと光栄に存じます。そうだな、碧旋」
夏瑚の左側の席に半ば突き飛ばされるようにして、一人の人物が現われ、椅子の背もたれに当たった。椅子が、がたんと音を立てた。夏瑚がそちらを見やると、もそもそと腰を下ろすところだった。
碧旋というのが正学生の名で、側近として孔州侯の次子が同行していると資料には記されていた。盛墨の隣で滔滔としゃべっているのが、侯子の顧敬なのだろう。
二人が席に着くと、自己紹介が始まった。
夏瑚たちが来た時には場を取り仕切っていた観のあった乗月王子は口を噤んだまま、食い入るように碧旋を見ているのが異様だった。
昇陽王子が時折乗月王子に視線を投げながら、話を進める。両殿下の側近と、盛墨公子は名乗っただけで、それ以外は特に口を開かない。盛墨公子は俯きがちで、扶奏は苦々しい表情で自分の主を眺めている。盛容は飽きてきたらしく、あたりを見回し、欠伸を噛み殺し始めた。
「羅州侯が三子劉夏瑚と、長子劉慎と申す。以後、良しなにお願いする」劉慎がやや素っ気なく、夏瑚の分までも挨拶してしまう。
「なに、劉夏瑚とな」顧敬がわざとらしい声を上げ、身を乗り出すようにして夏瑚を見る。「なるほどなかなか美しい。偽侯子とはそういうもののようですな」
そういうこと言っちゃう?露骨な当てこすりにさすがの夏瑚も頬がひきつる。はてさて、どう反応するのがいいのか。迷っていると、劉慎が「我が妹を侮辱するか」と鋭く吐き捨てて、席を蹴った。
慌てて夏瑚も立ち上がって、劉慎の前に出て、顧敬に笑いかけた。「偽侯子とは、巧妙な言い回しですわね。面白いわ。初耳ですが、侯子様がお考えに?」少々嫌味も混じっているが、夏瑚の素直な感想だった。自分が養子であることは紛れもない事実だし、それを特に隠す気もない。本物の侯子でないことを、恥とは思っていないからだ。この侯子様にはそこが理解できないようだが。
「孔州侯子、無礼だぞ。私も不快だ」昇陽王子の低い声が飛ぶ。
盛容が、やや顔色をなくした顧敬の肩を強引につかんで座らせる。
「謝罪したほうがいいだろうね」乗月王子が独り言のように呟いた。他の者が皆黙っていたので、小さな声でも聴きとることができた。
しばらくの躊躇いの後、「軽口でございました。お許しを」顧敬は目を伏せて、王子たちのほうへ頭を下げた。
「相手を誤っている」昇陽王子がぴしりと言う。
顧敬が夏瑚のほうへ向く。「夏瑚殿、そなた自身に含むところはない。ただ、このようなやりように、賛同はできないのだ。だが、そなたからすれば、これは八つ当たりだったな」と言って、微かに頭を振る。
その態度は謝罪ではないだろう。劉慎が大きく舌打ちする。夏瑚は、顧敬とのやりとりを続けるのが面倒になり、相手から視線を外し、ぐるりと周囲を見回した。
先ほど一言呟いた乗月王子は、気を取り直したかと思えば、また碧旋を見ている。昇陽王子は顧敬から夏瑚、劉慎へと視線を動かし、少し肩を竦めた。他の者も口を開く様子がないので、夏瑚は碧旋に向き直った。
「劉夏瑚にございます。よろしくお願いいたします」
碧旋は崩れた姿勢で座っていた。自身に掛けられた声に、ゆっくりと向き直り、立ち上がった。
藍染めの長着に生成りの下穿き、色合いだけは盛墨公子に似ているが、質は格段に落ちる。中途半端な長さの髪は、目をつぶって切ったのか、切り口がいびつだ。よく眠れなかったのか、目が赤い。おまけに瞼もむくんでいるようだ。
それにもかかわらず、いや、そうだからなのか?きちんと手入れされ、万全の状態を保っているであろう乗月王子のような美形よりも、この人のほうがちゃんとすれば綺麗かもしれない、と予測してしまうところがある。まだ幼さの残る頬の線が可愛らしい。
「碧旋です。よろしく」そう言って手を差し出してきた。
何をするつもりなのか、と思っていると、碧旋は右手にそっと触れ、軽く握った。
初対面の人間に手を触れられることなど初めての経験なので、夏瑚はびっくりした。どういうつもりなのだろう?それとも夏瑚が知らないだけでこういう挨拶があったのだろうか?
「働き者の手だ」と言うと、碧旋の表情が緩む。
次の瞬間、ぶん、と音を立てて、顧敬の拳が碧旋へ飛んだ。
ぱっと夏瑚の手が放され、自らの頭頂部に落ちかかった顧敬の拳を、碧旋の手が受け止めた。